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2007年2月 7日

民族についての雑感

 蒸しぱんさんのエントリー『貂主の国の「今」』を受けて、民族について日頃考えていることを少し書いてみよう、と思うのだがなかなか纏まらない。

 歴史の中で語られる民族とはどういうものか、というのは重要なテーマのひとつ。ぶっちゃけて言ってしまえば、近代以前の民族とは集団を区別分類する時の単位のひとつであって、主観的な価値はあまり意味を持たない・・・というような感じでどうだろうか。

 ただ、それを歴史学の文脈のなかでいまひとつうまく纏められない。先日のエントリー『ニュースソース その2』の中で、

 「多様性こそこの世界の本質だと実感している。」

と声高に書いたのは、近代的な民族という思想が同質性を求めることへの警戒であって、一種アンチテーゼと考えているから。ただ、たいした脈絡もなく唱えたところでたいして役にたたない、という脱力感もある。


 民族とは日本にいるとなかなか実感てきないものでもある。中国へ何度かでかけた時の経験として、漢(民)族についての疑問を少し書き足しておきたい。

 広く中国を歩いてみての実感なのだが、漢族というのは実に個性豊かだ。顔立だけでも実に多様。北の山西省あたりで出会う人は、日本人と言われても違和感のない顔をしているが、自分が出会った香港人は、どちらかというとベトナム人に近い、というか日本人の中なら目立つ顔と思った。たぶんに自分の主観なのだが、顔だけ見ても十分に別者で通用すると思う。

 机上の話になるがもう少し風呂敷を拡げてみる。四川料理と上海料理はかなり違う。北と南ではそもそも主食が違う。北京語と広東語ではドイツ語と英語くらいに違うという説がある。それでも彼らは一律に漢族といわれる。

 この巨大な集団としての漢族という民族の歴史は100年にも満たないだろうと考えているが、今のところ説得力を持って説明できない。近代史は自分の守備範囲外なので、その成立過程を解き明かそうとは思っていないのだが、過去において漢族がどういうものだったのかというのは重要なテーマである。

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コメント

「我々」意識というのはやはり対置される相手がいてこそ育つものなので、外来勢力による支配が終わりに向かう時期とか圧迫を受けている時期に盛り上がるというのが一つあるかなと思います。

いわゆる知識人、読書人層なんかだとそれでいいような気がする一方で、一般の大衆なんかだとどうかな?というのはあります。
教育あってこその民族、ということだと歴史は100年にも満たないのかも知れません。

うーん・・・わかりません。

投稿: 蒸しぱん | 2007年2月 9日 00時20分

蒸しぱんさんこんばんわ

>いわゆる知識人、読書人層なんかだとそれでいいような気がする一方で、
一般の大衆なんかだとどうかな?というのはあります。

そう思いますね。
宋の時代に周りの国が強いから民族主義も強まったとかいいますが。でも結局そういう層の人達が空回りぢてたんじゃないかと想像はしてるんだけど。地主連はけっこう強いものさっさと乗り換えてたりするから、別に漢族が一枚岩であるはずもないし。

さて、なにか踏み込んでいくきっかけが欲しいとこですが・・・

投稿: 武藤 臼 | 2007年2月10日 02時30分

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