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2008年4月30日

三浦峠と一石峠《熊野古道》

 朝8時に宿を立って三浦峠へ向かった。三浦から道瀬へと抜けるこの道は、近辺の他の道が峠の名前で呼ばれているのに対して、熊谷道の名前で呼ばれている。三浦の集落の北から緩やかな林道様の道が続き、やがて杉、檜の林の中に続く細い道になる。


 熊谷道に限らず、伊勢路の熊野古道の多くが大正の頃にトンネルが開通するまで重要な生活道路だったそうだ。恐らくは明治以降も、場所によっては荷車でも通れるように改修が続けられたことだろう。三浦峠もそんな場所のようで、現在は10mほどの深さの切り通しになっている。標高も100mを少し越す程度で、三野瀬駅から2km、25分の快適な散策路である。


 下り道は、登り口まで500mほどで、普通に歩いて10分とかからなかった。


 道瀬から古里までは、ほぼ海岸沿いを歩く。途中の50mほどの高台に展望台があって少し遠くの島まで眺められる。


 古里から紀伊長島へ抜けるのに越えるのが一石峠。こちらはさらになだらかで、峠付近でも標高が70mほどしかない。写真のような林の中の古道というところは、北側の100mほどだけで、他は林道や普通の舗装道路を歩く。

 林を抜けて国道に出た所にあるバス停がいちおう終点。そこまで三野瀬駅から8kmほど、1時間40分かかった。標高差もほとんどなく、朝の準備運動にはお誂え向きだったろうか。バス停から紀伊長島駅までは、トンネルを避けて海沿いを4km、さらに1時間ほど。



「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(長島)を基に作成しています。」

 赤線が三浦峠から一石峠を越えるルートです。三浦峠付近や展望台付近は、あまり正確ではありません。地図をクリックすると大きな地図が別のウィンドウで開きます。

<国土地理院地図閲覧サービス>
 三浦峠周辺
 国道のトンネルの上が三浦峠。

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2008年4月29日

始神峠《熊野古道》

 馬越峠の次は始神峠。起点となる船津駅までは、隣の相賀駅から船津川沿いに続く国道やその旧道を歩いて1時間ほど、4.5kmの道のり。登り口最寄りの馬瀬バス停はさらに2.5km先で、その先の橋を渡ったところで国道を離れる。


 1kmほどで林の中へ続く林道となり、峠道の入り口を示す看板が立っていた。じつはその先、宮谷池という緑に包まれた溜池の辺りで水辺に気を取られていて道を間違えてしまった。これには言い訳がある。下のリンク先の地形図には、谷沿いを北東へとほぼ真っ直ぐに登っていく道が描かれている。いくつかのパンフレットやガイドブックのイラストマップもこれを下敷きにしていると思われる。しかし実際の道は違っていて、山腹を等高線に沿って谷を大きく回り込む様になっていた。池の周りを行き来して道に戻るのに30分以上過ぎ、日が西に傾きかけてしまった。


 この登り道は、谷を回り込んで進む分山登りという程の険しい道ではなく、迂回している分長くはなっていてものんびりと歩くことが出来る。道幅が広くて林道そのものという感じだが、途中からだいぶ狭くなる。また、この道には石畳は残っていないが、写真のように石垣で補強された所があちこちとある。積み方を見て年代が分かるほどには詳しくない。常時手が入ってはいただろうが、いつ頃のものだろう。


 看板から2kmほど、道に戻ってから30分あまりで峠に出た。始神峠は標高150mあまりで、馬越峠に比べるとそれほどの高さではない。写真はその峠からのもの。視界がそれほど広くないものの、紀伊長島方面の入り組んだ海岸線の眺めは悪くない。


 発電所の脇へと下る道を2km弱、30分ほどで三野瀬側の登り口へ。ここにも新しい石柱と、真新しい案内板が立っていた。国道に合流して海岸沿いへ出ると、左手の一段上に温泉がある。終点三野瀬駅までは、さらに1km、15分ほどの道のり。

