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2007年2月27日

文科相発言

「日本は大和民族が統治」 長与で文科相発言(長崎新聞)

 昨日のニュースだが、これによれば大臣は以下のように発言したという。

 (日本を)大和民族がずっと統治してきたことは歴史的に間違いのない事実
 この一文だけで何が言いたかったのか分かるわけではない。所詮は大なり小なり政治臭い発言なのだから、「民族って?」「日本て?」「いつから?」と突っ込んでみたところでしょうがない。どちらかといえば、それを受けて聞く側がどう考えるかに懸かる思う。

 「歴史的」ということでいえば、1845年の日露和親条約、1875年の千島樺太交換条約を経て、今の国境の形が一応出来上がったのは1879年の琉球処分が終わってからのこと。100年と少し、それが近代日本の歴史だ。「ずっと」という言葉には、100年よりもだいぶ長い歴史を含んでいるように聞こえるが、それを言い始めたら突っ込み放題である。

 また、『独立記念日』に書いたように、この100年の中にはアメリカによる占領時代がある。このことが認識されていないというのは、やっぱりそれが一般的な感覚ということなのだろうか。

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2007年2月25日

2月25日購入書籍

NHKブックス1078
日本人になった祖先たち
DNAから解明するその多元的構造
篠田謙一 著
ISBN978-4-14-091078-8
日本放送出版協会 2007.2

 わりと興味を持っているテーマのひとつ。文化的な面よりも自然科学的な話の方が今は興味がある。著者はDNA解析を中心としとする研究者であるらしい。類書を読むのは4、5年振り、新しい情報に期待したい。表紙イラストのセンスがよく分からない・・・

 


講談社漫画文庫 よ1-60
横山光輝中国時代傑作選
ウイグル無頼
横山光輝 著
ISBN978-4-06-360419-1
講談社 2003.3

 蒸しぱんさんが紹介していた一冊。ほぼ100%作った話なのだが、所々に何を見て描いたんだろうというところがある。多くの三国志ファンを産み出した横山光輝らしい楽しい作品。あっさりした最後も作者らしいい・・・か?

 


アフタヌーンKC440
ヴィンランド・サガ 4
幸村誠 著
ISBN978-4-06-314440-6
講談社 2007.2

 馬頭さんが紹介しているのを見て慌てて買ってきた。以前紹介した11世紀ヴァイキングものの4巻。こんなに早く続きが読めるとは思ってなかった。主人公達と即位直前(なんだよなぁ・・・)のクヌート大王が絡んで、ウェールズを舞台に話が進んでいく。先の展開が読めない、続きが早く読みたい・・・

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2007年2月24日

日野と蒲生氏

 朝の京都は雲り空で雪すら舞う天気。それが滋賀県の湖東に入る頃には綺麗な晴天になっていた。今月3回目の山城歩きは、織田信長の娘婿でもある蒲生賦秀(後に秀吉の許で会津若松城主となった蒲生氏郷)は、代々今の日野町を本拠としてきた豪族の出身。今日は日野町を起点に蒲生氏に関わる城を見て回った。

 日野の市街は、蒲生賦秀が伊勢の松ヶ島(松坂市)に転封になるまでの蒲生氏の城下町であり、江戸時代には市橋氏仁正寺藩の陣屋が置かれた。町を歩くと寺が点々と立ち並んでいて城下町の面影が残る。


 写真は蒲生氏の菩提寺信楽院。この寺に限らず、近在で尋ねた寺や神社はおしなべて造作が立派に見えた。


 蒲生氏の本城とされる中野城は町の東、ダム湖の畔にある。平城だが北側に大きな堀と土塁が残る。城の南半分はダム造成のときに破壊されたとのことだが、規模的には少し大きな豪族の館という程度に見える。写真は高い土塁の間を抜ける道で奥が城内。


 音羽城は、中野城から2km東、日野川の河岸段丘が東西の支流によって区切られたところにある。山麓の道から数分で本丸跡まで登ることができるので、山城というよりは平山城に近い。山裾は意外と急で、城を囲む空堀の規模もかなり大きい。ただし頂上を占める本丸や二の丸が有ったと言われる所は、明治以降に大幅に開発されて今は広い芝生の公園になっている。掘や土塁は公園の周辺に残っている。

 音羽城は元々蒲生氏の本城だったが、1523年の落城後に廃城になったとされている。ただし、戦国末期と思われる遺構や遺物があったとされ、改修再利用されたと思われる。蒲生氏は本能寺の変の際に信長の係累を安土から自領に避難させたと言われているが、歩いた感想として避難先は中野城では心許なく、音羽城ではないのかと思うがどうだろう。



 音羽城の南2kmには、これも蒲生氏と関係があるという鎌掛(かいがけ)城がある。この城は麓から標高差150m、急斜面に囲まれた本格的な山城だ。山頂には本丸を中心に削平した郭が段々に並んでいる。石垣はなく土塁があるだけだが、戦国時代の山城らしい雰囲気が残っていると思う。写真は、山頂を表わす石が立つ本丸跡。

