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2007年5月28日

(書評)古代の地方官衙と社会

日本史リブレット 8
古代の地方官衙と社会
佐藤信 著
ISBN978-4-634-54080-4
山川出版社 2007.2

 古代日本史の中で、律令制と言われた時代に実際に行政制度がどのように機能していたのか、というのは少し興味を覚えるテーマだ。ただ今は手を広げることが困難なので、時々思いついたように面白そうな本を読んでいる。

 地方官衙とは、地方にあった国や郡の役所のこと。本書では、律令制時代の国や郡の役所関係の遺跡発掘成果を文献資料で補いながら、官衙を中心に当時の地方社会を考察している。

 自分が利用した高校日本史の参考資料であれば、国府の復元図は掲載されていたが郡についての情報はほとんど無かった。発掘の進展によって、国府ばかりでなく各地で郡の役所跡とされる遺跡が多く発掘報告されるようになったとのこと。それら国や郡の役所跡は全国に渡って、ある程度の企画性があるという。本書に紹介されている遺跡でいえば、北は宮城の東山官衙遺跡から、南は福岡の小郡官衙遺跡まで、広く企画性が認められるという点が本書の一番の肝といえるだろうか。

 国、郡、郷、里という律令時代の地方制度は、近代的な中央集権的なもののように見えるのだが、だからこそ古代においてどの程度機能していたのかという疑問は湧いてくる。発掘の成果による限り、少なくとも8世紀から9世紀にかけて、制度はかなり機能していたと評価しうるということになるのだろう。奈良平安という時代を考える上でとても興味深い話だ。


 本書は、100ページ余りというコンパクトな中に、遺跡の平面図など図版を多く盛り込み、具体的な遺跡の事例から解き明かしている。背景的な部分は簡潔であって、成果を多く盛り込んだ分やや散漫と言えなくはないが、他に考古学ベースの詳しい解説書がいくつもあるように思うので、本シリーズの企画的に十分な内容ではないだろうか。

 これまで国内を旅行する場合、戦国、江戸時代の史跡に立ち寄ることが多かったが、本書で紹介されているような遺跡もこれからは対象にしてみようと思う。

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2007年5月27日

勝軍山城

 5月最初の山城攻めは、4月に登った如意岳城と白川を挟んで向かい合う勝軍山城。先日読んだ戦国 三好一族によれば、戦国時代、京を追われた将軍が立て篭る城のひとつで、京都市内で細川氏、三好氏、六角氏などを巻き込んだ戦いが繰り広げられた主戦場のひとだった。

 勝軍山城は、地図では瓜生山と書かれている山の頂上を中心とした山城。まずは山の北側の谷にひっそりとある狸谷不動院へ向かうため、叡山電車の一乗寺駅へ向かう。駅からは東にほぼ一本道。山麓から結構な登りが続く道を30分ほど歩くと立派な本堂が聳えるお不動さんへとたどり着く。


 狸谷山不動院本堂。斜面にあって清水のような舞台の上に建つ。

 山城へは、境内の一番奥から上へと続く階段を登る。そこから三十六童子を祀るという祠が36並ぶ巡礼道が続いている。わりと歩きやすいこの道を登って行けば、15分ほどで36を巡り、その先の山頂に建つ奥の院へとたどり着く。


 山頂に建つ奥の院。ここが本丸だったと言われている。

 本丸自体はそれほど広くはないが、東(建物の裏側)に向かって階段状の郭が連なっていて、さらに東西4本の尾根上に出城的な郭が点在。全体で1km近い広がりを持っている。


 本丸の東には、幅の広さ、深さ、長さで存在感のある空堀が残る。


 山頂周辺に点在する郭を結ぶ尾根道はところどころかなり細くなり、人手で築き上げたとみられる土橋になっている。

 この他にも一番西の郭や東の尾根の分かれ目などに高さ50cmから1m程度の土塁が残っている。各郭へは、尾根筋を巡るハイキングコース(京都一周トレイル)から薮をかき分けて進むことになる。中には、平均台の上を歩いているような高さのある土橋があったり、帯郭から折れ曲がった道が土塁にぶつかる虎口があったりと防御施設が明瞭に残っているところもある。

 下りは北東の郭の先から林道を下った。白川通りまでのんびり歩いて1時間。林道は場所によって獣道に戻りつつあるような状態で、歩くのには十分だがバイクなどで乗り入れるのは厳しい(入り口の門も閉まっている)。


 勝軍山城は、残り具合は良いように思う。常駐の城だったわけではないので、各郭の広がりはさほどではないし、石垣が使われている所も無い。しかし、大規模な山城の無い京都市街周辺では最も戦国の山城を楽しめる場所ではないかと思う。山全体が赤松、杉、クヌギなどの木々に覆われていて、一番西の郭で木々の間から市街を見下ろせた以外、眺望はほとんど効かなかった。

 先日買ったばかりのデジカメのデビュー戦で、いつもより写真は奇麗だったと思うのだがいかがでしょうか。



勝軍山城位置図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(京都東北部)をもとに作成しています。

勝軍山城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
戦国 三好一族(今谷明 著/洋泉社 )
勝軍山城(落穂ひろい)

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2007年5月26日

2009年の大河ドラマ

2009年の大河ドラマは「天地人」!(NHK)

 連休前はどたばたしてたからと思うのだが、この話は昨日まで知らなかった。直江兼続という主役についていえば悪くはないと思う。自分が常に期待しているのは戦国時代地方もの。彼は1560年生まれなので、戦国時代という範疇としては一番若いグループに入る(それでも伊達政宗よりは7歳も年上か・・・)。

 直江兼続が19歳のときに上杉謙信が亡くなると、上杉家の内乱御館の乱が起こる。北条や武田が介入して上杉家が大きく揺らいだ時代。自分的にはここがどう描かれるかを楽しみにしておきたい。

 彼が一番活躍するのは関ヶ原の戦いの頃で、ドラマもそこが中心となるだろう。大河ドラマのシリーズを思い起こしてみると、自分としては意外に思うのだが、関ヶ原の戦いの時に石田三成に組した側を主役としてまともに描くのは初めてのことになる。徳川家康、伊達政宗、あるいは最上義光あたりはどう描かれるだろうか。

 ひとつ気になるのは、2002年の前田利家以降、戦国から江戸時代初めの大河ドラマでは、いずれも戦国大名の家臣クラスを主役にする話が続いていること。自分的には北条、長宗我部、大友、島津などまだまだあるのにと思うのだが、もうそういう人たちを主役にする時代ではないということか・・・。


