2009年6月30日

1995年アジア紀行〈デリー〉

 インドの首都デリー。子供の頃、地図にはニューデリーと書いてあったものが、いつの頃からかデリーと書かれるようになっていた。旅行から帰って来てから知ったのだが、日本国内での国名、首都名表記は、外務省が監修して外郭団体が刊行していた資料に基づいていた。ただし、外務省のサイトではニューデリーとしている。

 もう少し詳しく調べてみると、デリーはインドに7つある連邦直轄地域のひとつであり、ニューデリーはその中にある行政区のひとつで、首都機能が集まっている街であるとのこと。いわば、日本の首都を東京と呼ぶか、千代田区と見なすかの違いになぞらえる事ができるかもしれない。


 一国の首都は、旅行者にとっても重要な街である。単に賑やかというだけでなく、旅人が集まり情報も集まる。そして、なによりも次に旅する先の国のビザを取得することが大切となる。自分は、95年の10月にインドに入って二つ目の街として、ネパールビザの取得などの為に4日間、翌96年3月初旬にはパキスタンとイランのビザ取得と休憩を兼ねて10日間滞在した。この間、紹介状の取得や手紙の受け取りの為に、日本大使館とその分館へもたびたび足を運んでいる。

 ところが、今から思い返せばもったいない話なのだが、当時はデリーの歴史などにほとんど興味がなく、観光地巡りらしいことをほとんどしていない。インド大陸を一回りした疲れをとり、西へ旅をするためのエネルギーを蓄えていたというのは、それほど大袈裟な言い訳ではなかったように思う。



 ほぼ唯一の見物先となった、デリーの南郊に立つクトゥブ=ミナール。13世紀初め、デリー=スルターン朝時代に遡るという。


 ニューデリー駅前から続くメイン=バザールと呼ばれる通り。安宿が並び、世界中の旅行者が集まっていた。96年の3月には、クリケットのワールドカップが開催されていて、パキスタンとの一戦の際はこの通りに大型のモニターが据えられ、夜遅くまで盛り上がっていた。


 またこの年は、3月の初旬にホーリーの祭りがあり、デリーでそれに遭遇した。デリーのそれは、染料を溶いた色水をかけ合うといういささか強烈なもの。当然のように、旅行者かどうかに関わらず無礼講で、紫や茶色に染まっているのはインド人ばかりではない。写真右下に水に溶く前の染料が写っている。


 その祭りの最中、斑模様の青年達と撮った一枚。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図


<後記>
 昨年5月から書き連ねて来た当シリーズは、今話をもって終了します。まだ紹介していない街や話もありますが、写真が尽きてしまいました。

 見知らぬ街を歩き、日本ではできないことを体験して回ることが目的の旅でしたので、写真は1日1枚を目処に記念として残して来ただけのものでした。それをネット上に公開することになるとはもちろん思いもよらず、見返してみれば既に色あせた酷い写真ばかりでした。

 95年といえばインターネット黎明期であって、自分はメールアドレスはおろかパソコンもまだ持っていない時代。アジアの街角にはまだ一軒のネットカフェも無く、通信手段といえば手紙と電話でした。旅行中は有り余る時間を使って友達に手紙を書き、友達からは日本大使館気付で出してもらっていました。

 情報源といえば、ガイドブックと口コミ。大きな街では、情報交換を兼ねて知り合ったばかりの旅人と夕食を共にするというのが日常でした。

 いろんな意味で、既にひとつ前の時代という感じを持っていますが、それだけにまた貴重な体験でもありました。

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2009年6月 6日

1995年アジア紀行〈ラーメシュワラムとアダムズブリッジ〉

 インド東部のカルカッタ(今はコルカタ)から最南端を回って西部のボンベイ(今はムンバイ)まで、インド亜大陸を時計回りに回る最中い立ち寄った街のひとつにラーメシュワラムがある。大陸の南東部に並ぶセイロン島に一番近いインド側の街だが、高校の地理の授業でも使われる地図帳を開いても載っていない。

 自分としても訪れるまでその街の名前に馴染みは無く、セイロン島と大陸を結んだという伝説の橋アダムズブリッジへはその街が近いらしいという程度のもの。アダムズブリッジの名前を知ったのは、暇つぶしに地図を眺めていた中学生の頃のことと思う。伝説の場所がどんなところなのか、その頃からインドの中で行ってみたい場所のひとつだった。


