2008年5月14日

大聖寺城

 大聖寺城は、石川県の南端、加賀市大聖寺の町の西にあった平山城。福井県との県境から続く台地の北端に位置していて、加賀国の南を押える要地だった。

 記録としては建武の中興の頃、14世紀の初めに遡るという。織田信長が攻め入った頃は一向一揆の拠点のひとつで、信長による加賀支配の最初の拠点となった。1576年に簗田広正が織田軍最初の城主として入ったが、ほどなく更迭された。その後20年ほどの間の城主は、柴田勝家の家臣拝郷家嘉、丹羽長秀の家臣溝口秀勝、小早川秀秋の家臣だった山口宗永(正弘)と交代している。関ヶ原の戦いの際は、西軍についた山口宗永が前田利家の子、利長に攻め滅ぼされて最終的に前田家のものとなったが、後に一国一城の令が出たために廃城となった。

 1639年に前田家の支藩が大聖寺に置かれた時に再建が計られたが、幕府から許可が下りなかったという。大聖寺藩時代の藩邸は、城跡の東麓におかれていたとのこと。


 城跡は、今は錦城山の名で呼ばれている。逆コの字型に真ん中の谷を囲んで尾根が続き、その上に大小の郭が連なる。真ん中は駐車場と芝生広場。駐車場に車を置いて、入り口にある案内図(かなりアバウトだが)に従って、東丸、鐘が丸、西の丸、三の丸、戸次丸、二の丸、本丸と回れば、30、40分ほどで一回りできる。歩道と標識が整理されていて、標高差も50mほどなので手頃な散歩コースといったところ。戸次丸は、簗田広正が信長から与えられた名字、別喜に因むと思われるが、いつから戸次丸と呼ばれているのだろう。


 本丸櫓台跡の中腹に立つ「山口玄蕃頭宗永公之碑」。


 城の南西面を中心に大きめの土塁が残る。写真は、本丸の櫓台跡から続く土塁で数メートルの高さがある。


 詳しい図面を見ると、大聖寺城は上に挙げた7つ以外にも沢山の郭が連なっている。中でも大きいのが南西にある鐘が丸と本丸の北東にある二の丸。写真はその二の丸。

 二の丸に限らず城跡全体が緑に包まれている。資料によれば、江戸時代を通して城跡は立ち入り禁止だったとのこと。そのために江戸初期までの城としては土塁などが良く残っているが、その歴史に見合って樹齢数百年ありそうな大木があちこちに聳えている。欅も多いが樅の大木が沢山ある。


 東丸からの市街の眺め。


 城跡の北、大聖寺城の外堀だったと思われる旧大聖寺川の畔には、藩政時代の数少ない遺構という長流亭が建っている。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(大聖寺)を基に作成しています。」

<国土地理院 地図閲覧サービス>
 大聖寺城跡周辺

<参考>
石川県中世城館跡調査報告書 III
 石川県教育委員会 2006

戦国人名事典
 新人物往来社 1991

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2008年5月13日

頂き物

平成17年〜19年度科学研究費補助金
 (基盤研究(B))研究成果報告書
内陸アジア諸言語資料の解読による
モンゴルの都市発展と交通に関する総合研究
研究代表者 松田孝一
2008.3

 3月の遼金西夏史研究会の折にお話があったのでお願いしたところ、松田先生より快くお送り頂いた。A4版258頁に下記のように10本の論文を掲載。かなりの重量物だが、近々に勉強させて頂きます。併せて、2005年から2007年までのモンゴルにおける調査記録を掲載したニューズレター03も頂戴した。ありがとうございます。


