« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月31日

ハラホリン

朝青龍、帰国後“速攻”で「ドリームランド」入り(産經新聞)

 こんなところでハラホリンの名を聞くのが意外だったので、一応コメントしておうこうかと・・・

 一応触れておくと、ハラホリンはモンゴル帝国時代の古都カラコルムの遺跡が残る町。自分はまだ行ったことがないので、町なのか街なのか、あるいは村なのかは良く知らない。ニュースで「カラコルム」と言っていたところもあったが、このニュース的にはハラホリンが正しいと思う。こういうニュースでも無ければTVには出てこない地名なのだなと思うが、自分が見聞きした範囲で古都について触れていたのはひとつだけだった。

 それにしてもニュースの偏り具合(偏向というよりもどのニュースを大きく扱うかという意味で)は相変わらず酷い状態。なにより200人も現地に張り付いているのが自分には信じられない。(中身が無くても)現地から中継して、(内容がなくても)関係者のインタビューを流せばニュースだと思っているあたりどうしようもない。


 Googole Map カラコルム周辺
・・・ドリームランドってどこら辺にあるんだろ

拡大地図を表示

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月28日

(書評)信長と消えた家臣たち

信長と消えた家臣たち
失脚・粛清・謀反
谷口克広 著
ISBN978-4-12-101907-3
2007.7

 消えた家臣をテーマに信長政権下で働いた人々を取り上げたもの。主に戦死してしまった人を扱った挫折、直接間接に信長の命令で粛清された人を扱った粛清、なんらかの形で信長に反逆したという人を扱った反逆の3部構成。信長、明智光秀を含め100人以上の消えていった人々が紹介されている。本文260頁余りに消えなかった人も含めて 400人以上の人々が登場しており、テーマ切りにした織田信長に関わる人物事典的な読み物である。

 粛清に登場する佐久間信盛、林秀貞、反逆の松永久秀、荒木村重あたりは定番といったところだが、その他の登場人物を自分の主観で分類すると以下のようになる。

 時々どこかで取り上げられるし、自分にも馴染みの人物
  森可成(挫折)、南伊勢の北畠一族(粛清)、波多野秀治(反逆)

 あまり知られていなさそうだが、自分には馴染みの人物
  塙直政、梁田広正(挫折)、磯野員昌、安藤守就(粛清)

 名前は聞いたことがあるが、経歴はよく知らない
  中川重政、万見重元(挫折)、堀秀村、丹羽氏勝(粛清)、山口教継(反逆)

 自分にはほとんど記憶にない
  林新次郎(挫折)、津田一安、林員清、寺崎盛永、石黒成綱(粛清)

 目新しいという意味で面白いのが第2部粛清の中の4、5、7章。他の解説本や小説、ゲームなどでもあまり目にした記憶のない名前が多く登場する。また、10章で松平信康の事件を紹介しているが、明確に信長関与を否定したものは久しぶりに目にした(自分が目にしていないだけかも)。この点は評価しておきたい。

 一方で、本書は冒頭からいきなり粛清の血なまぐさい話で始まる。分量的に挫折、粛清、反逆はほぼ同じくらいだが、インパクトや登場人物の多さなど読後感として粛清の部分がかなり強く残った。ある程度は事実なのだろうとは思うのだが、織田信長は気まぐれで怖い人というイメージが内容以上に強く残るように思う。戦国時代一般論としてどうかという比較はまったく無く、その点で一方的でバランスを欠くように思うので本書に対する総合評価は保留としておく。

 あとがきに中川重政、塙直政、梁田広正、津田一安の4人を並べ、4人とも知っている人は信長の家臣についての「通」であるとのこと。残念ながら津田一安を知らない自分は、通ではないことが暴露されてしまった(笑)