 この城には真っ当な登城道はない。地元の観光パンフでも案内されておらず、登り口を示す案内も一切ない。参考にした本が北東の谷からの道を案内していたのでそれを登ってみた。舗装された道から少し入った所にある登り口は分かり辛いが、一応踏跡がついている。しかししばらく登るとルートをロスト。おかげでかなり酷い山腹を遠回りすることになった。それでも30分ほどで山頂に着いた。下りは踏跡を追って南側の尾根を落ちるように降りたら沢のかなり上流に出た。

 城の西麓には山屋敷跡といわれる郭が残り、ここは蒲生賦秀の父賢秀が隠居した場所といわれている。この奥から登っていく道が登城道だったと本にあるが、たしかに山道にしては幅の広い道が続いている。ただし途中崩れている箇所があり、本丸跡の直下と思われる地点で先が分からなくなった。また、山全体がひどく荒れた状態で特に赤松の枯死が酷い。数十年の樹齢の赤松があちこちで倒れたまま放置されていて、山登りの障害になる。最近倒れたものもあるが、踏むと折れるような朽ちたものもある。


 鎌掛から日野の市街まで歩いて20分ほど。ゆっくりと歩いて回って5時間ほどかかった。日野の市街までは、近江鉄道の日野駅からバスで10分、JR東海道線の近江八幡からもバスがあり45分かかる。鎌掛城で苦労したぶんいつもより疲れた。


<参考資料>
近江城郭探訪(サンライズ出版)
近江の山城ベスト50を歩く (サンライズ出版)

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2007年2月23日

2月23日購入書籍

歴史群像シリーズ特別編集
チンギス・ハーン
大モンゴル“蒼き狼”の覇業
編集部編
ISBN978-4-05-604617-5
学習研究社 2007.3

 ウイグル無頼を買おうと本屋へ行ったら漫画専門店が既に閉まってた。代わりにチンギスの文字を見つけた。映画狙いっぽいが直接は関係ないか。モンゴル・草原系の錚々たる方々が執筆で名を列ねているが、見たことある中身なのでよく見たら

 本書は小社刊「歴史群像シリーズ25・26」の「チンギス・ハーン」上・下巻をもとに、新たな記事を加え再構成したものです。
とある。1991年初版の同書の特に上巻が元になっている。

 新たな記事は、白石典之先生の「最新調査報告書 チンギス霊廟発掘」「チンギス・カン、世界征服への道」、赤坂恒明先生の「チンギス・ハンの末裔たち その後のモンゴル帝国」、木村毅氏の「テムジン、苦難の草原制覇」。図版や写真は全体的にかなり差し換えられていて、特に写真の多くが映画かなにかから取ってきたと思しきものになっている。なんだろうと思ったら本誌にチラシが挟み込まれていたDVDのチンギス・ハーンのものらしい。

 映画ものはノーチェックなんだけど、面白いかな?チラシには6巻セット期間限定価格23000円とある。ちょっと食指がうごく。白石先生はチンギス・カン、赤坂さんはチンギス・ハンと書いてるな・・・

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2007年2月22日

歴史と気候、あるいは温暖化

 今年の冬が暖かいことは間違いない。2月に山城登りができるとは思っていなかった。天気さえ良ければこの週末も出かけようと思っているので、今月は3回になるかもしれない。ひと冬が温暖だったからといって、温暖化と騒ぐのは気が早すぎる。では問題が無いのかと聞かれれば無いとは言い切れない。ただ周りが騒ぐと醒めていく性格上、TVが騒げば騒ぐ程嘘臭く聞こえてしまう。

 ネット上を見ても危機、あるいは騒ぎの方向性を疑問視する意見にも一定の理が見える。科学的な情報を整理している余裕が無いので、態度保留というのが現状。


講座 文明と環境 第6巻
歴史と気候
吉野正敏・安田喜憲 編
ISBN978-4-254-10556-8
朝倉書店 1995.12

 この本を買ったのは8年ほど前。私のような趣味で歴史モノを読んでいる者が、気候変動が歴史に及ぼした影響という話を目にする様になったのは、その少し前頃だったかと思う。この本は、とある機会にそういう方向の専門書をと思って買ったもの。

 気候変動と歴史という文脈では、例えば五胡十六国から南北朝という混乱の時代は寒冷化による人々の大移動に、14世紀後半からのモンゴル帝国の崩壊にも寒冷化による生産性の低下に原因の一端を求めるといったもの。古気候を復元するデータが増えてきた昨今、興味深い話であることは確かだ。この本でも「渤海の盛衰と気候変動」「後漢帝国の崩壊と倭国大乱」といった章を設けている。

 この話からすると寒冷化が混乱の元凶なのだから温暖化は歓迎すべきでは・・・というのは単純化し過ぎではあるのだが。

 記録的な暖冬の影響がどう出るか、取りあえず夏の水不足とそれに続く不作が心配ではある。

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2007年2月20日

(書評)タタールのくびき

タタールのくびき
ロシア史におけるモンゴル支配の研究
栗生沢猛夫 著
ISBN978-4-13-026130-2,
東京大学出版会 2007.1

 モンゴルに興味を持ったかなり早い頃からジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国)についてより深く書かれたモノが読みたいと思っていた。本書はそんな期待に応えてくれた貴重な一冊。