 ラーメシュワラムへは、インド南東部の大都市マドラス(今はチェンナイ)から列車で一晩、14時間ほどの夜汽車の旅だった。街は、大陸から海峡に架かる橋を列車に乗ったまま渡った先の島にある。インドの中では、ヒンドゥー教の聖地のひとつで海岸近くに立つ大寺院ラーマナータスワミの門前町として知られているようだ。

 街の東に、セイロン島と大陸を隔てる海峡が広がり、海岸には沢山の船が並ぶ漁村でもあった。海を見ながら砂浜を散策するとその船の数の多さが印象的で、一度訪れた薄暗い寺院の中よりもよほど強く記憶に残っている。


 ラーメシュワラムに滞在したのは、96年の1月22日から26日のこと。アダムズブリッジは、伝説の橋と言われるほどにスケールの大きな話のこと、現地を歩いたからといって簡単に実感できるものではなかったものの、それでも足跡を記してみるべくセイロン島の方向に向かって出かけたのは25日のことだった。

 なんら下調べをしていなかったので、どうすれば伝説の橋にたどり着けるか分かっていなかったが、街から南東に続いていることだけは確かだったのでとりあえず歩いてみた。アダムズブリッジとは、詰まるところ細長い砂嘴(さし)であってどこまで続くのだろというくらいに変化の少ない砂地と林が続いていた。少し歩いても景色がさして変わらないことだけは分かったので、急遽借りた自転車に跨がった。



 街を離れてから南にだいぶ行くと、道の左手には潟湖が続く風景となり、風の音くらいしかしない静けさと相まってなんとも幻想的だった。

 やがて、その潟湖の中に小さな島が見えた。島といっても東へと続く道とは堤防道路でつながっていた。その堤防の上から島を見たのがこの写真。コタンダラーマルという名の小さな寺院が建っていた。


 こちらは、堤防の上から来た方を振り返ったもの。潟湖の彼方に街が霞んで見えた。街からここまで8kmあまり、この先どこまでいけば良いのか分からず、疲れが溜まっていたこともあって寺院を後に街へ引き返した。

 GoogleMapを見ると、砂嘴の先端まではさらに14kmあまり。そこから海を30km越えた先にセイロン島であることがわかる。


 こちらは、砂嘴へのサイクリングに先立って出かけた街の北西側での風景のひとつ。右手にかなり高い塔があり、コタンダラーマル寺院からも遠望できる街のシンボルと思えるのがだ、ネットを少し探しただけでは、その名前は見つけられなかった。


 上の写真とあまり離れていない場所にあったとおぼしきガンダマダナ寺院。なだらかな島の中では高台にあって、街を見下ろす風景はなかなか爽快だった。


 街の中で何気なく撮った一枚。砂浜に連なる漁船の写真を撮ってなかったのが今にして少し心残り。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年5月 1日

1995年アジア紀行〈バラナシ〉

 インド最大のヒンドゥー教の聖地として知られるバラナシ。ガンジス川に臨む街は、度々ドキュメンタリー番組に取り上げられたので、「聖地」として覚えておられる方は多いだろうか。聖地としてばかりでなく、北インドのほぼ中央にあってネパールへ向かうバスの出発点でもあることから、巡礼者ばかりでなく多くの旅人が立ち寄る街でもある。

 10月の初めにインドへ入った後、寒さが厳しくなる前にネパールへ向かうことを予定していたので、首都デリーでネパールのビザを取得してから早々にバラナシへ入った。夜行列車で一晩、早朝のバラナシへ着いたのは10月8日のこと。一週間ほどでネパールのカトマンズへ向かう予定でいたものの、体調を少し崩したこともあって20日までの長逗留となった。

 長く滞在したわりには、この街ではほとんど何もしなかった。中国やパキスタンで出会った友だちと再会して一緒に食事に出たり、思いついたようにガンジス川沿いを散歩した程度で、手紙を書いたり本を読んだりとのんびりと過ごした。著名なガート周辺にはカメラを向けることもなく、おかげでバラナシで撮った写真はビックリするくらい少ない。



 バラナシで撮った数少ない一枚。巡礼者が集まるガートから川沿い小一時間上流へ歩いた辺り。下流を振り返ると街が霞んで見えた。


 その周りにも水浴場や火葬場があり煙りが上がっていたが、この日一番の沐浴者は水牛の群だった。


 その水牛の群の番をしていた少年。帰国した96年の翌年が丑年だったことから、この写真を年賀状に使ったみた。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年4月18日