 1日目にもう一つ峠を越える予定でいたが、余分に時間を使った上にかなり足腰に来てしまったので、初日は三野瀬駅に辿り着いて終わりとした。



「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(島勝浦)を基に作成しています。」

 赤線が始神峠道です。帰宅してから記憶を頼りに引いているので、細部についてはアバウトです。地図をクリックすると大きな地図が別のウィンドウで開きます。


<国土地理院地図閲覧サービス>
 始神峠周辺
 国道の三船トンネルの真上が始神峠。

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2008年4月28日

馬越峠《熊野古道》

 先日書いたように、20日、21日の二日間で熊野古道伊勢路の5つの峠を歩いてきた。それぞれの峠ごとにもう少し詳しく纏めてみる。

 伊勢神宮から熊野大社へと詣でる伊勢路について、ガイドブックやパンフレットはいずれも北から南へ、つまりは参詣する方向へ案内されている。自分はというと、全く思いつきで尾鷲を起点に南から北へと歩いた。参詣もしていないのにもう帰り道かという不信心者である。またこれも偶然だったが、5つの道とも峠の南側の方が北側よりも勾配が緩やかということが共通していた。自分的には、急な下り坂に膝がついて行けさえすれば、南からの方が歩き易いように思う。

 まず最初が尾鷲から北へと越える馬越峠。市街の北にある北川橋の先から、紀北町側の国道端までおよそ4kmの道のり。


 尾鷲側からだと、峠の少し手前あたりから紀北町側に下るまで杉と檜の林が続く。自分には尾鷲といえば杉のイメージなのだが、檜の林も多いらしい。ほとんどが戦後、それも1960年代以降のもののようで大木はないのだが、峠から下った紀北町側に、写真のような大木が例外的に数本並んでいた。直径1mを越える樹齢数百年の杉の大木だ。


 熊野古道のイメージというと、ひとつにはこの写真のような林の中へと続く石畳の道だろうか。自分が歩いた5つの峠の場合、石畳道が残っているところの方が少なかったが、馬越峠は峠の前後にわりと長く残っている。


 馬越峠から尾鷲市街を見下ろした眺め。標高は290mほど。0m近い所から登ってきたので、300m近く登ったことになる。日曜日、それもちょうどお昼ということで、自分も含めてお弁当休憩の人がだいぶ集まった。


 古道沿いには様々な案内があるが、これは紀北町側登り口に立つ新しそうな石柱。

 尾鷲駅から北川橋までが1km弱あり、駅を出てから峠につくまでちょうど1時間。下り道は、雨上がりで湿った石畳を少し慎重に歩いたが、それでも30分ほどだった。ここには鷲毛というバス停がある。最寄りの相賀駅までだと更に2.5kmの舗装道路を歩いて40分ほど。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(引本浦、尾鷲)を基に作成しています。」

 赤線が馬越峠道ですが、地形図の線をなぞっただけでそれほど正確ではありません。地図をクリックすると尾鷲駅から相賀駅までの大きな地図が別のウィンドウで開きます。


<国土地理院地図閲覧サービス>
 馬越峠周辺

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2008年4月27日

海域アジア史研究入門(感想)

海域アジア史研究入門
桃木至朗 編
ISBN978-4-00-022484-0
岩波書店 2008.3
目次はこちらを参照

 まず、「海域アジア史」とは何か。本書総説によれば、アジアを取り囲む海域の歴史としての「アジア海域史」に留まらず、海域を通しての陸地相互、海と陸の関係も対象として、従来のアジア理解からの「刷新」を謳うという意欲的な意味を持たせているという。また、単に新しい視点というだけでなく、地域相互の繋がりを前提としたより広い視野も求められている。

