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2008年3月31日

(書評)東アジア内海世界の交流史

東アジア内海世界の交流史
---周縁地域における社会制度の形成
加藤雄三・大西秀之・佐々木史郎 編
ISBN978-4-409-51059-9
人文書院 2008.3
目次は、本書タイトルのリンク先を参照

 本書がいう東アジア内海世界とは、日本列島によって区切られた日本海と東シナ海を囲む地域を指している。ヨーロッパ地中海と共通性に欠けるとして、地理学用語としての東アジア地中海は避け、日本を起点とした東アジア内海を巡る地域を考察するものとのこと。「交流・交易をになった地域のすがた」「社会をつくる人びと、つなぐ人びと」「日々の営みをめぐる権利」という3部よりなり、それぞれに4章、計12章という構成。

 12章は、それぞれ別々の執筆者によって書かれている。自分的には初めて名前を目にする方が多いのだが、経歴を見る限りでは、各分野の若手が多いように見える。また、本書は論文集や固めの概説書というのではなく、一般向けの解説書として意識して書かれたもののようで、入門書というわけでもない。目次を見ればある程度察せられるかと思うが、比較的狭いエリアやテーマのものが集められている。この様な設定に込められた意図は、「おわりに」で編者の一人大西氏が語っている。その要旨は、そこに設けられた5つの段落のうちの2つ目から掲げられた以下の4つのタイトルが物語っている。

 地域史的な読みの限界、統合のために視点の転換、実践としての制度の理解、周縁からながめる歴史の意義
 本文を読み終わって「おわりに」を読むと、なるほどなと自分には半ば合点が行った。半ばという点は、ほんとうに「地域史的な読みの限界」なのだろうかという点が納得するまでに至らなかったこと、「実践としての制度の理解」としては、本書第3部の内容はミクロに過ぎないかといった疑問が残ったことによる。ただ、これは本書全体に対する意図、意欲の結果をどう考えるかということに対する疑問なので、個々の章の善し悪しとは多少別ものである。また、各章では他の章との関連が設定されてはいるものの、基本的には各章単位で完結されている。


 12章の中で、面白いと思ったところを少し紹介してみる。まず2章。琉球王国モノは、自分はときどき思いつきで読むていど。そのレベルとして、沖縄本島だけでなく奄美や八重山までを総括的に解説しているものを初めて読んだ。交易・交流として、日本との関係も本章のテーマのひとつだが、簡潔ながらも琉球全体を対象にした解説は自分には新鮮だった。

 6章は、辞令書をひとつの起点として、満洲八旗に属する人々の領地相続を解説しながら、満洲人の社会を見ていくというもの。清朝史を専門とする杉山氏の一般向けの文章は、初めて読んだように思う。本書では、満洲人を江戸時代の武士に重ねるユニークな導入を立て、文書行政という小難しい話を面白く書き出している。氏が関わった本が、既に書架に数冊積み上げられており楽しみにしておく。

 8章は、明治初期に台湾出兵の切っ掛けとなった、沖縄先島の漂流民殺害事件について、台湾で実際にどういう事件が起きたのかを考察したもの。この事件については、日本政府がどう取り組んだのかというものは何度か読んだ記憶があるが、事件そのものを細かく解説したものは初めて。事件の内容自体も興味深いが、その話がどう伝えられてきたのかという考察も興味深い。

 10章は、中国江南の太湖周辺における漁民と漁業権について、現地での聞き取りをベースとして考察したもの。内容としては、民国時代はどうだったのかという話が中心。中国のそれも淡水域での漁民の話は、それ自体が新鮮だが、その漁業権に関わるやり取りが、前近代的な香りのするものでなかなか面白かった。


 本書は、以上のように個々の章はわりと細かい話題が中心になる。その点では、一般書としては他の本ではあまり語られていないことが含まれていて、それはそれで意味があると思う。全300頁弱で、1章あたりは20頁ほど。読み終わった感覚としては、各章についてページ数のわりに物足りなさがあまりなかった。その意味では良く纏められていると思うし、難解な内容でもなかった。本書全体として意図された部分をどう考えるか、いくつかの章の内容に惹かれたら、読み終わってから考えてみるで十分と思う。

 自分的には、個々の章の面白さに加えて、多少の疑問は残ったものの、意図と内容の関連性には面白さがあり、少なくとも半ばは合点がいったという意味で十分に面白い一冊だった。

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2008年3月30日

東京遠征の戦利品

 以下は、先日の東京遠征の折、研究会以外で頂いたもの、買ったもの、収集したものの記録。

アジア遊学 107
北東アジアの中世考古学
編集部 編
ISBN978-4-585-10358-5
勉誠出版 2008.2

 


中世の北東アジアとアイヌ
奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界
菊池俊彦・中村和之 編
ISBN978-4-86215-038-7
高志書院 2008.3

 


選書メチエ 408
ゾロアスター教
青木健 著
ISBN978-4-06-258408-1
講談社 2008.3

 この三冊は、神保町での本屋巡りの収穫。神保町まで行って新刊ばかり。最近は、輸入書や古本はもっぱらネットで入手しているというのもあり、今回は掘り出し物なしでどれも買おうと思っていたもの。せっかくなので、研究会の折に一部著者の方からご署名を頂いた。

 

 次は、永田町、久しぶりの国会図書館。関西の分館は古いものが無く未収のものが色々とあり、西夏関係を中心に収集に走った。

「ゲルセ」---青唐吐蕃王国の王号---
 鈴木隆一
 安田学園研究紀要25号(安田学園 1985年)に収録

青唐阿里骨政権の成立と契丹公主
 鈴木隆一
 史滴4号(早稲田大学東洋史懇話会 1983年)に収録

青唐吐蕃カク廝ラ王家と青海諸部族の動向
---喬氏を中心として---(カクは口編に角、ラは口編に羅)
 鈴木隆一
 安田学園研究紀要26号(安田学園 1986年)に収録

 以上三編は、青唐を扱った論文。青唐政権は、西夏建国の頃に今の青海省西寧周辺にあったチベット族を中心とした勢力。西夏と戦争を繰り返したが、西夏、遼と婚姻関係もあった。西夏初期の西夏周辺を扱った貴重な論文で、天空のシルクロードで有名になった青海ルートを通じての西域、とくにホータンとの関係にも触れている。


党項人察罕の家系に関する一考察
 藤井彰一郎
 立命館東洋史学 第19号(立命館東洋史学会 1996年)に収録
 こちらは、タングート繋がり。チンギス・ハンに仕えたタングート族のチャガンとその家系についての論文。


西夏の末裔をたずねて
 池田巧著
 月刊しにか1999年1月号、2月号(大修館書店)に収録
 四川省の西南部に暮すという西夏の末裔ではないかと言われる人々を訪ねたことを綴ったコラム。その後彼らについての研究はどの程度進展したのだろうか。


 また、まんじゅさんから史叢67号掲載の「清初の旧漢人と八旗漢軍」の抜刷りを、あかさかさんからは「チンギス・ハン即位八百周年を迎えて、「キプチャク汗国」史研究の周辺」収録の「歴史と地理 世界史の研究209」(山川出版社)を拝領した。

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2008年3月29日

信長時代の二条御所

 まだ訪ねた事がない織田信長関係の史跡を訪ねに出かけた。今日の目的地は二条御所。信長が築いた二条御所は2つある。ひとつは、室町幕府最後の将軍足利義昭のために築いたもの。もうひとつは、信長自身のために築かれ、後に正親町天皇の子、誠仁親王に譲られたもので、御新造とも呼ばれている。

 鴨川沿いを北へ向かう。日差しはだいぶ強いのだが、空気はまだ冷たい。それでも土手は春らしくて様々な色に染まっている。桜の開き具合は場所によってまちまちだが、七分くらいの木も結構あった。


 七分咲きほどになった紅枝垂。写真で見ると印象以上に紅く見える。鴨川沿いの枝垂桜は、毎年のことながら開花の早さは場所によって随分と違う。満開に見える木がある一方でまだ一分二分というのもある。


 紅枝垂の近く、山吹色の花が鮮やかな朝鮮連翹(ちょうせんれんぎょう)。紅枝垂の紅も良いが、この山吹色もお気に入り。


 こちらも鴨川の土手。若葉が芽吹き始めたいろは楓。若葉が開いたばかりで、淡い緑色の葉と赤い芽鱗や花の蕾が混じって独特の色合いを見せる。


 さて、ここからが本題。御新造は、資料によれば今の御池通と烏丸通の交差点の北西側とのこと。現地にとくに何か残っているわけではないようで、今はマンガミュージアムなどが建っている。


 御新造跡とされる場所の西側にある二条殿御池跡の石碑。通りを挟んだ西側が、信長もひと頃宿所として使っていたという妙覚寺跡。本能寺の変の際には、信長の跡継ぎ信忠が宿泊していて、明智光秀の侵攻により御新造に移ったとのこと。本能寺に続いてこちらも明智軍に包囲され、攻防戦の末に信忠はここで果てた。

 御新造跡から北へ上る。丸太町通を越えた先、烏丸通を跨ぐ京都御苑南西部分とその西側一帯が義昭の二条御所跡とのこと。


 平安女学院の北東隅に建つ旧二條城跡の石碑と案内板。ここも、何か痕跡が見られるわけではない。


 日が傾き出すと、空気の冷たさが身に染みる。桜や木蓮が咲いた御苑は、それでも散策を続ける人が多く残っていた。


<Google Map>
二条殿御池跡石碑旧二條城跡石碑

<参考>
京都時代MAP 安土桃山編(新創社)

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桜と民族

 これは、先日の今年も春が来たへ頂いた巫俊さんのコメントへの返事です。今の自分の考え方として少し纏まった文章になったので、別途アップしました。


自分の所属

 自分自身のアイデンティティーという点では、ややステレオ的な「やっぱ日本人だな」と思うことは意外と?あります。ただ、基本的には無所属、あるいは多所属だと考えています。理由はいろいろとありますが、ひとつには気侭な一人暮らしで地域との関わりが希薄だからです。自分にも故郷はあるし「ふるさと」だなぁとも思います。それでも自分は、「地球・アジア・日本・京都に住んでいる者」あるいは、いくつかの土地にかつて暮らしてきた者で構わないと思っています。まあ特殊なんでしょうね。

 民族なんて無い・・・といい切る気はないし、できもしません。ただあまりに曖昧。それでいて「民族」を根拠にすると、何でも説明できたように見えてしまって胡散臭い。だから、自分は極力それで判断、評価したくないし、使いたくもない。先のチベット暴動の中の蒸しぱんさんのコメントにありましたが、民族は相対関係で作られ得るものです。この事件について、この点はかなり実感しています。

 自分の帰属をどう考えるかというと、◯◯である者・・・というのが、自分の答えです。◯◯で暮す者、◯◯で働く者。「で」が入るのは、帰属性は適当でいいじゃないか、という自分の感覚です。


桜と民族

 桜と日本人という文脈は自分にも理解できます。でも私の場合、花は文化である前に植物、花は花以上でも以下でもない。趣味としては、染井吉野の淡い桃色よりも枝垂桜の濃いピンクの方が好きです。それにこれからの季節は、毎年のこととして花以上に若葉の芽吹きの色合いを楽しみます。地理的な意味で、日本ていろんな色が楽しめて楽しいなぁと思います。文化といわれれば、自分のこれまでの中で影響も受けて考えて作ってきた自分の文化です。ただその影響は、日本文化と言われるものの中には限定されませんが。

 だから、「中国の文人の画は本当に素晴らしい」という言葉には、「徽宗の絵は素晴らしい」でいいじゃないかという言い方にもなります。文化という言葉で評価をすれば、中国という大陸(漢族という民族・・・とは言わない)で営々として築かれてきたモノの影響は、もちろん小さくないわけです。でも、文化系統的な影響を考えるのは、三の次か四の次、それよりも風土を想像します。

 坊主が憎ければ袈裟まで憎くなる・・・という感覚は自分も持っているし、よくぶつかります。でもそれって、不毛で不幸な要素が多いから、だからこそ脱っすべきものと考えます。


漢族

 中国を何度か歩いて感じたことですが、漢族といわれる人々は実に多様です。内モンゴルや山西の人達は、服を着替えれば隣に住んでいても驚かないなと思うし、自分には広東の人達をベトナム人と見分ける自信はないです。上海料理と四川料理は相当に味付けが違いますし、普通話が普及するまで、上海人と広東人と北京人に通訳が必要と言われたのもよく知られた話。これほど多様な人々をひとくくりにしていることの方に違和感を感じます。
 


 民族という言葉は、「近代国家」と同じ程度に現代の言葉です。民族という言葉が広がる前には、人々の帰属意識は地域、血縁、伝説、姿形、宗教や様々な集団など多様だったし、今も結構多様です。なので、歴史を語る上では「民族」を使う例はよく見られますが、それを使うだけで説明できたように思ってはいけないのです。まして、チンギス・ハンの時代には、モンゴル民族は本当に存在しなかったのですから。

 自分の感覚は特殊なんだろうなと思います。それは、自分がそうなりたいと思ったからで、世界史を学ぶ理由のひとつで、旅に出る理由のひとつでもあります。

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2008年3月27日

今年も春が来た

 鴨川沿いや高瀬川沿いの桜が先日開花した。過去ログを開いてみると、去年は29日に春到来と書いているので数日早い。


 2枚とも今朝撮った写真。まだ1分いくかどうかなので、接写でないと絵にならない。天気次第ではあるが、今週末だとまだ早く、来週末が見頃か散り始めといったところだろうか。


 今の時期、枝垂柳も新芽を吹く。あまり上手く撮れていないが、この淡い若葉の色がまた良いのである。

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西夏文字の将棋の駒

 古代史の「謎」に光 甘粛省で西夏文字の将棋の駒発見(中国情報局)

 駒は円形で直径2.5センチメートルで厚さは0.4センチメートル。両面にそれぞれ西夏文字と漢字の「士」が刻まれている。西夏文字が記された将棋の発見されたのは初めて。
 甚だ貴重な西夏関係のニュース。中国を旅すると、道端で中国将棋に熱中する人達を良く見かけた。自分は見ていただけで、ルールは覚えなかった。西夏の人々も漢族のように激しく将棋をしていたのだろうか。

 上記ニュースの写真は割と鮮明で、拡大してみると左上がやや不鮮明だが字形がほぼ分かる。先日頂いた辞書と見比べてみると、辞書の文字番号で5582-0が一番近いように見える(ネットに載せるための画像も無いので残念ながら字形が示せない)。意味として、「列」「隊形」「隊形長」などが載っている。「隊形長」を隊長と意訳してよければ「士」に近いだろうか。あるいは、この文字を含む二字熟語にある「将」「長」「副長」の略という線も考えられるが、「将」では違う駒になってしまうか。

 なお、上記記事で

 西夏は(中略)1038年に建国。
この一文にはコメントを添えたいのだが、近々改めて一文を上げてみたい。

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2008年3月26日

遼金西夏史研究会

 先の週末、東京郊外で二日間に渡って開かれた遼金西夏史研究会を聴講してきた。発表は下記の6件。いずれも興味深い内容だったが、西夏政治史という点で、11世紀後半、西夏が北宋にかなり押し込まれた時代について、西夏に隣接した地域の軍事体制を考察した伊藤氏の発表は特に興味を惹かれた。

曹氏帰義軍節度使系譜考---敦煌莫高窟第61窟供養人像の再検討---
 赤木 崇敏

西夏法典研究に関する諸問題---ロシア蔵カラホト出土『天盛禁令』刊本の現物調査から---
 佐藤 貴保

モンゴル・チントルゴイの契丹(遼)城址の研究
 臼杵 勲

北宋後期の西北辺地域における軍事体制
 伊藤 一馬

敦煌出土西夏語文献裏面のウイグル語占卜文書
 松井 太

金元碑刻資料と汾河流域水利史研究
 井黒 忍


<頂き物>

TANGUT DICTIONARY
E.I.クチャーノフ、荒川慎太郎 編
ISBN978-4-903875-11-8
京都大学文学部 2006.3
 西夏文字の字典。B5版で780頁という持ち帰るだけで筋肉痛になりそうな大冊。各文字とその熟語に音価、声調とロシア語、英語、漢字で意味が書かれている。荒川さんより拝領。頑張って擦切れるまで使います(見込み)。


契丹小字研究の現在
呉 英テツ(テツは〔吉吉〕)
龍谷史壇第127号 抜刷り


北東アジア中世遺跡の考古学的研究
総合研究会資料集
 昨年札幌学院大学で行われた研究会での発表10件についての資料集。


内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究
研究代表者 松田孝一
ニューズレター01(2007.6)
 以下の6論文を集録
 モンゴル高原における集落・都市成立史の概略(松田孝一、白石典之)
 1339年立石の漢文碑文「剏建三霊侯廟記」について---元代カラコルムにおける祠廟祭祀(中村淳)
 和寧郡忠愍公廟碑(松井太)
 ツァガーン・バイシン遺跡のモンゴル語碑文(オチル、ガントゥルガ(オユンジャルガル訳))
 モンゴル国セレンゲ県発見の漢文碑文---七世紀後半のモンゴリアにおける羈縻支配関連史料(鈴木宏節)
 タヒリン・オス遺跡最終鍛冶関連遺物の金属学的調査(大澤正己)

同ニューズレター02(2007.12)
 ハル・ブフ城址とトーラ河流域の契丹都市・集落(オチル、エンフトゥル、エルデネボルド(清水奈都紀訳))


13、14世紀東アジア諸言語資料の総合的研究---元朝史料学の構築のために(2007.3)
代表研究者 森田憲司
 以下の12論文を集録
 遼金時代の言語と法律(徳永洋介)
 元代漢語公文書(原文書)の現状と研究文献(舩田善之)
 『事林広記』「皇元朝儀之図」解説(松田孝一)
 『元史』「祭祀志」について(櫻井智美)
 何広『律解辯疑』と明初の贖罪(宮澤知之)
 折繼閔神道碑考釈稿(渡邊久)
 石刻史料よりみた元代華北の仏教統領機構について---諸路釈教都総統を中心に(桂華淳祥)
 洛陽出土「賽因赤荅忽墓誌」より(村岡倫)
 石濱文庫の拓本資料 概要とモンゴル時代石刻拓本一覧(堤一昭)
 13〜14世紀モンゴル文碑刻目録(松川節)
 北京地区現存元朝石刻目録稿補訂(森田憲司)

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2008年3月24日

歴史読本 5月号

歴史読本 5月号
織田・豊臣の城を歩く
雑誌09617-5
新人物往来社 2008.5

 特集が織豊期の城ということで、迷わずに買ってきた。北は岩手県の福岡城から、南は高知県の中村城、熊本県の宇土城、西は韓国の順天倭城までを範囲として70余りを紹介している。平城、平山城も対象としているが、山城歩きの資料として有り難く利用させて頂く。

 さらに織豊系城郭 見どころ辞典のタイトルでポケット版の附録がある。こちらには、本誌と重ならない90あまりを集録。本誌掲載分には、ほとんどに平面図がつくが附録はまちまち。織豊城企画で韓国まで紹介するのは珍しいだろうか。今日、以下のようなニュースを見かけた。

 朝鮮半島「倭城」の石垣本格復元(佐賀新聞)

 順天倭城の石垣復元に名護屋城博物館の高瀬哲郎氏が関わっているとのこと。同記事と歴史読本には、ともに天守台の石垣の写真が載っている。角度は違うように見えるが、歴史読本が改修前、ニュースが改修後。

 韓国は、隣国でありながら今だ未訪の国。本場の冷麺を食べに一度行きたいという思いもあるのだが、南部の倭城、西南部の古墳巡りというのも面白そうだ。


 膏肓記桐野作人さん連載の信長---狂乱と冷徹の軍事カリスマ。今月は、兄信広、弟信勝など親族との興亡を解説した「兄弟間抗争に勝ち抜く」。

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2008年3月23日

東京から帰還

 東京郊外で遼金西夏史研究会が開かれるのに合わせ、3泊4日の日程で上京した。2日間にわたる研究会のほか、3日連続の酒宴、久しぶりの神保町散策に西夏関係の資料収集と充実の4日間だった。


 初日は、大陸の歴史にこだわる面々が集まった。会場は、百人町屋台村。東京時代に度々オフ会で利用した懐かしい店。


 タイ料理、中国料理、ベトナム料理、マレーシア料理、インド料理を纏めて注文できるエスニックな店。以前は店内風景も大陸屋台風だったが、何年か前に改装されて奇麗になった。


 パクチーや唐辛子など国内にしては遠慮なく入っているところが自分向き。まともな料理写真が撮れないほど酔ってはいなかったはずなのだが。


 予想以上の収穫があり、両手に荷物を抱えての連日の大移動で疲労困憊。いくつかの収穫については後日改めて。

 年度末という多忙な中遠路お集まり頂いた皆様、ありがとうございました。また宴会しましょう。

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2008年3月20日

Google Sky

 「Google Sky」のウェブバージョンが登場(Astro Arts)

 閑話休題。最近ウェブでも見られるようになったGoogle Sky。息抜きになかなか良い。ひとつひとつ解説が付けられると面白いのだが、そこまで詳しくないので、見ていて楽しいのを適当にならべてみる。昴は、自分には理科の教科書の奇麗な表紙写真の印象がいまだに強いが、残念ながらGoogle Skyではそれほど美しくない。かわりと言ったら失礼だが、M39がかなり奇麗だ。

 いつもながら、手軽に見れてしまうことに驚く。写りの善し悪しはそれぞれにあるが、ソンブレロ銀河などは手元にある大きめの写真を載せた雑誌と同じくらい奇麗に見える。

 筆頭に紹介したM1 かに星雲は、11世紀中頃に観測された超新星の残骸で、当時昼間でも見える程に明るくて中国や日本の文献にも記録されたという、歴史的な星雲である。M78はおまけ、いわゆるウルトラの星。


M1 かに星雲

M57 リング状星雲

馬頭星雲

M42 オリオン大星雲

M20 三裂星雲


M31 アンドロメダ銀河

M51 子持ち銀河

M104 ソンブレロ銀河


M44 プレセベ

M45 プレアデス星団(昴)

M39


M78

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2008年3月17日

(書評)中国とインドの諸情報

東洋文庫766
中国とインドの諸情報 1 第一の書
家島彦一 訳注
ISBN978-4-582-80766-0
平凡社 2007.9

 

東洋文庫 769
中国とインドの諸情報 2 第二の書
家島彦一 訳注
ISBN978-4-582-80769-1
平凡社 2007.12

 本書は、『中国とインドの諸情報』というアラビア語文献を邦訳し、注釈と解説を加えたもの。原書は次の2つの部分からなり、同時に本書の1巻と2巻に対応している。1つ目は、9世紀前半に書かれたと推測されている『第一の書』で、原著者は不明。2つ目は、同じく10世紀前半と推定される『第二の書』で、原著者は本書にも登場する港町スィーラーフの出身というアブー・ザイド・アルハサンである。本書で利用されている写本は、パリ国立図書館に唯一現存しているもので、17世紀初頭に書写されたものと推定されるとのこと。

 本書は、1巻が本文53頁、注127頁、解説64頁、2巻が本文77頁、注120頁、参考文献30頁という構成になっていて、訳本文を大きく上回る注、解説が集録されているという訳者家島氏の力作である。元になった2つの書について、家島氏は解説の中で以下のように評している。

 八世紀から一〇世紀までの、ほぼ二〇〇年間にわたるインド洋海域を舞台とるす人々の生きざま、モノの生産と交換の諸関係や情報・文化の交流のあり方とそれらの変化・変質の諸相について、具体的状況をわれわれに伝えてくれる最も古い貴重な歴史資料であるといえよう。(1巻のP.211)

 少し具体的に本文部分について。未知の世界についての情報を伝えるものとして、物語のような旅行記なのか、解説書のような地誌的なものなのかと分けてみると本書は後者になる。第一の書の著者は、自分の体験として書いている部分も一部にあるが、大部分は伝聞である。また第二の書は、ペルシャ湾の港町であるスィーラーフやバスラで船乗りから聞き取ったことなどを元にして書かれたものと考えられている。

 紹介されている範囲は、中東から中国への航路に沿ってペルシャ湾、インド、マレー半島、インドシナを経て中国の広州まで。さらにその周辺地域として現在のミャンマー、雲南、チベット、ジャワ島などにあたると推測されている情報が紹介されている。第二の書では、簡単ではあるが東アフリカや紅海についても言及されている。


 感想を少し。本文そのものの量はさほど多くはなく、この類のものとしてはかなり読み易いと思う。注が多いのだが、地名、人名以外は放って置いてとりあえず読み通してみると、本書の雰囲気が伝わるのではないかと思う。上に書いたように、物語調ではなくやや無味的な解説書なので読んでドキドキするわけではない。

 第二の書の原著者アブー・ザイド・アルハサンは、内容の正確を期す為に情報を厳選してある旨を書き残している。それでも誤伝と思われるものや、なんらかの文献を下敷きにしていると思われるものなど、間違いと考えられる部分もそれなりにあるのだが、荒唐無稽な話はほぼ皆無である。この点は、今から1000年以上前ということを考えると、かなり凄いことと思う。その様な例として、中国9世紀の黄巣の乱について書かれているところを挙げることができる。

 本書は、訳者が述べているようにそもそも貴重な情報源であるが、もともと難解なものであるらしい原書を手軽に読めることがなにより重要である。既存のものとは異質な情報に手軽に触れられるという、やや凝った内容の面白い一冊である。


<スィーラーフについて>
 スィーラーフは、原書が書かれた時代のペルシャ湾の重要な港町で、第二の書の著者であるアブー・ザイド・アルハサン出身地でもある。

 スィーラーフへの紀行文を載せているブログ
  イランという国での中のスィーラーフ

 Google Map
  画面中央、道と海岸に挟まれた遺跡らしいのがスィーラーフのモスク跡と思われる。中世ペルシア湾の古代海港---シラフ港の発見---の紹介記事と掲載されている図面から推定した。


<目次>
●第一の書
 中国とインドの諸情報についての第一の書
 再びインドと中国の諸地方ならびにそこの王侯たちの情報

 『第一の書』の注
 解説

●第二の書
 中国とインドの諸情報についての第二の書
 ザーバジュの町の説明
 再び中国の情報に戻り、彼らにかかわる若干の事柄の説明
 インドの諸情報の一部
 ザンジュ(ザンジュ人の)地方
 真珠の説明

 『第二の書』の注
 参考文献

※本書注によれば、ザーバジュについては、9世紀前半まで、ジャワ島に本拠を置いたシャイレーンドラ王国と、それ以降にスマトラ島のパレンバンに都を置いたシャイレーンドラ・シャリヴィージャヤ王国の情報が混ざっているとのこと。ザンジュは、東アフリカのこと。

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2008年3月16日

チベット暴動

 10日の第一報を読んだときは、ここまで大規模な事件になると思っていなかった。既に一週間が過ぎ、沈静化に向かっているという主張も出ているが、実質戒厳令下に近い状況が続いているように見える。

 十数人以上、あるいは数十人の死者が出ているといい、1989年のチベット暴動以来の規模という見方もでているので、後学のためにニュースを纏めておく。

<経過>
7日  中国の全国人民代表大会でダライ・ラマ批判
8日  ダライ・ラマ、北京五輪支持を表明
10日 ギリシャで抗議の採火式
   インド北部でチベット独立派のデモをインド当局が阻止
   ダライ・ラマ、中国政府非難演説
   ラサで僧侶の抗議デモ
13日 インド北部でデモ行進中の亡命チベット人を警察が拘束
14日 ラサで大規模な暴動が発生
   ラサで軍が市内の寺院を封鎖
   アメリカ政府、懸念を表明
   ニューヨーク国連本部前でチベット人抗議デモ
15日 チベット自治区主席抗議活動に厳しく対応するとの声明
   在インド中国大使館で抗議のチベット人50人を拘束
   僧侶によるデモが甘肅省でも発生
   ネパールのカトマンズでもチベット人による抗議デモ

 3月10日のラサでのデモ以降も、14日の暴動に至までにいくつかの抗議行動があったようだが、確認できなかった。


 3月10日がポイントになったのは、1959年のチベット動乱の記念日だからという。この日を記念日として、50周年となる来年ではなくなぜ今年なのか。やはりオリンピックということだろう。僧侶、政府それぞれに例年とは異質な緊張感があったのは事実だろう。

 今後どう動くのだろう。オリンピックのために沈静化を進める方向で流れて行くと予想する。ただし、オリンピックについて、諸外国がどう動くかは読めない。単純にボイコットへ向かうとは考えられないが。


 自分の意見を纏めておく。まず一般論として、民族自決ということには懐疑的で、それは民族という存在が曖昧でデメリットも大きいから。チベットについてみても、今チベット族とされている人々が歴史的に集団として纏まったことはなく、また大きな広がりを持つため方言などの文化の地域差もある。つまり簡単には纏まり得ない。

 そのチベットにとって、独立したとしてもその先の道もかなり険しいのではないか。中国領に留まることには、経済的メリットがあるように見える。しかし、独立しない方が良いとも言い切れない。

 ひとつには今の中国に厳然とした民族区分があり、最大の民族とされる漢族が総人口13億人の内12億人を占める圧倒的多数であるということ。もうひとつは、チベットについて主要な部分が実質的な中国領になってまだ50年(四川、甘肅、雲南などではもう少し長い)であって、言葉、歴史、宗教などで独自性が強いという点。現地の人々を知らない自分には、この2点について今のチベット人にどのような意味があるのかが分からない。そのため自分は結論を持っていない。

 ダライ・ラマが説く高度な自治という考えはどうか。この点について自分は、中国全土が連邦制を導入することに、少数民族だけでなく漢族にも大きなメリットがあると考えている。その意味でも現実的と思うのだが、13億人を直接統治するという魅力に対抗できるのかどうか、さらには連邦制のメリットが大きくなるような状況になるかどうかによると考えているのだが。


<ニュースソース>
「不安定要素はダライ・ラマ集団」全人代でチベット代表ら
 (産経新聞)
チベット人、抗議の「採火式」
 (時事通信社)
ダライ・ラマ、北京大会への支持を表明
 (ロイター)
チベット独立派のデモ、インド当局が阻止
 (AFP)
ダライ・ラマ、中国のチベット「弾圧」を非難
 (AFP)
中国当局、デモ実施のチベット僧を拘束
 (AFP)
チベット人の反中国デモ行進、インド警察が阻止
 (CNN)
ラサで火の手、銃声も=複数の負傷者 僧侶の抗議拡大、中国軍は寺院封鎖
 (時事通信社)
チベットで商店放火などの「暴動」、僧侶らの反中デモも
 (CNN)
米政府、弾圧停止を中国に要求
 (産経新聞)
抗議活動に厳しい姿勢、チベット自治区主席
 (AFP)
NYの国連前で抗議デモ チベット人、6人逮捕
 (中日新聞)
中国大使館で抗議の50人拘束=亡命政府周辺ではデモ
 (時事通信)
甘粛省でもチベット僧デモ
 (時事通信)
抗議デモの20人を拘束 ネパール
 (産経新聞)
チベット亡命政府、ラサ騒乱で30人の死亡確認
 (AFP)
「ラサは平穏」と市長  戒厳令を否定
 (中日新聞)

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2008年3月15日

近つ飛鳥博物館 企画展

 厚着をして出かけたのが恨めしくなるくらいの陽気の一日、大阪南河内、河南町にある近つ飛鳥博物館の企画展を見に出かけた。奈良の飛鳥よりも近い飛鳥ということなのだが、我が家からは電車3本、バス1本乗り継いで2時間以上かかる。


 近つ飛鳥博物館というと、安藤忠雄氏の設計として知られている?だろうか。外から見ると何の建物か良く解らない。


大きな地図で見る
 上から見るとこんな感じ。昨今は、新知事による整理対象物件のひとつと言った方が話題性はあるかもしれない。箱もの行政を弁護するつもりは無いが、ろくに現地を見ずに金勘定だけでどんな政治判断をするのだろう。
(こういう運動もあります → 大阪府の博物館をみんなで支援しよう


 企画展は大阪の古墳時代を考えるというもの。木棺、須恵器、竈形土器、耳輪などが展示されていた。ちょうど展示説明に時間に間に合い、副館長藤田氏の説明を聞くことができた。


 これは、藤田氏自身が関わっているという木製品で、腰掛け板とのことだが、まな板として使い回された様な傷が残っているとのこと。年輪年代法によって3世紀中頃が推定され、その推定の精度が議論にはなっているものの、共出土器との関係から奈良の箸墓古墳の絶対年代の判定に関わるという。20日にそのことで講演をされるとのこと。


 久宝寺遺跡出土の割竹形木棺。材は高野槙で、細長い木棺の中から大人2人分歯が確認されたとのこと。

 遠路出かけて企画展を見るのは3度目になる。テーマ的に興味をひかれるものを開いているのだが、展示室が狭いことがここの難点である。



 博物館は、河内平野から少し奥まった谷の中にあり、周囲には古墳が点在する雑木林と梅林がある。梅は今が盛りで、紅、白、黄の花が咲き誇っていた。


 穏やかな黄昏れに音の無いヒコーキ雲という静かなひととき。昼間は初夏のような陽気だったが、日が陰ると気温は急に下がり、少しの厚着では寒いくらいだった。

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2008年3月14日

全てのアメリカ先住民は6人の母親の子孫

 全てのアメリカ先住民は6人の母親の子孫、DNA調査で明らかに(Technobahn)

 南北アメリカ大陸に住む全てのアメリカ先住民は今から約2万年前に生きていた6人の共通した母親の子孫であることが、学術専門誌「PLoS one」に掲載された論文により明らかとなった。
 血が騒ぐわけでもないだろうが、こういうニュースには興味がある。この研究というのは、ミトコンドリアDNAを統計処理すると、違いが広がるのに2万年以上の時間がかかるという6つの系統があるということである。何年か前に話題になったミトコンドリア・イブと同じ種類の話である。研究の成果として、もし系統樹が書かれているものなら見てみたいと思う。

 6人とは随分少なくも見える。この場合の系統は、母方の先祖のみという血統なので、それほど少ない数字といわけではない。1人の女性の子供が各世代毎に確実に2人残れば、100年で3世代として千年で30世代、1万年で300世代、電卓の画面から軽く溢れれ子孫の数になるが、これはただの数字遊び。

 人類がたどってきた道(日本放送出版協会)によれば、15世紀末の南北アメリカには9千万人くらいの人が住んでいたという。数字の上では、6人も先祖がいれば十分。さらに想像を膨らませると、その9千万人の系統の中には絶えてしまった系統があるだろうし、同じくらいは男もいた。10世帯か20世帯くらいの夫婦が先祖だったとして、それほど突飛な話にはならなさそう。

 同書によれば、人類がシベリアに本格的に進出したのが2万8千年前頃で、1万4千年より前にはアラスカへ渡り、1万3500年前頃には北アメリカ各地へ広がって行ったという。では2万年前の人達はどこに暮らしていたのかというと、まだはっきりは解らないらしい。2万年は氷河時代でも寒さが厳しかった頃で、一度極北まで進出した人達が南へ撤退していた可能性が高いという。


 なお、上記記事の中程に

母系に限って子孫に伝わる特殊なミトコンドリア
とあるのは微妙に誤りで、「母系に限って子孫に伝わるミトコンドリアのDNA」の方が良いと思う。また、
 ユーラシア大陸から移住して人の子孫とする説があったが、今回、ペレゴ博士が行った研究発表はこの学説をDNA解析を使って実証したこととなる。
とあるが、アメリカ先住民の遺伝子研究だけで移住が証明されるわけではなく、アメリカ先住民以外の人の遺伝子と比較した結果であるはずである。

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2008年3月12日

江戸時代は本当に鎖国か

江戸時代は本当に鎖国か? 見直し進む対外歴史研究(朝日新聞)

 「鎖国」とは、江戸時代に幕府が交易の相手をオランダと中国に限り、日本人の海外渡航を禁じた政策——と習った記憶がある。ところが、「江戸時代は必ずしも鎖国の時代といえない」という見解が近年、歴史研究者の間で主流になっている。「鎖国」の言葉そのものを使わない教科書も登場している。
◆教科書も単純な記述避ける
 「近世日本は、『鎖国』をしていたと思われがちだが、東アジアのなかで孤立していたわけではない」
 18日に江戸時代の展示を衣替えする国立歴史民俗博物館(千葉県)は、対外関係の説明をこう改める。2年前までは、「鎖国体制が確立すると……」といった記述があり、今回力を入れる朝鮮や琉球、アイヌについての展示はなかった。(以下略)

 ニュースの見出しだけみると、鎖国は無かった?!・・・とでも言わんばかりにも見えなくはないが、中はそこまで驚く事が書かれているというわけでもない。最近の教科書には全く付き合いがないので、それはそういうものかという感じ。

 ただ、「東アジアのなかで孤立していたわけではない」と言い切れるのかには半信半疑。渡航禁止という厳重な海禁政策は行われていたし、海外との交易も4か所でしか行われていなかった。結局これって「1か0か」あるいは「白か黒か」的になんでもはっきりしているわけではなくて、良くも悪くも歴史とはそういうもの・・・というオチの方が良いのではないか。

 中国や朝鮮もキリスト教を禁じて外国人との接触を制限する政策をとり、ヨーロッパでは政府や東インド会社がほぼ独占的に交易をしていた。
 「当時はどこの国もそれなりに閉じられていた」という意味合いには引っかかりを感じる。 そもそも東アジアとヨーロッパだけが全てではない。じゃあそれ以外の世界はどうだったのかというと、自分は明確な答えを持っているわけではない。ここらへんのことって、東インド会社とアジアの海(講談社)とかを読むと解るのだろうか。

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2008年3月10日

(書評)黄河断流

地球研究叢書
黄河断流
---中国巨大河川をめぐる環境問題
福嶌義宏 著
ISBN978-4-8122-0775-8
昭和堂 2008.1
目次は、こちらを参照

 この本は、総合地球環境学研究所における循環領域プログラムの中の近年の黄河の急激な水循環変化とその意味するもの、通称黄河プロジェクトのリーダーを務める筆者が、共同研究の成果をもとに黄河を巡る問題を纏めたもの。筆者の専門は水文学と思われるが、本書は報告書ではなく当プロジェクトを紹介するものとして、黄河を巡る歴史から環境問題までを広く扱っている。

 本書は、3部14章よりなる。第1部は、歴史、地理から気象の変動、灌漑農業など黄河を巡る問題についての解説。第2部が、統計データを利用した食料生産地としての黄河流域の具体像とその解説で、水文学のモデルによって黄河の変化を再現している。2部の後半がとくに筆者の研究の中心部分と思われる。第3部は、灌漑農業をはじめとする水や農業をめぐる環境問題を考察したもので、黄河を中心に参考となる事例や日本における意義などにも触れている。

 ここでいう断流とは川に流水が無くなること。黄河断流としてここで採り上げているのは、主に1990年代に黄河下流部の広範囲で、長期に流水が無くなったことを指している。中でも1997年が深刻で、黄河最下流部の流量観測所では226日間断流し、その範囲は黄河が華北平原を流れる部分の9割にあたる700kmに達したとのこと。

 本書のタイトルは、黄河断流なわけだが、自分が読み終わった感想としてそれは本書の切っ掛けとなった事件であって、内容的には、副題中国巨大河川をめぐる環境問題の方が中心と思う。断流のメカニズムについては十分に示されているが、その因果の部分がさほど強く主張されていないように見えることもある。筆者の関心は、断流そのものから、黄河に関わる環境や農業に移り、その問題点を指摘することにより意義が求められているということだろう。


 本書の興味深いところだが、上に書いたようにまず水文学的な解析に至るまでが本書に中心で、その為に必要な黄河の流量、降水、気温や耕地面積などのデータが紹介されている。まずそのデータそのものが興味深い。そして、大河のモデル解析など変数が多すぎてアバウトなものかと思ったが、意外に繊細なものに仕上がっている。また中国の地理、地勢という点で、黄河流域の状況、とくに大規模な灌漑が行われている場所、その実態、流域のダム、黄河からの取水の実態などの情報も自分には有意義だった。

 本書では、黄河のことを読み解く上で遡って歴史上のことから語っている。ここで示されているような黄河を巡る状況や問題点は、逆に歴史の中での黄河を考えことにも十分に意味があると思う。その意味でも有意義な一冊だった。

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2008年3月 9日

朽木谷

 いよいよ春到来を思わせる晴天の一日、泰巖宗安記で紹介されていた講演会戦国時代のお城は面白いを聴くため、まだ行ったことの無かった朽木谷へと出かけた。朽木の中心部へ京都から直接行くために、京阪電車の終点出町柳駅前を朝8時前に出るバスに乗る。最近では鯖街道の名で知られた道、織田信長が越前朝倉攻めの失敗から撤退に使ったルートを逆に辿る。大原を抜け、峠を2つ越えて朽木まで1時間と少し。日差しは春なのに景色はまだかなり白かった。


 谷を南から北へと貫いて琵琶湖へと流れ出る安曇川。日差しの強さと雪景色が同時に収まった、珍しく撮った時のイメージそのままの一枚。


 講演会は午後からなので、その前にあちこちと散策。江戸時代に朽木を治めた朽木氏の陣屋跡には、郷土資料館が建ち、陣屋や山城のジオラマ展示のほか山城の資料が手に入る。


 朽木中心部の北に聳える西山。この山頂にある西山城跡に登るのが一番の目的だったのだが・・・。地図によれば山の標高は343m、麓との標高差は170mほど。資料館の方の説明によれば、近年案内板の整備が行われ、城跡まで40分ほどの道のりとのこと。


 ところが、いざ登城道に取り付いてみたところご覧のとおり。30cmほどの積雪が残り、場所によっては50cm以上に吹き溜まっていた。雪山を歩く装備などあるわけもなく、後日のリベンジを期して征服を断念した。


 講演会は基調講演が2つで、奈良大学の千田氏による「戦国の城は面白い」と、朽木村史編さん室の石田氏による「織田信長の朽木越と城館ネット」。

 千田氏は、戦国時代の城に関わる話をいろいろとされたが、最初の話題が「城跡から桶狭間の戦いを再評価する---愛知県桑下城の調査」というもの。桑下城発掘調査の写真を見ながら、桶狭間の戦いの直前に信長が桑下城を奪還したことの意味を説かれていた。桑下城は、愛知県瀬戸市にあったという城。桶狭間関係で瀬戸市の城というと、品野城を挙げたものは見たことがあったが、桑下城はその品野城と川を挟んで向かい合う位置にあるらしい。

 石田氏の方は、朽木周辺の城館の紹介の次に、信長、秀吉、家康の撤退路をそれぞれ紹介されていた。一度実体験のため、敦賀からの撤退路を歩いてみるというのも面白そうだが、朽木までで56km。ちょっと遠いかな。


<戦利品>
第12回全国山城サミット記録集
高島の山城と北陸道
---城下の景観---
高島市教育委員会 編
ISBN978-4-88325-299-2
サンライズ出版 2006.3

 2005年10月に高島市で開催された全国山城サミットの記録。2つの基調講演「戦国期清水山城・城下の景観」、「戦国時代の山城と城下がもつ多様な機能 〜越前を中心に」と、フォーラム「高島の山城と北陸道 ---城下の景観」を集録。

 

朽木村の城館探訪
石田敏 著
朽木村教育委員会 1995.3

 旧朽木村の城館史と村内11の城館を紹介した冊子。イラスト、写真、地図、図面つき。

 

朽木村歴史年表
朽木村教育委員会 1992.3

 奈良時代から現代までの旧朽木村の年表を載せた冊子。

 

高島歴史探訪ガイドマップ1
高島の城と城下
〜城・道・港〜

 ホチキス綴じの手作り冊子ながら、全28頁に城跡の図面を多数集録。資料価値十分。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
朽木谷中心部西山城跡周辺

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2008年3月 8日

矢祭町議員の日当制

 先日の道州制についての中で触れた福島県の矢祭町。ここ数日、複数のニュースに名前が出ている。ひとつは、同町議会が昨年暮れに決めた議員報酬を日当制にすることについて、この4月の実施を前に各地に波紋を広げたというもの。
(日当制についてのニュース→議員報酬、全国初の日当制に 福島県矢祭町(産經新聞))


 講演会:日当制導入体験を聴く 住民団体、江府で来月1日(毎日新聞)

 江府町議報酬の日当制導入などを直接請求している住民グループは26日、(中略)矢祭町の前町長ら2人を講師に招き、3月1日に講演会「町財政を考える住民の集い」を開くと発表した。
 江府町と矢祭町の数字を比べてみる。

 江府町 面積124.66平方キロ、人口3931人(2004年3月現在)、町職員84人(2004年4月現在)、町議員10人(2007年6月現在)、一般会計歳出35億円(2005年度)、地方債残高68億円(2005年度)(町のHPより)

 矢祭町 面積118.22平方キロ、人口6810人(2008年3月1日現在)、町職員77人(2005年3月現在)、町議員10人(2005年3月現在)、一般会計歳出31億円(2005年度)、地方債残高48億円(2005年度)(町のHPより)

 面積は同じくらいだが、人口は江府町の方が半分に近い。それでいて町職員、歳出ともに江府町のほうが多い。あくまでも矢祭町との比較だが、努力の余地はだいぶあるということになる。人口が半分ということを考えると余地では済まないとも言える。地勢の違いがどのくらい影響するかということはあるが、矢祭町は江府町にとって良い見本なのだろう。


 議員って何だ 福島県矢祭町で考えた 上・日当制の衝撃 報酬3分の1に削減(北海道新聞)
 議員って何だ 福島県矢祭町で考えた 下・専業か兼業か 「カネより志」で改革(北海道新聞)

 矢祭町を引き合いに出した北海道の市町村はどうかという特集記事。この中で前矢祭町長のコメントが紹介されている。

 地方議員が本当にチェック機能を果たしているか。政策提言をどれほどやっているのか。まちが大きければ専業化でプロに、小さければ兼業のボランティアで、という分け方はできない
機能という点では正しいと思う。現実問題として規模が大きい程処理する問題は増えるので、結果的に専業化せざるを得ない。

 この特集が、報酬が少なければ議会が活性化し、多ければ停滞すると単純化したいわけではないだろうが、組織が大きければ安住が起きるのはそうだろうと思う。ただ、矢祭町の例が札幌市にそのまま援用できるわけではないし、「報酬が見合えばその分は十分に働く」ということも否定したくない。ただし、財政が逼迫しているほどに、金銭的な部分の想定が厳しい方に向くのは当然だろう。


 人はなぜ議員を目指すのか…「日当制」で候補者減少?(産経新聞)

 改革を実施した矢祭町では、条例実施を前に今月町議会が改選されるとのこと。

 町役場で開かれた町議選(定数10)の立候補予定者説明会。日当制実施を新年度に控えた町議選として注目が集まったが、出席したのは現職7、元職1、新人1の9陣営。12陣営が参加した前回に比べ、3陣営少なかった。
 このニュースによると、日当制に反対した議員は、
 収入に関係なく立候補できるのが民主主義の原点。だが日当制にして報酬が下がれば、立候補できない人が出てくる。改革とは呼べない
と述べたとのこと。また、同町議会議長はの見解は、
 報酬が下がれば候補者は金のかからない選挙を心がけるだろう。また本当に志のある人ならば、報酬とは無関係に立候補するはずだ
というもの。上で紹介している北海道新聞の特集記事内にある資料によれば、表に挙げられている10町の町議会の会期日数が17から46日で、矢祭町もこの範囲内にある。矢祭町が特別少ない日数というわけではない。30日の会期のために、どのくらい時間外の努力が必要かという問題は残るが、数字を見る限りこの規模の町の議員であれば兼業であることが当然のように見える。結局は、立候補できる人とできない人のどちらが多くなるかの問題である。門戸をより開き、世襲化を抑制するのであれば、自分は歓迎したい。


 現実的に、今の時点では小さい町だからできたことである。議会の活性化という点では、いくつも考えられる手段のひとつにすぎないが、検討されてしかるべき事例と思える。少なくともこういう発想が矢祭町から起こり、波紋を広げているということが面白く興味が沸くところである。


<参考>
 矢祭町議会議員の報酬及び費用弁償に関する条例

<その他のニュース>
 矢祭町:住民課と健康福祉課を統合、条例改正案を提案(毎日新聞)

 不接続の矢祭町長「議会の判断重い」(朝日新聞)

<Google Map> 矢祭町江府町

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2008年3月 7日

新しいライフ・デザインを求めて

 夕方から、大阪西梅田で開かれた開館30周年記念という民博の公開講演会新しいライフ・デザインを求めてを聴きに行ってきた。新しいライフデザインってなに?という感じではあるが、講演者に佐々木史郎氏の名前を見つけて申し込んでみた。自分的には、佐々木史郎というと北方から来た交易民(NHK books)の著者というイメージ。

 佐々木氏の講演が「森に生きる先住民—ロシアと中国のあいだで」、もうひとり鈴木七美氏が「アーミッシュのユートピア探求」というもの。ここでいう森の民は、沿海州北部に暮すウデヘの人々のことで、氏の最近のフィールドワークの対象であるらしい。鈴木氏のアーミッシュというのも聞き慣れないが、アメリカのペンシルベニア州で、宗教的な信念から少し前近代的なコミュニティーを維持している人々のことだった。

 講演は、そんな彼らの独特な生活の一面や経歴についての報告。ディスカッションは、その独特な中に見出すべきもの、とくにその意外な柔軟性についてという方向で進んだ。なかなか興味深い内容だったが、全体で僅かに2時間で、それぞれの講演は30分だった。佐々木氏は話し上手な方で、ウデヘだけでなくもっと広い話が聞けたらと思ったがそれはまあ無理な話。また話を聞く機会があればと思う。


<戦利品>
国立民族学博物館研究報告別冊20号
ユーラシア遊牧社会の歴史と現在
松原正毅・小長谷有紀・佐々木史郎 編
国立民族学博物館 1999.3

 会場で出張販売をしていたので買ってきた。600頁を超える厚さでかなり重かった。遊牧民関係の論文満載な一冊だが、堀直先生の「天山北麓の故城跡」は、100件を超えるリストが緯度経度付きで載っている。かなり楽しめるかもしれない。

 

東アジア内海世界の交流史
周縁地域における社会制度の形成
加藤雄三・大西秀之・佐々木史郎 編
ISBN978-4-409-51059-9
人文書院 2008.3

 こちらは、帰りに寄った本屋で見つけて衝動買いした。本書掲載の佐々木氏の一文「極東ロシア先住民族の狩猟領域---沿海地方のウデへの事例から」は、今日のレジメにもあった地図が載っており、関連の内容と思われる。今日の聞き足りない分を補ってくれるだろうか。

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2008年3月 5日

経県値&経県マップ

 以前友人の日記で知ったもので、経県値&経県マップというのがある。現在の自分の経県値は、と入力すると191点と出る。引っ越し回数が多い分結構高い。ここ2年ほどで変わったのは宮崎県だけで、石川県、山梨県、滋賀県が穴のまま残っている。今年はひとつこの穴埋めをしようか・・・とも目論んでいる。


 世界の国というのはないかと探すと、World66という経国マップのサイトがあった。

 自分は、日本を含めて10か国。しかもドイツはフランクフルト空港に2時間いただけで、実質は海外8か国。元バックパッカーの友人に100か国を数える猛者が何人かいるが、自分の場合中国とインドに時間をかけたのでこのくらい。今年1国追加予定。


 経国マップというのでもうひとつ。国は国でも日本の旧国、令制国ではどうか。今のところ、そういうのを表示してくれるサイトはなさそうなので、自作してみた。江戸時代の68か国に明治元年に分割されて増えた東北の5、明治2年制定の北海道の千島を除く10に、琉球を加えた84を分母にする。結果は以下のとおりで、合計291点になった。全国宿泊で336点だから、まだまだ延ばし甲斐がある。年末には何点になっているだろうか。

居住(5点)6
宿泊(4点)52
訪問(3点)15
接地(2点)3
通過(1点)2
未踏(0点)6
 
 

 



  陸奥



 
 
 



 
 

 
 





 









 












 









駿

 
 

 





 



 

 
 紀伊
 

 

 


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2008年3月 3日

(書評)国境・誰がこの線を引いたのか

スラブ・ユーラシア叢書
国境・誰がこの線を引いたのか
---日本とユーラシア
岩下明裕 編著
ISBN978-4-8329-6661-1
北海道大学出版会 2006.6
目次は、本書タイトルのリンク先を参照

 この本は、中国とロシアの国境問題が解決したのを契機に、2005年に7回にわたって開催されたスラブ研究センターの公開講座、ユーラシアの国境問題を考えるの講義録として編纂されたもの。雰囲気を残す意図もあり本文は口語体とのこと。

 それぞれの地域に関わりのある人が担当する形で、ドイツ、グルジアを中心としたコーカサス、中央アジア5か国、インド・パキスタン・中国、竹島、東シナ海と南シナ海、中国とロシアの7エリアが、それぞれの回の話題になっている。基本的には、20世紀あるいは近年にどのような国境問題があり、どんな事件があり、どう推移したかなどの事例紹介とその分析という内容。その中では、関係する文献の検証を行って細かい解説をしている竹島についての5章がやや特殊。また、編者が担当した中国とロシア関係を中心とした7章では、北方領土問題にも触れている。

 少し細かい部分で興味深い部分を少し摘み食いする。1章について、ドイツが第一次大戦以降に大きく領土を失ったことは、高校世界史レベルで地図的にも背景についても覚えている。しかし、当事者として大きく領土を失ったことをどう捉えてきたのかということは、考えたことがなかった。さらに分断された状況の中で、政治的な状況がどう推移したのかという点は、興味深い話だった。第二次大戦の敗戦国どうしであっても、多くの面で日本と対照的に見える。

 7章では、中国とロシアが領土問題をどう解決していったのかが簡単に紹介され、さらに日本の北方領土問題の問題点が簡潔に纏められている。それは、解決を推奨するというのでなく、かなり中立な立場での要点が多様に押えられている。覚えておくべきだなと思う部分が多いのだが、その内のひとつとして、国境問題が解決したからこそ、

 ロシアと中国で国境貿易がますます盛んになっており、国境での様々な協力が深化してます。(189頁)
という指摘は自分には重く感じられた。これは経済的な利益以上の話である。

 この他の章もそれぞれに個性的で興味深いものばかりだった。7章で190頁と適当な厚さで読み易いものだった。1章あたりでは少ないくらいだが、興味を惹かれる部分が多く中身が濃く感じられた。国境問題を考える時の取り掛かりとして、薦めることができる一冊である。


 国境や領土という問題について、少し自分の考えを書き残してみる。自分は、固有の領土という言葉に違和感を持っていた。長い歴史でみれば、先有はあっても固有はありえない。ただ、近代国家は明治維新からと考えれば、その時点での領土は固有ということもできるが、竹島と尖閣諸島は固有ではなくなる。固有という言葉を使う限りここら辺が限界である。

 もう一点、問題の解決ということ。見果てぬ夢にしない為に具体的にどうするのか。ひとつには、解決することの意義、メリットが、もっと指摘されて良いのではないかと考えさせられた。また、相手があることである上に認識の違いの大きさを考えれば、道筋はかなり純度の高い政治であると思える。その意味で、歴史、固有という言葉に違和感を感じることは今後も変わらない。


<参考>
中ロ 国境秘話(岩下氏の解説)

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2008年3月 2日

天王山と山崎城

 3月最初の週末。朝から晴れてようやく春らしくなたので、今年最初の山城登りに出かけた。去年11月の岐阜城以来、3ヶ月以上空いてしまった。今年最初の山城は、良く電車の窓から見上げている天王山。明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いの時に取り合った、いわゆる天王山だ。

 その天王山の頂上には、山崎城(宝寺城、宝積寺城とも)跡がある。秀吉は、光秀に勝利した後、大坂へ移るまでの1年近く、山崎城を居城にしたという。自分には、山崎城と秀吉という関係が世間にあまり知られていないような感触がある。大河ドラマとかであまり触れられた記憶が無いのは、単に自分がわすれているだけか。

 山頂へは、JRの山崎駅、阪急の大山崎駅から歩く。登り口は観音寺と宝積寺の2か所。今日は、北よりの観音寺から登ってみた。


 急な石段を登った先の境内には、梅が開き甘い匂いを流していた。今年初めての梅。本堂左手に出た所に登り道がある。整備された幅の広いハイキング道。


 観音寺から20分ほど登ると展望台があった。北東方、京都方面が見渡せる。眼下の古戦場は、今は高速道路が複雑に絡み合うジャンクション。天王山の頂上は眺望が利かないので、展望が楽しめるのはここだけ。

 酒解神社を経て、展望台から20分ほどで城址と目した所にたどり着いた。山崎城の平面図の類いは持っていなかったが、麓にある大山崎町歴史資料館の展示物の中に見つけた。その図面によると山崎城は、山頂とその周辺、山頂から東側に下った所、更に酒解神社方に下った所の3群の郭からなっていたようだ。


 写真は、一番下の郭群に残る土塁。図と現地から、下から登ってきた道(登山道とは別)がぶつかる虎口の上側の土塁と推測した。


 こちらは、山頂の郭群の一番広い郭から、奥にある一番高い郭を見通したところ。山崎城には天守閣があったというが、この一番高い郭がその場所だとしたら、あまり大きいものではなかったのかもしれない。


 それぞれの郭群は大きく見積もっても50メートル四方程度。部分的に石垣も残っているが、かろうじてという程度。土塁は何か所か残っているものの、虎口や登城道などあまりはっきりしない。わずか一年とはいえ、秀吉の城としては物足りなく思ってしまう。歩いた感じ、地山はかなり脆く表土が雨で流れ易いように見えた。崩れた山肌から石垣にも見える石組が見えている所もあった。加えて、城址直下に神社があり、周辺はタケノコの産地として留山が広がっていて、近年も続いて地形に手が加えられ続けているように見えた。その為にどこまでが往時の地形なのか、すっかり分からなくなっているのではないか。地形図を見る限り、より広く城地が広がっていても良いし、少なくとも本丸の守りとして押えておくべき山が周辺にいくつもあるように見える。


 帰りは、宝積寺へ下ってみた。30分少しの道のり。駅あたりの標高が15mで、山頂は270m。随分と標高差があるものの、道が整備されているためかあまり苦労しなかった。今年初めてのわりに疲労が少なかったのは、日頃の賜物かはたまた。日が陰るとまだまだ肌寒い一日だったが、日曜日ということで家族連れやグループなど弁当持参のハイカーが多かった。

 帰宅してから気がついたが、山崎へ行ったら寄ろうと思っていた離宮八幡神社を奇麗さっぱり忘れていた。離宮八幡神社は、油座の元締めとして知られ、斎藤道三(あるいは彼の父?)所縁の神社。改めて立ち寄らなくては。


<電子国土地図>天王山周辺

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2008年3月 1日

1990年中国紀行 <杭州>

 江南を代表する景勝地の杭州は、南宋の都臨安だった街。南宋がモンゴルによって滅ぼされてからも、江南の中心であると同時に、北京へと通じる大運河の出発地として栄え続けた。自分がこの街に立ち寄ったのは、そんな歴史上の古都だからというよりも、旅が終わりに近づいた中で中国らしい風情を見納めておくため。

 市街地の西に広がる西湖は、周囲十数キロメートル。ちょっとの散策には長い距離だが、日がな一日のんびりと歩くには、大きなアップダウンもなく楽しいコースだった。年の瀬押し迫った頃で、冬枯れに少々寂しさのある風景ながら、気侭に向けた素人カメラでも、それなりの写真が残っているところがさすが西湖と思う。


 正確な場所は記憶していないが、西湖の西寄りにある橋の上に建つ亭と思われる。


 市街側の湖畔から見た西湖越しの夕日。西湖の風景の中でも夕日の美しさは特別だった。


 杭州の南を流れる銭塘江を見下ろす場所に建つ六和塔。この塔も杭州のシンボルのひとつ。


 大潮の時に逆流することで知られる銭塘江。上を道路、下を鉄道が走る銭塘江大橋が架かっている。


 <Google Map>
杭州と西湖六和塔銭塘江大橋

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