 目次は以下のとおりだが、第12章は簡単な本能寺の変の解説になっている。

序章 粛清の城 佐和山城
第1部 挫折
 第1章 元亀争乱の中に消えた部将たち
 第2章 越前の争乱の中で
 第3章 抜擢に応えられなかった者たち

第2部 粛清
 第4章 伊勢における粛清
 第5章 近江における粛清
 第6章 天正八年の老臣追放
 第7章 北陸国衆の粛清

第3部 反逆
 第8章 反逆の中での尾張統一
 第9章 将軍との対立の中で
 第10章 水野信元と松平信康の切腹
 第11章 信長を見限った外様大名
 第12章 反逆による信長の最期
終章 反逆されやすかった信長

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年8月27日

夏王朝(感想)

夏王朝
中国文明の原像
岡村秀典 著
ISBN978-4-06-159829-4
講談社 2007.8

 本書は、2003年に出版されたハードカバー版夏王朝---王権誕生の考古学(講談社)の文庫化版である。宣和堂さんがブログで紹介されていて、ハードカバー版出版以降について補論があるというので買ってみた。補論は、「夏王朝研究の現在」のタイトルで37頁、1割以上の書き足しとなっている。この補論では、2001年に公表された戦国時代楚の竹簡『容成氏』の紹介と、二里頭遺跡、王城岡遺跡、二里岡時代の鄭州城遺跡における成果が紹介されている。なお、あとがきを含めて補論以外は特に加筆はされてないと思われる。


 旧版から3年以上経ち記憶もほぼ無くなっているので、補論のほか本文も斜め程度ながらざっと読み返してみた。以下、本書の簡単な概要と感想を紹介してみる。

 本書は、文献史学と考古学の両面から中国最古の王朝とされる夏王朝について紹介しているもので、最近の研究動向の紹介に留まらず研究史を含めたわりと地道な解説書であって、○○は実在した!的な奇書珍書の類いではない。最初の2章が文献史学の部分。史記や尚書の内容を紹介するだけでなく、春秋左氏伝や竹書紀年など種々の文献の比較や現代の研究の紹介など幅広く扱っている。3章から6章にかけてが考古学の部分で、殷墟、仰韶、龍山などの研究史を押さえた上で夏王朝研究の中心となる二里頭遺跡を中心に考古学の成果を紹介し、そこからなにを読み取るか筆者なりの検証がなされている。

 現在、殷墟の甲骨文より前、つまり殷後期よりも古い文字資料はまだ見つかっていないし、見つかる可能性は低いと考えられている。その意味では、夏という自称や禹から桀へ到る系譜を記したような一次資料で、史記にあるような夏王朝の存在が証明されることはありえない。筆者もそのことは十分に承知していて、その前提で殷以前の歴史をどう構築できるかという話になる。

 上に書いたように本書の中心は、二里頭遺跡の中身をどう評価するかということにある。筆者は、鄭州城遺跡と偃師城遺跡が殷初期の都城であることを妥当として、二里頭遺跡を夏王朝の都であるとする。その上で筆者は、4期に時代区分される中で王朝と呼ぶに相応しい施設を残すのは3期、4期のみで、その存続期間は100年ほどだという。ここらへんの姿勢はいたって慎重で、その後の考察も含めて本書の興味深い部分であり自分には好感がもてる。ただ本書の読後であっても、私自身はより慎重を期して文献史学と一定の距離を置くという意味も込めて、殷に先立つ国(あるいは王朝)として先殷国家(王朝)と呼ぶべきではないかという考えが捨てきれない(先には先の先という可能性を含めて)。


 本書は、夏王朝がどういうものかを説く興味深い内容を多々含む読み易い解説本である。内容的には従来の日本国内の状況よりは夏王朝の実在について肯定的な評価をしているようだが、中国での評価とはそれなりに距離を取って独自の評価をしている点好感が持てるのではないか。

 遺跡発掘の盛んな今の中国の状況では、本書の補論に紹介されているように、新しい発見や研究の深化によって昨日の説が明日には古くなる可能性をたぶんに秘めている。その意味で今後の進展を楽しみに待ちたいと思う。


