大聖寺城
大聖寺城は、石川県の南端、加賀市大聖寺の町の西にあった平山城。福井県との県境から続く台地の北端に位置していて、加賀国の南を押える要地だった。
記録としては建武の中興の頃、14世紀の初めに遡るという。織田信長が攻め入った頃は一向一揆の拠点のひとつで、信長による加賀支配の最初の拠点となった。1576年に簗田広正が織田軍最初の城主として入ったが、ほどなく更迭された。その後20年ほどの間の城主は、柴田勝家の家臣拝郷家嘉、丹羽長秀の家臣溝口秀勝、小早川秀秋の家臣だった山口宗永(正弘)と交代している。関ヶ原の戦いの際は、西軍についた山口宗永が前田利家の子、利長に攻め滅ぼされて最終的に前田家のものとなったが、後に一国一城の令が出たために廃城となった。
1639年に前田家の支藩が大聖寺に置かれた時に再建が計られたが、幕府から許可が下りなかったという。大聖寺藩時代の藩邸は、城跡の東麓におかれていたとのこと。
城跡は、今は錦城山の名で呼ばれている。逆コの字型に真ん中の谷を囲んで尾根が続き、その上に大小の郭が連なる。真ん中は駐車場と芝生広場。駐車場に車を置いて、入り口にある案内図(かなりアバウトだが)に従って、東丸、鐘が丸、西の丸、三の丸、戸次丸、二の丸、本丸と回れば、30、40分ほどで一回りできる。歩道と標識が整理されていて、標高差も50mほどなので手頃な散歩コースといったところ。戸次丸は、簗田広正が信長から与えられた名字、別喜に因むと思われるが、いつから戸次丸と呼ばれているのだろう。

本丸櫓台跡の中腹に立つ「山口玄蕃頭宗永公之碑」。

城の南西面を中心に大きめの土塁が残る。写真は、本丸の櫓台跡から続く土塁で数メートルの高さがある。

詳しい図面を見ると、大聖寺城は上に挙げた7つ以外にも沢山の郭が連なっている。中でも大きいのが南西にある鐘が丸と本丸の北東にある二の丸。写真はその二の丸。
二の丸に限らず城跡全体が緑に包まれている。資料によれば、江戸時代を通して城跡は立ち入り禁止だったとのこと。そのために江戸初期までの城としては土塁などが良く残っているが、その歴史に見合って樹齢数百年ありそうな大木があちこちに聳えている。欅も多いが樅の大木が沢山ある。

東丸からの市街の眺め。

城跡の北、大聖寺城の外堀だったと思われる旧大聖寺川の畔には、藩政時代の数少ない遺構という長流亭が建っている。

「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(大聖寺)を基に作成しています。」
<国土地理院 地図閲覧サービス>
大聖寺城跡周辺
<参考>
石川県中世城館跡調査報告書 III
石川県教育委員会 2006
戦国人名事典
新人物往来社 1991
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