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2007年6月10日

島津、伊東と飫肥城

 九州の戦国時代の中で自分が一番興味をもっているのは薩摩の島津氏。このゴールデンウィークは宮崎を回りながらも島津氏関係の史跡を中心に回っていた。

 宮崎県南部、日南市の山間に開けた飫肥は、宮崎はもとより九州内でも往時の雰囲気を良く残す城下町。飫肥城といえば伊東氏が14代続いた伊東氏の城であって、パンフレットにも『飫肥藩伊東家五万一千石の城下町』と謳われている。戦国時代により関心の強い自分にとっては、飫肥は島津氏と伊東氏が長年に渡って争った両氏因縁の地というイメージが強い。また、戦国島津氏最盛期の当主義久の弟で、関ヶ原の戦に島津軍を率いた猛将として知られる義弘が、伊東氏との係争の最中に飫肥領主、豊州家島津氏の養子としてひと時飫肥に居たことはあまり知られていない。

 飫肥は、15世紀の中頃から島津氏の一族新納氏、ついで豊州家島津氏の領地だった。都於郡に本拠を置く伊東氏が飫肥を攻め始めたのが15世紀後半のことで、伊東氏と島津氏の争いは以後1568年に伊東義祐が攻略するまで断続的に続いた。数十年に渡る戦果として伊東氏の手に渡った飫肥だが、4年後には島津氏のもとに戻る。豊臣秀吉の九州遠征の結果、義祐の子祐兵が領主に復帰したのは1587年のことで、以後幕末まで祐兵の子孫が領主として続くことになった。

 この伊東氏と島津氏の争いにはもう少し余談がある。1484年に伊東氏が飫肥を攻めるきっかけを作ったのが、同じ島津氏一族ながら当時の飫肥領主新納氏と諍いを抱えていた島津久逸だったという。この島津久逸が島津義弘の4代前の先祖にあたる。


 酒谷川の北岸、北から張り出した台地を区切って作られ、長年の争奪の中心となった飫肥城。戦いに耐えてきたイメージから堅牢な山城をイメージしていたが、登るのにもほとんど体力を要しない平山城だった。江戸初期には、深い堀で囲まれた11ないしは13の郭が群集するタイプの南九州らしい縄張りだったという。イメージ的に同じ伊東氏の都於郡城に似ているように思う。

 城は、17世紀の後半に起きた地震で大きな被害を受けたため大規模な改修が行われたとのこと。この時いくつかの郭を整地し直し、石垣を組み上げて広い本丸が新しく作られた。今日見られる大手門から歴史資料館にかけての堅牢な石垣と大規模な虎口は、この時に作られたものという。

 したがって、飫肥城に戦国時代の姿はあまり残っていない。17世紀の改修の対象にならなかった郭のほとんどは、明治以後に学校用地として造成され、近年さらにグランドの拡張などが行われて原型をあまり留めていない。高い土の斜面に囲まれて往時の雰囲気を感じさせてくれるのは、酒谷川に面した西ノ丸、旧本丸、松尾の丸のみ。松尾の丸には想定復元された御殿が建つが、西ノ丸は深い薮の中。



 飫肥城のシンボル大手門は、1978年に復元されたもの。


 17世紀に改修されるまで、飫肥城の中心は酒谷川沿いの旧本丸にあったという。その登り口には、写真のよに立派な石垣と階段の先に石垣で囲まれた虎口がある。この部分も改修の際にかなり手が入ったと思われるが、それ以前から石垣があったかどうかはとくに案内はなかった。


 飫肥の名産のひとつが飫肥杉。旧本丸には、50年を軽く越えると思われる杉が林立している。


 今の飫肥城は、飫肥藩伊東氏の歴史の上にあるため、島津の名は城下を歩いてもほとんどでてこない。わずかに街の東にある安国寺跡の墓地に、豊州家島津忠朝のものとされる墓が残るのみ(後日紹介予定)。


飫肥城位置図
 少し濃い緑色が今も姿を留める3つの郭、薄い緑がかつて郭だったところ。
 この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(飫肥)をもとに作成しています。

飫肥城周辺地図(電子国土地図)

<参考>
飫肥歴史紀行(飫肥城下町保存会)
城下町 飫肥ガイド(日南市観光協会)

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