Google Map → 二里頭遺跡偃師城遺跡鄭州城城壁跡

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年8月25日

本能寺跡

 まだまだ残暑の厳しい炎天下だったが、少し前にニュース『本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か(京都新聞)』で話題になった本能寺跡へ行ったきた。関西に移り住んでもう6年を越えたというのに、本能寺跡を訪れたのは初めて。信長フリークという看板も偽り・・・というより単なる出不精だったりするが、旅行好きの出不精というのは不思議と矛盾していない(笑)。とはいえ、本能寺跡は堀川通に近い所にあるので烏丸から西へは滅多に出かけない自分からみると遥か彼方である・・・


 →(碑文の拡大写真
 この写真は、本能小学校の跡地に建てられた老人ホームの西手に新しく整備されたと思しき本能寺跡の石碑。石碑の向こう側がその老人ホーム。蛸薬師通の南に位置するこの一角は本能寺の境内だったという説があったが、老人ホーム建設前の発掘で境外であることが分かったとのこと(『本能寺の変/新歴史群像シリーズ(学研)』参照)。


 この写真は、蛸薬師通を西から見たところ。右側が件の老人ホームで、左側が本能寺跡ということになる。今はごく普通の住宅街で、少なくとも地上には往時を偲ぶものはなにもない。本能寺の変の際にはこの通りに明智軍が満ちていて、恐らくはこの先にあったと思われる門を破って境内に突入したわけだ。


 こちらが、各種本能寺の変ものの本で紹介されている本能寺跡の石碑。背後の塀が新しく作り直されたので趣きがだいぶ変わっている。老人ホームの北東角にある。もし本能寺の門が南側の真ん中にあったなら、この石碑の前あたりということになる。


 上で紹介したニュースの発掘現場は、写真のように早くもただの工事現場となっていた。街中の発掘現場らしい現実ということか。違うところでまたなにか発見があることに期待しておく。

 下の地図に見える、蛸薬師通、油小路通、六角通、西洞院通で囲まれた百数十メートル四方が本能寺跡という(北は三条通までという説もある)。地図にあるように地名として名前を留めているが、住宅街で何が残っているというわけではない。現地にさして見るものがなくても、現場で往時を想像するだけでなんとなく充実感が得られるのは歴史好きの特権である。


拡大地図を表示

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月19日

西夏學

西夏學
第一輯
杜建録 主編
ISBN7-227-03390-2
寧夏人民出版社 2006.12

 最近中国で出版される西夏関係の論文集には値段の高いものが多かったが、これはA4版190頁余りながら1900円ほど比較的手頃だったので取り寄せた。政治史に直接関わるものが少なく、仏教関係や黒水城文献関係が散見されるなど多様な内容という印象。

 目につくものでいうと、杜建録氏ほかの「宋代党項拓跋部大首領李光睿墓志銘考釈」。昨年の遼金西夏史研究会で杜建録氏より直接聞いたものがさらに発展した内容のよう。中国語は大変だがこの一論は辞書を片手に読んでみたい。


 掲載論文は以下のとおり。

西夏人対話字印刷術的傑出貢献
 陳炳応

山嘴溝西夏壁画探析
 陳育寧、湯暁芳

釈“大”
 聶鴻音

論儒学与佛教在西夏文化中的地位
 李華瑞

西夏佛教音楽
 孫星群

西夏与遼金間的佛教関係
 陳愛峰、楊富学

黒水古城及其歴史文化特点
 楊満忠

西夏文書機構与文書官吏論
 趙彦龍

諒祚改制考論
 彭向前

宋夏沿辺蕃部人口流動考論
 トウ建栄(トウは人偏に冬)