 本書では、広域での交流が活発化したという9世紀からを対象としている。第1篇は3つの時代に分けて17のテーマを扱い、第2篇では必ずしも時代に捕われない8つのよりコアなテーマを扱っている。計25章で、若手を中心とした32人の著者により、研究動向や先行研究などが紹介されている。似たタイトルの本として、一昨年出版された中国歴史研究入門(名古屋大学出版会)があるが、中国歴史研究が研究の蓄積という点もあって研究動向や先行研究の手引きとしての比重がより大きいのに対して、本書はその機能を持たせながらより新しい研究にも焦点をあてているという。また、中国歴史研究は専門性の高い濃密な資料であるのに対し、本書は一般読者が入門書として読めることも配慮したという。先行研究の紹介をどのくらいするかという点は章により比重が異なり、それは各テーマの濃淡や筆者による部分と思われが、トータルでみれば十分に面白く読むことができたと思う。


 総論としての目新しさに加えて、自分の関心が基本的には内陸にあるために今まであまり読んでいない分野が多々含まれることもあり、全体を通して興味深く読み終わることができた。25章で235頁、1章あたり10頁程度で中国歴史研究よりも文字が大きいとはいえ、読みでは結構あり思ったよりも時間がかかった。入門書として十分に意義のある一冊だったが、興味が向けばさらに深く掘り下げて行ける場所が分かるのも当然ながら本書の魅力である。

 印象に残った章について、もう少し感想を書き足す。まず、橋本雄氏、米谷均氏の9章「倭寇論のゆくえ」。一回読んだだけで必ずしも消化できていないのだが、倭冦の動向について従来言われている以上に複雑な実態が明らかになってきたという理解でいいのだろうか。少なくとも、自分がいくつかの通史的な概説書で覚えている話よりはかなり多様な内容となっている。その複雑さに惹かれるものがある。

 蓮田隆志氏の15章「東南アジアの『プロト国民国家』形成」。氏の纏まった文章を読むのは初めてのように思うが、短い文章ながら近代大陸東南アジア成立に関わる複雑な状況が纏められている。なかなか興味を惹かれる内容だが、最後に書かれている一文

 今後の研究の進展が期待されている。
のとおり、氏の今後の研究の成果を楽しみに待ちたい。

 2篇では、出口晶子氏の22章「造船技術---列島の木造船,終焉期のけしき」がやや意表をつかれた。木造船の造船技術についての話で、それ自体も面白い話だったが、日本の長い木造船の歴史はまもなく絶えるという話でもあった。造船技術を担ってきた船大工が大幅に減少してきているとのこと。

 もう一つ章立てとは別なのだが、自分は12章と17章で紹介されている「勤勉革命」という言葉を初めて聞いたように思う。本書によれば、1976年に速水融氏によって提唱されたというものとのこと。必ずしも新しい概念ではなく、あるいはどこかで読み流して既に忘却しているのかもしれない。ヨーロッパの産業革命とも対置させていて、なかなか興味深いのでこれを機会に覚えることにする。


 最後にもう一点。以前に江戸時代は本当に鎖国かという問題を話題にした。鎖国よりも海禁とすべきという点について、本書でも説明されていてその点には自分も異論がない。しかし、「孤立」が言い過ぎであったにしても海禁はしていたわけで、閉ざされていたことには変わりがないとも考えている。ただ、コメントで頂いた

 16世紀とは良くも悪くも異なりますから、
という点は、本書を読み終わった時点で、なるほどなと思うところが少なからずあった。海域アジアという視点でもう少し見続けると違うものが見えて来るだろうか。

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2008年4月26日

4月26日購入書籍

 給料日直後というのでもないのだが本屋で纏め買いをした。あれこれと書架を見て回ったのだが、買ったのはいずれも既にどなたかがブログでコメントされたものばかり。最近の購買傾向が現れているといえなくもない。

夕陽の梨
仁木英之 著
ISBN978-4-05-403631-4
学習研究社 2008.5

 マルコさんが南極漂流者で紹介していたもの。朱温、つまり唐を滅ぼした朱全忠を主役にした小説とのこと。自分の守備範囲に近い所でマイナーな人物を主役にした小説は大歓迎である。ということで、マルコさんのコメントに従い、マルコさんの感想を読まずに買ってきた。久しぶりの時代小説。さてどのくらい楽しませてくれるだろう。

 

シリウスKC
将国のアルタイル 1巻
カトウコトノ 著
ISBN978-4-06-373112-5
講談社 2008.4

 馬頭さんがデジタル・クワルナフで紹介していたコミック。十字架をシンボルとするドイツっぽい帝国と、三日月をシンボルにした中東イスラム的で13人の軍人による寡頭制の国が同居するという大陸が舞台。主人公はその13人の軍人の一人。インディアンかロマかというような遊民も登場する。シンボルではあっても今のところ宗教的な話題はない。仮想モノなのだが、こういう凝った設定は楽しい。

 

史林 第91巻 第2号
ISBN978-4-490-30644-6
史学研究会 2008.3
内容な以下のとおり

論説
仁寿殿観音供と二間御本尊---天皇の私的仏事の変貌---/斎藤涼子
シャマン=デュポンテスの政治思想と敬神博愛教の成立---フランス革命期における融和的「市民宗教」の誕生---/山中聡
関東州阿片制度の制定と中国商人---関東州の統治を巡る一考察---/桂川光正

研究ノート
東胡考/吉本道雅
「シルクロード史観」再考---森安孝夫氏の批判に関連して---/間野英二

書評
池本今日子著『ロシア皇帝アレクサンドル1世の外交政策---ヨーロッパ構想と憲法---』/梶さやか
高橋秀直著『幕末維新の政治と天皇』/井上勝生

 一番の注目は、間野英二氏の一文。これについては、さとうさんが博客 金烏工房で紹介している。詳しくはそちらを参照して頂きたいが、これは森安氏がシルクロードと唐帝国の中で展開した間野氏批判への反論である。間野氏の一文では、どこまでが是でどこまでが非で、分からないことは分からないと書く柔軟な内容となっており、氏を支持したいと思わせる内容だった。森安氏には、是非一般の目に触れるところでのコメントを期待したい。

 吉本氏の「東胡考」は、匈奴に滅ぼされたという東胡とは何かというもので、史書の検討を中心に考古学的な部分にも言及している。氏も文中でコメントされているが、まだ仮説を構築中という感じではあるが、中国の歴史の中で遊牧民の勢力がどこまで遡れるのかなど興味深い一論だった。

 

史學雜誌 第117編 第3号
ISSN 0018-2478
史學會 2008.3
内容はこちらを参照

 まんじゅさんが綿貫哲郎'S tere inenggiで紹介されていた一冊。佐々木史郎氏が清朝のアムール政策と少数民族について書評を書かれており大変参考になった。

 

大航海 2008 No.66
特集 中国 歴史と現在
新書館 2008.4

 これも、さとうさんが博客 金烏工房で紹介されていた一冊。時宜的な一冊とも思えるのだが、さとうさんによれば餃子もチベット騒動も出てこないとのこと。目次を見るとわりと刺激的な題目も並んでいるので、近々ひと通り読んでみる予定。

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2008年4月23日

文化財保護プロジェクト

 <チベット>大型「文化財保護プロジェクト」が始動---自治区文物局(Record China)

 2008年4月21日、中国新聞網によれば、チベット自治区で大規模な文化財保護プロジェクトが開始される。
 今回の文化財保護プロジェクトは、ラサ、山南、シガツェ、アリの4地域、22か所の文化財を対象に保護・修復が行われ、タシルンポ寺、ジョカン寺、ラモチェ寺、タントゥク寺などの寺院のほか、古格(グゲ)王国遺跡、江孜宗山(ギャンツェゾン)抗英遺跡などの歴史的な文化遺跡が修復されることになる。
(以下略)


 神社や寺はもとより、モスク、教会や様々な聖地など、旅を続けるとそういったものに出会う機会は多くなる。祈る人の傍らに立つと自分の宗旨に関わりなく、何かしら感じるものがあるもの。

 端に立って好奇の目で眺めている者の不純な意見なのだが、グゲ王国やギャンツェ・ゾンのように既に遺跡であるものはともかくとして、現役である寺院はあくまでも現役として生き続けてほしいと思う。


<チベットを旅した人のブログ>
 ギャンツェ (チベット) : インド貿易の要衝として没関係☆スナフキンの足跡
 グゲ遺跡あじあのたび

<4.26追記>
 中国製の地図でいまひとつ場所がはっきりしなかったのだが、ブログをいくつか廻ってほぼそれと思しきものに辿り着いたので書き足しておく。それにしても、西チベットの更に奥地に入った場所にある遺跡まで訪れた人が随分といるのに驚かされた。

 Google Map → グゲ遺跡

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2008年4月21日

熊野古道

 昨日から一泊二日で熊野古道を歩いてきた。今更信仰に目覚めたというわけではなく、趣味と実益を兼ねてのもの。世界遺産に登録されて知られるようになった熊野参詣の道。東海道のような一本道ではなく、紀伊半島の北部各地から南に向かって数本のルートが伸びている。


 今回は、その中の東海岸を辿る伊勢路と呼ばれている道で、伊勢神宮を起点に全長百数十キロの及ぶルートの北寄りの一部。尾鷲から紀伊長島を越えて梅ヶ谷まで、2日間で5つの峠を越えて延べ40数キロを踏破した。沢山写真を撮ってきたので、日を改めて詳報を書こうと思っているので今日は簡単に。


 ルート上あちこちというわけではないのだが、一部にこのような石畳が良く残っている。雨から丸一日経ってはいたものの、石の上の苔には湿り気があり、底の固いトレッキングシューズでは滑って歩き難かった。


 もともと生活道路でもあって、峠といっても場所により、地形や木の茂り具合などで眺望の良さはそれぞれ。


 京都では桜が散ったばかりだが、東紀州は早咲きの桜が既に実になり、遅咲きの桜や躑躅の盛り。


 木々の萌黄色も真っ盛り。写真だといまひとつ色が出ないのだが、濃淡それぞれの萌黄色に山桜と躑躅がピンク色を添えている。

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2008年4月20日

(書評)秀吉の接待

学研新書 021
秀吉の接待
---毛利輝元上洛日記を読み解く
二木謙一 著
ISBN978-4-05-403468-6
学習研究社 2008.2

 豊臣秀吉政権下で五大老の一人であり、中国地方屈指の大名であった毛利輝元。彼は、秀吉による日本統一が進められている最中、本拠である安芸吉田(現在の広島県安芸高田市)を離れて初めて上洛を果たした。本書は、その際に輝元に従っていたという平佐就言が残した日記を引いて上洛の様子を語ることで、輝元や秀吉を取り巻く日々の出来事や文化習俗を具体的に紹介するもの。武士の儀礼や往時の風俗についての著書を物し、大河ドラマの風俗考証も務めたという筆者らしい一冊ということだろう。

 本書は、就言の日記そのものを解説、考証したものではない。また論文や概説でもなく、一般読者を想定した物語的な構成で、輝元上洛の様子が時系列どおりに綴られている。ここで描かれているのは、輝元が1588年7月に安芸吉田を出発して、瀬戸内海を東上して大坂に上陸し、京都、奈良、大坂を巡って再び瀬戸内海を渡り、9月に帰り着くまでの2か月あまりの出来事である。輝元の叔父小早川隆景や従兄弟吉川広家、多くの近臣のほか、徳川家康をはじめとする既に秀吉政権に参加している大名、公家や商人、そしてまだ帰服していない北条家の氏規など多くの人々が登場する。

 1588年は、秀吉による前年の九州遠征と90年の小田原遠征の間の年で、秀吉政権が完成されていく途上にあたる。輝元にとっては上洛が初めてであるばかりでなく、秀吉との対面もまた初めてとのこと。当主が上洛したことで秀吉政権における毛利家の立場が確定する過程であり、また輝元がどういう形で秀吉政権に加わって行くかを決める切っ掛けにもなったという。

 上洛の途上では秀吉との対面前という緊張感が描かれ、上洛を果たしてからは聚落第での謁見や日々の挨拶周り、接待攻勢が続く多忙な日々が描かれている。また、習俗や政治状況などの説明には、日記で足りない部分を他の資料にも求め、人物描写などについては筆者の推測も交えている。


