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2007年11月30日

新名神高速道路

 先日NEXCOから新名神高速道路が来年2月に開通すると発表があった。発表に添えられた資料(pdfファイル)によると、亀山ジャンクション、草津田上インター間49.7kmの開通で、中京関西間第二のルートが完成し、距離で34km、時間で20分短縮されるとのこと。来年の春開通するということは以前からアナウンスされていたので、開通自体はたいしたニュースではなかった。

 自分が注目していたのはその料金について。話のはじめに高速道路の料金体系について触れておく(以下の料金は普通車についてのもの)。内閣府の高速道路料金の種類と仕組みの説明にあるとおりで、走行距離に比例する体系になっていて、基本的な料金は普通車で1kmあたりで24.6円である。昨今は、新しいルートの開通で、複数のルートから選べるようになったが、東京外環道や近畿道などいくつかの特別区間を除いてどのルートを通っても料金は同じで、計算上で一番安い額ですむ。


 具体的に新名神開通に関わる料金について。1kmあたりで24.6円だから、34km短縮だと800円程度安くなることになる。名神高速道路は、言わずと知れた大動脈であって、wikipediaによれば、全区間平均で一日7万台あまりの通行量があるという。800円値下げとなれば利用者にとってはかなり大きな福音となるだろう。

 上記NEXCOの発表資料内には開通に伴う主要区間の通行料金表(pdfファイル)が添えられている。これを参考に実際に計算してみる。新しい料金表で、新名神の開通の前と後を比べられるのは、岡崎と京都南、吹田間なので、岡崎京都南間で比較してみる。E-NEXCOドライブプラザで現行料金を引くと「194.1km、4,600円」と出る。新しい料金表には「160.0km、4,550円」とある。距離は34.1km短縮なのに、値下げはわずかに50円。距離160kmを料金の計算式に当てはめると「3,950円」になる(現行料金との差額が、800円ではなく650円になるのは、100km以上の25%割引と、京都南〜大津間が大都市近郊区間で普通より高い料金設定であるため)。何故650円ではなく50円なのか。

 その原因は、名港トリトンにある。岡崎から京都へと新名神経由で走る時に通る高速道路のうち、東海インターから飛島インターの間が名港トリトンで、連続する三つの斜張橋で有名だ(wikipedia参照)。この伊勢湾岸自動車道の一部でもある名港トリトンは、法的には一般有料道路であって高速自動車道路ではない。一般有料道路は、それぞれに単独の料金体系があり上の計算例にはあてはまらない。名港トリトンを通過する場合には、前後を通算した料金に700円を加算することになっている。この700円を単純に計算すると、名港トリトンの区間は6.1kmなので、消費税を引いても1kmあたり100円を越える。この高い料金が今回の値下げ幅を小さくしている。区間によっては、100円、50円の値下げ、あるいは値下げ無しということになる。


 何故名港トリトンの区間だけが一般有料道路として建設されたのかは、いまひとつ良く解らない。新名神の開通時に大幅に値下げになるのを避けるための設定だったとしたら、なかなか計算高いものと思うが実際どうだったのか。上記高速道路料金の種類と仕組みには、

償還が終了した道路や料金の徴収期間が満了した道路は、原則無料開放されていきます。
とある。計算上は、新名神の開通で岡崎方面から京阪神へ抜ける車は全て名港トリトンを通ることになるので、名港トリトンの償還は早まるのではないかとも思うが、この区間が無料になる日は来るだろうか。


 上記のような料金計算については、東長崎機関というHPの中の道の川柳・森川晃が大変詳しい

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2007年11月26日

歴史読本 2008年1月号

歴史読本 1月号
日本の年号
雑誌09617-1
新人物往来社 2008.1

 年号の特集はとりあえず置いといて、目次の下の段中央、ブログ膏肓記桐野作人さんの連載が始まった。連載のタイトルは信長---狂乱と冷徹の軍事カリスマ。信長ものとしては割と根本論的な直球勝負のように思う。

 どのくらい続く連載なのか、当分桐野さんの書き下ろしを毎月読めるので、無条件で楽しみにしておく。

 なお、膏肓記は数日前からトラブルで閲覧できない状態が続いている。早期に復旧されることを祈っておく。

<追記>
 膏肓記は、11月29日から閲覧できるようになりました。

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2007年11月23日

岐阜城

 秋晴れの休日、現地説明会を機会に岐阜まで遠征した。岐阜の街には何度か立ち寄ったことがあるものの、岐阜城を訪ねるのは初めて。


 一枚目の写真が現地説明会の様子。今回公開されたのは岐阜城下としては高い位置にある平面を掘った2か所。ただ石が雑然と出てきただけの様にも見えるが、斜め横切っている白線から左側には粘土を入れて他所から運び入れた川原石を固定しているとのこと。その様子から園池の可能性が考えられている。

