1995年アジア紀行〈デリー〉
インドの首都デリー。子供の頃、地図にはニューデリーと書いてあったものが、いつの頃からかデリーと書かれるようになっていた。旅行から帰って来てから知ったのだが、日本国内での国名、首都名表記は、外務省が監修して外郭団体が刊行していた資料に基づいていた。ただし、外務省のサイトではニューデリーとしている。
もう少し詳しく調べてみると、デリーはインドに7つある連邦直轄地域のひとつであり、ニューデリーはその中にある行政区のひとつで、首都機能が集まっている街であるとのこと。いわば、日本の首都を東京と呼ぶか、千代田区と見なすかの違いになぞらえる事ができるかもしれない。
一国の首都は、旅行者にとっても重要な街である。単に賑やかというだけでなく、旅人が集まり情報も集まる。そして、なによりも次に旅する先の国のビザを取得することが大切となる。自分は、95年の10月にインドに入って二つ目の街として、ネパールビザの取得などの為に4日間、翌96年3月初旬にはパキスタンとイランのビザ取得と休憩を兼ねて10日間滞在した。この間、紹介状の取得や手紙の受け取りの為に、日本大使館とその分館へもたびたび足を運んでいる。
ところが、今から思い返せばもったいない話なのだが、当時はデリーの歴史などにほとんど興味がなく、観光地巡りらしいことをほとんどしていない。インド大陸を一回りした疲れをとり、西へ旅をするためのエネルギーを蓄えていたというのは、それほど大袈裟な言い訳ではなかったように思う。
ほぼ唯一の見物先となった、デリーの南郊に立つクトゥブ=ミナール。13世紀初め、デリー=スルターン朝時代に遡るという。
ニューデリー駅前から続くメイン=バザールと呼ばれる通り。安宿が並び、世界中の旅行者が集まっていた。96年の3月には、クリケットのワールドカップが開催されていて、パキスタンとの一戦の際はこの通りに大型のモニターが据えられ、夜遅くまで盛り上がっていた。
またこの年は、3月の初旬にホーリーの祭りがあり、デリーでそれに遭遇した。デリーのそれは、染料を溶いた色水をかけ合うといういささか強烈なもの。当然のように、旅行者かどうかに関わらず無礼講で、紫や茶色に染まっているのはインド人ばかりではない。写真右下に水に溶く前の染料が写っている。
その祭りの最中、斑模様の青年達と撮った一枚。
<Google May Map>
1995年アジア紀行参考地図
<後記>
昨年5月から書き連ねて来た当シリーズは、今話をもって終了します。まだ紹介していない街や話もありますが、写真が尽きてしまいました。
見知らぬ街を歩き、日本ではできないことを体験して回ることが目的の旅でしたので、写真は1日1枚を目処に記念として残して来ただけのものでした。それをネット上に公開することになるとはもちろん思いもよらず、見返してみれば既に色あせた酷い写真ばかりでした。
95年といえばインターネット黎明期であって、自分はメールアドレスはおろかパソコンもまだ持っていない時代。アジアの街角にはまだ一軒のネットカフェも無く、通信手段といえば手紙と電話でした。旅行中は有り余る時間を使って友達に手紙を書き、友達からは日本大使館気付で出してもらっていました。
情報源といえば、ガイドブックと口コミ。大きな街では、情報交換を兼ねて知り合ったばかりの旅人と夕食を共にするというのが日常でした。
いろんな意味で、既にひとつ前の時代という感じを持っていますが、それだけにまた貴重な体験でもありました。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント