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2008年3月 2日

天王山と山崎城

 3月最初の週末。朝から晴れてようやく春らしくなたので、今年最初の山城登りに出かけた。去年11月の岐阜城以来、3ヶ月以上空いてしまった。今年最初の山城は、良く電車の窓から見上げている天王山。明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いの時に取り合った、いわゆる天王山だ。

 その天王山の頂上には、山崎城(宝寺城、宝積寺城とも)跡がある。秀吉は、光秀に勝利した後、大坂へ移るまでの1年近く、山崎城を居城にしたという。自分には、山崎城と秀吉という関係が世間にあまり知られていないような感触がある。大河ドラマとかであまり触れられた記憶が無いのは、単に自分がわすれているだけか。

 山頂へは、JRの山崎駅、阪急の大山崎駅から歩く。登り口は観音寺と宝積寺の2か所。今日は、北よりの観音寺から登ってみた。


 急な石段を登った先の境内には、梅が開き甘い匂いを流していた。今年初めての梅。本堂左手に出た所に登り道がある。整備された幅の広いハイキング道。


 観音寺から20分ほど登ると展望台があった。北東方、京都方面が見渡せる。眼下の古戦場は、今は高速道路が複雑に絡み合うジャンクション。天王山の頂上は眺望が利かないので、展望が楽しめるのはここだけ。

 酒解神社を経て、展望台から20分ほどで城址と目した所にたどり着いた。山崎城の平面図の類いは持っていなかったが、麓にある大山崎町歴史資料館の展示物の中に見つけた。その図面によると山崎城は、山頂とその周辺、山頂から東側に下った所、更に酒解神社方に下った所の3群の郭からなっていたようだ。


 写真は、一番下の郭群に残る土塁。図と現地から、下から登ってきた道(登山道とは別)がぶつかる虎口の上側の土塁と推測した。


 こちらは、山頂の郭群の一番広い郭から、奥にある一番高い郭を見通したところ。山崎城には天守閣があったというが、この一番高い郭がその場所だとしたら、あまり大きいものではなかったのかもしれない。


 それぞれの郭群は大きく見積もっても50メートル四方程度。部分的に石垣も残っているが、かろうじてという程度。土塁は何か所か残っているものの、虎口や登城道などあまりはっきりしない。わずか一年とはいえ、秀吉の城としては物足りなく思ってしまう。歩いた感じ、地山はかなり脆く表土が雨で流れ易いように見えた。崩れた山肌から石垣にも見える石組が見えている所もあった。加えて、城址直下に神社があり、周辺はタケノコの産地として留山が広がっていて、近年も続いて地形に手が加えられ続けているように見えた。その為にどこまでが往時の地形なのか、すっかり分からなくなっているのではないか。地形図を見る限り、より広く城地が広がっていても良いし、少なくとも本丸の守りとして押えておくべき山が周辺にいくつもあるように見える。


 帰りは、宝積寺へ下ってみた。30分少しの道のり。駅あたりの標高が15mで、山頂は270m。随分と標高差があるものの、道が整備されているためかあまり苦労しなかった。今年初めてのわりに疲労が少なかったのは、日頃の賜物かはたまた。日が陰るとまだまだ肌寒い一日だったが、日曜日ということで家族連れやグループなど弁当持参のハイカーが多かった。

 帰宅してから気がついたが、山崎へ行ったら寄ろうと思っていた離宮八幡神社を奇麗さっぱり忘れていた。離宮八幡神社は、油座の元締めとして知られ、斎藤道三(あるいは彼の父?)所縁の神社。改めて立ち寄らなくては。


<電子国土地図>天王山周辺

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