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2007年6月30日

(書評)琉球の王権とグスク

日本史リブレット 42
琉球の王権とグスク
安里 進 著
ISBN978-4-634-54420-8
山川出版社 2006.12

 考古学の成果と文献資料を基に琉球における王権の確立について論考したもの。中心は浦添グスクとそれに隣接した王陵浦添ようどれで、グスクと王陵の形態の変遷から王権の確立を推測している。また、英祖王の実在性について考古学の成果を中心に間接的ながら説明している。

 琉球の歴史については、島津侵攻以前、とくに第二尚氏王朝全盛期頃に興味がある。とはいえときどき思いつきで読みかじっているだけなので、問題の所在を押さえいるわけではない。その前提で読んでみて、本書はグスクと王陵の形態論に絞っていて、論証としては限定的になるのかもしれないが、100頁という限られたスペースの中で良く纏まっているように思う。また、浦添について、首里に遷る前の都であることの歴史的意義が理解できる。

 沖縄には99年に行って以来なので、沖縄在住の友人にはすっかりご無沙汰してしまっている。そろそろ再訪を企画したいところだが、その折にグスクはぜひいくつか廻ってみたい。その中には浦添も入るわけだが、復元された浦添ようどれは特に見てみたいと思う。


浦添ようどれ(Google Map)

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2007年6月29日

内陸アジア史研究

内陸アジア史研究
第22号 2007年3月
ISSN 0911-8993
内陸アジア史学会 2007.3

 今年は論文盛りだくさんとの前振りを聞いていた内陸アジア史研究の今年号がようやく届いた。確かに例年よりも分厚く、論文が5本、書評3本などが掲載されている。

 自分の趣味範囲でいえば、論文では舩田さんのもの以外は時代的にちょっと新しい。

 書評3本のうち、1本目が白石先生の『チンギス・カン---“蒼き狼”の実像』『チンギス=カンの考古学』『モンゴル帝国史の考古学的研究』の3冊を対象としたもの。前2冊は既読なのだが、3冊目は値段的がネックでまだに躊躇している。さてどうしたものか。いつも書評と称して読書感想文を書いているが、人様の書評を読むことはそれほど多くない。穴沢氏の書評のごとくここまで踏み込んで書くものかと関心している。

 目次は内陸アジア史学会のHPを。

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2007年6月27日

(書評)スキタイと匈奴 遊牧の文明

興亡の世界史02
スキタイと匈奴 遊牧の文明
林俊雄 著
ISBN978-4-06-280702-9
講談社 2007.6

 

 本書は、騎馬遊牧民の起源と、スキタイと匈奴という古代ユーラシアの東西に初めて展開した騎馬遊牧民の歴史について解説したもの。著者の古代草原の歴史ものという点では、2000年に出版された中央ユーラシア史(新版世界各国史4 /山川出版社)の第一章草原世界の展開を発展させた内容になっている。近年著者が継続されているモンゴル高原での古墳発掘をはじめとする近年の考古学の成果や、東西の文献の紹介とその検証を加えて、遊牧騎馬民が古代史において大きな勢力に発展して行く歴史を総合的にあつかったものとなっている。


 スキタイについては、発掘された古墳の比較、動物文様についてギリシャなどの影響を含めた文様の変遷を詳しく紹介されている。さらにギリシャやメソポタミアでの記録、ヘロドトスなどが書き残した起源神話の比較検討などによって、著者が前著から展開されているスキタイの東方起源説を補強するものになっている。

 匈奴については、司馬遷の史記と班固の漢書をベースにあまり穿った見方をせずに編年史として解説している。さらに考古学の成果が加え、匈奴の王墓、匈奴勢力圏内における定住遺跡、かつて李陵の館として紹介されていたが実は李陵とは関係ないことなども解説している。


 本書で展開されている内容の中では、スキタイの起源の問題のほか、騎馬遊牧という形態の起源が農耕などに比べて新しくせいぜい3000年前ということ、匈奴の勢力下での漢族の活躍などが特に記憶に残った。また、フンについて一章を設けて簡単に歴史を紹介しているが、匈奴との関係については、340頁で

 天山、カザフスタンあたりに本拠を置く遊牧民集団が、かなり短期間のうちにカスピ海から黒海北岸にまで進出したということは推測されるが、それ以前にモンゴル高原と関係があったかどうかについて言及するには、まだ証拠が不十分と言わざるを得ない。
 と書かれていて、前著からの慎重な立場を崩していない。

 本書には、定住地域で書かれた文献を逆読みして新しい視点を展開したり、少ない発掘成果から仮説を広げるような奇異さはない。その意味では最近の草原ものの一般書としては相対的に穏やかな内容だが、東西の文献を広く用い、なによりも考古学についての詳しい解説があり、単純に入門書というよりも内容の広がりを楽しめるのではないかと思う。

 自分にとっては特に前著の内容が既に忘却の彼方だったこともあり、馴染みの薄いスキタイの部分はかなり興味深く読めたが、触れる機会の多い匈奴の歴史についてはやや退屈に見えてしまうのはやむを得ない。匈奴とフンの関係については、今の自分には一番支持できる結論である。


 以下に本書の目次を転載。来月の配本はケルトの水脈。少し興味を惹かれるもののとりあえず買わないつもり。

第一章 騎馬遊牧民の誕生
第二章 スキタイの起源
第三章 動物文様と黄金の美術
第四章 草原の古墳時代
第五章 モンゴル高原の新興勢力
第六章 司馬遷の描く匈奴像
第七章 匈奴の衰退と分裂
第八章 考古学からみた匈奴時代
第九章 フン族は匈奴の後裔か?

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2007年6月26日

大坂・近畿の城と町

懐徳堂ライブラリー7
大坂・近畿の城と町
懐徳堂記念会 編
ISBN978-4-7576-0415-5
和泉書院 2007.5

 中世大坂を中心として、城、城下町、寺内町などについての解説本。はじめにによれば、2001年に行われた懐徳堂春季講座における4人の研究者によるリレー講座から、講演内容に筆を加えたものとのこと。第一章で摂津、河内、和泉の山城の内、未踏である滝山城、根福寺城、山下城、余野本城、千早赤坂城塞群の図面と解説が載っていたので、読み物としても面白そうだがとりあえず資料として購入。芥川山城、飯盛山城の解説もある。目次および著者は以下のとおり。

第一章 摂河泉の中世城郭
 村田修三
第二章 寺内町と城下町---戦国社会の達成と継承---
 仁木宏
第三章 江戸時代の大坂城---どのようにして城は維持されたのか---
 村田路人
第四章 大坂城と城下町大坂---豊臣から徳川へ---
 北川央

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2007年6月25日

歴史読本 2007年8月号

歴史読本 2007年8月号
書き換えられた戦国合戦の謎
雑誌09617-8
審人物往来社 2007.8

 桐野さんより拝領の一冊。お礼を申し上げます。

 今号の特集は、ここ10年の戦国合戦史の研究動向を纏めたもの。しかも扱っているのが、伊達政宗、最上義光、北条氏康、佐竹義重、上杉謙信、武田信玄、朝倉義景、尼子経久、毛利元就、長宗我部元親、竜造寺隆信、島津義弘。さらに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とメジャーどこをずらっと並べている。情報の深さに限度があるとはいえ、戦国史研究の動向はろか最新著書を漁る余裕も無くなってきた昨今、大変有り難い特集だ。

 また、桐野さんの明智光秀の書状についての一文があるほか、別冊として和田裕弘氏との共著「信長記」の大研究が付いている。信長公記の奥行きの深さは全く知らなかった。

 とりあえず、息抜きに有り難く読ませていただきます。

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2007年6月24日

新 シルクロード 第4集

 第4集のサブタイトル荒野に響く声 祖国へ。4集目も変わりがないので、くどくなるが最初に今日の放送の中でのシルクロードという言葉の扱いについて書く。以下は、題字が出る前の最初のナレーション。

 一本の道に100を超える民族が生きるシルクロード草原の道
 その道で祖国を激しく求める声を聞きました
 70年に及んだソビエト連邦の時代、ここは祖国を追われ逃げ惑った人々が通った、失意と悲しみの道でした
 ソビエトが崩壊し国境線が一変してからも、道に生きる人々の問いかけが続いています
 (以下略)

 ここでは、道という言葉を無理に使っているが、かつてシルクロードが通ったカザフ草原とか、面として解釈した方がまだ分かりやすい。100という数がどこまでを数えているかなどはもう問うまい。時代もコサックの話以外はスターリンの頃までしか遡らないので、歴史的なニュアンスのあるシルクロードという言葉に対応していないのは今回も変わらなかった。以下の感想はソ連崩壊後のカザフ、南ロシアにおいて「祖国とはなにか」をテーマとした番組に対してのもの。


 南ロシアやカザフスタンは、自分にとっては中央アジア周辺でとくに情報が少なく知らないことだらけ。その意味では、シルクロードでなくて現地ルポで有効な情報があればそれはそれでかまわない。しかし見ているとどうも疑問ばかりでてくる。

 いきなり細かい話だが最初のカザフのどこかのシーンで、「草原とは名ばかりの荒野」というアナウンスが入いり、以下カザフスタンでは荒野の言葉で通し、ロシアに入ると「風景は荒野から草原へ」変わったという。草原といえども夏以外は草が青々と茂っているわけはなく、馬が駆けるシーンを見る限り枯れ草とはいえ十分に草が生えていた。春先の取材なのだろうか、草が枯れていたからといって荒野と言い通すのはどうかと思う。


 最初は、スターリン時代に中国に亡命したカザフ人の子孫が故郷に戻るという話。地図が間違いなのかアナウンスが間違いなのか地理的な関係はかなり怪しい。加えて同じスターリン時代のこととはいえ、遊牧民の定住化と強制移住がごちゃ混ぜに語られているのはどうも納得いかない。