 火坂雅志著の天地人 (日本放送協会出版 2006.9)が原作とのことだが、まだ読んでいない。調べてみると、直江兼続を主役にした小説は随分あるのだなと思う。放送開始までには一冊くらい読んでみようか。


 プロデューサーが、思い入れたっぷりに語るコメントを見聞きするととても不安を覚える。あくまでも正統派の歴史ドラマとして、面白いものになるよう祈って止まない。

<参考>
 直江兼続(Wikipedia)

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2007年5月25日

モンゴル年代記

アジア史選書 009
モンゴル年代記
森川哲雄 著
ISBN978- 4-89174-844-9
白帝社 2007.5

 元朝秘史以降のモンゴルで編纂された年代記を解説した本。自分的には、モンゴルの歴史書というと『元朝秘史』(平凡社東洋文庫の『モンゴル秘史』など邦訳されている)、サイキさんがHPで紹介された『アルタン・トプチ』(著者不明版?)、岡田英弘氏が邦訳された『蒙古源流』しか馴染みがない。

 前書きによれば、『チャガン・テウケ』は16世紀後半に編纂されたもので、モンゴルへのチベット仏教導入とチンギス・ハーン廟祭祀について記したもの。『アルタン・ハーン伝』、著者不明『アルタン・トプチ』が17世紀前半の編纂で、『蒙古源流』以下は17世紀後半以降、清朝の影響の下で成立したものとのこと。

 400ページを越える大著で興味を惹かれる内容なのだが、未読がかなり溜まっているのでしばらく本棚にかざっておく。

 内容は、以下のとおり。

第一章 『元朝秘史』---北アジア世界における初めての年代記---
第二章 チベット仏教のモンゴルへの再流入
第三章 『チャガン・テウケ』
第四章 『アルタン・ハーン伝』
第五章 著者不明『アルタン・トプチ』
第六章 『蒙古源流』
第七章 『アサラクチ史』
第八章 『シャラ・トージ』
第九章 ロブサンダンジン『アルタン・トプチ』
第十章 十八世紀前半のモンゴル年代記
第十一章 十八世紀後半のモンゴル年代記

 第十章で、『ガンガイン・ウルスハル』、『蒙古世系譜』、『アルタン・クルドゥン・ミンガン・ケゲストゥ・ビクチ』、第十一章で、『ボロル・エリケ』、メルゲン・ゲゲン『アルタン・トプチ』、『アルタン・ナプチト・テウケ』が取り上げられている。

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2007年5月24日

高鍋城と財部城

 高鍋城は、高鍋町市街の西端に舞鶴公園と名乗る標高73mの小山にその跡が残っている。海岸に向かって張り出した台地の南東端を堀切で区切った山城と思われる。地図を開いてみると、先に訪ねた高城城下を流れる小丸川の下流右岸にあたり、宮崎平野へ北から侵入する敵を両方の城で押さえるという機能が想定できる。

 戦国時代には、伊東氏の持ち城の時代が120年続いた後、高城、都於郡城とともに薩摩の島津氏の城となった。豊臣秀吉による九州遠征の結果、筑前から移された秋月氏の領地になったのはその10年後、1587年のこと。秋月氏の領地は、高鍋周辺と宮崎県最南端の串間周辺に二分されていて、当初は櫛間城が拠点であったという。1604年から高鍋城が居城となったが、本格的に城の整備が行われたのは、それまで財部城と呼ばれていたのを高鍋城と改めた17世紀後半のことであるという。


 舞鶴公園の東の入り口に残る石垣。この階段の上に門があってその先が二の丸だった。さらに階段を上ると本丸で、そこには政庁や御殿が建てられていたとされ、その平面図を記した案内板が立てられている。本丸はこの山城の中腹で、まだ山頂に向かっていくつか郭が続いているが、資料にはそれらを纏めて詰の丸であるとしている。


 本丸の一つ上の郭は本丸の半分ほどの広がりがあり、写真のような石垣が残っている。この石垣の上には三層の櫓が載っていたという。山頂はさらにその上で小さな郭がいくつか残っているが、江戸時代にはこの空間はどうなっていたのだろう。山頂は、麓から70m近い高さがあるが木々に覆われていて眺望は効かなかった。

 二の丸の東、現在高校になっているところは江戸時代には三の丸だったとのこと。まだ財部城と呼ばれていた時代はどのような山城であったのか定かではないが、高城と並び立つ城であったのなら二の丸から上だけの山城だったのではと想像できる。その時の中心は今の本丸よりは上の郭だったのではないだろうか。

 さほど大きな山城ではないと思うのだが、延岡城に比べるとあまり要塞化されることなく、山の一部のみが石垣で整備されたように見受ける。石高が3万石と小さかったためか、あるいは時代か政治の要請によって大規模な築城を必要としなかったということだろうか。


高鍋城周辺図。
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(高鍋)をもとに作成しています。


高鍋城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
高鍋町の文化財第二集 高鍋城(高鍋町教育委員会)

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2007年5月22日

中国周辺の国境

 先日、中国ロシアの国境についての本を読んだ余韻で、久しぶりにGoogle Mapであちこち眺めてみた。テーマはそのもの国境。

丹東・新義州、中国北朝鮮国境
 なにかと話題になる中国と北朝鮮の国境の街。左上が中国側の丹東、右下が北朝鮮側の新義州、真ん中を鴨緑江が流れている。


アムール川、中国ロシア国境
 中央の東西に細長い島が、中国ロシア間の国境問題で最大の焦点であって、いまだ解決していないボリショイ・ウスリースキー島。今はロシアが実効支配を続ける。左下が中国、左から上へ流れるのがアムール川(黒竜江)で下からアムール川に合流するのがウスリー川。右端にハバロフスクの街も見えている。
<この件について下記追記を参照>


満洲里、中国ロシア国境
 中国からロシアへ向かう国際列車が越えていくルートのひとつ。中央に国境があり、東西に走る国境線が見えている。上がロシアで下が中国。右下の街が満洲里。


エレンホト・ザミンウド、中国モンゴル国境
 中国からモンゴル、ロシアへと向かうもうひとつの鉄道ルート。下側が中国で上がモンゴル。この写真だと国境線がいまひとつ分からないが、縮小すると左下から上へ向かう線が何故か鮮やかに浮かび上がる。


アラタウ峠、中国カザフスタン国境
 中国と中央アジアを結ぶ鉄道が越えるアラタウ峠。左下から右上に国境が通る。左上がカザフスタン、右下が中国。


クンジェラブ峠、中国パキスタン国境
 中国西端のカシュガルとパキスタン北部のギルギットを結ぶ、カラコルムハイウエーがカラコルム山脈を越えるところ。標高は5000mに近く、周囲の山々に氷河が流れる。


 この写真は、1995年の夏にクンジェラブ峠を越えた時のもの。白い碑が道の左右に立つところが国境で、左側がパキスタン。


瑞麗、中国ミャンマー国境
 中央を南北に走る緑地帯が国境。左の方に流れる瑞麗川がおおまかな国境線だが、ここは川を越えてミャンマー側に張り出した中国領。古い河道を国境線とするため、今の川に対して大きく出入りがあり、場所によっては現地に何も無かったりする。


 この写真は、中国側に国境線が入っている場所に立っていた石碑。

<追記>
 上記で、中国ロシア間の最大の焦点ボリショイ・ウスリースキー島の帰属について、解決していないと書きましたが、2004年以降両国間で交渉が進んだことを知りました。中国ロシア間東部国境問題 その後に簡単に纏めてあるので、そちらもご参照ください。
(2007.6.7)

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2007年5月21日

西都原古墳群

 宮崎へ行ったら、城以外で立ち寄ろうと決めていた場所のひとつが、西都市中央部の丘陵に広がる西都原古墳群。前方後円墳、円墳併せて大小311基の墳墓があるとのこと。

 数もそれなりに多いのだが、ここの中心は宮内庁所管の陵墓参考地に指定されている男狭穂塚と女狭穂塚。男狭穂塚が175m、女狭穂塚が180mという墳丘長を持つ前方後円墳だ。九州内で見れば1番と2番、日本全国では50番前後に位置する。50のほとんどが奈良と大阪にあり、それ以外で数えると女狭穂塚がちょうど10番目となる。

 九州で一番というのは重要。女狭穂塚より大きいのは、近畿以西でみても京都、兵庫、岡山に併せて5基が数えられるだけ。なぜ宮崎にという話になる。ここから先は最近何も調べていないので空想を交えた茶飲み話に話しを逸らす。


 古代日向の茶話として一番興味があるのは、神武伝説って何という話。なぜ神武東征の出発点が日向なのか。伝説はどういう経緯で出来上がったのか・・・

 1.実際に日向にあった勢力が東に進んで大和政権を建てた
 2.日向の有力者が政権に参加する過程で出来た伝説が、大和政権の伝説の中に組み込まれた
 3.100%作り話

 2が意外とありえるのかとか思ったりする。1は邪馬台国東遷説とも結びつく。私自身は、邪馬台国東遷説に今でも魅力を感じている。だからといって日向に邪馬台国とは言わない。北部九州に基盤のあった勢力の日向遠征軍が、本国に戻ってクーデターを起こし、さらに東征した・・・まったくの絵空事だが好きなストーリーではある。

 なお、男狭穂塚と女狭穂塚は5世紀前期から中期の古墳とされている。いわゆる倭の五王の時代にあたる。その点では、この墓の主かその子孫が東征して・・・ということにはまずならない。



鬱蒼とした木々に覆われた女狭穂塚


男狭穂塚の陪塚とされている169号墳。発掘後奇麗な円墳として整備されている。


横穴式石室が公開されている206号墳。


西都原古墳群周辺 → Google Map
中央の森北半が男狭穂塚、南半が女狭穂塚。

<参考>
西都原古墳群(宮崎県)
古墳とヤマト政権(白石太一郎著/文春新書)

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2007年5月20日

新 シルクロード 第2集

 新シルクロード第2集、サブタイトルはシバの女王の末裔たち。見終わってしばらくいろいろと考えて調べてみたりもしたが、分からないことだらけだ。なによりも自分の関心の周辺、ないし外側であるのでほとんど情報を持っていないというのが一番の理由。以下はイエメン初心者から見た批評となる。


 見終わっての感想から。結局のところこの番組は見る者になにが言いたいのだろう。サウジアラビアがここ数年の石油価格高騰で潤っているというのはとくに特別な話ではない。サウジアラビアをはじめとした中東産油諸国が、ひろく出稼ぎ者を集めてきたのも以前からある話(そこに問題がないわけではなく、以前にインド人出稼ぎ労働者などがニュースになったことはある)。イエメンは、1990年に南北が統一されたが、以来必ずしもうまく行っていないというニュースは何度か見た記憶がある。普段あまりニュースにならない地域のことゆえに新しい情報を期待したいのだが、そういう点でも特別な情報はなかったように思う。

 そのような内容を受けて、最後のアナウンスは以下のようなものだった。

 アラビア半島を貫くシルクロード。かつて乳香が運ばれたこの道を、シバの女王の末裔たちは、石油の富を求め彷徨っています。
 灼熱の大地には、砂漠の民に伝わる栄枯盛衰の歌が、時を超えて響いていました。
 穿った見方をしてもどうも面白くない。当たり障りの少ない、なにも伝わってこないアナウンスだった。


 以下、疑問に思った点を列挙してお茶を濁しておく。

 冒頭のアナウンスは以下のようなものだった。

 乳香の道と呼ばれるアラビア半島のシルクロード。私たちはまず、古代シバ王国の時代に築かれた、イエメンの街を目指しました。
 シルクロードという言葉が最も広い意味、単なる昔の交易路という意味で使われている。「乳香が運ばれた絹の交易路」というのはどうにも収まりがわるい。このルートは、どちらかというとスパイスロードではなかったか?

 イエメンにあった古代サバ王国が、イスラム教の登場を前に衰退したのは事実のようだ。ただ、イエメンといえばアラビア海を介したインドやアフリカとの中継貿易の窓口であって、それはヨーロッパが進出してくるまでは栄えていたと記憶している。イスラム教の勃興とともに貿易が衰えたと思わせる内容には疑問符がつく。

 マーリブの遺跡(番組内では女王の神殿跡かと言っていた)でサバ文字(同様に古代アラビア文字)の碑文が発見されたとのこと。シバの女王について直接触れてはいないと思われる碑文で、どこまで女王のことが解明されるだろうか。

 イエメンからサウジアラビアのジッダへ向かった車が、油田地帯を通過していた。サウジアラビアの油田といえば、東部ペルシャ湾岸と高校地理で教わったものだが、最近は西部でも出ているのか?