 まず、古文書の解説でも小説でもなく、また政治や習俗を直接解説したものでもないという設定が面白い。2か月ほどの出来事が新書としては厚めの300頁あまりに纏められ、謁見や宴席における席次や服装などについてかなり細かく描かれている。物語的な進行の中にそれらが解説されているので、文化史にあまり興味のない自分でも飽きることなく一気に読むことができた。

 具体的な情報という点では、豊臣秀長の大和大納言、細川忠興の長岡越中守など当時の名乗りが多数紹介されていること、豊臣輝元というような豊臣姓賜与に触れていること、膨大な金品のやりとりが細かく書かれていることなど、多岐に渡ることも本書の面白さである。また、登場する多くの有名武将たちが、どのような状況にあって輝元とどう関わったのか、1588年の一時という状況のものではあるものの、ほかの解説書とは異なる側面が見られるのも面白かった。

 本書は、日記をベースにしながらも従来とは違った解説書をと目指したもののようだが、深い内容を企画どうりに面白く読むことができた。具体的な内容に自分には勉強になるものが多くあることもあり、お薦めできる一冊と思う。


<目次>
第1章 上洛への旅
第2章 初めての京都
第3章 楽しき京都
第4章 大坂城の関白秀吉

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2008年4月19日

今年も萌黄の季節

 花見の季節が過ぎれば、次は萌黄色、黄葉の季節がやってくる。というと今咲いている花には失礼だった。染井吉野の季節が過ぎただけ。もともと木そのものが専門だったので、花よりも葉の色が気になるというのは毎年のこと。


 近所の楓は、日に透き通る黄緑色が特に奇麗だ。


 近くには、こんな青空に映える紅い桜が満開。

 沖縄と北海道以外の多くの所では花見といえば染井吉野だ。その染井吉野は、江戸時代も末期に江戸で見出されたものといい、日本の花見の長い歴史の中ではわりと新人である。それ以前からも人の目を楽しませて来た桜には、山桜、江戸彼岸、大島桜といった種類があり、それらを元にして様々な園芸品種が作られてきた。

 この園芸品種というのは自分には天敵で、区別がさっぱりつかない。図鑑をいくつかひっくり返して見る限り、この写真の桜は大島桜系の関山なのかなと思うが、楊貴妃や麒麟、紅普賢などとの違いが分かっているわけではないので確証なし。

<参考>
 さくら 品種図鑑


 楠は常緑樹だが、この季節は新葉が開くので落葉樹とはまた違った色合いを見せる。


 こちらが欅。近所のこのそこそこ大きなこの木は、例年葉の開きが遅い。このくらいの頃の欅の若葉は淡い黄緑色でそこがまた良い。


 桜の花と楓の若葉のこんなコラボレーションも今の季節のもの。

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2008年4月17日

長野の聖火リレー

 長野の聖火リレー警備、3千人から4千人規模に増強(信濃毎日新聞)

 長野市で26日に行われる北京五輪聖火リレーで、県警は16日までに、警備態勢を大幅に増強する方針を固めた。ルート上に配置する警官は、他県警などの応援を含めて3000〜4000人規模に上る見通し。
 (中略)
 善光寺から若里公園までの18.5キロの沿道と、長野駅、長野五輪施設などの周辺に、私服、制服の警官を配置。聖火ランナーには機動隊員を伴走させ、警護する。

 いったい何の為に行われるのかさっぱり分からない。オリンピックそのものに政治性がどのくらいあるかは(無いとは言わない)この際放っておいて、少なくとも今回の聖火リレーは政治色が強すぎて、誰もスポーツや平和のためのイベントとは思っていないだろう。

 この際なので、混乱回避を大義名分にして取り止めることを強くお薦めする。(長野県も長野市も決して財政に恵まれてないんだから、こんな所で無駄使いすることはない。)