 そもそもの話になるが、岐阜城というと山麓に多層階建ての信長の館があったという復元図があり、礎石でも出ているものと勝手に想像していた。それはルイス=フロイスの報告をもとに推定したもので、目下捜索中でこの発掘自体がその一貫とのこと。まだまだ未発掘の場所があるそうなので、今後の進展を気長に待ちたい。

 k2さんの泰巖宗安記により詳しい報告があります。また、岐阜市教育委員会のブログ信長居館発掘調査があります。


 こちらは、発掘現場の少し下、巨石を並べた虎口様の遺構を整備した所。この遺構がここにあるから、この山側に信長居館があったと想定されているのだろうか。楓の紅が日に映えて良い塩梅。


 さて、天下の名城と言われたかどうだったか、岐阜まで来た以上は天守を目指さなくてはならない。麓から見上げると快晴の空をバックに小さく見える復興天守。山麓の標高30mに対して山頂は330mほど。標高差300mもあるが、せっかくなのでロープウエーを使わずに往復とも歩いた。

 先に山城としての感想を。展望の良さは他に比べられる城が思い出せないほどすばらしい。一方で山城の遺構としては見る所はあまりない。城としては関ヶ原の戦いの後に歴史を閉じたが、岐阜市内の代表的な観光スポットであって明治以降の改変が大きい。また、山頂や尾根筋はかなり細く切り立った痩せ尾根で、平地を造成する余地があまりない。山上で籠城できる人数はかなり限度があったのではないか。


 とはいえ、ここはこの景色を見に来るだけでも価値がある。ということで天守最上階からの眺めを2点。1点目は信長居館跡を見下ろす方向で、長良川が蛇行し、後ろに養老山地が控えている。


 2枚目は南東方向の眺め。逆光で霞んで見えるが小牧山が確認できる。まさに濃尾平野を一望。信長は城を出陣したところから監視されながら稲葉山城を攻めていたのかと思うと、この眺望の良さは軽いショックすらある。


 天守まで登るにはいくつも道があるが、これは大手道と言われている七曲登山道。歴史資料館の脇から登る。全般に整備されていて、自分は写真を撮ったり、寄り道しながら登って40分かかった。櫟や楓が程よく紅葉していて奇麗だったが、金華山自体は樫や杉、檜などの常緑樹が多くて赤や黄色に染まっているのはごく一部だけ。

 帰りは馬の背登山道を下った。こちらは登山道としては相当に荒れた道で、中腹より上は露岩が風化してガレ場となり、浮き石が多くて道の両脇は小さな落石が無数にあった。踏み固めたというより踏み荒らした状態で、とくに下りには辛かった。下山に35分、距離の割には時間がかかった。


<戦利品>
岐阜県中世城館跡総合調査報告書
第2集(岐阜地区・美濃地区)
岐阜県教育委員会 2003.5

岐阜県中世城館跡総合調査報告書
第3集(可茂地区・東濃地区)
岐阜県教育委員会 2004.4

 いずれも県歴史資料館で購入。第1集が西濃で第4集が飛騨で第1集は品切れとのこと。第2集に岐阜城、大桑城、第3集に金山城、苗木城、岩村城などを集録。登ってみたいとは思うが日帰りするにはちょっと厳しい場所。平面図を見ているだけでも楽しい。また、岐阜市歴史博物館で天下布武Tシャツを購入。直径10cmの印が押してあり、人前ではちょっと恥ずかしいかな。

岐阜城周辺 → GoogleMap電子国土地図

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2007年11月22日

チェーザレ 4巻

モーニングKCDX
チェーザレ 破壊の創造者 4
惣領冬実 著
ISBN978-4-06-372396-0
講談社 2007.11

 15世紀末の北イタリアを舞台にチェーザレ・ボルジアを主人公とした漫画。第4巻。

 進行はのんびりしたもので急展開したりはしません。ただチェーザレの妹など身内の人間関係が紹介されたり、次の展開への種蒔きとかがあったりで、次巻あたりからそこそこ動きがありそう。