 そして一番の謎は、番組の内容に現在のイスラム教が全く登場しないこと。今回のイエメンからサウジアラビア西部を北上する交易ルート上には、メッカ、メディナといイスラム教三大聖地のうちの2つがある(もうひとつはエルサレム)。街が紹介されないどころか、人々の祈りのシーンさえ一切ないというのはどういう意図があのだろう。少なくとも現代のこの地域を語るのに、イスラム教は不可欠と思うのだが。


< おまけ >
イエメン首都、サナアの旧市街イエメン門周辺 → Google Map

メッカの外港都市ジッダ → Google Map

メッカ(中心はカーバ神殿) → Google Map

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2007年5月19日

(書評)中国史のなかの諸民族

世界史リブレット61
中国史のなかの諸民族
川本芳昭 著
ISBN978-4-634-34610-9
山川出版社 2004.2

 本書は、中国の歴史の中に登場する民族について、漢民族と北方系の民族との対立軸を中心に、古代から現代に至までを簡潔にまとめた一冊。以下の5章よりなる。

1.漢唐間の北方民族と中国
2.モンゴル族の国家
3.女真族の国家
4.長江流域以南の諸民族
5.現代中国における民族問題

 比較的ページ数の少ないリブレットシリーズであるので、中国内地に政権を立てた民族が中心になるのは当然といえば当然かもしれない。1章から3章まで、ページ数で約7割近くが北魏から清に至までの各王朝の話題になっている。その中でも著者の専門である北魏を中心として取り上げ、それとの比較で同じ遊牧民系である契丹、モンゴル、狩猟牧畜系として違いのある女真と分けて説明しているところは面白い解説と思う。また、北魏の孝文帝と契丹の海陵王、北魏の道武帝とチンギス・ハンそれぞれの対比、千戸長、ミンガンなどの支配体制の類似、文字創設についての民族意識など比較論の中で面白い所が押さえられている。

 4章では、福建地方の山越族の消長、清代の苗族などを取り上げているが、前漢初期の南越、雲南の大理、あるいは五代十国時代の南漢などもっと取り上げたら面白かったのだがと思う。ページ数が厳しいという点で、逆にいえば北方に絞った方がより濃い中身になったのではなかとも思う。

 また、漢族について古代から普遍的に続いてきたわけではないことが述べられているが、漢と匈奴から民族というくくりで語ることについての抵抗感は残る。自分は、民族集団というよりは政治集団と捉えて評価するほうが見誤りが少ないと考えている。

 細かい点でいうと、モンゴルについて蒙古人、色目人、漢人、南人という記述があるが、これはまだ過去のものではないということか。また、モンゴル時代の地図にオゴタイ・ハン国が載っているのも古くはないのだろうか。こういうところに噛み付きたくなるのは杉山正明氏あたりの影響が大きいからかもしれない。実際研究者の間では今どう評価されているのだろうか。

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2007年5月18日

(書評)中・ロ国境の旅

ユーラシア・ブックレットNo.51
中・ロ国境の旅
「4000キロ」の舞台裏
岩下明裕著
ISBN 4-88595-461-4
東洋書店 2003.10

 著者は、ロシア外交を専門とするとのこと。本書は中国ロシア関係研究の一環として、1994年から10年あまりをかけて行われた中国・ロシア国境の実踏調査の成果にもとにしたもの。

 その成果をまとめたのが以下の本。

角川選書 351
中・ロ国境4000キロ
岩下明裕 著
ISBN978-04-703351-1
2003.3

 

 「はじめに」によれば、本書はこの本で書けなかったことを主観を中心にまとめたものとのこと。中・朝・ロ国境地帯から中・モ・ロ国境地帯までのおよそ4000kmを中国、ロシアの両側から訪れ、できるだけ多くの国境地帯に立ち、実態を観察しようという意欲はなみなみならないものがあったことが伝わってくる。それには、現地にたどり着くまでに事前手配の困難を乗り越え、悪路を乗り越え、その先に検問所が立ちはだかるという厳しいものであった。そのため国境線に沿って4000kmを全て踏破したというものではないようだが、それでも簡単には立ち入り難い場所を多く訪れていて大変興味深い。

 90年頃までに比べれば、中国国内での旅行事情は大幅に改善されているとはいえ、このような企画を実行された人がいるということがまず驚き。ロシアの旅行事情はあまり良い話を聞かなかったものだが、本書を読む限り当時かなり苦労されていたようだ。ロシアに比べてまだ中国の方が事情が良いという印象だが、一つには90年代半ば以降というのが大きいように思う。必ずしも正確な情報ではないが、中国で高速道路の建設が始まったのが90年ころで、90年を超えてから全国的に本格的に建設が行われるようになったと記憶している。本書でも、中国東北部の最奥の国境地帯でも場所によって高速道路が利用されている。これは、自分が中国を旅行した90年と95年の大きな違いのひとつでもあった。

 国境地帯という日本にいてあまり経験できない話としても面白い。また、中国ロシア間の国境問題というと、ハバロフスク近郊の川中島のことを教科書的に知っている程度だった。歴史的に興味のある地域の現在という視点でも興味深いので、選書の方も読んでみようと思い早速購入してきた。

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2007年5月17日

都於郡城

 高城からさらに南へ下る。次の目標は西都市の南郊にある都於郡城跡。この城は、三財川の東に広がる丘陵の西端、少し高くなった部分を利用して築かれた城で、戦国時代、日向の国一円に覇を唱えた伊東氏が1577年に薩摩の島津氏によって逐われるまで居城としていた。

 小説にしろゲームにしろ、伊東氏は島津氏のやられ役で、一度は日向を統一するかという勢いを示しながら、名族であるが故に怠惰に流れて攻勢に出た島津にあっさりと敗れ去った。ついついそういう目で見てしまう。だから都於郡城はたいした城ではないだろうと思っていた。

 ところが城跡に立ったときの感想は全く反対だった。今に残る縄張りこそシンプルだが、全体で東西300m、南北200mという広がりを持ち、ひとつひとつの郭が広い。そして郭の間は場所によって高さ10mになる深い堀切が巡っている。伊東氏に対する偏見を捨ててその歴史を見直さなくてはと思い至ったしだい。


 城跡は発掘調査の上、史跡公園として整備されたようで、各郭は芝生で覆われて所々に案内板が立ち、本丸には全体を描いた碑が置かれている。右側上から「奥ノ城」と「本丸」、中央が「二ノ丸」、左側が「三ノ丸」と「西ノ城」。

 城というと本丸を中心に支郭が放射状や同心円状に広がるのが一般的と思うのだが、都於郡城はこの図のように比較的独立性の高い郭が並び立つように集まっている。このパターンは、南九州ではよく見られるものらしい。


 本丸と二ノ丸の間の堀切。深く掘り下げ、さらに両側の郭に高い土塁を積み上げているので防御力はかなり高そう。


 これが二ノ丸の東側全体に連なる幅数mの土塁。高さは2mを超える。


 西側は標高差100m近い斜面で勾配はかなり急に見える。黄昏れの中、眼下に三財川が流れる。

 下の地図でもわかるように、西や北側は崖になっているが、東南はほぼフラットのまま道が続いている。案内図のとおりだと、東側から攻めてきた敵から本丸が直接攻撃を受けてしまう。東側にも深い堀切や高い土塁があってもよいと思うのだが、実際はどうだったろう。



都於郡城位置図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(岩崎、佐土原)をもとに作成しています。

都於郡城周辺地図(国土地理院)

<参考資料>
裂帛 島津戦記(学研)

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2007年5月16日

(書評)新聞社---破綻したビジネスモデル---

新潮新書 205
新聞社
破綻したビジネスモデル
河内孝 著
ISBN978-4-10-610205-9
新潮社 2007.3

 筆者は、毎日新聞の元記者で外信部長、編集局次長、本社副代表などを経て常務取締役を勤めた。自身勤めた毎日新聞を中心に、新聞業界全体について経営という側面を中心に現状への批判を纏めた本。

 大まかな数字ではあるものの、新聞社の収入が新聞の売り上げの他に広告が多きな割合を占めていること、売り上げの4割程度が販売店の取り分で、販売店でも広告収入が3、4割を占めているなど、興味深い数字を紹介している。また、新聞は今でも部数至上主義だとして痛烈に批判している。

 第3章では、新聞社とテレビ局との系列的繋がりについてマスメディア集中排除原則に反するものとして、その成り立ちから現状までを批判的に解説している。新聞社とテレビ局との間にはっきりと系列関係があることは日常的に分かることだが、こういう形で批判した文章は読んだことがなかったので新鮮ではある。一般論として重要な問題だとは思うが、インターネットの役割が向上すれば結果として解消され得るのではないかと思っている。楽観的に過ぎるとは思うのだが、テレビ番組が全てバラエティーになっても今より不便にならない気がするのでそう考えざるを得ない。

 第4章では、毎日新聞の再生という意味も含めて、読売、朝日に対抗できる第3の勢力として中日、産経との提携案をあげている。外国に比べて日本はかなり寡占状態とのことで解消は必要であると思う。また、情報発信を専業に行う事業体として、今後も複数の会社が健全に存続することも是非とも必要なこと。ただそれが新聞業界の再編ではなく、別の新しい組織でも良いのではと思う(といってオーマイニュースの類が簡単に第三勢力になれるわけでもなさそうだが)。

 第5章は、インターネットの可能性についての話。ニュースのネット配信などの展開がなされているものの、事業規模は最大でも200億円レベルで、毎日、産経でも1000億円以上の売り上げがあり、新しいビジネスモデルはまだ確立されていないという評価のようだ。それに対して少量多ジャンルニュースのネット配信、Eペーパーの利用の可能性といったことに期待を寄せている。


 全体の感想として、自分の知らない世界のことなので興味深い一冊であることは確か。ただ、自分とは感覚が違うなということが多い。第3章、4章でのズレは上に書いたような点があり、以下の部分は特に大きなズレを感じた。

 記事には事件や出来事を伝えるものと、それを掘り下げる解説とがあります。今日、新聞に求められているのは、言うまでもなく後者。(181頁)
 自分が、情報発信を専業にする組織として新聞にまず期待しているのは前者。(このズレはテレビのニュースにも当てはまり、最近のニュース番組自分にはあまり役にたたない。)まずしっかりと事実を調べて日々のニュースを丹念に配信すること、解説の前にまず事実を漏れなく伝えることに徹して欲しい。多量な情報の中から必要なものを自分で選べるようになった今、どのニュースを配信するかを配信側が考える必要はあまりないと思うが。

 ニュースの解説はどうかというと、単体のニュースに絞れば誰にでもできるといのがひとつの答え。実際に時事解説系の面白いブログはいくらでもある。わざわざ新聞社のサイトにアクセスしなくても、ブログのRSS機能で自動的に集めてきたものの中から面白いものを選んで読めばいい。それだけで一日に読める量をオーバーしてしまう。新聞社でも書いた人単位で配信し、一般のブログと同じ土俵で勝負してもらえれば、定期巡回先に登録することはあると思う。


 おまけとして、ここ6年ほとんど新聞を買っていない自分が、どんな新聞にならお金を払っても良いかということ。日々インターネット上でニュースを読むのに使っているのはRSS機能とGoogleニュースの2つ。RSS機能を持ったニュースサイトは限られているので、一日に何度か自分用にカスタマイズしたGoogleニュースを一通り巡回している。自分ならその際に選択した記事を読んだ対価に、月額1000円か2000円を上限に記事単位でお金を払っても良いと思っている(1回1円とか)。新聞社のサイトがジャンル別にRSSを搭載してくれれば、早速にも巡回先に指定するのだが。

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2007年5月15日

高城と高城川の戦い

 高城の名を持つ城はいくつもあるが、日向縦走中に寄ったのは、木城町の中心にあって南北を川に挟まれた細長い丘の先端を利用して作られた山城。丘の西の付け根から尾根に沿って道があり、本丸跡まで車で入れる。その尾根を堀切で区切った城は、東西200m、南北100mほどの本丸を数段の帯郭が取り巻くだけの比較的小規模で単純なもの。山麓からの比高も50mほどしかないが、斜面は急なので簡単に攻め落とせたというわけではなかったらしい。

 実際にこの城は二度大軍の攻撃を退けている。1577年に伊東氏からこの城を奪った薩摩の島津氏だが、翌年には豊後の大友氏に攻められている。切原川の北東の台地に陣を敷いた大友軍だが、激戦の末応援に駆け付けた島津軍に敗れて撤退した。この戦いは高城川の戦いと呼ばれ、大友氏衰退の端緒になったといわれている。

 10年後の1587年には、豊臣秀吉の弟秀長率いる大軍に囲まれたが、島津氏が秀吉の前に降服するまで落城しなかった。


 公園として整備された本丸跡の写真。右手に櫓風の展望台が建つ。


 その展望台から南側を見ると、右から左へ流れる小丸川(高城川とも)が西日に輝いて見えた。島津の援軍は、家並の向こうに見える台地に陣を敷いたという。
 

 蘆に覆われた切原川(谷瀬戸川とも)から下流を眺めたところ。右の丘が高城、左の台地に大友軍が陣を構えた。


 大友軍はその台地の上に数カ所の砦(陣城)を築いたとされ、松山陣とよばれる所には明瞭な遺構が残っているとのことだが、残念ながら薮の中で確認できなかった。写真は、その北にある宗麟原供養塔。案内板によれば、1585年に高城城主山田有信によって双方の戦死者を供養する為に建てられたとのこと。


高城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(石河内、妻)をもとに作成しています。

高城周辺地図(国土地理院)

<参考資料>
裂帛 島津戦記(学研)

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2007年5月14日

イラン

 米とイラン、直接対話へ イラク治安に議題限定(東京新聞)

 依然として混迷が続いているイラク。バビロン、ニネヴェ、ウルなど歴史的に重要な遺跡が多く、一度は訪れてみたい国のひとつなのだが、実現する機会があるものか。

 イラン外務省のホセイニ報道官は十三日、テヘランで開かれた定例記者会見で、「イラクの治安状況改善のため、米国と協議することで合意した」と述べ、米国との直接対話に臨むことを明らかにした。
 このニュースによれば、限定的とはいえイランとアメリカの直接協議が始まるようだ。イラクの安定の為には、陸続きであるイランとシリアの協力が不可欠であると思うので、今までこういう協議がもたれなかったのはアメリカの手落ちとすら思う。


 イランは自分にとってはとても思い出深い国のひとつ。2週間かけて横断したのは11年前の春先のこと。とかく国際的にも国内的にもあまり良いイメージを持たれていないイランだが、自分にとっては穏やかで敬虔なイスラム教徒で度々世話になった親切な人達の存在が、今でもこの国を近く感じさせてくれる。以下の写真はその旅行の時のもの。


 2003年12月に起きたイラン南東部地震で大きな打撃を受けたバムの古城遺跡。


 イランの代表的な古代遺跡、ペルセポリスを丘の上から見下ろしたもの。


 首都テヘランの街並越しに見た、雪が印象的なエルブルズ山脈。


 シラーズへ移動するバスの中で世話になったイラン人家族。一番手前がおませさんだった下の娘さん。もう随分大きくなったことと思う。

 イランはまた行ってみたい国でもある。この協議をきっかけにアメリカとイランの間の溝が、少しでも埋まることを期待したい。

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2007年5月13日

(書評)黄土高原の村

黄土高原の村
---音・空間・社会---
深尾葉子・井口淳子・栗原伸治 著
ISBN987-4-7722-3005-6
古今書院 2000.6

 本書は、地域社会、音楽、建築といった専門をそれぞれに持った著者達が、1990年からの現地調査の成果を95年夏の調査を中心として纏めたもの。調査の対象になったのは、中国陝西省北部(陝北と呼ばれる)、楡林市地区米脂県にある楊家溝という集落。この村が調査対象になったのは、研究調査過程での縁の故であるようだが、黄土高原に刻まれた谷の斜面に窰洞(ヤオトン)の家が立並ぶという、TVや本などから自分がイメージしている陝北の風景に実際に近い集落であるようだ。

 内容としては、村の現代史、生活空間における音について、窰洞について、冠婚葬祭について、雨乞いやさらには人々の関係など文化人類学的な分野多岐に渡っている。窰洞が具体的にどういうものかという点、初めてまとまったものを読んだので、形態的な分類、建築工程、実際の利用のされ方など幅広く触れられていて面白い。窰洞というと黄土を掘抜いて作った洞窟型の住居というイメージがあり、そういう形態のものを紹介した映像を見たことや、洛陽から西安へ向う列車の車窓から見たこともある。しかしここで紹介されているのは(恐らくはこの村での典型的な形態として)、黄土の斜面を生かしながら石と土で作ったドーム型の家で地上式のもの。地下式だけが窰洞ということではないということだった。

 この本を読む切っ掛けのひとつは、その調査地が過去に西夏と宋が争った国境地帯であったこと。米脂県は西夏前期に宋と壮絶な争奪戦を行った銀州(今の横山県東部)と綏州(今の綏徳県)の真ん中にあたる。現代の現地を調査したからといって、この本に西夏の遺跡や西夏人の子孫が出てくるわけではなないのだが、1000年の時代差があるとはいえ、現地の空気感には惹かれるものがある。

 また読み進めるなかで本書の中心となる調査が95年だったという点も興味深い。この点は全く私事なのだが、95年は2度目の長期旅行をした年で、中国では、東北地方、内モンゴル、青海、新疆を回った。上に書いたように本書には雨乞いの話がでてくる。この村は95年に数十年ぶりという深刻な雨不足に見舞われたとのこと。この年東北地方は逆に大雨が続き河川の氾濫が起き、旅行中にそういうシーンに出会うこともあった。一方で内モンゴルは小雨だったようで、7月の初旬というのに草の育ちが悪かったように記憶している。


 内容についてもう少し触れておく。本書は、現地で収集したデータを詳細に纏めた報告書というよりは、調査結果を中心にしながらも、その過程で起きた出来事を長めのコラムとして纏めた読み物という印象を持った。その点で一般向けを意識して書かれているものと思う。内容的な問題ということでいうと、ここで語られているものがどの程度黄土高原全体に対して一般的であるかが全く不明ということがある。事例によっては、この村特有と思われる話も含まれている。現地調査を紹介したものとしては十分に面白かったので、興味がある分についてはより総合的に纏められたものを追跡することが必要になるということだろうか。

 また、この本が纏められたのが7年前で、内容は10年以上前のものとなる。この10年は、中国にとって変化の大きかった10年なわけで、ここで紹介されている村がその後どう変わっていったのかという興味も湧いてくる。機会があれば当ってみたくはある。

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2007年5月12日

延岡城と松尾城

 連休の旅は海岸沿いを北から宮崎へ入ったので、最初の城攻めは必然的に延岡となった。延岡は、江戸時代に宮崎県北部一帯を領した延岡藩7万石の城下町。今も市役所の西に立派な高石垣を擁する平山城跡が残る。


 写真は新緑に包まれて聳えるその高石垣。この上に二の丸、本丸がある。城の縄張りはわりと単純だが城域はそれなりに広く、また本丸までは比高約50mほどで、一回りすると丁度良い準備運動になった。


 最近は、あちこちの城で木造で遺構を復元したものを見かけるが、これもそのひとつで93年に復元された北大手門。門の向こうに高石垣が見える。


 延岡(縣)は古くから土持氏が領主として勢力を築いてきた。しかし戦国末期には、豊後の大友が勢力を延ばし、次いで大友氏を破った薩摩の島津氏の領土となり、最終的には豊臣秀吉の九州遠征の結果、1587年に高橋元種が領主となった。近代延岡城は彼の手によるもので、1601年に築城が始まったという。それ以前には、土持氏の時代から松尾城が延岡の中心だった。

 松尾城は、延岡の西郊外、先年災害のために廃線となった高千穂鉄道と五ヶ瀬川に囲まれた丘陵にその跡が残っている。適当に目標を定めて南側の斜面を朝露に濡れた薮を掻き分けて登ったところ、10分ほどで舗装された道に出て拍子抜けした。この道は東の本東寺の門前から続いていて、本丸直下を抜けた先に駐車場があり行き止まりとなる。


 写真は松尾城本丸に建つ石碑。片方が土持氏についての記念碑。本丸周辺は公園として多少整備されたようで、道路はその時に作られたものかもしれない。城は、本丸を中心に尾根毎に郭が連なっていてかなりの広がりがある。本東寺とその東南の永田神社もひと続きだった丘陵上にあり、城と一体だったようにも見えるが詳細は不明。本丸周辺以外の郭では畑になっているところが幾つかあるが、他は薮が深くて道から分け入るのはかなり困難で全ては回らなかった。


 線路跡を挟んだ北の丘陵にも土塁や堀切を擁した郭が尾根に沿って残っている。尾根が細いので郭はそれほど広くないようだが、松尾城と同じくらいの高さがあるので、北側から攻める敵から松尾城を守るためので出城ではないかと想像する。ただしこちらは造成などで破壊が進んでいる上、まともに登れる道は全く無く城跡は深い薮になっている。写真は西側から眺めたもので、左の丘の上が出城、右の杉林が松尾城。

 松尾城は、秀吉の九州遠征以後も15年に亘って延岡の中心だったことから、この時代にかなり整備が進んだことが想像される。出城を含めてかなり城域は広く、急な斜面に囲まれた広めの郭が多数残っている。麓との比高が最大でも40mほどしかないので、山城というより平山城という感じだが、戦国時代後半から関ヶ原の戦い直後という時代の雰囲気を良く残した城跡ではないかと思う。

 松尾城の本丸へは、南西の国道端に看板は無いが整備された登り口があり5分ほどで辿り着ける。


松尾城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(延岡北部)をもとに作成しています。


松尾城周辺地図延岡城周辺地図(国土地理院)

<参考HP>
縣(延岡)の城郭 5.松尾城

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2007年5月11日

高等学校野球連盟

 野球留学は勧誘行為が問題/高野連会長、文科相と会談(四国新聞社)

 以前から高野連という組織が嫌いだった。集団責任の名のもとに出場停止という斧を振り回す。過信していて古くて片寄り、一方的にやり過ぎていることにいまだに気がついていない。

 マスコミが一斉に疑義を発した(今頃ではあっても)ことには、これで少しは変わるかと今でも希望を持っている。しかし問題となる憲章を抜本的に見直すことなく、運用で交そうとしているのであれば浅ましい限りだ。根本から見直すことができないのであれば、一日も早く組織を作り直す(あるいは廃止する)べきと思う。

<参考>
 日本学生野球憲章

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2007年5月10日

ブログの紹介を読んで買った本2冊

国際紛争原書 第6版
理論と歴史
ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 著/田中明彦・村田晃嗣 訳
ISBN978-4-641-17330-9
有斐閣 2007.4

 一冊目は、雪斎の随想録で紹介されていた一冊。エントリーの題名そのもの「国際政治学の教科書」とのことで、そこで筆頭に紹介されていた一冊。サブタイトルに歴史とはあるが範囲は第一次大戦以降。時間を見つけて勉強してみようかと・・・

 


新潮新書 205
新聞社
破綻したビジネスモデル
河内孝 著
ISBN978-4-10-610205-9
新潮社 2007.3

 もう一冊は、ガ島通信に書評が載った一冊。ブログの主自身も元新聞記者だが、本書の著者は元毎日新聞社の元役員とのこと。役員経験者による新聞社批判は珍しいらしい。新聞マスコミ系はそこそこ関心ありなので早速読んでみるつもり。

 


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2007年5月 9日

岡城

 連休の旅、宮崎に入るに先立って是非とも立ち寄りたかったのが大分県竹田市に残る岡城。自分には総石垣の山城として日本有数というイメージがあるのだが、三大山城(奈良県の高取城、岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城)の中には名前が無い。この3城はいずれも未訪なので比べられないが、今年2月に登った兵庫県の竹田城を上回る雄大なスケールの山城だった。

 岡城は、戦国時代には豊後大友氏の家臣志賀氏が治めた城で、九州統一を目指して豊後に攻め込んだ島津義弘率いる薩摩軍を、時の城主志賀親次が撃退したことで知られている。近代の岡城は、賎ヶ岳の戦いで羽柴秀吉方として討死した中川清秀の息子秀成が1594年に入城してから始まる。以後彼の子孫が幕末まで代々城主を務め、順次整備が進められて今日に残る総石垣の城となったという


 城は城下町から近くて大手門直下まで車で行けることもあり、開けた所にある平山城のようなイメージがあった。写真は町に一番近い郭から町の方を撮ったものだが、木々に覆われてかろうじて高い建物が見えるだけ。周囲を稲葉川と白滝川が造る深い谷に囲まれて、山深い山城そのものの趣きだ。


 駐車場から5分も坂道を登れば大手門で、さらに数分で本丸に辿り着ける。手軽に壮大な山城を楽しめる。写真は、岡城の代表的なアングルで撮った三の丸の高石垣。


 写真は、西中仕切跡と言われる城の中心部分の西側の入り口にあたる石垣。岡城といえば秋の紅葉も見事だそうだが、写真に写っているのもほとんどが楓の木。新緑でも十分に奇麗だった。

 本丸周辺だけを回るのであれば30分もあれば十分見て回れるが、1時間以上かけて東西に広がる郭も見て歩いた。東には下原門跡という高い石垣が残る搦手門があり、西には江戸時代にたびたび造営が行われたという広大な西の丸がある。


 写真は西の丸の北側、家老屋敷跡と伝わるところで行われている復元工事。短い柱を並べているように見えるが、屋敷全体の復元ではなくて柱位置を復元する方式なのだろうか。

 岡城は、高石垣は写真で見たイメージどおりだったが、緑に包まれた純然たる山城であること、空間的な広がりの大きさは予想以上だった。三大山城はこの上を行くということなのだろう。唯一畿内にある高取城は遠からず攻略せねばなるまい。



岡城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(竹田)をもとに作成しています。

岡城と竹田市街周辺地図(国土地理院)


<参考資料>
岡城跡と城下町竹田 歴史の道(竹田市)
裂帛 島津戦記(学研)