 本書は、ロシア語文献の研究をベースにした、モンゴル支配が始まった頃、13世紀中頃から後半にかけてのルーシ(ロシア)の歴史について論文集。著者によれば、本書は1994年以降に書かれた6編の論文を大幅に加筆再構成したものとのこと。以下のとおり3部7章よりなる。

 第1部 ロシアにおけるモンゴル支配の成立
  第1章 モンゴル支配の開始
  第2章 モンゴル支配の構造
 第2部 サレクサンドル・ネフスキーとモンゴルのロシア支配
  第3章 アレクサンドル・ネフスキー研究の歴史
  第4章 年代記に現れたアレクサンドル・ネフスキー
  第5章 『アレクサンドル・ネフスキー伝』
  第6章 史的アレクサンドル・ネフスキー
 第3部 ロシアとモンゴル
  第7章 ロシア史におけるモンゴル支配の意味

 この構成からも分かるとおり、アレクサンドル・ネフスキーとモンゴルとの関係の研究が中心で、本文380頁の内第2部250頁余を占め、さらに第3章が100頁余で本書の核となっている。第3章はタイトルのとおり研究史であって、古今の研究者10名が上げられている。第4章で年代記から、 第5章では伝記から彼に迫ろうというもので、丹念な資料批判を展開している。

 その結果として第6章に著者が作り上げた7頁ほどの年表が書かれているのだが、やや読み物的に本書を読む側にとってはそこまでに至る過程が面白い。第3章、第4章については、それぞれの時代、立場にある人々がモンゴル支配と向き合ったアレクサンドル・ネフスキーをどう捉えていたかという話で、第5章は彼の伝説がどのように作られていったのかと読み替えることができる。


 自分的には第1部がなによりも読みたかった部分。ロシア部分に限定したモンゴル関係史で80頁に亘る内容は、自分にとって初めての情報でとても勉強になった。モンゴルのロシア支配におけるバスカク制の役割や、ノブゴロド公国の位置などとくに興味深い。

 第7章は本書の纏めといったものではなく、モンゴルによる支配がどう評価されてきたかというもの。研究史と著者の評価が述べられているが、簡略な内容になっている。


 本書は解説書や入門書ではなく重厚な研究書。自分にとっては以前から興味があったテーマとはいえ、ほとんど初めて踏み込んだ世界でとても面白い内容だった。ロシア語文献ベースという点で少し慣れない部分もあったものの、著者の文章自体はさほど難解ではない。第2部では研究者や原書それぞれについて、アレクサンドル・ネフスキーの同じ話を繰り返し取り上げる形になる。冗長といえば冗長なのだが、それぞれの違いや変遷を面白く読むことができる。細かい部分で難を言えば、本書の性格上引用や要約多数あってどこまでが引用でどこからが著者の言葉なのか分かり辛い部分が散見する。読み返せば十分に理解できるのだが。

 本書は、ほとんど類書の無い貴重な情報を纏めた興味深い一冊である。かなりの重厚な内容にもかわらず、ジョチ=ウルスの歴史にあってはまだ極一部にすぎない。同時代の情報には大変飢えているので、著者から今後さらに発信されることを期待して止まない。

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2007年2月18日

高句麗史と東アジア

 先日読んだ『五胡十六国の基礎的研究』の注に引かれている本書がどうにも気になった。ネットで探しても詳細な目次は出て来ないし、古書の出物にも手頃なものがない。府内図書館の蔵書検索をかけたら一冊だけあったのでさっそく借りてきた。2週間で返却なので『シルクロードと唐帝国』よりも先に読まなくては。


 以下に目次を残しておく。

高句麗史と東アジア
武田幸男 著
ISBN4-00-000817-X
岩波書店 1989.6
所蔵:京都市立中央図書館

序章 高句麗史研究と『広開土王碑文』
  一 高句麗史研究の動向
  二 『広開土王碑文』研究の課題
  三 原石拓本の探究
  四 本書の課題

第一編 広開土王の領域支配
 第一章 広開土王の領域拡大
  一 問題の所在
  二 「攻・破」された城と村
  三 永楽六年条の五八城
 第二章 新領域の城---戸支配
  一 守墓人烟戸の挑発
  二 韓と穢の新領域における城---戸支配
  三 韓と穢の新領域における城の改編
 第三章 新領域の種族支配
  一 永楽五年条の「稗麗」解釈
  二 新領域における守墓役の免除
  三 「韓」・「穢」地域の種族支配
 第四章 旧領域の支配形態
  一 旧領域の種族支配(一)---「東海賈」と「俳婁人」
  二 旧領域の種族支配(一)---「民」と中国人集団
  三 旧領域の城民と谷民
  四 結語---高句麗の領域支配

