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2007年5月15日

高城と高城川の戦い

 高城の名を持つ城はいくつもあるが、日向縦走中に寄ったのは、木城町の中心にあって南北を川に挟まれた細長い丘の先端を利用して作られた山城。丘の西の付け根から尾根に沿って道があり、本丸跡まで車で入れる。その尾根を堀切で区切った城は、東西200m、南北100mほどの本丸を数段の帯郭が取り巻くだけの比較的小規模で単純なもの。山麓からの比高も50mほどしかないが、斜面は急なので簡単に攻め落とせたというわけではなかったらしい。

 実際にこの城は二度大軍の攻撃を退けている。1577年に伊東氏からこの城を奪った薩摩の島津氏だが、翌年には豊後の大友氏に攻められている。切原川の北東の台地に陣を敷いた大友軍だが、激戦の末応援に駆け付けた島津軍に敗れて撤退した。この戦いは高城川の戦いと呼ばれ、大友氏衰退の端緒になったといわれている。

 10年後の1587年には、豊臣秀吉の弟秀長率いる大軍に囲まれたが、島津氏が秀吉の前に降服するまで落城しなかった。


 公園として整備された本丸跡の写真。右手に櫓風の展望台が建つ。


 その展望台から南側を見ると、右から左へ流れる小丸川(高城川とも)が西日に輝いて見えた。島津の援軍は、家並の向こうに見える台地に陣を敷いたという。
 

 蘆に覆われた切原川(谷瀬戸川とも)から下流を眺めたところ。右の丘が高城、左の台地に大友軍が陣を構えた。


 大友軍はその台地の上に数カ所の砦(陣城)を築いたとされ、松山陣とよばれる所には明瞭な遺構が残っているとのことだが、残念ながら薮の中で確認できなかった。写真は、その北にある宗麟原供養塔。案内板によれば、1585年に高城城主山田有信によって双方の戦死者を供養する為に建てられたとのこと。


高城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(石河内、妻)をもとに作成しています。

高城周辺地図(国土地理院)

<参考資料>
裂帛 島津戦記(学研)

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