 朝鮮人、チェチェン人が登場したあと、カザフスタンを後にした取材班はロシアに入ったという。次に登場したのが南ロシアで場所不明のチェチェン人の村。朝鮮人とチェチェン人の開拓村があるという、カザフ東南部、セミレチエ地方のウストゥベからは直線距離でも2500km以上。本当に道を走っていったのだろうか。

 ここでもいろんな人々が登場する、チェチェン人トルコ人コーカサスの民。併記するにはレベルがおかしい。トルコ人とはトルコ系(アゼルバイジャン人とか)なのかトルコ国のトルコ人か。コーカサスこそ多民族の代名詞のようなところだが、チェチェン以外いっしょくたんでいいのか。


 次に「19世紀初頭、ナポレオンと帝政ロシアが激戦を繰り広げた」というドン川が登場し、「帝政ロシアの古都」という街が登場する。ナポレオンは自分には興味の外でほとんど知識がないのだが、ドン川流域も戦場になったのか。それから見ていて不思議だったのは、番組の後半には地図が出ず、街の名前も紹介されず、南ロシアのどこかという以外に見当がつかないこと。

 そのどこかの街では極右化が進行中とのことでコサックが登場し、そのコサックのことをロシア帝国時代には「領土を拡大する直属の部隊だった」と紹介している。領土拡大に貢献したのは知っているが、彼らを直属部隊と言っていいのかはよくわからない。

 南ロシアにおけるナショナリズムの高まりとして、「コサック総数300万人」「コサックの民兵1万人」「チェチェンで戦死したコサック100人」という数字がでてくる。ほかに比較できる数字が紹介されていないので、なんとも微妙な数字だ。極右過激派というのはどこにでもいるが、かくも強調する必要があったのかどうか全くわからない。


 最後に。松井さんが第3集を見られて、ブログ

 インタビュー+ヒアリング主体,観光客がビデオ撮影したのかというような内容.
と書かれている。テーマ設定で旧ソ連の今を世に問おうという姿勢は見えるのだが、今回も松井さんが言われるような作りのまま。刺激的なテーマなのに考証はアバウト、バランスがとれているかどうか不明なのが怖くて内容をそのまま受け取れない。どうも最近のニュース番組に多い不必要なインタビューを多用したインタビュー至上主義がそのまま現れていて、社会的な背景の考証不足はいかんともしがたい。見終わっての不快感は、テーマが刺激的な分前回以上だった。


<参考>
コルガス、カザフ中国国境(南北に流れるコルガス川が国境)、セミレチエ北部、ウストゥベ周辺ドン川河口(Google Map)

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2007年6月23日

堺散策

 日本の戦国時代、織田信長や三好一族などの話につきものの泉州堺。自分にとっては古くは松本幸四郎(当時は市川染五郎)が主演した大河ドラマ黄金の日々以来馴染みの街だが、今まで通り過ぎるばかりの街だった。戦国 三好一族を読んだ後の思い入れが強い内にということででかけてきた。

 話には聞いていいたのだが、堺の街には往時を思わせるものはほとんど残っていなかった。街の歴史を紐解けば新しくそして深刻に第二次世界大戦の戦災の影響があり、古くは大坂の陣の兵火もあった。その為こと戦国時代に限れば、墓参りと跡地探しになるのはやむを得ない。往時の風景は、足で稼いだ現代イメージに上に想像で重ねることにしよう。


 一カ所目は、堺幕府の中心人物であって一向一揆に囲まれる中で最期を遂げた三好元長の墓。場所は彼が堺の拠点にしていたという顕本寺境内。ただし、顕本寺自体戦災の度に再建を繰り返している上に、往時は開口神社界隈にあったとのこと。また、墓碑の裏には「天文2年癸巳6月?日」と刻まれている。諸書を引けば元長の没年は天文元年とされている。この違いは、この墓碑が新しいことを示しているのか?


 顕本寺の次に南宗寺を訪れた。ここは、第二次大戦の影響が他よりは小さかったようで、戦前から残っているものが多いようだ。


 南宗寺はそもそも三好長慶造営に遡る寺で、写真は三好一族のものとされる墓。左から3基までは江戸時代のもので文字もはっきり読める。左から三好長運(天保4年没)、笹川長直(文化9年没)、三好孫太良(延享2年没)とある。次の墓は法名が確認できるが、そこから右の各墓の判読はちょっと厳しい。


 これは、伝徳川家康墓。とくに根拠とかは無いようで、数ある家康影武者伝説のひとつのようだ。傍には、1960年代に松下幸之助らが発起人となって建立したという、より大きな墓碑が建っている。


 南宗寺の隣にある本源院。案内によれば、薩摩島津家と所縁があり、織田信長、信忠親子の供養塔があるとのこと。残念ながら見学はできなず、供養塔の謂れも不明。



 最後は、街道沿いにぽつんと建つ小西行長屋敷跡の碑。解説があるほかは、想像を膨らませるしかない。


<参考地図>顕本寺開口神社南宗寺界隈小西行長屋敷跡(Google Map)

<参考>
戦国 三好一族(洋泉社)

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東北新幹線

 夢の疾走25年 東北新幹線の節目祝う(岩手日報)

 関西に越してからすっかり遠くなった東北だが、自分が且つて盛岡に暮らそうと考えたのも東北新幹線があったればこそ。まったく懐かしい限り。上野の地下駅から3時間以上かけて移動した時のことは、今でも鮮明に覚えている。

 盛岡は、昨年5月に行って以来。1年も経つと冷麺が恋しくなってくる。

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2007年6月22日

行ける所まで行ってみる

 今年のゴールウィーク宮崎遠征おまけ話。旅行にでかける時は基本的に詳細な予定は組まず、行き当たりばったりだが、今回の宮崎は事前に宿を全部押さえていたし、回りたい城のリストもあったりとわりと予定が固まっていた。それでも細部は決めてなかったので、そこはハプニングやら思いつきなどアドリブが効く所はいろいろあった。

 海沿いを走っていて大きく大洋に突き出した岬があって、時間に余裕があると行ける所まで行ってみたくなるのが心情。岬巡りという趣味を悪くないと思いながら、フットワークがそれほど良いわけではないので、機会に恵まれた時のみという具合。シラミを潰すように回っているわけでもない。

 宮崎というところは真ん中にドーンと日向灘という穏やかな海岸線が続いているので、名だたる岬は南北の端に限られる。


 北の代表が日向岬。今から思うと岬から海に向かって撮った写真てのは絵にならないものだ。ガイドブックとかが近くのもうすこし激しい地形の写真を使っている理由が分かる。


 日向岬の近くには、最近売り出し中らしいクルスの海というところがあり、駐車場とか展望台も完備している。日向市HPの写真のように波が穏やかでないと写真はいまいち。願い事が叶うものなのかどうか。十字形の地形にクルスと名付けるあたりは大友宗麟の影響なのか?
 →クルスの海(日向市)


 南の代表が都井岬。馬の話は先日書いたので灯台の写真。天気が悪かったので灯台しか映っていない。


 行ける所まで行く・・・というコンセプトは岬だけとは限らない。「この先○○」という看板に惹かれてついつい寄り道をすることもままある。


 大分県から海沿いを宮崎県に入ったあたりで、夕方まで少し時間が残っていたのでこの先展望台の看板に釣られた。しかし、看板から先が長かった。舗装されているとはいえ細い林道を15分以上。行き着いたところが陣が峰という所の展望台。写真だと高さがあまり感じられないが、標高430mある。30分ほど前にはこの海岸沿いの道を走っていたのだから、車にはかなり無理をさせた。


 予想していなかった風景に出会うという点ではこの写真。展望台近くの斜面に広がる茶畑。スケールが違うものの、思わずインドのダージリンを思い出した。なんか良いなあと思いしばらくぼーっと眺めていた。日本のダージリンで売り出せないかな。ダージリンみたいに美味しい紅茶が飲めるとなお良いが。


参考の地図:日向岬クルスの海都井岬灯台陣が峰の展望台茶畑(電子国土地図)

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2007年6月20日

(書評)現代中央アジア論

現代中央アジア論
変貌する政治・経済の深層
岩崎一郎・宇山智彦・小松久男編著
ISBN4-535-55318-1
日本評論社 2004.8

 

 現代中央アジア解説書としては、もう10年も前のよみがえるシルクロード国家(講談社)以来久しぶりに読んでみた。専門書はともかくとしても一般書やテレビニュースなどのレベルでは、中央アジアの情報は少なく、自分の中の中央アジアはいまだに旧世紀終わりの情報のままに近かった。

 本書は、11人の研究者によって分担執筆された現代中央アジアの事情をソ連時代からの経緯も含めて解かれた解説書である。地勢、歴史を概括した総論を小松氏が担当したほか、各章をそれぞれの著者が担当しているが、たんなる論文集合体ではなく内容の重複を避けたり相互にリンクを貼るなど一冊の本としての纏まりを持たせる作業はかなり行われている。


 少し興味がある程度で情報収集がままならない状態の自分にとって、今の中央アジアはわからないことだらけ。前に読んだ本以降ということでいえば、カザフスタンのロシア人とカザフ人の対立はどうなったのか、優等生といわれたクルグズでもなぜ大統領独裁に向かったのか、3ヶ国が国境を接するフェルガナ盆地の政情はどうか、内戦後終結後タジキスタンはどうなったのか、独自の道を歩むトルクメニスタンはどうなのかなどなど、あげれば疑問はいくらでも出てくる。

 本書はその疑問の全てに答えてくれるわけではない。ひとつには自分の興味が民族問題や政治的な問題に偏っているのに対し、本書が政治制度や経済全般など広範な問題を扱っていることによる。しかしながら、間接的なイメージを得ることができた部分も含めれば大雑把には答えを得ることができたと言えなくはない。具体的な細部にはあまり踏み込まず、5ヶ国の比較や概論を中心とした構成であって、教科書的内容といえると思うが参考文献が明示されているので、より深く掘り下げて行く手がかりは十分にある。自分にその余裕があるかといえば、かなり厳しのだが・・・