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2007年5月 7日

(書評)戦国 三好一族

MC新書 014
戦国 三好一族
天下に号令した戦国大名
今谷明 著
ISBN978-4-9784862481351
洋泉社 2007.4

 本書は、徳島県の山間部に本拠を持っていた三好氏が、応仁の乱以後、主家の細川氏に内訌が続く中で畿内へ進出し、一時は将軍をも凌ぐ実力を持つに至ったがやがて衰退、織田信長によって滅ぼされたという歴史を描いている。15世紀の終わり頃から活躍した三好之長、その孫元長、元長の子長慶の三代の話となっているが、中でも将軍を追放して5年に渡って畿内の実権を掌握した長慶が中心で、本文の半分が割かれている。

 また、本書は1985年に新人物往来社から○○一族シリーズの一冊として出版されたもで、既に絶版になっていたものの人気が高く再刊になったものとのこと。あとがきに「手直しすべき箇所は多いのであるが・・・明白な誤りを除き修正の手はつけないことにした。」とあり、この間市町村合併によって大きく変わった現代の地名に全面的に修正が加えられているが、内容の変更はないものと思われる。

 一族シリーズの一書としてみた場合、歴代の資料を地道に積み上げるものが多い中で、本書は一次資料に立脚しながらその解釈、解説に字数を割き、単なる解説書以上の面白い内容になっていると思う。ともすると織田信長に負ける役割を演じた者というイメージを持ってしまうのだが、ただの前座ではないという。将軍を追放した上での権力の掌握や有力武将を配しての分国支配、畿内に根強く残っていた荘園制の解体など、先駆者としての役割は小さくないという。これらは、自分に長慶のイメージの変更を迫るものとなる。

 その他の点では、弟の長頼の方が活躍したとして松永久秀のイメージが過剰であるという指摘。独立自治の都市といわれる堺について、その交易都市としての興隆と三好氏との深い関係なども興味深い話だった。


 上に書いた様にあとがきに「手直しすべき箇所」と書き残していて、筆者的に本書は不十分であるという。どのような手直しが必要になっているのか興味を惹く。筆者は室町、戦国期の中央政権を中心とした一般書を何冊か出されているので、機会があれば当ってみたいと思う。また、本書のおかげで畿内の戦国時代のイメージが膨らんだ。今後山城歩きをする上での楽しみが増えたことになる。

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2007年5月 6日

春真っ盛りの九州

 5月の連休に九州を回るのは今回で3度目。今回は、九州の野山の美しさがことのほか印象に残った。以前と回った場所が違うからというのではなく、気候のせいか、気分の問題か。

 桜こそ遅咲きの山桜が少し残っているだけだが、道端のツツジはまだ花盛りで、あちこちで紫色の花をつけた藤を見かけた。山の中を走っていると、車窓に見惚れてハンドルを切るのを忘れそうになることしばしば。


 これは飫肥の郊外の田んぼで見かけた蓮華草。田の主人によれば盛りは過ぎたというが、まだ蜜蜂が巡回していた。


 春は木々も奇麗となんどか書いたが、九州の山々は萌黄色に染まって盛春只中。甲信越地方の山間だと5月中下旬の風景というイメージがある。この写真では雰囲気はあまり伝わらないなと思うのだが、これは薄オレンジ色の花が一斉に咲いている椎木(たぶん・・・)。新緑の中に椎木が混っているのは見かけるが、これだけ纏まると壮観だった。


 これは紅葉で有名な豊後竹田、岡城の楓。楓は種類や時期により葉の色も随分と変わって見える。今の時期に日に透かして見える薄緑色は特に気に入っている。


 最後は、飫肥城の北東にある八幡神社の御神木、樹齢数百年という楠。楠の大木は良く御神木になっているが、これは胴回りや枝振りなどかなり立派な部類と思う。楠もまた新緑が奇麗で自分の好きな木のひとつ。

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2007年5月 5日

日向縦走

 連休を利用して九州を回ってきた。今年の流行りを追ってという意図はとくになく、九州の中で最も縁遠かった宮崎を重点に、大分から鹿児島まで車でを縦走した。宮崎県下ではほぼ必然的に城巡りになり、歴史博物館や神社、特定の人物の墓参りが附随した。

 昨日は小雨混じり、今日は大雨と後半の天気は今一つだったが、前半は夏の様な陽射しに照らされて随分日焼けしたように思う。

 個別の報告は追々として、まずは戦利品のリストを残しておく。


岡城跡と城下町竹田
歴史の道
 大分県竹田市

 

佐土原町の文化財
 佐土原町教育委員会

 

高鍋町の文化財第二集
高鍋城
 高鍋町教育委員会

 

西都原古墳群
探訪ガイド
 宮崎県立西都原考古博物館

 

城下町 飫肥ガイド
---九州の小京都---
 日南市観光協会

 

飫肥藩伊東家五万一千石の城下町
飫肥歴史紀行
 飫肥城下町保存会

 


 ここまでは、資料館、博物館で売っていた冊子。

母子節
門川一族物語
永迫弘毅 著
ISBN978-4-86061-217-7
鉱脈社 2007.3

 戦国末期から江戸初期にかけて、日向伊東家の支族、門川一族が歴史の波に翻弄されていくという小説であるようだ。既に亡くなられた著者の遺作であるという。地方出版社系の歴史モノなので小説としての善し悪しはあまり問う気はない。

 宮崎と鹿児島で地元出版社系戦国時代モノを探したのだが、意に沿ったのはこの一冊のみ。古本や版元在庫を当ればもっと出てくるのだろうが、そこまでする気はなく本屋で見つかればというところ。鹿児島中央駅の本屋の郷土本コーナーに戦国島津関係の本が一冊も無かったのはいささかショックではあった。

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2007年5月 1日

1990年中国紀行 <大同>

 国慶節記念日まで北京に滞在した後、列車で1日移動して大同に入った。五胡十六国時代後半、4世紀の終わりから100年近く北魏が都を置いた街。


 大同観光といえばまず西の郊外にある雲崗石窟。北魏が都を置いた頃に作られたものとされ、顔立や衣装にまだ中国化しきっていない雰囲気が残るのが見ていて面白い。


 これは大同市内に残る九竜壁。北京に二つある同様のものと並べて三九竜壁というそうだが、北京の北海公園に残るものより立派だったのを覚えている。明の時代のもの。


 大同市内の寺というと華厳寺の方が名所のようだが、これは善化寺。たまたまテレビ時代劇の撮影に出くわした。どんなドラマなのかは残念ながら不明。


  →Google Map大同市街雲崗石窟周辺
 雲崗石窟周辺は残念ながら解像度が低く、正確な場所は良く分からない。

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