第二編 広開土王代の国際関係
 第五章 「朝貢」関係の基本性格
  一 問題の所在
  二 永楽六年条の百残(百済)・新羅関係
  三 永楽八年条の粛慎関係
  四 永楽一〇年条の新羅関係
  五 永楽二〇年条の東夫餘関係
  六 結語---「朝貢」の基本性格
 第六章 高句麗勢力圏の展開過程
  一 問題の所在
  二 永楽六年条の「跪王」と百残(百済)関係の展開
  三 永楽九年条の「帰王」と新羅関係の展開
  四 「奴客」の実態
  五 東夫餘関係の解釈
  六 結語---太王恩慈の宣揚
 第七章 辛卯年条記事の再吟味
  一 問題の所在
  二 辛卯年条記事をめぐる“新説”の内容
  三 辛卯年条記事の釈読
  四 “前置文”としての辛卯年条記事
  五 辛卯年条記事と永楽六年の百残(百済)戦
  六 永楽六年の百残(百済)戦における戦術・戦略
  七 結語---辛卯年条記事私釈
 第八章 『三国史記』広開土王本紀の国際関係
  一 問題の所在
  二 「本紀」対外記事の整理
  三 「本紀」の国際関係と『広開土王碑文』
  四 結語---「本紀」対外記事の批判

第三編 高句麗の東アジア認識
 第九章 長寿王の東アジア認識
  一 問題の所在
  二 『広開土王碑文』の倭と倭認識
  三 『広開土王碑文』の中国観
  四 長寿王代の対外政策
   1 西方和平策への転換
   2 南方進出策の推進(一)---高句麗の平壌遷都まで
   3 南方進出策の推進(二)---高句麗の漢城奪取まで
  五 結語---東アジア認識の原点
 第一〇章 高句麗「太王」の国際性
  一 問題の所在
  二 「国岡上広開土境平安好太王」号の伝統性
  三 「永楽太王」号の現実性
  四 高句麗「太王」の用例
  五 「太王」存在基盤の点検
  六 高句麗君主の「王」と「太王」
  七 結語---東アジアの「太王」号

第四編 高句麗王権の史的展開
 第一一章 高句麗王系成立の諸段階
  一 『広開土王碑文』王系の問題点
  二 高句麗王系の体系と伝説王系
   1 高句麗王系の区分体系
   2 伝説王系の成立
  三 大王王系の創出
   1 大王王系の特色と問題点
   2 大王王系の創出
   3 大王王系の成立
  四 丸都・国内王系の加上問題
   1 丸都・国内王系の復元
   2 王系加上の背景
   3 加上王世系の異伝
   4 加上王の成立
  五 結語---『三国史記』王系成立に諸段階
 第一二章 牟頭婁一族と高句麗王権
  一 問題の所在
  二 『牟頭婁墓誌』の釈文
  三 墓主とその族系
  四 祖と父の事績
  五 「聖王」と「奴客」
  六 「北夫餘」の意義
  七 結語---或る中堅氏族の軌跡
 第一三章 高句麗官位制の史的展開
  一 問題の所在
  二 七世紀官位制の基本構造
   1 『高麗記』とその問題点
   2 最末期の官位制
   3 十三等官位制の構造
  三 官位制の形成と展開
   1 六世紀の官位制
   2 初期官位制の形成
   3 官位制の新展開
  四 官位の性格
   1 大対廬と莫離支
   2 莫離支の正体
   3 兄系官位と使者系官位
  五 官位制の運用
   1 官位の昇進例
   2 官位制の階層性
  六 結語---高句麗官位制の特色

終章 丸都・国内城の史的位置
   ---所在論から歴史論への試み---
  一 問題の所在
  二 資料上の王都変遷観
  三 丸都城と国内城の所在
  四 国内城の成立と高句麗「国」
  五 結語---丸都・国内時代の史的位置

付録一 『広開土王碑文』釈文
付録二 『広開土王碑文』釈読

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2007年2月17日

2月17日の頂きものと購入書籍

 「河西回廊の自然・農業・社会」という総合地球環境学研究所オアシスプロジェクトに関わる研究発表会があり、神戸の甲南大学まで聞きに出掛けてきた。大阪大学の佐藤さんによる「西夏支配時代における黒河中流域」が主目的なのだが、歴史系以外にも水文や農業経済畑からの発表もあり、興味深い話を沢山伺うことができた。特に中国におけるカレーズについては、熱の籠った情報交換がおこなわれた。

 某勉強会会長さんが日帰りで来られていて、3月23日まで東京都府中市にあるアジアアフリカ言語文字研究所で行われている「好奇字展」のパンフを頂いた。『西北漢字音をアラビア文字で音写した辞典』とかかなり惹かれるのだが、休日の展覧は明日18日のみなので残念ながら見に行けない。

 研究発表会のおりに頂いた資料などは以下のとおり。

佐藤貴保
 西夏支配時代における黒河中流域

マイリーサ
 黒河流域の生態問題と社会的要因---河西回廊の高台県の事例から---

井上充幸
 張掖・酒泉地区の地下式灌漑水路とその歴史

日本沙漠学会沙漠誌分科会会報
 沙漠誌ノート Vol.3
 沙漠誌ノート Vol.4


 帰りに本屋に寄ってきたところ収穫あり・・・

興亡の世界史05
シルクロードと唐帝国
森安孝夫 著
ISBN978-4-06-280705-0
講談社 2007.2

 森安先生の意気込みは既に十分伝わっているので、ちょっと過剰に期待していたりする。7、8世紀の東・中央アジアについての見直しを迫るといった内容らしい。来月の配本は14、ロシア・ロマノフ王朝の大地。ちょっと守備範囲外かな・・・

 


近江の山城ベスト50を歩く
中井均 著
ISBN978-4-88325-305-0
サンライズ出版 2006.10

 こちらは山城歩きのネタ本。戦国時代に山城が100以上のあったという近江について、その内の50件に測量図と解説がセットになっている。測量図に惹かれて買ってしまった。同じ様な企画で丹波とか播磨とかあったら、やっぱり買うと思う。

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2007年2月16日

日本の★◆○?

 東北や中部地方などの山間部のことを称して「日本の○○○○」と揶揄する言い方があるのだが、思えばどちらにとっても失礼な言い方だったりする。

 ここにひとつの地図(国土地理院)があって開いてみると、なんだほんとに有ったのかと思ったりする。・・・ことはさすがにないか。


 これを見てチベットが頭を掠めたということは、大陸の歴史にそれなりに思い入れがあるということかも。他にもこんなのとかこんなのが近くにある。これを見て、東北地方の温泉、スキー場あるいは樹氷で有名な町の名前が直ぐには出て来なかった自分はちょっと重症かもしれない。

 国土地理院の地図だと、重くて縮尺は変わらないし、スクロールも辛いので周辺の地図はGoogle Mapで。

 なおこのネタは、マンジュさんのブログからの頂きもの。

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2007年2月15日

2月15日購入書籍

シルクロードの風音
沙漠に消えた西夏王国
齊藤進 著
ISBN978-4-286-00684-0
文芸社 2007.2

 ネットで見つけたときから、西夏の名を冠する貴重な一冊なので中身は問うまいと思っていたが、手に取ってみると予想以上で、買うのを止めようかと思った。ただ、好水川の戦いを扱っているのが珍しく、それに免じて買ってきたのだが、やっぱりこれで2100円は高い。

 じっくり見てみるまでもなくツッコミどころ満載の一冊。せめて夏州古城(五胡十六国時代の夏の統万城跡として紹介されるが、西夏時代直接の古城遺跡として規模、残存状態とも最高ではないかと思う)を紹介していればなあと思うのだが。

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2007年2月12日

竹田城

 三連休最終日、かねてより登ってみたと思っていた兵庫県朝来市にある竹田城攻略に出掛けた。狙いどおり、連休で一番の晴天となった。

 播但線の竹田駅で列車を降りると、竹田城は目の前の山上に威容を見せる。総石垣の山城としては日本一との呼び声もある。織田信長の命を受けて播磨に乗り込んだ羽柴秀吉は、但馬にも兵を進め、播磨と但馬を結ぶ街道を見下ろす位置にある竹田城を攻略した。秀吉の城代となったのは、まだ長秀と呼ばれていたころの秀吉の弟だった。

 竹田駅の西に聳える山の上には、山麓から見上げてそれとわかる石垣が連なっている。駅の裏手にある登り口からは、ゆっくり歩いて30分弱の山道で城の北側にある大手口にたどり着いた。まだまだ2月ということで、厚着をしていったのだが頂上に着いた時には汗びっしょりだった。

 この写真は、天守台から南側の郭を見下ろしたところ。石垣に囲まれた南千畳と言われる郭が広がっている。石垣と城全体の造りの立派さは想像以上。総石垣の山城はまだあまり見ていないが、自分が見た中では島根県の津和野城よりも雄大だ。

 南側から天守台を見上げたとろ。天守台はそれほど大きくはないが、それ以外にも櫓が建っていたと思しき石垣が幾つもある。

 竹田城は予想以上に雄大な山城だった。しかしながら三大山城と検索してきても竹田は出て来ない。それは、この城が江戸時代を待たずに廃城となったからだ。最後の城主となった赤松広秀は関ヶ原の戦いの後切腹を命ぜられ、その後この城は主を迎えることはなかった。

 それにつけても立派な石垣。櫓や塀こそ残っていないが、丸太を石垣の上に立て並べればすぐにも篭城できそうなくらい。主のいなくなったこの城は、一国一城令の時に破壊の対象にならなかったのだろうか。1970年代に石垣の復元工事を行ったとパンフレットにあるのだが、人為的な破壊が大きく入っていれば、ここまでは奇麗に復原できなかったと思うのだが。

 山麓には、最後の城主となった赤松広秀(斎村政広)の墓が残る。

 麓から登る道は、駅裏の他に北側の小学校からと、南側の表米神社の脇からもある。ただ、昨年の災害に対する大掛かりな復旧工事が行われていて、表米神社からの道は全く通れない。駅裏の道も、砂防ダムの左手前に登り口が取り付く暫定的な状態。大手口の直下までは車でも入れる。


 → 地図(国土地理院)
 →竹田城(神戸観光壁紙写真集)
 →竹田城(朝来市役所)

<参考資料>
戦国の城 西国編(学研)
織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)