簡論西夏語訳《勝相頂尊惣持功能依経録》
 林英津

西夏宝源訳《勝相頂尊總持功能依経録》考略
 孫伯君

元代西夏一行慧覚法師輯漢字《華厳懺儀》補釈
 白浜

宋代党項拓跋部大首領李光睿墓志銘考釈
 杜建録、白慶元、楊満忠、賀吉徳

西夏文水陸法会祭祀文考析
 孫寿嶺

試釈幾件俄蔵黒水城宋フ延路公文草稿(フは鹿の邑)
 孫継民、陳瑞青

管主八施印《河西字大蔵経》新探
 段玉泉

英蔵黒水城文献Or8212/1343号脈法残片考
---兼論黒水城文献与敦煌文献的互串問題
 恵宏

漢文西夏文献之特点及其研究意義和研究方法
 胡玉冰

中国蔵西夏文献碑刻題記巻綜述
 杜建録

寧夏博物館蔵西夏文献概述
 王效軍

《文海宝韵》丙種本内容輯校
 韓小忙

西夏語第九類声母値擬測之我見
 張竹梅

西夏文物三題
 李進興

西夏学概説
 史金波

西夏考古発現与研究簡述
 牛逹生

《〈天盛律令〉与西夏法制研究》評介
 彭向前

《元代西夏遺民文献〈述善集〉校注》述評
 李吉和

寧夏大学西夏学研究中心又推力作
 彭向前

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月18日

バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書

バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書
『西南アジア研究』
赤坂恒明

 赤坂氏より論文の抜き刷りを頂戴した。本論については、松井さんがブログ中央ユーラシア研究会の報告で解説されているので、私は違う切り口で簡単に感想を残しておく。

 モンゴル好きといえどチャガタイの息子であるバイダルの名はあまりピントこないと思う。フビライ時代の初期にチャガタイ家当主として活躍したバイダルの息子アルグの方が有名だろう。本論は、そのバイダルの子孫の系譜を各種文献資料から探ろうとするもの。

 この研究の視点で思い出すのが杉山正明氏のモンゴル帝国と大元ウルス(京都大学学術出版会)所収の論文だが、本論はその杉山氏の研究を基礎として引きながら発展させる方向にある。本論の面白さは、杉山氏の論文と共通する部分でもあるが、モンゴル時代の研究の奥行き感であって、東西別々に編纂された資料を駆使して検証を行っていることにある。著者は、表題にあるロシア蔵のカラホト文書や元史などの漢文資料、杉山氏が利用したペルシャ語資料に加えて、著者が「ジュチ裔諸政権史の研究」(風間書房)でも利用した『勝利の書なる選ばれた諸史』という16世紀初頭のチャガタイ=トルコ語の資料を利用している。この異なる言語の資料を比較することで、各資料の不備が補われてバイダルの子孫の系譜が復元されていく。

 本論は20頁余りの論文であって、松井さんが言うところのよくわかっていないという「14世紀以降の東部天山の政治情勢」に問いを発しているものであって、まだまだ入り口ということなのだろう。フビライ以降の元朝とチャガタイ=ウルスの関係には分からないことが多いが、ジョチ一族の研究からチャガタイ一族へと広がる赤坂氏の研究が今後どういう展開を見せるか楽しみにしておきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月15日

敗戦の日と憲法9条

 年に一度の日のことなので、NHKの特番に併せて自分が9条をどう考えているのかそこそこ纏めてみようと考えていた。何か書き留めておこうと思ったのだが番組を見終わって脱力してしまった。

 見てて思ったのだが、議論が微妙に噛み合わなかったり対立していたのは確かで、それは一人一人の立ち位置の違いが意外と素直に出ているように見えた。ところが、それ以上に参加している人達が見ている地平に思いのほか差が少ないようにも感じられた。立ち位置が違うのに見通しているものにそれほど違いがない(はなはだ主観な感想ですが)。右か左かとかでなくて、現実と理想の間のどこに立っているかの違い。

 現実と理想の間の溝って深いのね・・・と感じてしまった。現状ははなはだ政治臭い話をせざるを得ない状況だと。日常的には、手続きとか理論とかでなく政治的に物事が動いていくのを見ると気が萎える質なもので、ここで中途半端な理想論を書いてもしょうがないかと思ってしまった次第。いや、乗り越えていかないと意味をなさないんだろうけど・・・さて、どうしたものか。一年経っても全然進歩してないし、まだまだ勉強が足りません。いや単に子供か?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年8月14日

防衛次官人事

防衛次官人事で火花 防衛相の独断に官邸「相談ない」(朝日新聞)