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2008年4月15日

誤読

 【今日は何の日】1989年:胡耀邦が死去(中国情報局)

 1989年4月15日、胡耀邦(こ・ようほう)が死去した。(中略)民主化に寛容だった胡耀邦の死を悼む学生デモが激化し、天安門事件(第二次)の引き金となった。

 今日は何の日という企画は、以前は良く見かけたが今でも生き残っているだろうか。自分のリーダーに登録しているYahoo!の海外ニュースがリンクしているので、ほぼ毎日中国情報局のこのコラムを目にしている。わりと古い歴史上の人物が登場するときには目に留まるが、リンクをクリックして読むことはなかった。今日のこのコラムも一瞬の誤読がなければクリックすることも、ブログのネタにすることもなかった。

 どう誤読したのかというと、ほんの一瞬、たぶん0.7秒くらい、胡錦濤かと思ってどきっとした。胡氏はまだ65歳と若く、同じ倒れるなら失脚の可能性の方が高いかとも思うが、現実味を感じていないのでまだ想像したことがない。

 話は1990年の旅行中のことになる。この年は、天安門事件やチベット暴動の翌年であるだけに、政治や社会の問題は大いに話の種になった。旅先で知り合った人達とお茶を飲みながら、ご飯を食べながら、ビールを飲みながら有ること無いこと語ったものだった。

 当時沢山あった話題のひとつが、トウ小平が死去したら中国はどうなるかというもの。結局7年後に現実になったが、酔った勢いで盛り上がったことに比べると、何も無かったに等しい結果だった。その経験がまだ尾を引いていると言えるかもしれない。何かをきっかけに中国で短期間に大きな変化が起きるとしたら、という想像は今のところ自分の中では盛り上がってこない。

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2008年4月14日

(書評)ゾロアスター教

講談社選書メチエ 408
ゾロアスター教
青木健 著
ISBN978-4-06-258408-1
講談社 2008.3
目次は、本書タイトルのリンク先を参照

 書名にはゾロアスター教とあるが、著者はあとがきで以下のように書いている。

 本書は、「古代アーリア民族の時代」の1200年間と「イスラーム時代」初期の200年間の合計1400年間における、「イラン高原のアーリア人の諸宗教」を扱う概説書である。
しかしながら、資料についての制約から
ゾロアスター教についての記述が大部分を占め
てしまったとのこと。構成としてはゾロアスター教の部分がメインだが、諸宗教についての3章、ゾロアスター教以前についての1章など、ゾロアスター教以外にも意を用いていることが、たしかに本書の特徴と言える。5、6、終章がイスラム化以後の部分だが、こちらはゾロアスター教が何を残したのかという方向の内容。


 自分的に本書らしいと思うのが4章だ。ここでは、現在ゾロアスター教関係でどんな資料が残っているのかが解説され、それを具体的に引用しながら何が語れるのかを説いている。自分が本書に一番期待した部分であって、引用が多用されているわりに面白く読むことができた。

 3章は、イラン周辺におけるイスラム化以前のゾロアスター教以外の宗教を解説したもの。仏教の影響やアルメニアのヤズィード教などは、自分には目新しくて興味深く話だった。

 しかしながら、本書のもうひとつの中心と思える2章がいまひとつだった。他の章にもあてはまる部分だが、文章に纏まり感が欠けていて読んでいて時々捕らえ所がなくなる。また、あとがきでは次のようにも書いている。

 本書の記述の焦点は宗教思想の列挙や類型化にあり、歴史的な展開や個々の史実はぜんぜん考慮していない。
それはちょっとどうかと思う。確かに、教祖ゾロアスターについての話はほぼ伝説なのだろう。それでいて文章的に歴史を説明しているのか伝説を紹介しているのか明確ではない。また、古代アーリア民族を謳っていて(民族という言葉の是非もあるが)、その意義がどうかを問わずに、自明のものとして展開しているのには納得がいかない。古代アーリア民族を立てるのであれば、今に残されているものから古代の彼らの姿を問い直すような、本書とは逆の展開の方が意味があるのではないかとも思う。


