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2007年10月21日

豊国廟と豊国神社

 泰巖宗安記ブログの記事織田信長墓の中に秀吉の墓についての話がでていた。信長の墓と言われるものはいくつか見て歩いたが、秀吉のものに詣でた記憶がなく早速でかけることにした。

 秋晴れの昼下がり、京都東山の有名どころはどこも人だかりだが、豊国神社にはお隣ほどの騒ぎはなかった。欅が一部色づき出したとはいえ紅葉にはまだまだ早い。方廣寺、豊国神社を訪れるのは、いつ以来か覚えていないほど久しぶり。


 久しぶりのことなので、一枚目の写真は定番ということで、大坂の陣の原因として名高い梵鐘が掛かる方廣寺の鐘楼のもの。


 二枚目は、案内板によれば伏見城から二条城、南禅寺金地院を経たという豊国神社の唐門。

 豊国神社から秀吉の墓所豊国廟へは、狩野永徳展で賑わう国立博物館を左手に見ながら東側へと回り込む。15分ほど緩やかな坂を登って最後に石段を登ると、鳥居と拝殿、秀吉の孫国松のものと伝わる石塔がある広い空間へと出る。


 廟のある阿弥陀ヶ峰山頂へは、ここから延々と石段が続く。唐門が建つ中腹を経て延べ500段以上とか。奇麗に整備された幅の広い石段だがかなりの急勾配で、麓から上まで15分ほど。運動不足の体にはかなり応えた。


 頂上には、柵に囲まれた巨大な塔が立つ。桐の紋が由緒を偲ばせるほかには特に案内はなかった。阿弥陀ヶ峰は標高196mあり、登り口からでも80m、豊国神社あたりから見れば150mほどの標高差があり、そこそこ高い山なのだが、山頂は木々が茂っていて眺望はまったく効かなかった。


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コメント

むとうす様
こちらでは、初めまして。
豊国廟は、眺望は利きませんでしたか?
昔は少しは見れたんですけどね。

豊国廟の前にある耳塚は有名ですが、宝物館の裏にある馬塚といわれる五輪塔が、元々の秀吉の墓石だそうです。

投稿: k2 | 2007年10月23日 22時09分

k2さん、いらっしゃいませ

>豊国廟は、眺望は利きませんでしたか?

雑木が微妙に茂ってました。5年前くらいまではもうすこし景色よかったのかなという感じでした。

耳塚は通り過ぎてしまいましたが、馬塚は見てきました。といってもとくに案内もなく、刻字も読めなかったもので、誰のだろうと眺めただけで、写真撮らずに帰ってきてしまいましたが。(^^;

狩野展やっているうちに出直します(笑

投稿: 武藤 臼 | 2007年10月23日 23時11分

こんにちは。
12月に阿弥陀ヶ峰、登ってきました。
ここは『大明一統志』を範とした『雍州府志』によれば、
「【鳥部山】 今の豊国山にして、山頂を阿弥陀が峯と曰う。始め、平の重盛公、造立する所の燈籠堂、及び、本尊弥陀、近世に至るまで、{イ厳}然として存す。近世、日蓮宗の宗徒(中略)火を放つ。堂宇、怱ち、焦土となる。然れども、本尊は、土人、之れを奪い取り、今、山科の小堂に在り。」
とあるようです。
平重盛の燈籠堂もあったとか。「平重盛 燈籠堂」で検索すると別の場所にも燈籠堂があったとされていて、はっきりしません。
秀吉の遺体にしても、最初から山頂に埋められていたと書くサイトもあって、豊国廟を指す地名「たいこうだいら」に至ると検索上位のサイトが漢字の誤字を連発していて、「たいこうだいら」の場所にしても山頂を指していたり山裾を指していたり。

しかし、
http://blog.livedoor.jp/tkno645/archives/50440359.html
は面白いと思いました。むとうすさんも登られた山頂が中古の城郭であったと云うのです。
http://www.panoramio.com/photo/7661138
私は山頂から北側の清水山の写真を撮ってきました。
赤い清水寺が背後の清水山にへばりつく様子も眺めることができましたよ。
木を伐り払えば最高の景観があるのに誰も雑木を伐ろうとしないのはどうしてなんでしょう...

伊賀では、中世城郭であろうと三重県最大の御墓山古墳であろうと、戦後の植林とその後の林業の荒廃で、繁茂した木、草が人を阻んでいるところが多いです。
しかし伊賀では20年くらい前に殆どの城郭が専門家によって踏査されていまして、その図面、地理を得ることは容易です。
とはいえ深く山に入ったところの、自然の尾根を利用した幾重もの曲輪がヒトデのように触手を伸ばす名城になると、巫俊もためらって入ったことがありません。
連れ立って山に登る人を探しているのですが、余り極めたわけでもなく「中世城館はもう飽きた」とか言ってる人がまわりにいて(苦笑)伊賀はもともと中世城郭の研究が盛んであった故に「食い飽きた」飽食の人が多いようですね(^^;

ああ、それから、阿弥陀ヶ峰の山頂北側の平地(林)で撮影場所を物色していたら、変な土盛りを見ましたよ。
その写真も撮影してあるんですが、焼けた燈籠堂の燃えカスを集めて埋めたんだろうかと想像しているところです。

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年3月 7日 03時57分

巫俊さん、こんばんわ

信長の頃だと、近江から上京に入る志賀越えが本道ですよね?
渋谷越えにどの程度重要度があったのかわかりませんが、清水寺は信長がかなり使ってるわけですから、少なくともその際に周辺の駐屯地として、阿弥陀ヶ峰に陣取る部隊がいたのは至極自然なことではないかと思います。実際歩いてみると、阿弥陀ヶ峰からは渋谷越えにも清水寺にも案外行き易いように思いました。

伊賀の城郭研究ってそんな盛んだったんですね。それでは、伊賀遠征まえに資料を物色しておかないといけませんね。丸山城くらいしか想定していなかったんですが、かなり歩けそうですね。

投稿: 武藤 臼 | 2008年3月 8日 02時43分

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