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2007年2月11日

(書評)五胡十六国の基礎的研究

五胡十六国の基礎的研究
三崎良章 著
ISBN978-4-7629-2771-3
汲古書院 2006.12

 本書は、著者の五胡十六国研究に関わる16編の論文を再構成し、新たに書き下ろした「結論」を加えたもの。序論、結論のほか5部12章よりなる。以下、目次を抜き書きしておく。

 序論 日本における「五胡十六国」研究と本書の目的
 第一部 「五胡十六国」の意味と五胡十六国時代の民族
  第一章 「五胡」と「十六国」
  第二章 前秦における民族状況
 第二部 五燕の官僚機構と民族性
  第三章 前燕の官僚機構
  第四章 後燕・南燕の官僚機構
  第五章 五胡十六国時代における遼東・遼西地方の民族構成の変化
  第六章 北燕の「鮮卑化」
 第三部 夏の年号と国家観
  第七章 夏の年号
  第八章 「大夏紀年墓誌」に見える夏の建国意識
 第四部 異民族統御官
  第九章 後漢の破鮮卑中郎将
  第十章 東夷校尉
 第五部 「十六国」諸国の国家観と民族認識
  第十一章 「十六国」諸国の異民族統御官と東晋
  第十二章 異民族統御官にあらわれた「十六国」諸国の民族認識
 結論

 2002年に発売された著者の前著「五胡十六国 中国史上の民族大移動(東方書店)」は、五胡十六国時代というかなり限定した時代を扱った唯一の一般向けの入門書。かなり詳しい内容になっていて、大変勉強になった一冊だった。本書掲載の論文16編の内、10編がこの前著に先駆けて書かれたもので、その意味で前著の基となった論文を多く含んでいることになる。

 書名にあるとおり地道な文献資料研究を基とした論集で、五胡十六国時代史研究の中でもかなり踏み込んだテーマを扱っているように見受ける。また、本書にも墓誌が資料としていくつか取り上げられていて、墓誌研究が現在の中国史研究の中で広く重要な位置にあるということだろうか。文献の引用について、漢文原文と読み下し文を必ず併記されているので勉強になる。巻末には、60頁に亘って「五胡十六国 関係文献目録」を掲載している。

 五胡十六国時代から南北朝にかけては、中国史の中でも大きな変化の時代で、今後更に多くの成果が世に出ることを待望し、著者にはさらなる解説本の出版を期待したい。


 内容について、細かい感想を書き加えておく。本書は冒頭に「五胡」とはなにかという論があり、胡は5つではなく、国の数も16ではないというのは、前著でも触れられた興味深い論である。それらの国々における民族の問題が本書の大きなテーマのひとつである。必然的に「民族」「少数民族」という言葉が沢山でてくる。先日民族についての雑感で少し触れたように、歴史、とくに近代以前の歴史の中に出てくる「民族」という言葉が、自分の中ではまだしっくり来ない。

 漢族の実体があやふやであるのに、五胡諸部族の人々が本当に少数民族であるのか。また、一つの民族に括られる人々が共通の文化を持っていてなんらかの認識を共有していたのか。異なる文化を持つ部族の連合体、たんなる政治的な集団に過ぎないのではないか、とう疑問は解消されない。もちろんこれらは本書の論旨ではないので、本書の善し悪しとは関係がない。

 ただ、代りになる適当な言葉が無いというのも事実。意味は別にしても、言葉遣いはあまり考え込まない方が良いのかもしれない。

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2007年2月10日

独立記念日

 かつて国連の難民高等弁務官カブール事務所の所長だった山本芳幸氏の著書、カブール・ノート(幻冬舎文庫)の中にこんな一文がある。

 私が日本人だと分かると必ずと言っていいほどアフガン人が持ち出す話がある。アフガニスタンと日本は同じ年に独立したという話しだ。(217頁)
私にはこの話が良く分からなかった。アフガニスタンが第二次世界大戦中にイギリスやソ連に占領されていたとは聞いたことが無かったからだ。

 そう考えて「日本の独立した年」という言葉にぶつかった。戦後日本のアメリカ占領からの再出発点について、多くの人が記憶しているのはサンフランシスコ講和会議だろうか。これが1951年。自分が持っている歴史年表を見てもそこに日本の独立という文字はない。調べてみると、講和条約が発効した翌1952年4月こそが日本の独立点だという。しかし自分が持っている年表には、そのことに全く触れていない。

 吉川弘文館の標準世界史年表(1994年発行の第31版)には、

 1951年8月、サンフランシスコ対日講和条約・日米安全保障条約調印
 1952年4月、日華平和条約
とあるだけ。ちなみに、同時期のドイツ、オーストリーについて見てみると、
 (西ドイツ)
 1949年9月、ドイツ連邦共和国成立
 1955年5月、主権回復
 (東ドイツ)
 1949年10月、ドイツ民主共和国成立
 1955年1月、ソ連、対独戦争状態終結宣言
 (オーストリー)
 1955年5月、オーストリア国家条約
 同7月、完全独立
となり、独立の文字があるのはオーストリーだけ。どうも近代史に弱いので、ここらへんの細かい点がピンとこない。オーストリーの完全独立とはなんだろうか。なぜ、日本やドイツでは独立という言葉がでてこないのか。