 今の中央諸官庁の役人が信頼できない。この一点において、大臣は官庁人事においてより権限を持つべきと自分は考えがえている。なんだかんだといっても社会的に失政の責任を追わされるのは首相であり大臣である。現状では官僚の力と大臣の力はバランスがとれていないと思える。

 現防衛大臣にはとくに興味は湧かないのでその人となりは良く知らない。ネットでいろいろと意見を読んでみると、ここ数日の行動に対して批判的な意見が多い中、それに対して意外に筋の通った反論もあった。改造後も留任という前提で自分は評価保留として今後を見守りたい。

 本当に根回しが全く無かったのかということも含め不明な点も多いが、大臣がその責任を全うするために事務次官を更迭することは否定しないし、使い易い人を任命することも否定しない。

 官房長官が大臣をなんら庇わないのはどうだろう。もう諦めているのだろうか。もしそうであるならば、彼に次回があったとしても自分は彼には期待できない。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年8月13日

(書評)モンゴル帝国が生んだ世界図

地図は語る
モンゴル帝国が生んだ世界図
宮紀子 著
ISBN978-4-532-16585-7
日本経済新聞社 2007.6

 本書は、15世紀初頭の朝鮮で権近によって作られたという混一疆理歴代国都之図について、その来歴を様々な資料を駆使して解き明かしていくもの。混一疆理歴代国都之図は、龍谷大学所蔵のものが古くから知られていて本書でもこれが起点となっている。(龍谷大学所蔵の図はこちらで見られる。この龍谷大のページの下に11月公開とあるので一瞬喜んだのだが、残念ながらこれは一昨年のこと。朝日新聞の記事によれば、2009年完成予定の龍谷ミュージアムで公開予定とのこと。)

 この地図のことについて初めて知ったのはもうだいぶ前のことで、テレビのニュースかなにかで見たような気がしているが記憶が定かでない。ただ、そこで紹介されているのは、龍谷大所蔵の図とは少し版が異なる長崎県島原市にある本光寺所蔵のものであったのは覚えている。本書によれば、本光寺所蔵の図は1988年に見出されたものとあり、龍谷大蔵のものと並んでこの世界図の来歴を調べる上で需要な一図をなしている。

 この世界図の来歴について、本書では朝鮮と日本を除く中国からアフリカ、ヨーロッパに至る部分について、明朝初期の中国の清濬と李沢民とが作ったという地図に求め、さらにそのおおもとをモンゴル帝国時代に求めている。直接の根拠となる図版はあまり無いものの、過去に存在したと思われる多くの地図を引用したと考える文献をもとに推測している。本書ではその文献というものがおよそ沢山出てくるため、とても一度読んだだけではその関係が頭の中で整理しきれず、書名も覚えきれない。ただ、目次にも引かれているように、13世紀末ないし14世紀初頭に刊行されたという事林広記は、ポイントとなる重要な一書であるらしい。


 この世界図を初めて知った時は、既に杉山正明氏や岡田英弘氏が説かれていた「世界史はモンゴル帝国から」というフレーズに感化された後だったこともあり、この地図がそのことを一種ビジュアル的に物語っていると思われた。本書はようやく出された詳細な解説書であるのだが単に来歴を探るだけでなく、その根拠となる時代背景の解説がなされていてる。一部にやや断定が強すぎるのではと思われる箇所もあるが、それは些細なことかもしれない。

 読後感として論文集的な重さが少しあるのだが、考証とその流れにはなにか推理小説を読んだような趣きがあり、単なる学術書ではないものを目指した著者の意欲を感じてしまうのは自分が整理しきれていないためか。整理しきれていないという点では、難解な文献名が多々並ぶ点で、文章の善し悪しではなく内容の展開的にやや難しい内容に見えてしまう。そのため本書での検証の段階がどの程度のレベルでなされているかも自分には判読しがたい。ただ自分にとっては、歴史、地図、モンゴルという文字が並んでいるだけで十分に心躍るのだが、本書は全般カラーページとして様々な図版が掲載されていて、見ているだけで面白い一冊だった。