 5ヶ国の推移はそれぞれではあるが、急速に自由経済化を進めたカザフスタン、クルグズ、タジキスタンと社会主義体制を温存したウズベキスタン、トルクメニスタンに大別されるとのこと。前者が90年代に大きな浮き沈みを経たのに対して、後者はある程度それをおさえることができたという。また、前者がそれほど飛躍できたわけではなく、後者には停滞があり現状は複雑なようで問題山積であるこは同様であるようだ。

 ロシアほどではないにしろ、カザフスタンは豊富な石油資源があって他の4ヶ国に比べて有利な状況のようだが、資源所有のアンバランスさは今後の中央アジアを見て行く重要なキーワードの一つと思われる。また、それぞれの事情の結果として全ての国で大統領独裁体制が続いてきて、ある程度の安定と引き換えに民主化の停滞を招いているとのこと。本書出版後に2国で代替わりがなされたわけだが、この点で今後どう変化していくかも注目していきたい。


 本書は、300ページと主題からいえば決して厚くない中に要約して纏められているが、ページ数の割に読みでがあり読了までに随分と時間が必要だった。普段あまり関心がない分、経済、農業、鉱業や環境問題についての本書の指摘は大変参考になった。独立後の中央アジアの現状を知るための入門書として、多少苦労しても読んでみる価値は十分にあったと思う。細かい部分では自分の疑問に全て答えているわけではないが、さらに深く掘り下げていくための土台にはなっている。以下、目次を書き出しておく。


総論 中央アジアの眺望:歴史と地域

第1部 政治編 独立国家建設の試練
 第1章 ソ連時代の共和国政治:共産党体制と民族エリートの成長
 第2章 政治制度と政治体制:大統領制と権威主義
 第3章 民族と政治: 国家の「民族化」と変化する民族間関係
 第4章 宗教と政治:イスラーム復興と世俗主義の調和を求めて
 第5章 国際関係と安全保障:地域国際システムの形成と越境する脅威

第2部 経済編 計画から市場へ
 第6章 ソ連時代の共和国経済:計画経済体制下の中央アジア地域開発
 第7章 市場経済移行とマクロ経済実績:分極化するシステム
 第8章 農業改革:市場システムの形成の実際
 第9章 環境問題:「負の遺産」と市場経済化のはざまで
 第10章 世界経済への統合:扉を開く天然資源

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2007年6月19日

西夏三号陵 ほか

 ネットで見かけて注文した中国の新刊がまとめて届いた。

寧夏文物考古研究所叢刊之九
西夏三号陵
---地面遺跡発掘報告
寧夏文物考古研究所・銀川西夏陵区管理処 編著
ISBN978-7-03-017374-4
科学出版社 2007.6

 西夏時代の皇帝の陵墓の内、李元昊のものではないかと言われている3号陵(詳しくはHPの3号陵を参照)について、2000年から2001年にかけて四回に亘って行われた発掘調査の成果を纏めた報告書。大量の図版や写真が添えられハードカバーで500ページ超と百科事典なみな重さ。西夏語の碑文断片も収録されているが、まさに断片で残念ながら文章の体を成すものは無い。

 李元昊の陵墓と言われているのは有力な説というだけで、決定的な証拠はまだ見つかっていないのだが、この報告書も同様で従来の仮説に発掘資料から間接的な説明を追加しているのみ。

 

中華人民共和国
行政区劃簡册 2007
中華人民共和国民政部編集
ISBN978-7-5031-4352-6
中国地図出版社 2007.3

 中国でも県や市の合併が良くあるという話は以前にも書いたが、手元にある行政区劃簡册が2004年版だったので3年ぶりに買ってみた。比べてみるとそれほど大きな変化は無かった。地区から地級の市への昇格が1、無くなった県級の市が5、無くなった県が7といったところ。

 市に昇格したのは甘粛省の南部、それまで隴南地区と呼ばれていたところで、そのまま隴南市になった。隴南地区の中心は、三国志の時代に魏と蜀が争った場所のひとつ武都県。武都県はそのまま隴南市の中心武都区に変わったが、地図表記の習慣で地区の中心の場合は県の名前で書かれるが、市の中心の場合は市の名前で書かれるのが一般的なので、武都の名前はおおざっぱな地図からは消えるかもしれない。

 無くなった市の中に歴史に関係の深いところがひとつ。金の上京会寧府があった阿城市がハルピン市の中心部に吸収されて消滅した。

 地級、県級については以前のブログ(中国の地名と行政単位)を参照されたい。

 

全国 鉄路旅客列車時刻表
鉄道部運輸局供稿
ISBN978-7-113-07809-6
中国鉄道出版社 2007.4

 少し前にニュースになってブログ(時速200km)にも書いたが、中国に日本の新幹線の技術を移植した高速で走る電車が走り始めた。それを反映しと思しき時刻表が出たので思わず買ってしまった(使いもしないのに・・・)。

 中国の列車で一番早いのはこれまで特快列車だったが、新しい電車はそれよりも格上?の動車組列車というカテゴリーに纏められていた。これは電車特急とでも意訳すべきか?

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2007年6月18日

島津家墓参

 先月、宮崎を回った時に立ち寄った城跡は、先日紹介した飫肥と櫛間で全て案内し終わったのだが、城廻ばかりしていたわけでもないので、おまけをあと2回ほど。

 歴史の話を中心に旅行にでかけると城跡巡りや遺跡巡り、博物館・資料館巡りなどなどあるのだが、もうひとつ墓参りをすることもある。縁者でも知人でもないわけだが、よく知っている人物の墓前に立つと気が引き締り自然と頭が下がるとともに、当時のことを問いかけそうになってしまうのは、ちょっと思い入れが強すぎるかもしれない。

 今回は、戦国日向の島津氏というのがひとつのテーマだったので、立寄り先も島津氏関係にできるだけ絞った。以下、まだ紹介していない島津家の墓所について簡単に紹介しておく。



 これは、佐土原城の近くにある天昌寺跡にある通称前島津墓地。前島津とは、江戸時代の佐土原藩島津家に対して、戦国時代の佐土原城主で島津氏の九州制覇に活躍した島津家久。その息子で関ヶ原で討ち死にを遂げた豊久の親子を指している。現地の案内によれば、写真中央右に4つ並んだやや大きい墓石が、左から家久、豊久、家久の妻、家久の母のものであるという。
 →前島津墓地(電子国土地図)



 つぎは、飫肥に残る数少ない島津氏の足跡。豊州家島津氏で1500年頃飫肥城を中心に活躍した島津忠朝の墓。飫肥城外の安国寺跡とされる墓地の中にある。
 →安国寺跡(電子国土地図)


 宮崎で回ったのはこれに、先日紹介した佐土原藩島津家墓所の3カ所。次は、旅の最後に立ち寄った鹿児島市内にある島津宗家の墓所。


 島津家といえば、江戸時代にあっては加賀前田家に次ぐ石高を誇り、明治新政府の中でも強い影響力を持ち続けた。その島津宗家の墓所は、鹿児島駅近く、維新後の廃仏毀釈で廃寺となった福昌寺の跡にあって、広い敷地の中に歴史の教科書にも登場する名前が並ぶ。写真はそこに立つ案内板(クリックすると大きな写真が開きます)。


 その中でも自分にとっては戦国末期の島津氏が主役である。写真の奥から2番目、塔が沢山並ぶ区画の奥がその時の島津家当主義久の弟義弘の墓所。写真右手の区画が義弘の息子久保。写真には映っていないが、その右へ義弘の父貴久、義久と続く。
 →福昌寺跡(電子国土地図)



 最後に島津家とは関係のないおまけ。以前から地図の上で知っていて、近くに行ったら寄ってみようと思っていた後藤又兵衛基次の墓。後藤基次は、豊臣秀吉の軍師として名高い黒田孝高に仕え、後に出奔して大坂の陣に豊臣方として参戦、戦死を遂げたとされている。場所は、大分県中津市裏耶馬渓。大坂の陣に関わる落人伝説のひとつのようで、黒田氏が中津の領主だった時代の所縁の地であるという。
 →後藤又兵衛基次の墓(電子国土地図)

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2007年6月17日

新 シルクロード 第3集

 第3集のサブタイトルは、オアシスの道は険し。これまでの3作の中では、無難に纏まっていたなと思う。現在のキルギスとウズベキスタンの問題について、かなり教科書的にツボを押さえていたように見えるのは、たまたま今自分が読んでいる『現代中央アジア論(日本評論社)』が、番組に取材協力者として名前を連ねていた小松久男、宇山智彦両氏らが纏めたものであるからかもしれない。

 とくに、自由化を急速に進めたキルギスと社会主義体制を残しながら国づくりを行ったウズベキスタンという点。オシュの事件や(今夜の放送には出てないが)タジキスタン内戦などがあったとはいえ、中央アジアは他地域に比べれば民族の対立は穏やかだったという点は、上であげた本の内容のままとも思える。ただ、自分がそう感じるのは前知識があるからと思われ、番組の内容として無難なだけで説得力があったかどうかは疑問が残る。

 見ていて面白かった点が人々の顔立ち。最初にウズベク人として紹介された老人がコーカソイド色の強い顔だったのに、その後に登場した青年はキルギス人とどこが違うのだろうという顔だった。ロシア人と朝鮮人の混血の女性とか、綿摘みをする女性たちとかにコーカソイドとモンゴロイドの配分の微妙さは、中央アジアの多様性と歴史の複雑さという点で見て楽しめる部分である。