 「戦後のアメリカによる占領というのは植民地的な他国による領有とは別で、主権が日本人に無くても日本という国は無くなった訳では無い。」という扱いなのだろうか。自分の中でも、「占領されてはいたが日本という国は一貫して存在していた。」という曖昧な前提がなんとなく存在している。この感覚は、こういった年表に書かれている言葉とたぶん無関係では無い。

 ちなみに、最初に触れたアフガン人が言うところの独立した年とは、同書によれば

 アフガニスタンはイギリスと三度戦い、1919年、イギリスから実質的な独立を勝ち取った。同じ年、日本は日英同盟を解消した。アフガン人はそれを日本の独立と考えた。(224頁)
とのこと。日英同盟廃棄をアフガニスタンの独立と同等に評価しているのはとても興味深い。なお、細かいことなのだが、上記年表には
 1921年12月、日英同盟廃棄
とある。

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2007年2月 9日

2月9日収集資料

大阪大学21世紀COEプログラム
「インターフェイスの人文学」研究報告書2004-2006〈全8巻〉
第4巻 世界システムと海域アジア交通


 桂堂徒然さんより頂戴した。ありがとうございます。内容は以下のとおり。

巻頭言
 桃木至朗
総論 歴史学の危機と21世紀の挑戦
 桃木至朗

第I部 躍動する周縁と開かれた中心 —インターフェイスの場としての海域アジア
 9世紀〜14世紀前半の日本列島と海域アジア
  山内晋次

 A Review of the Periodization of Southeast Asian Medieval/Early Modern History,In Comparision with That of Northeast Asia
  Momoki Shiro and Hasuda Takashi

 Maritime Trade and Edo Material Culture:
 The Long-Term Trends in Textile Imports and Metal Exports of Tokugawa Japan,ca.1600-1800
  Fujita Kayoko

第II部 新しい歴史学と歴史教育の対話
 大学・高校の専門家の協働による歴史教育の刷新に向けて
 ---第4回全国高等学校歴史教育研究会を振り返って
  佐藤貴保

 全国高等学校歴史教育研究会に参加して
 ---大学と高校の円滑な接続を目指して
  堀江嘉明

 高校生と考える8世紀の東アジア世界
 ---世界史教材としての『続日本紀』---
  笹川裕史

 学びの定着をめざす歴史授業の一考察
  松木謙一


 このうち第II部には、以下の各講演の要旨と参加者による質疑応答が載っていて興味深い。

 森安孝夫「世界史上のシルクロードと唐帝国」
 平雅行「鎌倉新仏教論はなぜ破綻したのか」
 秋田茂「1930〜50年代アジア国際秩序とイギリス帝国---グローバルヒストリーの視点から---」
 桃木至朗「東南アジア史 誤解と正解」

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2007年2月 8日

YMOと麒麟ビール

 テレビCMには結構興味があって、もうだいぶ前だがCMを扱った雑誌を買っていたこともある。最近はテレビを見る時間がめっきり減ってしまい、面白いCMに出会うことは滅多にない。帰宅が遅いということもあるが、家にいてもほとんど見なくなった。

 新しいCMの話題も今やネットから来る。麒麟ラガービールのCMは、寺尾聰、サディスティック ミカバンド、チューリップときて今度はYMOが登場した。数日前からTVでも見かけるようになったが、まだ15秒バージョンしか見ていない。30秒、60秒のバージョンがあり、麒麟ビールのHPで見て聴くことができる。

 YMOが演奏しているのは、新しくアレンジされたRYDEEN。なかなか心地よいアレンジだ。これを期にアルバムをリリースしてくれないだろうか。

 YMOの次ぎのバンドなんて気が早いだろうか。オフコースてなことは無いよなぁ・・・

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2007年2月 7日

民族についての雑感

 蒸しぱんさんのエントリー『貂主の国の「今」』を受けて、民族について日頃考えていることを少し書いてみよう、と思うのだがなかなか纏まらない。

 歴史の中で語られる民族とはどういうものか、というのは重要なテーマのひとつ。ぶっちゃけて言ってしまえば、近代以前の民族とは集団を区別分類する時の単位のひとつであって、主観的な価値はあまり意味を持たない・・・というような感じでどうだろうか。

 ただ、それを歴史学の文脈のなかでいまひとつうまく纏められない。先日のエントリー『ニュースソース その2』の中で、

 「多様性こそこの世界の本質だと実感している。」

と声高に書いたのは、近代的な民族という思想が同質性を求めることへの警戒であって、一種アンチテーゼと考えているから。ただ、たいした脈絡もなく唱えたところでたいして役にたたない、という脱力感もある。


 民族とは日本にいるとなかなか実感てきないものでもある。中国へ何度かでかけた時の経験として、漢(民)族についての疑問を少し書き足しておきたい。

 広く中国を歩いてみての実感なのだが、漢族というのは実に個性豊かだ。顔立だけでも実に多様。北の山西省あたりで出会う人は、日本人と言われても違和感のない顔をしているが、自分が出会った香港人は、どちらかというとベトナム人に近い、というか日本人の中なら目立つ顔と思った。たぶんに自分の主観なのだが、顔だけ見ても十分に別者で通用すると思う。

