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2007年5月17日

都於郡城

 高城からさらに南へ下る。次の目標は西都市の南郊にある都於郡城跡。この城は、三財川の東に広がる丘陵の西端、少し高くなった部分を利用して築かれた城で、戦国時代、日向の国一円に覇を唱えた伊東氏が1577年に薩摩の島津氏によって逐われるまで居城としていた。

 小説にしろゲームにしろ、伊東氏は島津氏のやられ役で、一度は日向を統一するかという勢いを示しながら、名族であるが故に怠惰に流れて攻勢に出た島津にあっさりと敗れ去った。ついついそういう目で見てしまう。だから都於郡城はたいした城ではないだろうと思っていた。

 ところが城跡に立ったときの感想は全く反対だった。今に残る縄張りこそシンプルだが、全体で東西300m、南北200mという広がりを持ち、ひとつひとつの郭が広い。そして郭の間は場所によって高さ10mになる深い堀切が巡っている。伊東氏に対する偏見を捨ててその歴史を見直さなくてはと思い至ったしだい。


 城跡は発掘調査の上、史跡公園として整備されたようで、各郭は芝生で覆われて所々に案内板が立ち、本丸には全体を描いた碑が置かれている。右側上から「奥ノ城」と「本丸」、中央が「二ノ丸」、左側が「三ノ丸」と「西ノ城」。

 城というと本丸を中心に支郭が放射状や同心円状に広がるのが一般的と思うのだが、都於郡城はこの図のように比較的独立性の高い郭が並び立つように集まっている。このパターンは、南九州ではよく見られるものらしい。


 本丸と二ノ丸の間の堀切。深く掘り下げ、さらに両側の郭に高い土塁を積み上げているので防御力はかなり高そう。


 これが二ノ丸の東側全体に連なる幅数mの土塁。高さは2mを超える。


 西側は標高差100m近い斜面で勾配はかなり急に見える。黄昏れの中、眼下に三財川が流れる。

 下の地図でもわかるように、西や北側は崖になっているが、東南はほぼフラットのまま道が続いている。案内図のとおりだと、東側から攻めてきた敵から本丸が直接攻撃を受けてしまう。東側にも深い堀切や高い土塁があってもよいと思うのだが、実際はどうだったろう。



都於郡城位置図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(岩崎、佐土原)をもとに作成しています。

都於郡城周辺地図(国土地理院)

<参考資料>
裂帛 島津戦記(学研)

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