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2007年7月22日

(書評)北魏胡族体制論

北海道大学大学院文学研究科 研究叢書
北魏胡族体制論
松下憲一 著
ISBN978-4-8329-6683-3
北海道大学出版会 2007.5

 本書は、北魏についての論文集であって必ずしも一貫した論点を継続して論じたものではない。しかし、書名にあるように非漢族あるいは北方遊牧民などと言われる支配集団を形成した人々が、時代を経るにしたがって制度的にあるいは社会的にどう変わっていったのかといった視点が共通しているように思う。また本書は、文献資料および碑文資料の分析を基礎とした専門性の高い論文集であって個々の問題を考察するのは自分の手に余るので、以下興味を惹かれた点について列記して感想に代えたい。


 一章、二章では部族解散という北魏道武帝時代の政策について論じたもの。教科書的には、遊牧民的部族制度の解体であって北魏が漢化していく端緒として書かれるものをよく見かけるように思うが、ことはそれほど単純ではなくどちらかと言えば再編であったという。この点は本書の後半で論じられている代人意識に繋がっている。自分の中では今だ北朝の漢化という公式がこびり付いているので大変興味深い論考である。

 五章、六章ではおよび代人という言葉が論じられている。代は山西省北部の地名であって北魏が最初に名乗った国名なわけだが、国名が魏に変わってからも代という言葉が使われ続けたという。また、北魏初期の都である大同周辺で部族解散によって再編成された人々には、新たに代人という認識が生まれ後にまで残っていく。さらに、この代人には鮮卑族出身者ばかりでなく漢族をも含んでいたという。これは、北魏から隋唐という変遷を考える上で、自分にとってかなり示唆的な内容である。

 次は余談になるのだが、石刻資料などの論証の中で鮮卑語から来ているという官職名が紹介されている。北魏で漢字を万葉仮名のように利用して鮮卑族の言葉を表記していことを川本芳昭氏が『中国史のなかの諸民族(山川出版社)』の中で推測されていたが、この問題的に繋がる可能性があるのだろうか。こういう面での研究も進むと面白いが、資料が足りないだろうか。


 ここ10年程、一般書の中でも唐王朝は単純な漢族王朝の復興ではなく、鮮卑族の王朝、あるいは漢族と鮮卑族が融合してできた王朝として語られるようになってきた。ならばその前段にあたる北魏が漢化していったという問題もより複雑に評価し直される必要があると思う。また北と南の関係が複雑化するという点で、遼金西夏の時代との比較という意味でも興味深く、北魏という時代の面白さ再認識させてくれる一冊だった。

 目次はこちらを参照

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コメント

>万葉仮名

 むとさんのツボが那辺にあるのかわかりませんが、たまたま最近読んでた『中国少数民族歌垣調査全記録1998』にも、万葉仮名みたいに自分の言葉に漢字の音を当てて表したものの話が出てたので、深い因縁を感じて書き込みに来ました(笑)。
(『蛮書』「山川江源第二」に出ている「旅人歌」がぺー語の音を漢字で表記しているという。唐代の白蛮や爨蛮が直線的にぺー族ではないだろうけれど、その後裔であるには違いないので)

※上記自宅リンクには五胡十六国年表@タイムライン(代国も出てるで~)を入れてみました(笑)。

投稿: 雪豹 | 2007年7月23日 22時18分

そか、自分が知らないだけで万葉仮名的な漢字利用って結構普通だったのか
・・・もしれない?
わざわざ大げさに一段落書くほどでもなかったなかも(汗

ちゃんと仇池まで入ってんだな・・・

投稿: 武藤 臼 | 2007年7月23日 23時44分

『中国少数民族~』でわざわざ取り上げてるって事は、やっぱり珍しいんじゃないですかね?
普通だったにしても、あんまり残ってないとか。

※丁零系も忘れず入れときました(笑)。

投稿: 雪豹 | 2007年7月27日 22時20分

>珍しいんじゃないですかね?
>普通だったにしても、あんまり残ってないとか。

ネタ的に面白いけど、調べてる時間も概説書探す時間もありません
・・・って徹夜で映画みてたのはどこのどいつだか(笑

投稿: 武藤 臼 | 2007年7月28日 17時01分

突然の入場で失礼を承知で書かせていただきます。実は鮮卑の壇石塊がイスラエルのダン族ではないかと前から気になっていました。最近、河内のダンジリ祭りがダン族のお祭りであるという情報が来ました。それを総合すると、近畿地方の大型古墳を作ったのは鮮卑族ではないかと思ったしだいです。そうすると、北魏の首都平城が奈良の都と同じ名前だし、元明天皇、元正天皇もつじつまが合います。
私の考えは妄想でしょうか。北魏にも段族がいますが、これは壇石塊の一族ではないかと・・・。

投稿: mayo | 2008年2月 8日 11時36分

mayoさんこんばんわ

妄想でしょう。例え固有名詞の繋がりや血縁的な繋がりがあったとしても、政治史か文化史の上で偶然でない繋がりがなければ歴史論として面白い話ができません。

一か所よく判らないので質問ですが、「元明天皇、元正天皇」のつじつまが合うとはどういうことですか?

投稿: 武藤 臼 | 2008年2月 9日 03時32分

鮮卑の拓跋族が皇帝になり「元」を名乗ったことです。
偶然ならそれでいいですが、では、平城京の名前も偶然でしょうか。天皇の名前にはとても重要な意味があるはずですが、それもたまたまなのでしょうか。

投稿: mayo | 2008年2月 9日 14時22分

mayoさんこんばんわ。
返事が遅れて申し訳ないです。

 北魏が平城に遷都したのは398年のことです。騎馬民族征服説として河内王朝を仮定した場合、古墳の年代から4世紀中・後半が想定されるので、年代的に天皇家と平城を結びつけることには無理があります。

「元明」「元正」というのは、普通の名前ではなくて死後に送られた諡号です。「元」という氏素性を表していると考えるのではなく、まずは諡号としての「元」にどういう意味があるのかと考えるべきです。

投稿: 武藤 臼 | 2008年2月12日 00時39分

こんにちは。まじめに答えていただき、ありがとうございます。すべてが推論ですので、無理は承知でした。
もう少し研究した上でまたチャレンジします。どうもお邪魔しました。

投稿: mayo | 2008年2月12日 09時58分

mayoさんこんばんわ
私も古代の日本史にはかなり興味がありまして、ひと頃は邪馬台国問題とかにハマりました。解決されていない問題が多く、また活用されていない資料もまだまだあります。
自分なりの歴史を推論するのはやっぱり楽しいです。
懲りずにまた寄ってください。

投稿: 武藤 臼 | 2008年2月12日 22時52分

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