 机上の話になるがもう少し風呂敷を拡げてみる。四川料理と上海料理はかなり違う。北と南ではそもそも主食が違う。北京語と広東語ではドイツ語と英語くらいに違うという説がある。それでも彼らは一律に漢族といわれる。

 この巨大な集団としての漢族という民族の歴史は100年にも満たないだろうと考えているが、今のところ説得力を持って説明できない。近代史は自分の守備範囲外なので、その成立過程を解き明かそうとは思っていないのだが、過去において漢族がどういうものだったのかというのは重要なテーマである。

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2007年2月 4日

2月4日購入書籍

NHKブックス 1075
ネパール王制解体
国王と民衆の確執が生んだマオイスト
小倉清子 著
ISBN978-4-14-091075-7
日本放送協会出版 2007.1

 ネパールには1ヶ月滞在したことがある。カトマンズ周辺の古都や寺院を見て回ったり、ポカラ周辺の山々を歩いたりとわりとのんびりと過ごした。旅行者にとっては、少しのお金があればのんびりと滞在できる国のひとつ。ポカラから見る夕焼けに染まるマチャプチャレは特別に美しい。やっぱり、一度行ったことのある国は気になる。

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2007年2月 3日

宇佐山城

 立春の今日は朝から綺麗に晴れ上がった。まだ風が冷たいとはいえ春遠からじといったところ。晴天に誘われて11月の八上城以来、2ヶ月ぶりに山城巡りにでかけた。久しぶりですっかり身体が鈍っているので、わりと近い宇佐山城を目指した。

 宇佐山城は志賀城ともいい滋賀県大津市にあった。織田信長が近江と京を結ぶ山中越の道を押さえる城として整備したもので、最初の守将とされたのは森成利(蘭丸)の父森可成と思われる。彼は、1570年に浅井、朝倉軍に攻められた時に城を出て迎え撃ち、信長の弟織田信治ともども討ち死にした。後には明智光秀が城主となり、坂本に築城して移るまで志賀郡支配の拠点となった。

 宇佐山城に登るには、まず宇佐八幡宮を目指す。神社は宇佐山の中腹にあり、京阪電車石山坂本線の近江神宮前駅から歩いて20分ほど。神社にある由緒書によれば、1065年に源頼義によって九州の宇佐神宮より分祀されたものとのこと。参道はいきなり急な登りとなり、鈍った足にはかなり厳しかった。写真は宇佐八幡宮。

 城へは神社本殿裏の尾根を登る。本には大きな看板があるとのことだが、なぜか出くわさなかった。案内は何か所かに小さな案内板がある他、木に縛られたビニールテープが目印になる。道は整備されたとは言い難く踏み固められた獣道状態で、分からなくなる所もある。昨日の雪が少し残っていて、枯葉の上は滑り易くて歩き難かったが、神社から山頂までは15分ほどだった。

 宇佐山城の主郭は、今は放送関係の中継基地が建っていて、趣きといったものは全くない。木々が茂っていて見通しもほとんど効かないが、眼下に琵琶湖が広がり湖東まで見渡せる。

 宇佐山城の特徴は石垣。信長が本格的に石垣を使った初期の城といわれ、今でも城の東側に高さ1、2mほどの立派な石垣が数カ所残っている。主郭の南には副郭があるが、こちらには最近できたと思しき携帯電話かなにかのアンテナが建っている。この副郭の南東を一段下りたところの石垣が特に残りが良い。写真はその石垣。

 山の西側には、仕事で来る人の為と思われる道があり、こちらは階段が奇麗に整備されている。登るだけならこちら側の方が楽と思う。写真はその道を下りて、県道の端から宇佐山を振り返ったところ。塔らしき建物があるところが山頂。

 時間があったので、かつて信長も越えたという山中越の道を歩いて帰った。白川通りまで8kmほど、調子よく歩いて1時間半かかった。

 → 地図(国土地理院)

<参考資料>
近江城郭探訪(サンライズ出版)
戦国の堅城II(学研)
織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)

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2007年2月 1日

1990年中国紀行 <大成至聖文宣王墓>


 2月の写真は、山東省の曲阜にある孔子の墓。孔子ゆかりの街曲阜の北郊には、孔子一族の墓が集まる孔林があり、孔子の墓もその中にある。墓碑には「大成至聖文宣王」と刻まれているが、これはモンゴル帝国時代、フビライの曾孫、武宗皇帝ハイシャンによって1307年に追諡されたもの。


 こちらは、孔林から孔子の弟子顔回を祀る顔廟へと向かう途中のひとコマ。収穫期を迎えて、道路脇には収穫されたばかりの作物が積み上げられ、また道に広げられて通る人によって脱穀された。北京と上海を結ぶ鉄道から外れた曲阜は、自分が訪れた当時は田舎然とした長閑な街だった。高速道路が通った今、街はどれだけ変化しただろうか。

  →Google Map 曲阜周辺

 あいにくと曲阜周辺はまだ解像度が低い。中央に曲阜の街があり、街の北に見える濃い緑が孔林と思われる。

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