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2007年6月11日

都井岬と櫛間城

 飫肥の次に向かったのが宮崎県最南端の都井岬。端っこは行けるとこまで行ってみようというのもあるが、ここは国内でも数少ない野生馬が見られるところ。都井岬の御崎馬は、直接には17世紀末に高鍋藩秋月家の藩営牧場として開かれたことに始まるという。現在も牧組合によって管理されているが、年に一度病気の検査をする以外は出産から死後に至まで基本的に干渉することはなく。自然に任せたまま、ほぼ野生状態にあるという。

 御崎馬は、8日現在で124頭生息しているとのことだが、ビジターセンターの方の話によれば、120頭前後で全体の頭数は久しく安定しているという。半島という限られた環境で、頭数もさほど多くないことから遺伝的な多様性が維持できるのかという疑問が湧くのだが、毛並みなど頭数の割に多様であるという。長らく外から血をいれてもいないとのこと。


 牧場とはいえ半島の地形は平坦ではない。写真は岬の中程から南を見た所で、右の山の中腹にビジターセンター、左奥の山頂に灯台が建つ。場所にもよるが手前の山はほとんどが杉の林。


 草地が広がる尾根の上で草を食む馬たち。草もこんな斜面に広がっている。馬は、半島の中央の草地のほか、林の中や海岸近くにいることも。


 在来種なのでそれほど大きくはなく、肩の高さで130cm前後、馬の毛色の名前に全く詳しくないのだが、黒いたてがみをもつ彼らは何と呼ぶべきか?


 こちらは全身赤毛。


 ところで、飫肥よりも南にあたる串間市は、江戸時代には高鍋藩の領地、飛び地だった。都井岬を後に西へ向かい串間市内を抜ける際、高鍋城に遷る前の秋月氏の居城が串間にあったことを思い出して急遽立ち寄った。しかし現地にはなんの案内も無く、図書館でも明確な図面など見つからなかった。郷土資料の空中写真につけられたコメントから、市街地の北、福島川河岸段丘上が櫛間城跡らしいとあたりをつけて現地を訪れてみると、そこは既に造成されて工場団地になっていた。

 がっかりした上に小雨が降っていたので写真も撮らずに退散したが、金谷小学校のブログよれば、造成地の北から西林院にかけて城跡とみられる地形が少し残っているようだ。もう少し粘っていれば城跡を多少なりとも実感できる記録が残せたかもしれない。

 後日図書館で調べた宮崎県史によると、櫛間城は福島川の河岸段丘上の台地を堀で13から14の郭に区切った典型的な南九州タイプの城であったとのこと。15世紀半ば以降薩摩の島津氏の一族の領地で、伊東氏の勢力もここまでは及ばなかった。豊臣秀吉に召し上げられた後、秋月氏の領地になったのが1587年のこと。

 なお、城の名前は櫛間と書く。戦国時代までは櫛間と書いていたようだが、江戸時代は福島と書かれた。明治時代に一時串間村が存在したが、現在の串間市は1954年の市町村合併から。



櫛間城周辺図
この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(串間)をもとに作成しています。

足のような形で太平洋に突き出した都井岬(Google Map)
櫛間城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
都井岬ビジターセンター うまの館
都井岬Net
宮崎県史 通史編 近世上(宮崎県)
角川日本地名大辞典 45 宮崎県(角川書店)
西林院(串間の秋月氏墓所)(SAMURAI)

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