1995年アジア紀行〈シャンドゥール峠〉

 パキスタン北部、カラコルムハイウェー上の要衝ギルギットから、北西辺境州北部の街チトラールへ。ギルギット川を遡り、3700mを超えるというシャンドゥール峠を越えるルートは、一般にはほとんど知られていないだろう。当時、パキスタン北部を旅する者の中では、秘境を抜ける横断ルートとしてそこそこ知られていたように思う。

 最近はかなり道が良くなったらしいのだが、当時は小型のアウトドア車がやっと通れる細い崖道や、歩くような早さで登る坂など悪路が続く難所だった。直通のバスなどはもちろん無く、ジープを雇ったり、ヒッチハイクをしたりあるいは歩いたりと、メインルートの旅よりは多少の努力が必要なルートだった。


 乗り合いのジープに自分の他に日本人一人、ドイツ人二人、住民が二人乗り合わせて、ギルギットを立ったのは9月13日の午後のこと。今ひとつすぐれない天気の中、それでもバスが乗り入れる道を走っている内は良かったものの、途中から悪路となり100km余りを走ってグピースにたどり着いたのは夜8時のことだった。

 翌朝は、奇麗な星空に冬の大三角形が確認できるまだ暗い4時に出発、前日以上の悪路70kmあまりを半日かけて昼前にテルーにたどり着いた。ギルギットからの乗り合いジープはそこまで。その日は、先へ行く足が見つからずにテルーに宿をとった。標高は3000mを超え、宿といっても室内というだけで、自前の3シーズン用の寝袋ではかなり厳しい一夜だった。

 翌朝、峠を越えるジープが見つかり、2時間半で標高3700mを超えるというシャンドゥール峠に到達した。峠とはいっても広々とした草原で、日本でイメージする峠とは随分と趣きが異なった。峠からチトラールまでは、ヒッチハイクで車を乗り継いで5時間ほど。最後に乗せてもらったのは、身なりの整った紳士が乗る運転手付きの現地仕様のパジェロだった。



 登り道は、峠の近くまでギルギット川とその支流を辿る。荒々しい山肌が見られる途中所々に村があり、写真のような奇麗な風景に出会える。これは、グピースとテルーの間で見かけた吊り橋。


 正確な場所は既に思い出せないのだが、テルーの村の周辺と思われる。


 テルーの宿近くの風景。ここら辺は釣りの名所のようで、ヨーロッパからのツアー客が何人か泊まっていた。


 シャンドゥール峠周辺に広がる草原。既に草が枯れているので荒野に見える。


 峠には、簡素なチェックポストがあったので一休み。同行した日本人に写真を一枚撮ってもらった。


 没関系☆スナフキンの足跡に、96年のシャンドゥール越えのより詳しい記録があります。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年4月 5日

1995年アジア紀行〈ビシュバリク〉

 ビシュバリクの名前は、高校の歴史地図帳の上で良く目に止ったのをなぜか今でも覚えている。どの様な歴史があったのかも良く解らない、中央アジアのどこかにあった街。

 その後に読んだ本に載っていて、この街が遺跡として僅かながらも形を残していることを知った。唐の時代に北庭都護府が置かれ、チベットやウイグルなどの勢力が興亡し、天山ウイグル王国の夏の都となり、またモンゴル帝国の時代にはモンゴル高原と中央アジアを結ぶ要衝ともなった街。ジュンガル盆地を回ることを決めた時に、最初に訪れようと思ったのが、このビシュバリクの古城遺跡だった。


 ウルムチを7月25日の早朝のバスで立って3時間ほど、天山北麓を東へ向かうバスをジムサルの街外れで降りた。大陸の移動時間としては楽な部類に入る。ビシュバリク古城はそこから北へ10kmほどの場所にあるので、通りでのんびりしていた三輪タクシーの運転手を捕まえての交渉となった。

 地図の上から簡単にはたどり着けないような秘地をイメージしていたのだが、思いのほか簡単にたどり着くことができた。天山南麓が乾燥した沙漠のイメージが強いのに対して、北麓は裾野部分には緑が多く、地理の教科書的には新疆の穀倉地帯と表現されている。今ひとつぱっとしない天気で写真もいまひとつだが、古城は刈り取りを終えた麦畑と菜の花が広がる穏やかな田園風景の中に崩れた土の塊としての城壁跡を残していた。


