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2007年5月12日

延岡城と松尾城

 連休の旅は海岸沿いを北から宮崎へ入ったので、最初の城攻めは必然的に延岡となった。延岡は、江戸時代に宮崎県北部一帯を領した延岡藩7万石の城下町。今も市役所の西に立派な高石垣を擁する平山城跡が残る。


 写真は新緑に包まれて聳えるその高石垣。この上に二の丸、本丸がある。城の縄張りはわりと単純だが城域はそれなりに広く、また本丸までは比高約50mほどで、一回りすると丁度良い準備運動になった。


 最近は、あちこちの城で木造で遺構を復元したものを見かけるが、これもそのひとつで93年に復元された北大手門。門の向こうに高石垣が見える。


 延岡(縣)は古くから土持氏が領主として勢力を築いてきた。しかし戦国末期には、豊後の大友が勢力を延ばし、次いで大友氏を破った薩摩の島津氏の領土となり、最終的には豊臣秀吉の九州遠征の結果、1587年に高橋元種が領主となった。近代延岡城は彼の手によるもので、1601年に築城が始まったという。それ以前には、土持氏の時代から松尾城が延岡の中心だった。

 松尾城は、延岡の西郊外、先年災害のために廃線となった高千穂鉄道と五ヶ瀬川に囲まれた丘陵にその跡が残っている。適当に目標を定めて南側の斜面を朝露に濡れた薮を掻き分けて登ったところ、10分ほどで舗装された道に出て拍子抜けした。この道は東の本東寺の門前から続いていて、本丸直下を抜けた先に駐車場があり行き止まりとなる。


 写真は松尾城本丸に建つ石碑。片方が土持氏についての記念碑。本丸周辺は公園として多少整備されたようで、道路はその時に作られたものかもしれない。城は、本丸を中心に尾根毎に郭が連なっていてかなりの広がりがある。本東寺とその東南の永田神社もひと続きだった丘陵上にあり、城と一体だったようにも見えるが詳細は不明。本丸周辺以外の郭では畑になっているところが幾つかあるが、他は薮が深くて道から分け入るのはかなり困難で全ては回らなかった。


 線路跡を挟んだ北の丘陵にも土塁や堀切を擁した郭が尾根に沿って残っている。尾根が細いので郭はそれほど広くないようだが、松尾城と同じくらいの高さがあるので、北側から攻める敵から松尾城を守るためので出城ではないかと想像する。ただしこちらは造成などで破壊が進んでいる上、まともに登れる道は全く無く城跡は深い薮になっている。写真は西側から眺めたもので、左の丘の上が出城、右の杉林が松尾城。

 松尾城は、秀吉の九州遠征以後も15年に亘って延岡の中心だったことから、この時代にかなり整備が進んだことが想像される。出城を含めてかなり城域は広く、急な斜面に囲まれた広めの郭が多数残っている。麓との比高が最大でも40mほどしかないので、山城というより平山城という感じだが、戦国時代後半から関ヶ原の戦い直後という時代の雰囲気を良く残した城跡ではないかと思う。

 松尾城の本丸へは、南西の国道端に看板は無いが整備された登り口があり5分ほどで辿り着ける。


松尾城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(延岡北部)をもとに作成しています。


松尾城周辺地図延岡城周辺地図(国土地理院)

<参考HP>
縣(延岡)の城郭 5.松尾城

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