 一応チェーザレが主人公なんでしょうが、一番の脇役がなかなか良い動きで続きが楽しみ。

 巻末に佐々木毅氏の解説「マキァベェッリとチェーザレ・ボルジア」を集録。

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2007年11月18日

高取城2

 大きな城で、面白い写真が沢山撮れたので、追加紹介。


 杉林の中に続く登城道。宗泉寺から二の門まで標高差200mを一気に登る。


 二の門の傍にある猿石。案内板によると、明日香から持ち上げたものではないかとのこと。


 これも二の門の傍らの濠とも言われている池。谷を塞き止めたもの。


 城内にはいたるところに堅固な虎口がある。これは二の門と大手門の間にある宇陀門


 赤土郭の手前にある堀切。堀切とは尾根筋を断ち切る堀のことだが、石垣で覆われているもを見るのはたぶん初めて。


 本丸の石垣を見上げたところ。黄色いのが楓で左の赤みがかったのが欅。

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2007年11月17日

高取城

 奇麗に晴れ上がった一日。だいぶ寒くなってきたが、年内にあといくつ山城を征服できるか。日本三大山城といえば、岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城と奈良県の高取城を挙げるのが多数意見らしい。まだいずれも未踏なのでまずは一番近い高取城に挑む。

 最寄りの駅は、近鉄吉野線壺阪山駅。駅から城の登り口まで3kmあまり、本丸がある高取山の頂上まではさらに2kmの道のり。標高でみると、駅周辺がおよそ110mで頂上が583.9m。踏破する長さといい、470mという標高差といいかなり歩きでのある数字だ。

 三大に数えられる所以は、高い山の上にあって平山城のように石垣で囲われたその姿からだろうか。恐らく戦国時代には普通の山城だったのだろうが、筒井順慶、豊臣秀長の時代の改修され、石垣を纏うことになったと思われる。また、戦国時代の難攻な山城としては珍しく、江戸時代にも植村氏2万5千石の居城として存続した。もっとも平時には不便だったようで、建物こそ明治まで残ったものの、藩政の中心は早い時期に山麓に移ったという。


 駅から城へと続く道は小規模ながら城下町風情で、格子窓の平屋や長屋門も残っている。写真は、田塩家長屋門。来週11月23日には城まつりがあるとのこと。


 あちこちと写真を撮ったり寄り道して、黒門跡という最初の門跡にたどりつくまで1時間かかった。そこから杉の木立の中を抜ける山道を登って、濠と言われている池の端にある二の門まで40分、石垣で囲われた立派な虎口を4つ抜けて写真の大手門にたどり着くまで更に15分かかった。


 大手門の奥には、東西250m、南北100mという広さに石垣で覆われた本丸と二ノ丸の跡がある。大手門から本丸まで、4つの立派な虎口と30mあまりの標高差を覆う石垣が続く。写真は、本丸南側の石垣。欅、楓、桜などが紅葉の盛りを向かえようとしていた。


 標高が高いだけに眺望も悪くない。写真は月見櫓跡とされるところからの眺め。だいぶ霞んでいるが、写真正面やや右に畝傍山、その右に耳成山が見えている。



高取城周辺図「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(畝傍山)を基に作成しています。」

 緑色が城地らしく削平されている場所。植村氏の菩提寺という宗泉寺の周りもかなり造成されている。また、登城道の左右にも削平地が点々としている。登城道は、やや荒れているところもあるが迷うような道ではなく、秋晴れの今日は自分以外にも多くのハイカーが登っていた。

 城地が広いぶん郭も沢山あるが、広すぎて薮に埋まっている場所が多く、郭の中まで歩き回れるのは本丸、二ノ丸周辺だけ。規模こそ小さくなるが、横垣郭でも石垣が見られる。石垣だらけの城だが、尾根を断ち切る堀切まで石垣が覆っている。

 広い城地は、とても全てを見て歩くことを許さなかった。本丸、赤土郭、横垣郭まで見て回って、山を降りる頃には5時間以上過ぎていた。かなり膝にきたが、まったく三大山城の期待は裏切らなかった。


高取城岩村城備中松山城(電子国土地図)

<参考資料>
大和 高取城
高田徹・谷本進 編
城郭談話会 2001.11

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2007年11月11日

(書評)中国を追われたウイグル人

文春新書 599
中国を追われたウイグル人
---亡命者が語る政治弾圧
水谷尚子 著
ISBN978-4-16-660599-6
文芸春秋 2007.10


 本書は、中国からの政治亡命を果たした10人のウイグル人(1章〜5章)と、中国で収監されたウイグル人東大院生の妻(6章)の証言をもとにしたもの。インタビュー記事というのではなく、聞き取りに基づいて著者が書き起こしたもの。彼らがどういう経緯で亡命にいたったか、その切っ掛けは何だったのか、それらの過程で何が起こったのかといったもの。10人のウイグル人が亡命を果たしたのは、1996年から2006年のことで比較的新しい話。亡命先は、アメリカ、ドイツ、イギリス、アルバニアと様々である。何人かは、中国での逮捕、投獄歴がありその証言は生々しい。

 彼らの多くに共通して影を落としているのが、3章で詳しく語られているイリ事件である。イリ事件(あるいはイニン事件、イーニン事件、伊寧事件など)で調べると、1962年の中ソ間の事件が出てくるが、本書で語られるのは、1997年に起きた暴動に関わるもの。この件は既に10年前のものであって、ネットで検索をかけてもニュース記事そのものは見つからなかった。編集記事では、例えばウィキペディアのウイグル人には、

 独立派による大規模な暴動や爆弾テロが発生。
 とあり、この一文が他のサイトでも見かけられることから、当時どこかのマスコミが流した情報に近いのかもしれない。本書を読んでの印象がこの一文と異なることは本書の要点のひとつと思える。


 本書を読み終えて、現在の新疆で少なくとも政治犯とされるような事例には、かなり厳しい状況があるのであろうと思う。しかし、本書だけではより踏み込んだ判断はできないというのが正直なところ。それは、本書で語られている証言が、どの程度客観的に価値があるのか判断できないからだ。この点については、序文に以下のように書いている。

 彼らの「語り」は、傍証となる資料を探すことがほぼ不可能で、客観的検証が非常に難しい。執筆時は常に、証言者の「語り」が本当に信頼に足るものなのか、自分自身が記している内容が正しいのかどうか、自問し続けている状態だった。だが、たとえ亡命者たちの「語り」の中に「語りたくない部分」があったとしても、それでもなお彼らの語れる部分に耳を傾け、彼らと痛みを分かち、それらを活字に残しておきたいと思った。(10頁)
 彼らの語りという面では、それぞれの経験そのものの他にも、伝聞、憶測が混在していてその内容が同列に書かれていることにも問題が残る。加えて、ここで証言している10人の存在が、現在の新疆のウイグル人にとってどの程度一般的なのか、彼らが特別なのかよくある話なのか何の判断材料もない。

 これらの点の内、彼らの語りの検証は確かに厳しいことと想像する。その意味では本書の内容について本書以上というのはあまり期待できないと思う。しかし新疆の現状という点では、より多面的な情報発信があるべきで、その意味でより広い視点から捕らえた続編が書かれることを筆者に期待したい。


 なお6章は、現在中国で収監されているウイグル人留学生の話で、他の章とは趣を異にする。詳しくは、次のサイトが参考になる。
 トフティさんを救おう(東京大学東洋史学研究室)

 1章で登場するラビア・カーディル氏は、現在世界ウイグル会議の会長を務めているが、先日来日し、併せて日本語のHPが開設された。
 国際圧力で中国と対話も=「人権」日本に協力要請(時事通信社)


<目次>
第1章 ラビア・カーディル
  ---大富豪から投獄、亡命を経て東トルキスタン独立運動の女性リーダーへ
第2章 ドルクン・エイサ
  ---「世界ウイグル会議」秘書長
第3章 イリ事件を語る
  ---アブドゥサラム・ハビブッラ、アブリミット・トゥルスン
第4章 シルクロードに撒布された「死の灰」
  ---核実験の後遺症を告発した医師アニワル・トフティ
第5章 グアンタナモ基地に囚われたウイグル人たち
第6章 政治犯として獄中にある東大院生
  ---トフティ・テュニヤズ

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2007年11月10日

中国、秋の風物詩?

農民が国道占拠、稲乾燥で足の踏み場も見当たらず(中国情報局)

 ある種、懐かしい光景。1990年に中国を旅したのがちょうど秋だったこともあり、街中から郊外まで路上で豆や稲などを干す光景を何度か目にした。


1990年中国紀行の写真を再掲)

 とくに驚いたのは、湖北省をバスで移動中でのこと。当時開通したばかりの片側二車線の高速道路の外側各一車線が、上記ニュースの写真と同じような状態だった。まだ自動車が少なかった長閑な時代と見るか、逞しい農民たちと見るか・・・

 このニュースの風景が絶滅寸前の絵なのか、あるいはまだ一般的なのかは分からない。

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2007年11月 6日

アイハヌム2007(感想)

アイハヌム2007
加藤九祚一人雑誌
加藤九祚 編訳著
ISBN978-4-486-03704-0
東海大学出版会 2007.10

 ユーラシアという言葉の繋がりで加藤先生と席を並べて大陸について話を伺い、酒を飲む機会を得たのは7年も前。私や仲間の倍以上のお年でありながら誰よりも酒に強く、それでいてボーダレスな話と温かな人柄は今でも懐かしく思い出される。

 当時すでに頻繁に中央アジアへ行き来されていて、ウズベキスタン南部、テルメズ郊外にある仏教遺跡カラテパの発掘に取り組んでおられた。本号は、発掘事業10周年を記念してのカラテパの紹介で、先生が著されたカラテパ北丘・西(中)丘発掘成果の紹介を中心に、カラテパ遺跡全体発掘状況や歴史などを紹介している。

 報告の中心はカラテパ北丘で、15m×22mの長方形の基壇を持つメインストゥーパなど大小10ほどのストゥーパや僧坊が取り囲む回廊などが紹介されている。先生が杯を傾けながら語っているような文章で楽しく読ませて頂いた。

 一度発掘現場を見学に行きたいと思いながらも、今の自分には遠いウズベキスタンであるが、買って以来積んだままのウズベキスタン考古学新発見はそろそろ読もうと思う。

 <目次>


カラテパ北丘
 青色の四角は、メインストゥーパを覆う屋根

拡大地図を表示

西(中)丘南丘古テルメズ都城址全景、現在のテルメズ(Google Map)


ウズベキスタン考古学新発見
加藤九祚・Sh.Pidaev 編著
ISBN978-4-88591-817-9
東方出版 2002.10

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2007年11月 3日

安土城

 秋晴れの爽やかな土曜日、現地説明会があると聞きつけ昨年の9月以来1年ぶりに安土城まで出かけた。

 今日の説明会は、安土城でも山麓の部分、大手口と百々橋口の中間で摠見寺跡の真南にあたるあたりの道沿い。


 これが掘り出された虎口。階段が奇麗の残り素人目にもそれと解る。大手口と百々橋口の間の山裾にも、それなりの機能を持った郭が配されていたことになる。


 これは、上の虎口からもう少し大手口寄りの石垣の際で発掘された側溝跡。こちらもかなり良好な状態に見える。従来この左手の石垣の外、右側はすぐ濠と言われ、復元図などでもそのように表現されてきたが、それを否定する証拠のひとつとなるとのこと。説明会のポイントはこの2カ所。


 これは、整備がほぼ終わって公開されている大手口周辺。昨年にはまだ一部工事中で入れない所があった。ここでも簡単な説明があり、一番外側とそれよりも内側の石垣に積み方の違いがあり、作られた時期の違いによるものかとのこと。


 せっかく安土まで出かけたので、説明会が終わった後に周辺をもうすこし歩いてみた。


 これは、安土城で最も東にある郭。写真右にある石柱には御茶屋平と書いてある。


 秋の日は釣瓶落としというがちょっと甘く見ていた。のんびりと巡礼道を巡って大手口に戻ったころにはすっかり日が傾き、昨年設置された大手道の関所は既に閉ざされてしまっていた。ここまで出かけて本丸に登らずに帰ることになるとはつくづく不覚なのだが、この写真を撮っただけで退散するしかなかった。

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2007年11月 2日

1990年中国紀行 <麗江>

 1990年も残り2ヶ月となった11月のはじめ、寒くなる前にと成都を立って雲南へと向かった。夜行列車で一晩、攀枝花に市名が変わる少し前の金江を昼に出たバスが、雲南省北部の街、麗江に入ったのは夜中だった。

 ナシ族の街、甍が連なる世界遺産の街、そしてトンパ文字の故郷として最近は随分と知られるようになったように思う。当時でも雲南北部の代表的な観光都市だったが、11月初旬という時期のせいか旅行者は少なかった。

 今でも雲南の歴史にはあまり明るくないが当時は尚更興味が薄く、加えて解放都市が少なかった時代のこと、行ける場所も限られていた。そんな中雲南へ向かった目的は、旅も半ばを過ぎて中国本土とは雰囲気の違う土地をのんびりと歩くことだった。


 黒龍潭公園は、街の北部にあって目の前の小山と遠景の玉龍雪山を借景にした奇麗な公園だ。ガイドブックにも似たような写真が載っている撮影名所でもある。トンパ文字の研究所もすぐ隣りにあった。


 麗江のシンボル玉龍雪山は、標高5,596m。紺碧の空に雪を被った山容が映えて強く焼きついた。不思議と街並よりも記憶に残っている。この写真は、黒龍潭公園脇の山の上から。


 同じ山から見下ろした麗江の街並。Google Mapの最近の航空写真と比べると随分と田舎町だったように見える。


 瓦屋根の家並の間に続く石畳。旧市街にはもっといろんな表情があったように思うが、山に見とれていたせいでこの写真しか残っていない。


 →Google Map 瓦屋根がパッチワークのように続く旧市街と、山麓に池が並ぶ黒龍潭公園

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