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2007年5月24日

高鍋城と財部城

 高鍋城は、高鍋町市街の西端に舞鶴公園と名乗る標高73mの小山にその跡が残っている。海岸に向かって張り出した台地の南東端を堀切で区切った山城と思われる。地図を開いてみると、先に訪ねた高城城下を流れる小丸川の下流右岸にあたり、宮崎平野へ北から侵入する敵を両方の城で押さえるという機能が想定できる。

 戦国時代には、伊東氏の持ち城の時代が120年続いた後、高城、都於郡城とともに薩摩の島津氏の城となった。豊臣秀吉による九州遠征の結果、筑前から移された秋月氏の領地になったのはその10年後、1587年のこと。秋月氏の領地は、高鍋周辺と宮崎県最南端の串間周辺に二分されていて、当初は櫛間城が拠点であったという。1604年から高鍋城が居城となったが、本格的に城の整備が行われたのは、それまで財部城と呼ばれていたのを高鍋城と改めた17世紀後半のことであるという。


 舞鶴公園の東の入り口に残る石垣。この階段の上に門があってその先が二の丸だった。さらに階段を上ると本丸で、そこには政庁や御殿が建てられていたとされ、その平面図を記した案内板が立てられている。本丸はこの山城の中腹で、まだ山頂に向かっていくつか郭が続いているが、資料にはそれらを纏めて詰の丸であるとしている。


 本丸の一つ上の郭は本丸の半分ほどの広がりがあり、写真のような石垣が残っている。この石垣の上には三層の櫓が載っていたという。山頂はさらにその上で小さな郭がいくつか残っているが、江戸時代にはこの空間はどうなっていたのだろう。山頂は、麓から70m近い高さがあるが木々に覆われていて眺望は効かなかった。

 二の丸の東、現在高校になっているところは江戸時代には三の丸だったとのこと。まだ財部城と呼ばれていた時代はどのような山城であったのか定かではないが、高城と並び立つ城であったのなら二の丸から上だけの山城だったのではと想像できる。その時の中心は今の本丸よりは上の郭だったのではないだろうか。

 さほど大きな山城ではないと思うのだが、延岡城に比べるとあまり要塞化されることなく、山の一部のみが石垣で整備されたように見受ける。石高が3万石と小さかったためか、あるいは時代か政治の要請によって大規模な築城を必要としなかったということだろうか。


高鍋城周辺図。
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(高鍋)をもとに作成しています。


高鍋城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
高鍋町の文化財第二集 高鍋城(高鍋町教育委員会)

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