 今後の展開として希望を書き加えれば、この世界図に書かれている情報をより詳細に検討したものを期待したいと思う。本書は、「世界地図」の誕生に続く地図は語るシリーズの2冊目。3冊目は杉山正明氏執筆のアジアは世界を知っていたとのこと。楽しみに待ちたいのだが、杉山氏の著作としては興亡の世界史シリーズ第9巻とどちらが先になるのだろうか。


以下に目次を書き出しておく。

プロローグ「混一疆理歴代国都之図」をたどる旅
第1章 二枚の原図をもとめて
 1 清濬と「混一疆理図」
 2 李沢民と「声教広被図」
第2章 世界はわれらのもの---モンゴル朝廷の「地図」プロジェクト
 1 天文観測と暦
 2 東西世界の合体
第3章 「中華」の伝統と新たな世界像
 1 清濬たちの参考書---モノクロームの地理情報
 2 『事林広記』の世界---国と時代を越えたベストセラー
第4章 王権の象徴として---「混一疆理歴代国都之図」の誕生とそのご
 1 高麗の遺産
 2 朝鮮から日本へ---江戸幕府と世界図
エピローグ いつか来た道・あらたな地平

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月12日

(書評)モンゴルとイスラーム的中国

モンゴルとイスラーム的中国
---民族形成をたどる歴史人類学紀行---
楊海英 著
ISBN978-4-89489-116-6
風響社 2007.5


 本書は、中国(一部モンゴル国を含む)におけるモンゴル系のイスラム教徒を中心に扱ったもので、現地調査、インタビューの経過報告とその結果や収集された資料をもとにした解説よりなる。2部8章よりなり、第2、3章が既出の論文をベースとし、他は書き下ろしとのこと。

 第1部では、筆者の故郷でもあるオルドスおよびその西北のアラシャンを扱っていて、第2章で西北ムスリム大反乱と(イスラム教徒でない)モンゴル族、オルドスの状況について、第3章では主にアラシャン東部に暮すモンゴル系イスラム教徒であるホトン人について紹介している。ホトン人は中国55少数民族としては分類されておらず、本書ではモンゴル族として紹介している。

 そもそもとして、自分には西北ムスリム大反乱という言葉に馴染みがない。東洋史辞典(東京創元社)を引くと、回民起義の名前項立てしていて1860年代から70年代にかけて陝西、甘肅、雲南での反乱を挙げ、ついでヤクブ=ベクによる新疆での事件を紹介している。(この他に回民反乱、回教徒の反乱などと書かれたものもある)この内容から、本書でいう西北ムスリム大反乱とは回民起義の内、寧夏、甘肅、内モンゴルでの事件についてのものであることがわかる。ここらへんは、自分の守備範囲や認識の問題ではあるかもしれないが、寧夏などでの回族を含む近現代史の上で押さえておく必要のあるツボということなのかもしれない。

 第2部では、第4章で寧夏南部、第5から7章で甘肅と青海が接する黄河上流地域を扱っている。この中でイスラム教徒として、回族、モンゴル族、サラール(撒拉)族、保安族、東郷族、トゥー(土)族およびチベット族が登場し、彼らの現状や歴史が紹介されている。サラール族がトルコ系、保安族、東郷族、トゥー族がモンゴル系とされているが、来歴は単純ではないようで、同じ民族でも母語が異なる場合や歴史の中で母語が変わってきたことなどが紹介されている。とくに黄河上流部は彼らが入り交じって生活してきた歴史があり、彼らがいつどのような過程でイスラム教に改宗したのかも含め複雑なようである。


 本書は、内モンゴル西部から青海省にかけてという限られた地域で、しかもイスラム教徒が暮す場所としては最も東北に位置している地域のイスラム教徒という他にあまり類書の無い事例の紹介で、まずその点だけでも大変興味深い一冊。