 第3集目にしてようやくイスラムがでてきた。久しぶりに聞くアザーンが美しく響く。ただ、上の本によれば中央アジアではイスラムはまだそれほど大きな力を持っていないという。そのとおりならば、よりイスラムの存在感が大きいコーカサスやアラビアを差し置いて、ここに出てきたのはアンバランスに映る。取り上げてしかるべきとは思うのだが。


 細かい疑問点を二つ。ひとつは最初に出てきたキルギスと中国の国境貿易について。90年代以降貿易が盛んになった点はよいとして、番組を見ていると中国側からの一方的な片貿易に見えてしまうのだが、実際にそんなはずはないと思う。キルギスからは何が中国に輸出されているのだろうか。

 もうひとつは、ブハラのところでこの街にも大きな変化が訪れているとしてユダヤ人が取り上げられている点。中央アジアからの人の移動で大きな流れは、ロシア人とドイツ人。また、ユダヤ人のイスラエル移住はイスラエルの政策による所が大きく、中央アジアに限らず旧ソ連全体の流れだったように思う。さらに、ユダヤ教徒とイスラム教徒の共存という点では、歴史的にみれば今のパレスティナが異常であって、共存の方がより普通だったように思う。この両方の点でここでユダヤ人を取り上げたことには疑問がつく。


 歴史的な趣味からみれば、古い話題でも1924年の国境確定くらいで、アレクサンドロスもティムールも、またサマルカンドも出てこないので語りようもない。

 また、第1集から問題視しているシルクロードという言葉がこのシリーズに必要なのかという点は、今日の放送でも解決されていない。むしろ、現代の国境貿易について無理にシルクロードとという言葉を持ち込んだために焦点がぼやけてしまっているように見える。また、サブタイトルにオアシスとあるが、何がどのようにオアシスの道なのかもさっぱり的を得ない。やはりこのシリーズは、ソビエト崩壊後の現在という形で描くべきと思う。


 次回第4集の放送は次の日曜、6月24日。

<おまけ>
番組で取り上げられたキルギス中国国境(Google Map)

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2007年6月16日

愛宕神社

 梅雨に入ったばかりではや中休みというこで、三週間ぶりに歩きにでかけた。行き先は山ではあるが山城ではなく神社だ。

 京都市西京区、嵐山の北西に聳える愛宕山の山頂にある愛宕神社は、由緒書によれば8世紀に遡るという全国愛宕神社の総本社とのこと。神社で見かけた案内には、坂上田村麻呂との縁があって戦の神様でもあるという。

 明智光秀が、本能寺の変の数日前に愛宕神社で連歌の会を行ったというエピソードは以前から知っていた。神社の所在について漠然と亀岡の郊外と思っていたが、山城と丹波の境に近い山の上にあることを知ったのはそれほど前のことではなかった。以来愛宕神社は、織田信長関係の場所として行ってみようと思っていた場所のひとつだ。


 愛宕神社は、標高924mの愛宕山の頂上にある。登り口となる清滝の標高がちょうど100mなので、標高差は800mを越える。いつ以来かは思い出せないくらい、久しぶりに本格的なトレッキングとなった。清滝へは嵐山からバスで10分。


 清滝川を越えると赤い一の鳥居がある。ここから神社まで約4km、所要2時間と案内されている。


 登り道は、長年の歴史によって山腹に深く刻まれていて、場所によっては石段が整備されているので、登山道というより長く険しい参道というイメージ。中盤くらいで尾根筋に出るが、コース全般に勾配がきつく尾根道にでても少し楽になる程度。その点でも参道だなと思う。

 かつては参拝客で賑わったとのこと。途中には山腹を削平して石垣を積んだところがあり、城跡を思わせるが明治初めまであった茶店や旅籠の跡という。写真はそんな場所のひとつで、今は楓が茂り小さな東屋が建つ。


 道は、中腹まで杉の植林地が続き杉の香りが漂い、途中からは楓、楠、樫などが葉を茂らせ、150年は軽く越えてそうな杉の大木にも出会える。そのかわりに眺望が効くところは限られている。写真は杉の木立越しにみた京都市街。


 一の鳥居から1時間半で本殿まで到着した。天気が良かったせいか、かなり沢山の人が神社を目指していた。明智光秀に習っておみくじを引いてみたら中吉だった。「時を待てば願い事が叶う」というがさてどのくらい待てば良いか。

 明智光秀が連歌の会を行ったのは、本殿から少し下、今社務所が建っているあたりという。

 清滝からの参道が今は、そしておそらくは昔からの表道と思うのだが、明智光秀がたどった道はこれとは別のルートだったという。当時光秀は、出陣を前に亀山城(今の亀岡)に入っていたので、山の西側の谷、水尾側から登ったとされている。そこで帰りはこの道を下ってみることにした。この道は、参道の途中水尾別れと言われるところから分岐している。

 道は、檜の若い植林地の斜面をひたすらに下って行く。下る分にはまだいいのだが、登りはかなり厳しいことと思う。こちらの方が格段に人通りは少なくなる。


 1時間近く下ると水尾の集落に出る。今日初めて知ったのだが、ここは清和天皇所縁の地で清和天皇陵も所在していた。伝説的には我が家の先祖も清和天皇なので、一応ご先祖さま参りということで陵を目指した。谷筋から100m近く上にあり意外と体力を消耗した。写真が山腹に立派な囲いが建つ清和天皇陵。


 明智光秀は、神社への行き帰りに水尾の谷からさらにひと山越えるルートを通ったとされ、その道は地図に明智越の文字を残している。今日の愛宕詣を企画した時は、さらにこの道を越えて亀山城でゴールと考えていたが、天皇陵の登り道で残りの体力を使い果たしたので、続きはまたの機会としてJRの保津峡駅を目指した。


 桐野作人さんが、南日本新聞で連載中の「さつま人国誌」の今日の分、知られざる猛将・島津家久(上)によれば、島津家久も上洛の際に愛宕神社に詣でているとのこと。この神社には、歴史上の有名人がほかにも参拝しているのだろうか。

愛宕神社周辺(Google Map)
中央やや上が本殿、下が社務所

参考地図一覧:清滝 一の鳥居愛宕神社水尾別れ清和天皇陵明智越(電子国土地図)

<参考>
俊英 明智光秀(学研)
京都 愛宕神社

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2007年6月15日

中国歴史紀年表 と 巍巍帝都

中国歴史紀年表(修訂本)
方詩銘 編著
ISBN978-7-208-06789-9
上海人民出版社 2007.3

 宣和堂さんのブログの紹介に惹かれて取り寄せた。五胡十六国や五代十国の各国はもとより柔然、高昌、南詔、大理まで載っている。柔然に元号があったのは知らなかった。中国史の年表としては東方年表を使ってるが、こと西夏に関して東方年表の内容は古い。西夏の元号は、宋史に列記されている以外は断片的な史料があるだけで、体系的に相互関係を記録したものがないため解釈が定まっていない。おかげで、西暦との対照は本によって、あるいは同じ本の中でもまちまちだったりする。この本は、わりと新しい学説に拠っているように見えるが問題が無いわけではない。この点はそのうちHPのコラムに纏めてみたい。

 

北京歴代建築
巍巍帝都
蕭黙 編著
ISBN978-7-302-12290-6
清華大学出版社 2006.6

 中国書店のカタログを見て注文した本がようやく届いた。周口店に始まり、燕の下都、金の中都、元の大都から明清の陵墓、万里の長城まで北京と周辺の建造物について、写真、図版、推定復元図まで豊富に載っていて、解説を読まなくても見ているだけで面白い。

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2007年6月14日

北魏胡族体制論

北海道大学大学院文学研究科 研究叢書
北魏胡族体制論
松下憲一 著
ISBN978-4-8329-6683-3
北海道大学出版会 2007.5

 關尾史郎のブログの記事で知った一冊。五胡十六国の基礎的研究を読んで以来、五胡十六国時代や北魏は面白い、もう少し深く知りたいと思っている。ただ畑を広げる余地があまりないので専門書新刊の案内に飛びついておいて、折りをみて読んでみようと思うくらいなのだが。

 今月初めに取り寄せようと注文を出したら、まだ出版されていないといわれて今週やっと手に入ったところ。

 本書は6章よりなるが、序文によれば1999年以降に発表した5本の論文を再構成した第1から5章と、新たに書き起こした第6章よりなるとのこと。以下に目次を詳細に書き出しておく。購入した時モダンな表紙にちょっと驚いた。


第一章 「部族解散」研究史
 序言
 第一節 研究動向
 (一) 日本国内の研究動向
 (二) 海外の研究動向
 第二節 個別の見解の相違、対立点
 第三節 分析方法
 (一) 史料の分析
 (二) 部族長の部民統領権の分析

第二章 領民酋長制と「部族解散」
 序言
 第一節 領民酋長制の起源と「部族解散」
 第二節 「分土定居」と八部制
 第三節 六鎮の領民酋長制
 小結

第三章 北魏石刻史料に見える内朝官---「北魏文成帝南巡碑」の分析を中心に---
 序言
 第一節 内阿干
 第二節 内行内小
 第三節 内都幢将
 第四節 羽真
 小結
 附 北魏文成帝南巡碑碑陰

第四章 北魏の洛陽遷都
 序言
 第一節 遷都前の諸改革
 (一) 廟号および南郊祭天の改革
 (二) 爵制の改革
 (三) 西郊祭天の廃止
 第二節 官制改革と遷都計画
 第三節 遷都の実行
 (一) 南伐従軍者の構成要素
 (二) 南伐における献文六王の役割
 (三) 遷都決定後の動向
 小結

第五章 北魏の国号「大代」と「大魏」
 序言
 第一節 書籍資料における国号「代」
 (一) 『魏書』における「皇代」
 (二) 『魏書』の「有代」
 (三) 他の書籍の事例
 第二節 石刻等史料の分析
 (一) 形式
 (二) 時期
 (三) 地域
 (四) 身分
 第三節 国号「代」使用の背景
 小結
 附 「大代」表

第六章 北朝正史における「代人」
 序言
 第一節 『魏書』における「代人」
 (一) 列伝
 (二) 集団呼称
 第二節 『北斉書』における「代人」
 (一) 北辺残留者
 (二) 河南洛陽人
 (三) 来歴不明者
 第三節 『周書』における「代人」
 (一) 北辺残留者
 (二) 河南洛陽人
 第四節 『隋書』における「代人」
 第五節 族譜の編纂と「代人意識」
 小結
 附 「代人」表
 附 『元和姓纂』表

結語

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2007年6月13日

2本目のタクラマカン沙漠横断道路

 中国で2本目の砂漠道路、10月に全線開通予定(IBTimes)

 不帰の沙漠に二本も道路を通すとはたいそうなことだが、例によってよってGoogle Mapをいじってみる。

 新しい沙漠横断道路の北の起点となるアラル市は、タリム川沿いに農業地帯。南の起点ホータン市は、数千年の歴史を誇るホータンオアシスの中心。この二つの街の間、ホータン川沿いを走るものと推測されるが、残念ながらGoogle Mapには映っていない。


 ならばということで、一本目の沙漠横断道路を見てみる。

 輪台県から南に分岐する沙漠横断道路北の起点。近くに輪台古城があるらしいのだが見つからず。
 →輪台古城(人民網)

 画質は良くないままだが、南に向かってたどることはできる。タリム川を渡る沙漠横断道路。

 途中で画質が良くなる所、タクラマカンの中央を南へ向かう。波打つ砂丘が印象的。

 南の起点は、西域南道の民豊の北、ニヤ川の東岸。

 途中の区間では、沙漠横断道路苦心の部分、道路の両側に広がる緑地帯が確認できる。緑地帯の幅は道の両側ともほぼ50m。

 横断道路は、Google Mapの上ではよくわからないが、途中で東へ分岐してチェルチェンへ向かう支線があり、沙漠の中で西域南道につながる。チェルチェンの街はそこからだいぶ東になる。


 民豊といえば、街の北に古代のニヤの遺跡があり、NHKの最初のシルクロードシリーズの中でもキャラバンを組んで遺跡を目指している。本の記述をたよりに探してみるとだいたいここら辺と思われるが、残念ながら遺跡なのか自然の地形なのか判然としない。近くに自動車が入った跡があるので、ここら辺だとは思うのだが・・・


 いつもながらGoogle Mapを見るのは楽しい。西域南道はまだ行ったことがない憬れの場所のひとつだが、こうして居ながらにして楽しめるのは贅沢。とはいえ横断道路を含めいつか行ってみたい。


<参考>
NHKシルクロード絲綢之路第4巻
流砂の道 西域南道を行く(日本放送協会出版)

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2007年6月12日

ティムール帝国支配層の研究

ティムール帝国支配層の研究
川口琢司 著
ISBN978-4-8329-6676-5
北海道大学出版会 2007.4

 1999年に出版された加藤和秀氏のティムール朝成立史の研究以来となるティムール史関係の専著。松井さんのブログの紹介を見て、条件反射的に注文したのが手に入った。

 序文によれば、1988年以降に発表した論考を加筆訂正し、序文と結語のほか、第6章を新たに書き起こしたとのこと。巻末に一次文献と外国語、日本語の二次文献が18ページに渡って紹介されている。一次文献が80点ほど紹介されているが、アルファベットで書かれた一覧で自分に判読できるのはラシードの集史とバーブルナーマくらい。キリル文字はロシア語かな?

 重厚な研究書のようなので、かなりエネルギーが必要になりそう・・・

 以下に目次を書き出しておく。


第1部 ティムール帝国とチンギス・ハン家
 第1章 ハン制度の成立と展開
 第2章 ティムール帝国の対チンギス・ハン家婚姻政策
第2部 ティムールの後継者問題
 第3章 ティムールの後継指名とシャールフ政権の成立
 第4章 ファールス総督イスカンダルの反乱をめぐって
第3部 テュルク・モンゴルの法制と祖先伝承
 第5章 ティムールとヤサ
 第6章 テュルク・モンゴル伝承と四ウルス叙述法
第4部 ティムール帝国の部族とアミール
 第7章 ティムール帝国のテュルク・モンゴル諸部族に関する新史料
 第8章 部族出身のアミールとその諸活動
 第9章 ティムール帝国のグラームとグラーム出身のアミール
結語

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2007年6月11日

都井岬と櫛間城

 飫肥の次に向かったのが宮崎県最南端の都井岬。端っこは行けるとこまで行ってみようというのもあるが、ここは国内でも数少ない野生馬が見られるところ。都井岬の御崎馬は、直接には17世紀末に高鍋藩秋月家の藩営牧場として開かれたことに始まるという。現在も牧組合によって管理されているが、年に一度病気の検査をする以外は出産から死後に至まで基本的に干渉することはなく。自然に任せたまま、ほぼ野生状態にあるという。

 御崎馬は、8日現在で124頭生息しているとのことだが、ビジターセンターの方の話によれば、120頭前後で全体の頭数は久しく安定しているという。半島という限られた環境で、頭数もさほど多くないことから遺伝的な多様性が維持できるのかという疑問が湧くのだが、毛並みなど頭数の割に多様であるという。長らく外から血をいれてもいないとのこと。


 牧場とはいえ半島の地形は平坦ではない。写真は岬の中程から南を見た所で、右の山の中腹にビジターセンター、左奥の山頂に灯台が建つ。場所にもよるが手前の山はほとんどが杉の林。


 草地が広がる尾根の上で草を食む馬たち。草もこんな斜面に広がっている。馬は、半島の中央の草地のほか、林の中や海岸近くにいることも。


 在来種なのでそれほど大きくはなく、肩の高さで130cm前後、馬の毛色の名前に全く詳しくないのだが、黒いたてがみをもつ彼らは何と呼ぶべきか?


 こちらは全身赤毛。


 ところで、飫肥よりも南にあたる串間市は、江戸時代には高鍋藩の領地、飛び地だった。都井岬を後に西へ向かい串間市内を抜ける際、高鍋城に遷る前の秋月氏の居城が串間にあったことを思い出して急遽立ち寄った。しかし現地にはなんの案内も無く、図書館でも明確な図面など見つからなかった。郷土資料の空中写真につけられたコメントから、市街地の北、福島川河岸段丘上が櫛間城跡らしいとあたりをつけて現地を訪れてみると、そこは既に造成されて工場団地になっていた。

 がっかりした上に小雨が降っていたので写真も撮らずに退散したが、金谷小学校のブログよれば、造成地の北から西林院にかけて城跡とみられる地形が少し残っているようだ。もう少し粘っていれば城跡を多少なりとも実感できる記録が残せたかもしれない。

 後日図書館で調べた宮崎県史によると、櫛間城は福島川の河岸段丘上の台地を堀で13から14の郭に区切った典型的な南九州タイプの城であったとのこと。15世紀半ば以降薩摩の島津氏の一族の領地で、伊東氏の勢力もここまでは及ばなかった。豊臣秀吉に召し上げられた後、秋月氏の領地になったのが1587年のこと。

 なお、城の名前は櫛間と書く。戦国時代までは櫛間と書いていたようだが、江戸時代は福島と書かれた。明治時代に一時串間村が存在したが、現在の串間市は1954年の市町村合併から。



櫛間城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(串間)をもとに作成しています。

足のような形で太平洋に突き出した都井岬(Google Map)
櫛間城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
都井岬ビジターセンター うまの館
都井岬Net
宮崎県史 通史編 近世上(宮崎県)
角川日本地名大辞典 45 宮崎県(角川書店)
西林院(串間の秋月氏墓所)(SAMURAI)

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2007年6月10日

島津、伊東と飫肥城

 九州の戦国時代の中で自分が一番興味をもっているのは薩摩の島津氏。このゴールデンウィークは宮崎を回りながらも島津氏関係の史跡を中心に回っていた。

 宮崎県南部、日南市の山間に開けた飫肥は、宮崎はもとより九州内でも往時の雰囲気を良く残す城下町。飫肥城といえば伊東氏が14代続いた伊東氏の城であって、パンフレットにも『飫肥藩伊東家五万一千石の城下町』と謳われている。戦国時代により関心の強い自分にとっては、飫肥は島津氏と伊東氏が長年に渡って争った両氏因縁の地というイメージが強い。また、戦国島津氏最盛期の当主義久の弟で、関ヶ原の戦に島津軍を率いた猛将として知られる義弘が、伊東氏との係争の最中に飫肥領主、豊州家島津氏の養子としてひと時飫肥に居たことはあまり知られていない。

 飫肥は、15世紀の中頃から島津氏の一族新納氏、ついで豊州家島津氏の領地だった。都於郡に本拠を置く伊東氏が飫肥を攻め始めたのが15世紀後半のことで、伊東氏と島津氏の争いは以後1568年に伊東義祐が攻略するまで断続的に続いた。数十年に渡る戦果として伊東氏の手に渡った飫肥だが、4年後には島津氏のもとに戻る。豊臣秀吉の九州遠征の結果、義祐の子祐兵が領主に復帰したのは1587年のことで、以後幕末まで祐兵の子孫が領主として続くことになった。

 この伊東氏と島津氏の争いにはもう少し余談がある。1484年に伊東氏が飫肥を攻めるきっかけを作ったのが、同じ島津氏一族ながら当時の飫肥領主新納氏と諍いを抱えていた島津久逸だったという。この島津久逸が島津義弘の4代前の先祖にあたる。


 酒谷川の北岸、北から張り出した台地を区切って作られ、長年の争奪の中心となった飫肥城。戦いに耐えてきたイメージから堅牢な山城をイメージしていたが、登るのにもほとんど体力を要しない平山城だった。江戸初期には、深い堀で囲まれた11ないしは13の郭が群集するタイプの南九州らしい縄張りだったという。イメージ的に同じ伊東氏の都於郡城に似ているように思う。

 城は、17世紀の後半に起きた地震で大きな被害を受けたため大規模な改修が行われたとのこと。この時いくつかの郭を整地し直し、石垣を組み上げて広い本丸が新しく作られた。今日見られる大手門から歴史資料館にかけての堅牢な石垣と大規模な虎口は、この時に作られたものという。

 したがって、飫肥城に戦国時代の姿はあまり残っていない。17世紀の改修の対象にならなかった郭のほとんどは、明治以後に学校用地として造成され、近年さらにグランドの拡張などが行われて原型をあまり留めていない。高い土の斜面に囲まれて往時の雰囲気を感じさせてくれるのは、酒谷川に面した西ノ丸、旧本丸、松尾の丸のみ。松尾の丸には想定復元された御殿が建つが、西ノ丸は深い薮の中。



 飫肥城のシンボル大手門は、1978年に復元されたもの。


 17世紀に改修されるまで、飫肥城の中心は酒谷川沿いの旧本丸にあったという。その登り口には、写真のよに立派な石垣と階段の先に石垣で囲まれた虎口がある。この部分も改修の際にかなり手が入ったと思われるが、それ以前から石垣があったかどうかはとくに案内はなかった。


 飫肥の名産のひとつが飫肥杉。旧本丸には、50年を軽く越えると思われる杉が林立している。


 今の飫肥城は、飫肥藩伊東氏の歴史の上にあるため、島津の名は城下を歩いてもほとんどでてこない。わずかに街の東にある安国寺跡の墓地に、豊州家島津忠朝のものとされる墓が残るのみ(後日紹介予定)。


飫肥城位置図
 少し濃い緑色が今も姿を留める3つの郭、薄い緑がかつて郭だったところ。
 この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(飫肥)をもとに作成しています。

飫肥城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
飫肥歴史紀行(飫肥城下町保存会)
城下町 飫肥ガイド(日南市観光協会)

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2007年6月 9日

信州まつもと(松本)空港

 松本空港利用者増へ新対策 搭乗回数に応じ商品券贈呈(信濃毎日新聞)

 この記事によれば、松本空港はMD87型機引退のため今年秋から1日6便から1日4便へ減便となる。信州まつもと空港利用状況にあるように、1998年以降一番利用されたのは札幌便である。それでも航空会社側の意向は廃線だったわけだ。この減便を受けて松本空港の利用者は、今年度が10万人、来年度が8万人を割るのはまず間違いない。

 利用状況をもう少し詳しく見る。松本空港の最盛期、1997年頃には大阪便に加えて札幌、仙台、広島、福岡便があり、1日5往復10便飛んでいた。1996年には年間26万人の利用者があったが、10年あまりで半減以下というのは寂しい限りではある。


 ただ、利用者が激減している理由は極めてはっきりしている。飛行機以外に便利な足がいくらでもあるからだ。飛行機の事前購入割引が利用できるように、1ヶ月後の平日に長野と松本から札幌、大阪、福岡へ行く場合を想定してみる。料金はいずれもバス電車代込み。

長野から札幌
 松本空港利用:長野駅発11:08→札幌駅着16:55、34940円
 羽田空港利用:長野駅発11:09→札幌駅着16:25、25300円

長野から福岡
 松本空港利用:長野駅発8:08→福岡空港着13:30、23600円
 羽田空港利用:長野駅発7:55→福岡空港着12:15、25960円

長野から大阪
 松本空港利用:長野駅発13:08→伊丹空港着17:05、15750円
 鉄道利用、名古屋乗り換え:長野駅発12:50→新大阪駅着16:49、10700円

松本から札幌
 松本空港利用:松本駅発13:10→札幌駅着16:55、34280円
 羽田空港利用:松本駅発12:54→札幌駅着19:25、24040円

松本から福岡
 松本空港利用:松本駅発10:10→福岡空港着12:15、22940円
 中部国際空港利用:松本駅発9:51→福岡空港着15:20、18510円

松本から大阪
 松本空港利用:松本駅発14:45→伊丹空港着17:05、15090円
 鉄道利用、名古屋乗り換え:松本駅発14:43→新大阪駅着17:49、9550円

 長野から福岡へ行く場合、羽田福岡便の割引がそれほでもなく、松本空港を利用した場合よりもやや高くなるが、時間を考えればそれほどの大差ではない。札幌の場合の料金差が大きいのは、羽田札幌便の割引率が大きいから。その点で、松本空港発着の便に割引があまりないのは致命的。

 飛行機の割引率は季節による変動が大きく、上の計算は一番安い場合なので正確にはより多くの数字を比べなければならない。ただ、大阪行きの場合鉄道の通常料金なのでこれは変動しない。その点で大阪便に利用者がいることは不可解ですらある。


 もう一点重要な問題がある。松本空港を利用した場合、一日に一便しかないのでそれに予定を合わせる以外に選択肢はないが、他の手段を使った場合には時間的にも選択肢が広がること。以下はいずれも各ルートの最早と最終。

長野から札幌:長野駅発6:00→札幌駅着11:25、長野駅発17:41→札幌駅着23:29
長野から福岡:長野駅発6:00→福岡空港着10:50、長野駅発17:09→福岡空港着21:55
長野から大阪:長野駅発6:10→新大阪駅着10:19、長野駅発19:31→新大阪駅着23:23

松本から札幌:松本駅発6:02→札幌駅着12:20、松本駅発16:59→札幌駅着23:29
松本から福岡:松本駅発7:07→福岡空港着11:40、松本駅発16:42→福岡空港着21:55
松本から大阪:松本駅発7:07→新大阪駅着10:19、松本駅発20:22→新大阪駅着23:23

 上記の最早と最終の間には、おおむね1時間に1本は電車も飛行機もあるので、チケットさえ入手できれば都合の良い時間に乗れば良いわけだ。松本駅発の場合、松本空港利用の方が早いのは当然なのだが、一日の有効時間帯を考えるとそのメリットはかなり小さくなると思う。

 以上を総合すると、生き残るためと考えれば、割引率が悪くなる観光シーズンの札幌便、名古屋周りでは時間のかかる福岡便に多少の目がある。しかし、鉄道も高速道路もあり、さらに税金を投入してまで飛行機を維持する必要があるか疑問がある。また、無くなる不便はそれほど大きくないと自分は考える。


 1990年代から航空関係の規制緩和が進み、割引切符の利用が当たり前になってきた昨今、便利な空港に飛行機も客も集中する傾向が続いているように思う。且つては華やかだった地方空港どうしの直行便も随分少なくなった。もはや一日一便の飛行機を有り難く使う時代ではないのだ。

 離島ではなく、高速道路が通り、新幹線も利用できる。飛行機以外は便利だからこそ松本空港の利用者が減り続けている。いかにして利用者を増やすかという次元ではなく、税金をかけてまで利用促進をする価値があるのか、定期便がなくなった場合はどうするのか、という議論をすべき次元にあると自分には思える。


 参考に国土交通省の航空輸送統計調査2005年度の集計をさらに集計し、離島以外で年間の利用者が20万人以下の空港を並べてみる。

 能登空港 15万人
 大館能代空港 15万人
 南紀白浜空港 13万人
 松本空港 12万人
 石見空港 8万人
 天草空港 7万人
 オホーツク紋別空港 5万人
 但馬空港 3万人

 同じ石川県内に小松という便利な空港がある能登空港。特急電車で大阪まで3時間弱の但馬空港、松本空港以外の5空港は、替わりの交通に難がある空港だ。

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2007年6月 8日

佐土原城

 ゴールデウウィークからひと月が過ぎたが、宮崎遠征報告がもう少し残っている。

 高鍋城の次に向かったのが佐土原城。戦国時代、日向を制した伊東氏にとっては都於郡と並ぶ拠点だったが、薩摩の島津氏が奪取してからは、島津義久の弟家久が入城、島津氏にとっても日向における最重要の拠点だったと思われる。豊臣秀吉の九州遠征後は、家久の子豊久が佐土原城主となったが、豊久が関ヶ原戦で戦死したため一旦幕府領となった。1603年に島津以久が入城してからは、幕末まで佐土原島津家の城として続いた。ただし、17世紀の前半には城の中心が山上の本丸から山麓の二の丸に移されたとのこと。

 城は最高所でも標高75mで、二の丸との標高差65mと山城としてはさほど高くはない。しかし斜面は意外に急で、本丸から4方向に伸びる瘠せ尾根上に配置された郭は、土塁、土橋、堀切を巧みに組み合わせていて防御力はかなり高いと思われる。


 城跡は、平成に入ってから本格的に発掘調査が行われ、二の丸には写真のように御殿様建物が推定復元され、歴史資料館「鶴松館」として公開されている。

 資料館から山上へは、各尾根筋を登る道が整備されていて、案内板や解説板が各所に立つ。二の丸から本丸までを一回りして30分ほど、南に張り出した郭まで見て回っても1時間もあれば見て回れる。


 山上に建っていたとされる天守は、古絵図に書き込みが見られるものの存在自体が疑問視されていたらしい。しかし1996年からの発掘調査で石垣、瓦、金箔鯱瓦片などが出土し、最低でも数層の櫓様建物が建っていたことが確認された。瓦が安土桃山時代のものとされるので、豊久時代に建てられたものだろう。写真はその天守台跡。

 山城全体に渡って、深い堀や複雑な虎口などが良く残っているので、戦国末期の山城を手軽に体感できる城のひとつではないかと思う。


 城跡の北、高月院には歴代佐土原島津家藩主が眠る墓所がある。


佐土原城位置図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(佐土原)をもとに作成しています。

佐土原城周辺(Google Map)
 矢印周辺の木が無い所が本丸とそれを囲む郭の跡。矢印が天守台跡で、拡大してみると方形に色が変わっているのがわかる。

佐土原城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
佐土原歴史資料館パンフ
佐土原町の文化財(佐土原町教育委員会)
佐土原町文化財報告書 第6集 佐土原城址概要報告書1(佐土原町教育委員会)

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2007年6月 7日

中国ロシア間東部国境問題 その後

 中ロ東部国境補充協定の批准書交換(中華人民共和国駐日本国大使館)

 先日、5月22日のブログ中国周辺の国境で、

 中国ロシア間の国境問題で最大の焦点であって、いまだ解決していないボリショイ・ウスリースキー島。
 と書いたが、この問題について2004年以降両国間で交渉が進んだとのこと。いささか不甲斐無い情報になってしまったので書き足しておく。

 詳しくは、「中・ロ国境の旅」(東洋書店)の著者、岩下明裕氏の解説「中ロ 国境秘話」がある。より詳しい分析は同氏による下記のファイルを参照されたい。ニュース系のサイトを漁っても同時的記事がでてこないのはもう古いからか。また、批准、調印などのワードを交えて検索をかけると、2004年から今年のまでいくつかの情報がブログや各種HPの中に散見される。2005年の批准書交換以後、どういう交渉がもたれ、いつ中国への移管が行われ(まだ行われてない?)、今どうなっているのか、いまひとつ要領を得ない。

 スラブ研究センター中・ロ国境問題の最終決着に関する覚え書(これはPDFファイルです)


 自分にとって記憶しておく価値のあるニュースであるし、日本にとっても十分に関係のあるニュースであって、国会でも取り上げられている。
 → 参議院会議録情報 第166回国会 国際問題に関する調査会 第2号

 十分目に触れる機会はあったと思うのだが、記憶にないのはいささか耄碌したからか、ニュースが小さかったのか・・・

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2007年6月 6日

オアシス地域史論叢

オアシス地域史論叢
---黒河流域2000年の点描---
井上充幸・加藤雄三・森谷一樹 編
ISBN978-4-87974-605-4
松香堂

 


 關尾史郎のブログQuiet Nahooで紹介されていた本書がようやく手に入った。本書は、序文によれば
 オアシスプロジェクトで調べたことのうち、特に、文書情報や考古学的情報をもとにして得られた成果を、それぞれの専門分野の学問的成果として、論文集の形でまとめたもの
 とのこと。掲載論文は下記のとおり。

 西夏時代の佐藤さんの論文はもとより、興味を惹かれる論文満載の一冊。巻頭に挟み込まれている森谷氏の論文の参考図「居延オアシス中心部の遺跡分布」がちょっと目を惹く。


弱水考
 吉本道雅(京都大学)

居延オアシスの遺跡分布とエチナ河
---漢代居延オアシスの歴史的復元にむけて---
 森谷一樹(総合地球環境学研究所)

宗教的信仰と環境的必然性
---11-14世紀の中央ユーラシア・カラホト地域におけるチベット密教の実践---
 沈衛栄(中国人民大学)

西夏時代末期における黒水城の状況
---二つの西夏語文書から---
 佐藤貴保(大阪大学)

黒水城発見の女真大字残頁
 愛新覚羅烏拉煕春(立命館アジア太平洋大学)

モンゴル時代区田法の技術的検討
 井黒忍(大谷大学)

“ものさし考古学”によるエチナ史再考
 白石典之(新潟大学)

カラホト城は交易都市か
---内モンゴル自治区の宋・元時代の遺跡出土の中国陶磁器から---
 弓場紀知(京都橘大学)

清朝雍正年間における黒河の断流と黒河均水制度について
 井上充幸(総合地球環境学研究所)

賑紀
---那彦成と嘉慶15年の甘肅賑恤---
 加藤雄三(総合地球環境学研究所)

現代中国史にみるエネルギーの水と牧畜業
---地下水依存牧畜業の始まり、1957〜65を中心に---
 フフバートル(昭和女子大)

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2007年6月 5日

登山とトレッキング

「登山」と「トレッキング」 明確に分け安全に(信濃毎日新聞)

 私は、山国で育ったので小学生のころから大なり小なり登山の機会があった。トレッキングという言葉をいつ頃知ったのかもう覚えていないが、トレッキングは登山とは違うものであることを知ったのは、1995年にネパールへ行ったときのことと思う。

 8000m級峰が8つも聳えるネパールは世界の登山家が目指す国だが、山は登山家だけのものではなかった。その気になって体力がそれなりにあれば、だれでも美しい山々を見ることができる。ネパールでは、簡単に言うと6000mより高い山を目指すのを登山、それ以下の山々を歩くのをトレッキングと定義している。ネパールでのトレッキングと登山は、必要な装備、人員、経験、そしてなによりも費用が大きく異なる。


 せっかくネパールまで来たのだからということで、一週間ほどのトレッキングにでかけた。西ネパールの中心地で、アンナプルナやダウラギリへの基地ともなるポカラの町を起点に、ダウラギリが奇麗に見える3000mの峠の村までを巡り歩いた。アンナプルナ山群の山麓を巡るコースで、入域などの費用として929ルピー(当時でおよそ1800円)払った。今なら2000ルピー必要とのこと。これが、ヒマラヤの頂きを目指す登山であれば、一人でも百万円以上の登山料を支払わなければならない。


 この写真のところで標高は2000mくらい。3000mを超す峠まで斜面に段々畑と集落が広がる風景が続く。山歩きというか山里を訪ね歩く旅で、道は登山道ではなくて生活道路なのだ。テントを持参しなくてもちょっとした村にはゲストハウスと食堂が必ずあるので、いたって軽装で歩くことができる。


 村は、夏だけの作業小屋とか登山者相手の山小屋とかではなく、そこに人々の生活があり大きな村には学校まである。斜面に拓かれた畑は時にはこのように山の頂上まで続く。


 写真中央が、世界で7番目に高い、標高8167mのダウラギリ。まさにこの風景を見るのが目的のトレッキングとなった。


 もう一枚、トレッキング中に捕らえた朝焼けに染まるマチャプチャレ。マチャプチャレは、ポカラの町からよく見えるポカラのシンボルとも言える山。標高は6993mにすぎないがとても印象に残る山だ。


 昨今のネパールの情勢はどんなものか。当時のイメージは、旅行者には優しい穏やかでのんびりした国というものだった。時間さえ許せば、また8000mの峰々を眺めに出かけてみたいと思うのだが。


アンナプルナ周辺地図(ネパール トレッキング情報)
ポカラアンナプルナ山群ダウラギリ周辺(Google Map)

<参考>
ネパール トレッキング情報

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2007年6月 4日

(書評)西洋人の見た 十六〜十八世紀の中国官僚

西洋人の見た 十六〜十八世紀の中国官僚
矢沢利彦 著
ISBN4-497-93395-4
東方書店 1993.7

 明の終わり頃から清の中期にかけて、中国に滞在したヨーロッパ人が書き残した資料をもとに、当時の官僚について語ったもの。タイトルを見た印象として、個人の付き合いをベースにした読み物的打ち明け話を想像したが、一般向けではあるが普通に歴史解説書という内容だった。

 あまりよく知らない時代の今までほとんど読んだことのない官僚についての話であって、面白いかという前に当時の官僚制度はかく複雑にできているのかというのが一番の感想。文化の違う人の目を通して見た理解を超えた世界の面白い話いうわけではなく、ヨーロッパ人がどう書き残しているかという部分を核にして、それらの文章を引用しながら足らずの部分を中国の資料で補って、当時の官僚世界のよりコアな部分についての解説を試みている。

 飴と笞が本書のキーワードで、私欲に走ろうとする官僚をそれを用いていかに働かせるかに腐心してきたというわけである。第一部「飴と笞とのからみ合い」は、制度としてどのような飴と笞が用意されているかというもの。爵位と俸禄があって、功罪に応じて上げたり下げたりというのは簡単に想像できる。明、清時代の制度はより複雑で、官僚クラスにもやたらと立派な漢字が並ぶ封爵があったり、功績を記録する加級といういのがあったりといった具合。複雑怪奇に映るのは、実際に時代が下るに従って複雑になったからなのか、それとも新しい時代だから複雑な制度についての情報がよく残っているということなのか。

 第二部「きつい笞」は、皇帝から叩かれ、官僚どうしも叩き合うという笞の話。巡撫が地方官僚を監察するだけでなく、不当な監察結果を上訴する制度も備わっていたとのこと。最後の方では、結局のところ事なかれ主義こそが生き残るための本質であるように書かれている。

 第三部「あまい飴」は、いかにして意欲をかき立ててきたかという話。皇帝からもらう衣服とかお茶や料理、官僚としての自尊心をくすぐるための特別待遇の数々、生前に与えられた墓地、死後に表彰される制度、さらには妻や子供への優遇制度などなど。


 第二部の巡撫のところなどには、官僚には腐敗、汚職があり、腐敗が腐敗を呼ぶというような話がある。中国が昔から官僚天国であったことは事実であると思うし、これだけ山のように飴が用意されているということは、それだけ腐敗が普通であったことの反証といえるようにも読める。タイミング良く下記のようなニュースを読んだりすると、今も変わりないなぁとついつい思ってしまう。なによりも中国が巨大な国家を苦労してでも維持しているのは、官僚が甘い汁を吸うためとついつい単純化してしまいがち。実態がどういうものか(とりあえず歴史上で)より多くの情報を集めてみる必要があると自重的に纏めておく。

  豪華な庁舎建設で地方幹部処分(時事通信)