<掲載論文>
モンゴル高原における都市成立史の概略
---匈奴時代〜モンゴル時代---(増補版)
 松田孝一・白石典之

モンゴリアのイヘ・アスヘテ(Ikhe-Askhete)画像銘文の文献学的再検討
---2006/2007年夏の日蒙合同調査を通してみた---
 大澤孝

シネウス碑文テキスト再改訂版
 森安孝夫・鈴木宏節・齋藤茂雄・白玉冬・田村健

チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察
 宇野伸浩

カラコルム三皇廟残碑とモンケ・カアンの後裔たち
 村岡倫・谷口綾

安西楡林窟のウイグル語銘文再読
 松井太

『勅賜興元閣碑』の再構
 松川節

モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書
 中村淳

ヒジュラ暦748年イマーム・ユーヌス墓碑銘
 矢島洋一

モンゴル国シャルガ遺跡群出土遺物について
---陶磁器資料を中心にして---
 白石典之

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2008年5月12日

(書評)ジャガイモの世界史

中公新書 1930
ジャガイモの世界史
歴史を動かした「貧者のパン」
伊藤章治 著
ISBN978-4-12-101930-1
中央公論新社 2008.1

 足尾鉱毒事件で北海道へ移住した人々の話に始まり、ジャガイモに支えられていたために不作による飢饉で大勢のアメリカ移民を生んだアイルランド、ジャガイモが本格的に普及した18、19世紀のドイツやロシア、さらには満蒙開拓やシベリア抑留など、ジャガイモに関わる話が次々に登場する。そもそもジャガイモは15世紀以降に新大陸からもたらされたものであるので、歴史といってもインカ帝国について触れた第2章の2を除いて近現代史に限定される。また、ジャガイモの原産地といわれる南米ペルーのティティカカ湖の浮き島や、長野県飯田市下栗の傾斜地でのジャガイモ栽培の紹介などは全く現代の話である。

 中には、背景を説明するために延々とジャガイモが出てこない部分があり、その背景の方がメインでジャガイモは脇役であるようにすら読める。ジャガイモの変遷について体系的に語っているわけではなく、話が時代順に流れているのでもなく、章と章の繋がりもない。著者自身があとがきで

「ジャガイモの世界史」という大仰なタイトル
と書かれているが、自分もそう思う。本書は、ジャガイモの歴史を扱ったものではなく、ジャガイモが出て来る社会史的な小論をオムニバス的に収録したものと言えるかと思う。


 だからと言って内容が酷いというわけではない。元新聞記者らしい文章なのではと思うのだが、多くの文献に当たった上で現地を回り、実際に体験した人達の話を聞いて取材を纏めたという、新聞の少し長がめの連載コラムという趣き。前段としての蘊蓄が豊富で、国を異にする多くの人が登場する。ただし、文献の扱いについては二次、三次利用が多いようで曖昧さが残る。さほど実害はないのかと思うが、歴史が関わるとちょっと気になる。

 第4章のアイルランドの話はテレビで採り上げられていたのを見たことがある。また、ティティカカ湖の浮き島もなんどか映像になったように思う。それ以外の部分、中でもヨーロッパに普及しだした頃の話と日本の明治以降の話は、今までに読んだことのない話であったり、ジャガイモという切り口が新鮮だったりと勉強になる部分が多く興味深く読めた。

 ジャガイモの文字を繰り返し読んでいたら急に食べたくなり、スーパーで買い込んで2日続けて腹一杯食べた。ジャガイモを主食にした料理は結構好きだ。ジャガイモ料理というとネパールのカトマンズで食べたマッシュポテトにミートソースをかけたのを思い出すのだが、しばらく楽しめそうな気がする。


<目次>
第1章 オホーツク海のジャガイモ
 1 栃木から最北の地へ
 2 入植を支えたジャガイモ
 3 芋判官
第2章 ティティカカ湖のほとりで---ジャガイモ発祥の地
 1 ふるさとの湖で
 2 インカ帝国を支えた食物
第3章 ペルー発旧大陸行き---そしてジャガイモは広がった
 1 だれが伝えたのか
 2 ヨーロッパへの普及
第4章 地獄を見た島---アイルランド
 1 英国支配とジャガイモ
 2 大飢饉と移民
第5章 絶対王政とジャガイモ
 1 大王とともに---プロイセンの場合
 2 農学者の創意工夫---フランスの場合
 3 抵抗を越えて---ロシアの場合
第6章 産業革命と「貧者のパン」
 1 産業革命の明と暗
 2 日本の産業革命
第7章 現代史のなかのジャガイモ、暮らしのなかのジャガイモ
 1 戦争とジャガイモ---ドイツの場合
 2 社会主義崩壊とジャガイモ---ロシアの場合
第8章 日本におけるジャガイモ
 1 ジャガイモ上陸の地---九州
 2 天に一番近い畑はジャガイモ畑だった---長野
 3 「サムサノナツ」とジャガイモ---東北
 4 満蒙開拓団の現代史---満洲、那須
 5 シベリア抑留とジャガイモ
 6 「男爵イモ」の街---北海道
 7 文学に描かれたジャガイモ
終章 「お助け芋」、ふたたび?

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2008年5月11日

吉崎御坊

 戦国時代、北陸を語る上で欠くことが出来ないのが一向一揆と本願寺。中でも加賀国は、守護富樫氏が1488年に滅ぼされてから、織田信長によって1580年に征服されるまで、百年近く本願寺門徒によって支配されたこことはそれなりに知られていることだろうか。

 本願寺と北陸地方との結びつきは、第8代宗主蓮如が布教に力を入れたことの影響が特に大きい。彼が越前吉崎に拠点を置いて活動したのは1471年から75年にかけてのこと。宗教史としてよりは、北陸戦国史の重要な場所のひとつとして、吉崎は機会があれば訪ねてみたい場所のひとつだった。


 吉崎は、福井県の最北部にある。南西から北西へ北潟湖が広がり、門前町を東へ抜けるとすぐ石川県になる。蓮如が吉崎御坊を開いた場所は、標高40mほどの丘の上で、当時は三方を潟湖に囲まれた半島だったという。


 吉崎御坊跡へは、二つの本願寺別院の間にある石段を登って行く。石段の上にそれを示す石碑が立っている。


 かつて坊舎が建っていたという丘の上は、今は公園として整備されていて遅咲きの桜が紅い花を咲かせていた。


 公園に立つ蓮如上人の銅像。


 吉崎御坊跡の北の湖畔には蓮如の事績を解説する記念館がある。写真は、その中にある蓮如の伝説を紹介した民話館のもの。建物は豪農民家を移築したものだそうで、梁の太さばかりでなくなかなか見物な建物だった。


 吉崎御坊跡の麓には、二つの本願寺別院が建ち並び熱心な信者で賑わっていた。蓮如が居たころも信者で賑わっていたというが、16世紀の初めに越前朝倉氏の攻撃によって一度歴史の幕を閉じている。

<国土地理院 地図閲覧サービス>
 吉崎御坊跡周辺

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2008年5月10日

(書評)夕陽の梨

夕陽の梨
五代英雄伝
仁木英之 著
ISBN978-4-05-403631-4
学習研究社 2008.5

 中国五代十国時代の国のひとつ、後梁最初の皇帝となった朱全忠が、まだ朱温と名乗っていたころを描いた小説。唐朝末期、子供の時に父を失って家族が不遇になったころに始まり、黄巣の反乱軍に参加して各地を転戦するまでが描かれている。時代的には860年から880年、朱温9歳から29歳までということになる。ちなみに、彼が皇帝となったのが907年、息子に殺されたのが912年、61歳の時。

 ストーリーは、朱温が成長の後に塩商で出会った仲間を率いてホウクン(ホウは广に龍、クンは員に刀)の乱に参加、黄巣の乱にも参加して一軍を率いるまでになり、黄巣に従って各地を転戦した後に長安を陥して入城した所で終わりとなる。五代英雄伝とはあるものの、五代になるだいぶ前までしか語られない。

 登場人物としては、重要な人もふくめて架空と思われる人物も登場するが、ホウクン、黄巣の他、乱の首謀者のひとり王仙芝、朱温の次兄朱存、朱温の部下のホウ師古(ホウは广に龍)、朱珍、張存敬、唐朝側の辛トウ(言編に黨)、令孤綯、高駢など正史に名を残す人々が多数描かれている。変わったところでは、布袋が重要な人物として登場しているが、この時代の実在の人物というのは知らなかった。


 感想を少々。テンポ良く書かれていて読み易く、主人公に肩入れしながら楽しく読み終われたように思う。表現的に少しとりとめがなく、話を広げた分散乱している感じはある。章によって主人公から離れる部分があるのだが、あくまで主人公中心に絞った方が纏まったような気がしている。

 歴史ものとしてはというと、細かい部分でもう少しリアリティーが欲しい。字名が出てこないということもあるし、会話表現があまり面白くない。また、背景描写としても中国や唐末といった場所と時代を感じさせるものがあまりない。これらは、どうしても物足りなさとして残る。ただ人という点では面白く描かれており、朱温というマイナーな人物を中心に時代がそれなりに見えて来る。

 最後に、読み終わって自分が一番気になった点。それは、なぜ主役の朱温が朱全忠を名乗る前に物語が終わってしまうのかということ。野暮な話なのかなとも思うのだが気になる。主人公は、歴史上の評価よりはかなり好青年として描かれているように思う。苦悩を含む前半生があるからこそ波乱含みの後半生がある、という含みを読み取ることもできると思うのだが、それにしても随分と生真面目な主人公である。とはいえ、こういう意外な主役は大歓迎なので、次回作でも是非意外な人物に挑戦してほしい。

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