 この地域におけるイスラム教徒の来歴として、西方でイスラム化したトルコ系の人々、あるいは色目人の東遷と母語のモンゴル化といった話が紹介されている。また、清朝時代における布教や巡礼にも触れられている。読後感として、核となった人々の移住はあったであろうが、18、19世紀に改宗した人々が多くを占めるのではないかという印象を受けたがどうだろう。

 また、筆者の批判的な視点もあって、中国における民族区分の問題点が浮き彫りにされている。現地調査そのままの内容でよりマクロな視点で見た場合にどうなるのかという問題は残るが、青海省における原爆実験場の問題、種々の歴史評価の問題などにも触れている。

 イスラム教という点では、聖者崇拝の対象で聖者の墓所であるゴンバイ、教団組織を意味する門宦などややローカルナイズを感じさせる。また、ごく近年までこの地域で拡大を続けてきた布教の実態、それに携わった人々の歴史など興味を惹かれる話は多い。

 なお彼らの歴史については、人々が語り継いできたものなどをそのまま紹介する形をとっている。その点他の資料などでどう裏付けられるのかという興味も出てくるが、本書では著者の姿勢として資料の紹介にとどめている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 5日

白骨温泉

 この週末は、所用で長野県の白骨温泉まで遠征した。幸いにして台風をやり過ごし、土曜日こそ一日曇り空だったが、今日は午後に少し俄雨が降った程度で車での移動は暑いくらいだった。


 知り合いに白骨温泉にハマリ、温泉と言えば白骨と毎年通っている人がいるが、自分はこの温泉を有名たらしめている白濁の湯に入るのは初めて。


 投宿したつるやの露天風呂は一晩中入り放題。確かにこれだけ白いお湯にはなかなかお目にかかれない。


 白骨を出るまえに急いで入った公共の野天風呂。ここは深い谷川沿いにあり、それほど湯は白濁していないが緑に包まれていて気持ち良い。1回500円。


 白骨に入るにあたって、高山駅で車を借りて白骨まで往復した。途中平湯(標高1684m)と安房(1790m)という峠を越える。といっても今はどちらもトンネルで抜けられるのだが、あえて片道は峠道を走った。写真は、平湯峠から東を眺めたところ。雲がなければもう少し奇麗に北アルプスが見えただろうか。

 どちらの峠道も白樺、岳樺、桂といった木々が深緑真っ盛りで美しい。最近は、楠や椎などに出会うことが多かったが、雪国暮らしが長かった自分には、樺や桂の方が懐かしくほっとする。


白骨温泉平湯峠安房峠(電子国土地図)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年8月 2日

1990年中国紀行 <敦煌>

 西安始発の急行列車で二晩、当時今の敦煌駅はまだなく柳園駅からマイクロバスで3時間近く走って敦煌の街に入った。言わずと知れた中国西北部の代表的な観光地のひとつだが、10月も下旬に入り既にシーズンオフだったのか街は閑散としていた。


 ホテルに荷物を置いてまず向かったのが鳴沙山。写真は、鳴沙山の麓にある月牙泉からの眺め。砂が舞うような天気で霞んで見えるが、泉の向こうに見える山がまるまる砂の山。


 敦煌観光一番の目玉が、1000年に亘って作られ続けた数々の石窟が並ぶ莫高窟。入場料16元(当時のレートで500円ほど)で20窟ほど見てまわっただろうか。且つて本やテレビの中の絵でしかなかったものをまじまじと見て回った。


 莫高窟自体は、宕泉河(と言っても水は流れていなかったが)の畔にあり緑に覆われているが、振り返ると風景は一変、莫高窟を背にすると写真のような石だらけの沙漠が地平線まで続いている。


 敦煌には、郊外にも漢代のものという長城や玉門関などの見所があるが、ツアーを組まないと行けない所にあり行っていない。自転車を借りて見に行ったのが写真の白馬塔と映画敦煌の野外セット(HP参照)。映画のセットまでは街から10kmほど、当時のオンボロ自転車では結構な遠出だった。

 →Google Map 鳴沙山と月牙泉莫高窟、少し自信が無いがこれが白馬塔らしい

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »