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2008年3月27日

今年も春が来た

 鴨川沿いや高瀬川沿いの桜が先日開花した。過去ログを開いてみると、去年は29日に春到来と書いているので数日早い。


 2枚とも今朝撮った写真。まだ1分いくかどうかなので、接写でないと絵にならない。天気次第ではあるが、今週末だとまだ早く、来週末が見頃か散り始めといったところだろうか。


 今の時期、枝垂柳も新芽を吹く。あまり上手く撮れていないが、この淡い若葉の色がまた良いのである。

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コメント

伊賀の方はまだ咲いておりませぬ。
最近、短歌などを習おうかとも思っているのですが、桜に特別な感傷を抱く「日本人」という属類の縁者であったことを、痛切に自覚しつつある巫俊であります。

しかし個人の「所属」先や「民族」を表現するのに適当な言葉というのは無いものですね。
そもそもそういう民族という存在が虚構なんだろうと決めてかかれば楽なんでしょうけど、
私は北宋の徽宗の絵画で代表してイメージされるような中国の伝統的士大夫の文化という奴が、そもそも虚構というか、五帝以来の伝統文化であるという自負や歴史を創出して始めて維持できるのが古典中国文化、中国「民族」という奴だろうと思っています。

「民族」という言葉には繊細なまでに警戒しているのに、虚構を真実と認定することを前提として成立する歴史に依存している文化という奴に酔いしれて、「桜は本当に素晴らしい」とか「中国の文人の画は本当に素晴らしい」とか言って一国の文化を鼓吹するのは、けっきょく「民族」という言葉だけは嫌悪しつつも、文化的嗜好の面から「民族」発生の芽を播いてることに他ならないと思うんですよね。

だから中国文化とかモンゴル文化とか、日本文化の「圧倒的な影響力」を過信している本とかに出会うと、開口一番に「民族」という言葉を狩ったくせに何言ってるんだよ!とか思うんです。

むとうすさんは何かお考えでしょうか?
さっきの桜と日本人についてですが、例えばもし私が桜の木を家に植えたとして、しかし民族主義者の隣人から「反日分子に桜の木を植える資格はない!」と怒鳴られてひっこ抜かれたりしたら、きっと桜という日本文化の残滓を常にまとった存在を愛でるのに躊躇すると思います。

これは事故に遭った人が電車に乗ったら震えてくるとか言うのと同じで、電車が事故のカテゴリーに属したり、桜が日本人のカテゴリーに属すると認知されることで発症する病気というか、つまり思考の限界だと思うんですよね。袈裟と坊主を分けて考えるということができなくなる病気。
だから「民族」という言葉だけを狩っても、例えばモンゴルが素晴らしいのカテゴリーに属していたりしたら、モンゴルの素晴らしい歴史的役割だけを説くスピーカーになってしまう。それって何か進歩してる見解なのか?とつよく懐疑しています。

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年3月28日 03時33分

>中国「民族」という奴だろうと思っています。

五帝の名前を唱えることのできない人が「俺は中国民族だ」と言ったりすることから、個人によって「民族」の理解は異なる訳ですが、
小さい子どもが「ちゅうごくじーん」という言葉を覚えてうれしそうにはしゃいでいたりすれば、やっぱり深く関係してるのは「所属」という問題のはずで、
「民族という奴」を定義しようとすると、文化的な影響力という奴と個々人の意識、認知という奴を両方カバーしないと論じられないところがとても厄介です。

やっぱり「民族」というひとことの中に複雑な過程、意識が宿っていますね。

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年3月28日 04時17分

巫俊さん、返事が遅くなりました。
桜が開いたとはいえ、少し花冷えな数日。来週末に宴を楽しむにはちょうど良いかもしれません。

返事を書いていたら、わりと纏まった自分らしい一文になったので、別途アップさせて頂きました。
http://samayoi-bito.cocolog-nifty.com/mutous/2008/03/post_65bf.html

投稿: 武藤 臼 | 2008年3月29日 14時42分

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