 本書は、自分のように明清朝について政治史以外あまり知らない者にとっては、当時の官僚制度がどのようなものか、実例をもとに読むことができる面白い一冊と思う。体系的に書かれていない分、当時の平均的な実態なのか、それとも面白い話を集めた分偏っているのか、やや腐敗という面に偏っているようにも見え、注意を要すると思う。

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事件を機会に今の森と林業を思う

緑資源機構、前身の公団元理事自殺か(日本経済新聞)

 相次いで自殺者がでるというショッキングな事件だった。大臣のことをはじめ、政治的な話は既に多くの方がブログに書かれているので、自分は林業の現場のことを思い出して書いてみたい。


 もう10年以上前になるが、90年代前半に自分は山を調査して歩く仕事をしていた。当時、緑資源機構は農用地整備公団と合併(1999年のこと)する前で、森林開発公団と呼ばれていた。自分が山と関わっていた時期のことなので、この名前の方が馴染みがある。今回ニュースになっていたのは林道事業についてだったが、公団が直接関わっていた林道はそれほど多くはなく、公団といえば造林事業の方が自分にはより身近だった。

 調査して歩く中で様々な方々の話を聞くことができた。1950年代、戦争中よりも戦後の復興のために多くの木々が山から伐り出されたという。とある山の中で、30、40年生くらいの杉の林を指差しながら、ここら一帯は当時禿げ山になったという話を伺ったことがある。1960年代にはそういった山を緑に戻すべく、様々な事業を通じて植林が積極的に行われた。森林開発公団で水源林造成事業が始まったのが昭和36年というのも、そういう側面を持ってのことと思う。


 戦後、各地の復興事業を担った森だが、さらに将来は山村の将来をも担うと言われていた。森を抱えた村は、自ら積極的に林業経営を行った。村民の山を借りて村が資金を提供し、将来育った木の売り上げを土地所有者と村が折半するという(分収林という)契約を結んで行う植林が各地で行われた(森林開発公団も分収林契約であり、都道府県も直接、間接に分収林事業を行った)。木材が売れる頃にその収入で村の財政は豊かになり、やがて住民税が無料になると謳われたものだった。

 しかし林業は他の産業に先駆けて貿易自由化の矢面に立ち、1960年代から自由化と関税の引き下げが始まった。今はいくらくらいで売られているのか林野庁の統計資料を覗いてみて驚いた。( → 41 山本立木価格、丸太価格、製材品価格、山林素地価格)杉の立木が一本5000円にもならないのである(50年生くらいの杉で体積が1立方メートルくらいになるが、実際に利用できる部分はそれよりも小さいのでもっと安くなる)。

 杉が1立方メートル4400円という価格は1955年と同じで、一番高かった1980年の5分の1。丸太や板材の価格を見れば、製品価格がそこまで落ち込んだ訳ではないのは分かるが、もはや切り出すための経費を引くと、切った後を植林するための再投資の費用はほとんど残らないという数字ということだ。分収林造林が始まった当時、30年くらいで切って再造林する計画だったように記憶しているが、安くて売れないので切るのを先延ばししているという話だった。無税村は、とっくの昔に夢物語で終わっているのである。


 山を歩いていた頃の話として、木材の値段の話以上に危機を持って語られていたのが林業就業者、後継者の話だった。農業後継者は今でもニュースになる話だが、輸入自由化以上に就業者問題でも林業は農業の先を行っていた。15年前の時点で、ある地方の森林組合の作業者の平均年齢は60歳前後で、事業の活発なところでも50歳代だった。「10年後に作業者はいなくなる」「うちは5年後だ」「うちにはもういなくて、となりの組合に仕事をお願いしている」という悲観的な状況だった。

 この話が全国の平均的な話かどうなのかは知らないが、当時から危機意識はあり、就業者を増やすことについて行政を中心に様々な取り組みが行われていた。その成果がどの程度実っているのか、林業白書を見ると( → 2 林業労働をめぐる動き)成果はあげているようだが、総就業者数が10年間で9万人から6万人へ減少と依然厳しいことに変わりがないようだ( → 23 総人口及び就業者数)。


 今的な話題をもう少し。やや贔屓目も入るが、環境問題として二酸化炭素を固定する対策ということでは、植林が重要であることは多くの人が認めていることと思う。これに林業を加えることが重要である。計画的に木を植え、育てて伐り出すことを行えば、総量として木が減少することはない(もちろん全ての森で木を伐れという話ではない)。

 木が特に優れている点は、バイオエタノールのように使えばすぐに二酸化炭素に戻るという物ではなく、長く使い続けることができること。木造の家であれ、本であれ50年、100年と使い続けることはそれほど難しくない。活字中毒で未読の本を山のように積んだままという人は、それだけでも環境問題に貢献していると胸を張っていい。我が家にも床が抜けない程度に、木材数本分に相当する二酸化炭素が本として丁重に保管されている・・・というのは半分程度には冗談です。

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2007年6月 2日

満族史研究会第22回大会

 まんじゅさんのお誘いで、神戸国際会議場で行われた満族史研究会を聞きに行ってきた。余談ながら、ポートアイランドには全く縁がなく上陸したのは初めて。ポートライナーに乗ったのも、1990年に中国へ行くときに鑑真号の乗り場まで乗って以来だった。

 発表の内容は、下記のとおり。民族、政治、宗教から言語までと幅が広い。興味を惹かれたものついて簡単に感想を。

 阿部さんの発表は、清朝最後の10年という時期における近代化改革になんらかの形で関わった皇族を巡る話。末期の自助努力は結局うまくいかないものではあるものの、意外と多くの皇族が改革に向けて活動していたということか。漢人の反発が大きいのは当然として、最末期にあっても皇族内部の対立が解消されないのも良くあることか。

 大坪さんの発表は、同治帝の死去後、光緒帝の即位を巡る話。論旨からは逸れるのだが西太后は守備範囲外として避けてきた部分なのだが、興味を惹かれるネタは尽きないなと思う。だからこそやっぱり手はださないでおこうか・・・。

 石濱さんの発表は、清朝初期において盛京(奉天)と北京に建てられたチベット仏教寺院についてのもの。石濱さんの発表を聞くのは二度目と記憶しているが、今回もパワフルで面白い内容。ホンタイジとチベット仏教の関係やサキャ派からゲルク派への変遷など興味深い内容。

 村上さんの発表は、雍正帝、乾隆帝の時代における藩部(モンゴル、新疆、チベット)の統治に関わった歴代の大臣や将軍について検討したもの。モンゴル系の旗人が多く活躍しているのは自分には意外だった。清朝期のモンゴルというのは興味を惹かれるテーマだが、ここも今のところ未知の領域。漢族出身でも旗人の子孫が満族として民族籍を持っている人もいるという話を以前読んだが、モンゴル旗人はどうなのだろうか。

 それにしても、中世あたりに中心を置いている自分からみると、清朝史研究というのは濃い。あてられてしまうくらい。それが面白さでもあるのだが。


明末清初における朝鮮民族の中国東北への移住(16世紀中期〜18世紀初期)
 鄭善姫(神戸大学)

清初のグサ=エジェンについて
---太宗期、ドルゴン摂政期を中心に---
 磯部淳史(立命館大学)

光緒新政期の近代化改革における清朝皇族
 阿部由美子(東京大学)

清末睡簾聴政下における東西両太后の意志決定と廷議
---同治帝の祭祀をめぐって---
 大坪慶之(大阪大学)

清初勅建チベット仏教寺院の建立意義について
 石濱裕美子(早稲田大学)

雍正・乾隆期の藩部統治における蒙古旗人官僚の任用
 村上信明(東京大学)

満洲語否定形におけるアシンメトリーについて
--- -ha, -ho, -heの否定形が-haku, -hekuで-ra, -ro, -reの否定形が-rakuなのはなぜか---
 久保智之(九州大学)

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2007年6月 1日

1990年中国紀行 <洛陽>

 大同の次は、中国の代表的古都洛陽を目指した。洛陽までは、山西省を縦断して列車を3本乗り継いだ。北魏の歴史を意識していたというのでなく、三大石窟巡りをするつもりだった。


 中国の象徴である黄河、北京へ移動する時に一度渡っていたが、夜間だったので何の印象も残っていない。初めて黄河を実感したのが、大同から洛陽への移動で列車が黄河を渡ったとき。これは、車窓右側、上流を撮ったもの。


 洛陽観光の目玉のひとつがこの龍門石窟。5世紀末、北魏が都を移してから造営が始まり、唐の時代に受け継がれた。洛陽の南郊、伊河西岸の崖に作られている。


 右が龍門石窟の中で最も有名な奉先寺洞の毘盧遮那仏。唐代のもので、武則天がモデルという伝説をもつ。


 洛陽の東郊、中国最初の仏教寺院という伝説を持つ白馬寺。寺の東には田園が広がっているが、そこが後漢、魏、西晋、北魏時代に洛陽古城があった場所で、城壁の跡が土手として残っている。

 見所たくさんの洛陽だが、餃子が美味しかったことが強く記憶に残っている。さすが河南は小麦の産地などと言ってはみたが、本当にそうなのか、入った店がたまたま良い店だったのか、はたまた遠い記憶のなせるものなのか定かではない。


 →Google Map 黄河を渡る鉄橋龍門石窟白馬寺(推定)

 残念ながら洛陽郊外の画像はあまり鮮明ではないが、大まかな雰囲気は意外と見て取れる。

 鉄橋周辺の黄河の流れはだいぶ変わったように見える。

 龍門石窟の立地についてとくに記憶は無いのだが、改めて見てみると洛陽の南、河岸段丘でなくて伊河が短い谷を抜ける場所にあることがわかる。

 白馬寺の場所は、正確な地図が無いため推定位置。大きくは違ってないと思う。洛陽古城は、白馬寺の東側一帯。南北に走る線のどれかが城壁跡かもしれないと思うが不明。

<参考>
中国古代文明(山川出版社)

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