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2007年3月18日

中国の地名と行政単位

 先日買ってきたアジア遊学の96号を読んでいる。6頁前後の小論を集めたものだが、新しい情報が入っていてなかなか面白い。

 この中に櫻井智美氏の「集寧路遺跡の陶磁器が語る元代青花の生産と流通」という一文がある。これによると、集寧路遺跡は金の時代に造られ、元の北遷と共に明に滅ぼされた街の遺跡とのことで、この遺跡からは景徳鎮産とされる陶磁器の完品が発掘されていて、それは景徳鎮の隆盛を考える上で重要な発見であるらしい。

 話は、本の内容から逸れる。その遺跡が内モンゴルの集寧市の西にあるとあったので、わりと新しい中国の地図を開いてみた。するとその集寧市が載っていない。現代の集寧は北京から来た鉄道が、内モンゴルの区都フフホトへ向かう線とモンゴル国の首都ウランバートルへ向かう線が別れる場所にある街のはずなのだが。調べてみると集寧市は既に無くなってしまっていた。

 ここ数年で日本の地名が大きく変わったが、中国でも日本と事情は違うが地名が変わっている所がある。考えてみれば中国での地名の変遷は、日本よりもはるかに激しい。日本では明治以降の市町村合併に関わるものを除くと、安土桃山から江戸時代の初めにかけて新しい名前が付けられた城下町が全国に散見される以外には、意図的に変えられた地名というのは少ないように思う。郡や国の名前も奈良飛鳥時代に成立して以来、変わった方が少ないと思う。

 中国はどうかというと、歴代の歴史地図を並べてみると実に良く変わっているように見える。かつての唐の都長安はこんな具合。

 長安(前漢〜唐)→京兆(宋金)→奉元(元)→西安(明以降)

 この他、隋の時には大興と呼ばれたし、唐の時代に京兆、あるいは西京と呼ばれもしている。これには多少仕組みがある。京兆、奉元、西安というのは、京兆府、奉元路、西安府という言い方がより正しい名前で、それは地方の行政単位として、中間のクラスの名前なのだ。その府や路の下位になる県の名前としては、宋以降もほとんど長安だった。長安県は最近まで西安市の隣に残っていて、今は西安市に吸収されて区の名前として残っている。

 そう見てきて思い返すと、わりと変化が激しかったのは中間クラス行政単位(郡、州、路、府など)なのかもしれない。こんな話を体系的に纏めた本があると面白そうだが、既に出ているかな?


 ここから現代の話になる。現在日本で発行されている地図には書かれていないのだが、今の中国にも中間クラスの行政単位がある。中国発行の資料に沿った言い方をすると、上から省級地級県級という階層になる。中国にもがあるが、日本では町村が昇格するように、中国でも県が昇格して市になる。

 ここでひとつややこしいことがある。地級は「甘南蔵族自治州」「阿拉善盟」「隴南地区」というように自治州、盟、地区という呼び方が使われているが、これらの地級も昇格すると市になる。つまり今の中国には県級の市と地級という大きな面積を持つ市が別々にあるのだ(※1)。今の中国では、この地級を市に昇格させる方向に進んでいるようで、1991年に全国には
地区が113、自治州が30、盟が8あったが、2002年には自治州は30で変わらないが、地区は18、盟は3と激減している。


 ここでやっと話が集寧に戻る。集寧が地図上にあったころ内モンゴル自治区の烏蘭察布(ウランチャブ)盟の中心地は集寧市だった。それが今は、烏蘭察布が市に昇格した。集寧市は無くなって集寧区になった。鉄道の駅の名前は今でも集寧であるようなので、地名として死んでしまったわけではないのだが、地図の上でこれまで集寧市と書かれていたところに、今は烏蘭察布市と書かれている。


 櫻井氏の名誉の為に付け加えておくと、wikipedia(ウランチャブ市)によれば集寧市が無くなったのは2003年のことで、発掘が始まった2002年はまだ集寧市だったことになる。

※1:例えば敦煌は、甘粛省の中の酒泉市の中の敦煌市となる。

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