 二重に残る城壁跡の内、内側の城壁の西側の中程に残る門の跡。右側に写っている馬が、なにをしていたのかは不明。


 城壁の上から見た周辺の様子。菜の花がちょうど盛りを迎えていた。


 一日おいた27日、時間ができたので天山北麓で一番有名な景勝地天池へ行ってみた。風光明媚ではあるものの当時すでに俗化を言われていたが、趣きの無さは聞いた通りだった。今はどうなっているだろう。


<参考>
 世界の歴史7 宋と中央ユーラシア(伊原弘・梅村坦著/中央公論社 1997年)

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年3月19日

1995年アジア紀行〈マラバル海岸〉

 年が改まった96年の初めは、インド大陸南部の周回を目指して東海岸を南へと向かった。以前の話と少し重なるが、インド大陸最南端のカニヤクマリを1月31日に立ち、西海岸を北上してゴアを経由してボンベイ(今のムンバイ)へ入ったのが2月13日。インド東部のプリからほぼひと月の行程だった。

 地図を開くと、カニヤクマリからゴアにかけての海岸には、マラバル海岸と書かれている。大きな入り江を持つ天然の良好が点在する地方で、太古よりアフリア、西アジアとの貿易で栄えて来た。歴史の教科書的には、ポルトガルが乗り出して来た頃の港街、カリカットコーチンが知られているかと思う。

 マラバル海岸一帯は、ケーララ州の区域とほぼ重なる。日本から遠く、あまり馴染みの無い地名かもしれない。風光明媚なリゾート地帯でもあり、のんびりとしていてそれでいて1月でも強い陽光と南国らしい木々が印象的だった。

 ただ、自分にはここでのんびりする時間が無く、カニヤクマリの後、ケーララ州の州都トリヴァンドラム、水郷観光で知られるアレッピー、港町コーチンの隣街エルナクラム、カリカット、マンガロールと泊まり歩いて、ゴア州の州都パナジへ入ったのが9日の夕方のこと。このころの行程としてはわりと強行軍だったが、移動手段がバスと列車に加えて、運河を行く船も利用できるのがこのインドの中ではケーララらしい所と思う。



 フォート=コーチンを写した一枚。小型の渡し船だけでなく他の方向には大型の貨物船も見えていた。エルナクラムからは、渡し船で渡った。


 トリヴァンドラムでは、一日移動の無い日があって博物館をいくつか見て歩いた。写真は、南国風な建物のネイピア博物館。何が展示されていたかは既に忘却の彼方。


 水郷観光で知られるアレッピーで、街の西側の海岸で撮った一枚。左手にアラビア海が広がる。


 アレッピーからの船は、観光専用の船の他、地元利用の船もあった。自分が乗ったのは地元民御用達の一般船で、外国人は自分とドイツ人が一人だけだった。早朝の水辺がとても気持ち良かったのは記憶に残っている。


 運河は、集落の中を抜けるルートもあり、低い目線から家々を眺められる。住人と目線があうのも度々のことだった。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年3月 1日

1995年アジア紀行〈ウランホト〉

 中国でチンギス=ハンの廟所というと、その存在を知る日本人は自分を含めて全員が内モンゴル自治区オルドス市にある丸い屋根が印象的な建物を思い浮かべることと思う。チンギス=ハンを祀った施設がもう一つ、同じ内モンゴル東部にあることをご存知な方はかなり少ないのではないだろうか。

 今となってはどこでそのことを知ったのか記憶は定かではないのだが、95年の旅に出る前から知っていた。内モンゴルに入る前に短期間ながら旧満州地方を縦断することに決めた後、内モンゴルへ向かう途路ということでその廟があるウランホトへと寄ってみた。この街に滞在したのは、6月の22日から24日にかけてのこと。


 ウランホトへは、黒竜江省西部の大都市チチハル発の急行列車を白城で降り、白城の駅前にたむろしていたマイクロバスへと乗り継いだ。記録的に雨が多かった95年の初夏、ウランホトへの移動も雨まじりの天気の中でのこと。白城から100kmに満たない道程ながら、工事や災害のために塞がれた車道を迂回するために、泥の海を渡るような難路が続いた。

 ウランホトの街が近づくと、周囲は平原から大興安嶺へと続く丘陵地帯へと変わっていく。ウランホトは、内モンゴルに属しているものの大興安嶺の東麓に位置し、街に入るまでの沿道には水田が多くて平原の続きという風景だった。



 チンギス=ハン廟は、ウランホトの街の北に続く丘の上にある。写真のように、青い丸屋根を載せた左右対称な白い建物だ。

 なぜここにあるのかという疑問は、着工1940年、竣工1944年というその創建時期にあるらしい。ボルジギン=ブレンサイン氏によれば「モンゴル人の歓心を買うため」に、日本が関わって建てられたものという。当時ウランホトは、満洲国にとって興安地方を治めるための拠点だった。


 廟が建つ丘の上からは、ウランホトの街を一望できるものの、小雨の混じる天気の中で白く霞んでいた。


 こちらは、同じ丘の上から西側を眺めたところ。写真ではあまり良く分からないが、街へ入るまでの水田が広がる風景に比べて、草原が広がっているのが見えていて、ここがモンゴル草原の東端と少し実感した記憶がある。


<参考>
 内蒙古・烏蘭浩特公式サイト、同サイト内の成吉思汗廟
 エジェンホロ旗公式サイト、同サイト内の成吉思汗陵園
 チンギス・ハンは誰の英雄(朝日新聞社、ボルジギン・ブレンサイン)

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年2月18日

1995年アジア紀行〈タキシラとラワルピンディ〉

 パキスタンの首都イスラマバードの名前は、パキスタンのニュースを目にする方にはそれほど珍しいものではないだろう。その隣にある街ラワルピンディの名前は、どのくらい日本人に知られているだろう。イスラマバードは、パキスタンの首都として作られた街で、政府の主要な施設や大きなモスクのほか各国の大使館もある。大使館は、各種手続きの他、インターネットが普及していなかった当時は情報収集や手紙の受け取りのためにも重要な場所だった。

 対して隣街のラワルピンディは庶民の街で、整然としたイスラマバードと対照的に雑然とした街並が続く。安宿が何軒かあるため、イスラマバードに所用のある旅行者もラワルピンディに滞在している人が多かった。自分もそうだったのだが、ここでの一番の目的はインドビザの取得だった。手続きに一週間ほどかかったため、他に目的がなくても長の滞在となった。自分もインド入国を前にした9月24日から10月2日まで滞在している。


 ビザの取得待ちの時間つぶしにちょうど良いのが、ラワルピンディから北西へ25kmほどの所にあるタキシラの遺跡群巡り。タキシラの街の東郊、平原や丘陵の続く4km四方ほどの範囲に、ヘレニズム時代の代表的な都市遺跡シルカップや、パキスタンでも最古の時代に属するというダルマラージカをはじめとする仏教遺跡が点在してる。ビザ待ちの一日、同宿になった日本人6人で馬車を借り切って見てまわった。


 広い平原に石組みが整然と並ぶシルカップ。


 シルカップの中でも一番有名と思しき、双頭の鷲のレリーフが掘り込まれた建物の土台。


 シルカップの周りは長閑な草原あるいは農村といった風情で、象や牛がのんびりと草を食んでいた。


 仏教関係の遺跡としては、ジョーリアン、ダルマラージカ、モラモラドゥを巡ったと思われるものの、記録、記憶ともにはっきりとしない。この写真もジョーリアンのストゥーパに隣接した僧院のものかと思われるが確証はない。


 ラワルピンディで滞在していたホテルの近くの風景。丸一日かかった遺跡巡りから戻って、同行の仲間たちと売店で買ったジュースを飲んで一息ついているところ。


 パキスタンらしく飾り立てバスが、店の脇を走り抜けていく。人々の服装といい、パキスタンでの旅を思い出ださせる一枚。


<参考>
 タキシラ(TAXILA) ストゥーパ(しなびたオコゼ)
 世界遺産・タキシラ へ(旅 いつまでも)


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年2月 8日

1995年アジア紀行〈アーグラ〉

 日本人に最も馴染みのあるインドの建造物というと、数あるヒンドゥー教縁の寺院やラージャに関わる宮殿、あるいはイギリス植民地時代に関わるモノなどなどを差し置いて、タージ=マハルが挙げられるのではと思う。まして、そのイスラム教系の霊廟がある街の名前も、廟の名前に比べればはるかに知られていないだろう。

 かく言う自分は、アーグラの名前こそ知っていたものの、タージ=マハルは是非見なくてはと思い定めていたものの一つだった。ムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーンに縁のこの廟についてはあまりに著名でもあり、その歴史についてはばっさりと割愛して自分が見て来たものだけを簡単に紹介したい。


 タージマ=ハルを見物すべく、南インドを回り終えてデリーに戻る前にアーグラに立ち寄ったのは、96年の2月26日から28日のこと。ホテルに荷物を置いて早々に霊廟に出かけた。月曜という曜日も関係無しということか、多くの見物客で賑わっていた。

 名所の常として、期待を必要以上に膨らませることは実見の際に裏切りに繋がることが多いものの、ことタージ=マハルに関して自分はそれでも期待以上という感想だった。


 霊廟には広い前庭が広がる。正面に続く水を讃えた噴水をセットにした真正面からの写真が一番有名かと思うが、自分が行った時にはなぜか水が張られておらず、正面からでは絵にならなかった。

 少し離れた前庭の中程から眺めると、本体と同様に大理石で飾られた土台の上と下に並ぶ人達がとても小さく、廟の大きさが見て取れる。これくらい離れてみるのが自分にはちょうど良かった。


 霊廟は、中はもとより周囲を歩くこともできる。間近で見上げるとその大きさに圧倒された。


 タージ=マハルに入った時点で3時を少し回った頃だったが、どれほど眺めていても飽きることが無かった。建物の周囲を巡り眺めた後、もとの芝生の上に戻り何するでも眺めていた。純白の壁が夕日に赤く染まる姿は、特に思い出として残っている。



 アーグラにはもうひとつの見どころ、同じムガール帝国時代の遺産、アーグラ=フォートがある。城塞は、タージマハルの西2kmほど、ヤムナー川に面してその威容を残している。入場出来る場所が限られていたものの、宮殿群は十分に楽しませてくれた。

 写真中程には、タージ=マハルと同じように大理石の白い壁が続いている。シャー=ジャハーンが晩年に幽閉されたのがこの一角といわれ、そこからはタージ=マハルの全景を望むことができる。


 こちらは、シャー=ジャハーンよりも古い時代に創建されたという赤砂岩で築かれた宮殿。白い宮殿にくらべてやや荒廃しているものの、対照的な赤色が印象的で人が少ない分静か。かつて皇帝が立ったかもしれない場所に座って、歴史に思いを馳せるには居心地の良い場所だった。


<参考>
 神谷武夫とインドの建築

<Google May Map>
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2009年1月25日

1995年アジア紀行〈バム〉

 イラン南東部、沙漠の中のオアシス都市バム。歴史にあまり登場せず、街としてもさほど大きくないバムは、2003年に地震に見舞われるまでは一般にはあまり知られていなかったように思う。しかし、インドからトルコへ陸路を行き来する旅行者の中で、その都市遺跡はかなり評価が高かった。2003年の地震で大きく破壊されたというが、以来5年を経てどのくらい復興されただろうか。

 バムへは、パキスタンから陸路バスで入った。アフガニスタン関連のニュースで時々名前の上がるパキスタン西部の要衝クエッタから、イラン国境まで夜行バスで16時間。さらにザヘダンで乗り継いでバムのついたのは3月16日の夕方だった。一週間のトランジットビザだったので、のんびり滞在するわけにいかず、中一日の滞在で18日にはケルマーンへ移動している。


 都市遺跡は、バムの街の北西の外れにある。土を固めた城壁に囲まれていて、本来はいくつかの門があったのだろうが、南西にある門以外は閉じられていた。GoogleMapで見ると北側に城塞、南側に市街が広がる500m四方ほど大きさの遺跡であることが見て取れる。

 バムを訪れた頃数日間は、雲りが続いたおかげで、遺跡のスケールと雄大さのわりに奇麗な写真を撮ることができなかった。


 南側から北を眺めたところ。中央に小高く聳えるのが城塞部分。城塞は、迷路のような通路を通って上まで登ることができた。


 城塞の恐らくは頂上に近いところからの眺め。南東方向を見たものと思われる。眼下に広がっていた街を一望できる。


 正確な位置は不明ながら、市街地内のいち風景。迷路のような街路が巡り、廃墟としての雰囲気がたっぷり。


 城塞の上から南西方向を見たところ。城壁の向こうに緑豊かな今の市街地が広がっている。GoogleMapでも見て取れるが、バムは沙漠に浮かんだオアシスというイメージそのものに緑豊かな街。


 こちらは、城塞から西側を見たところ。道の両側に街が広がっているのが見てえている。GoogleMapの写真がいつ時点のものか不明だが、この写真と比べると地震で破壊された街を確認することができる。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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