 かねてから、ゾロアスター教について簡単に纏められた本を機会があったら読んでみようと考えていた。本書は、その意識もあって買ってみた本だった。自分は、ゾロアスター教についての専門書は読んだことがなく、高校世界史プラス世界史の中の一宗教として今まで読んだことをどのくらい覚えているだろうか。そのレベルで本書について4章以外、とくに1から3章についてどう咀嚼したものかと迷う曖昧さの残る文章だった。

 本書は、自分が目にしたことがない資料が利用されていて興味深い内容をかなり含んでいるのだが、このように消化しきれないものが残るというものだった。これは、かなり主観の強い感想と思うので、人によりかなり印象は変わって来るかとも思う。面白いことは面白いが評価保留というのが正直なところ。

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2008年4月13日

李元昊と赫連勃勃

 先日、西夏の建国についての中で西夏の初代皇帝を李継遷としてはどうかと書いた。では、これまで

 西夏建国の英主である
五代と宋の興亡 135頁:周藤吉之・中島敏著、講談社学術文庫 )
と言われてきた李元昊は、ただの三代目に降格になるのかというと、そうは考えていない。彼は、父の時代から甘肅省西部への遠征軍を率い、後を継いでからも青海省東部へ遠征したり、北宋と大掛かりな戦争をするなど西夏の領土拡張に活躍した。また、西夏の国としての体制の確立が彼の時代に進んだこともたぶん事実だろう。だから、初代ではないとしても初代並に活躍した、
 西夏国の基礎を築いた英傑
西夏王国の言語と文化 302頁:西田龍雄著、岩波書店)
という評価は変えなくてよいと考えている。

 ところで、自分は李元昊について次の様な疑問を持っている。

 “基礎を築いた英傑”にしては廟号が平凡

 廟号というのは、「帝王の霊を宗廟にまつる際に贈った称号(goo辞書)」で、一文字目の漢字は生前の事績によって決められるといわれる。李元昊の廟号は景宗である。景は、決して悪い字ではないのだが、景宗を贈られた他の皇帝を並べると英傑と言われる皇帝よりは1ランクか2ランク下に見える。(参照:Wikipedia

 李元昊は、彼に妃を奪われた皇太子に襲われ、その時の傷が元で死んだとされている。ひとつの可能性として、李元昊はこの悲劇とも喜劇とも言える最期によって評価を下げ、そのために平凡な廟号が贈られたと考えられる。この事件については、そのうちあらためて考察してみたい。


 次に、西夏とは直接関係がない赫連勃勃が登場する。彼は、李元昊から600年前に西夏と同じ夏国の名前を持つ国を作った人物である(西夏も本来は夏国もしくは大夏国で。便宜的に「西」がつけられている)。また、李元昊の祖父が宋と奪い合った夏州城を築いた人物でもある。西夏の都があった銀川市の北郊には、赫連勃勃の縁とされている海宝塔が建っている。(詳しい事績はwikipediaを参照)
海宝塔
<海宝塔>

<Google Map>
 夏州城跡海宝塔


 ここからは、良く言えば私が立てた仮説であって妄想的な話となる。まず、李元昊は赫連勃勃を意識していたのではないかと自分は見ている。赫連勃勃の夏は、西夏と同じオルドスを領土として南へ戦争を仕掛けた。李元昊は、結局宋の領土はほとんど奪えなかったが、赫連勃勃は長安を占領している。

 つぎに、李元昊には「世祖始文本武興法建礼仁孝皇帝」という尊号があったと宋史に書かれている。この尊号は、尊大な称号のひとつで死後に贈られることもあるが、彼の場合は生前から使われていたようだ。学識者が考えて李元昊に奉ったという形をとったものと想像できるが、実質的に李元昊の自薦だったのではないか。

 李元昊の祖父には、死後に「太祖応運法天神智仁聖至道広徳孝光皇帝」という尊号が贈られ、最初は武宗とされた廟号が後に太祖に改められている。ここで、廟号と尊号の両方に太祖の文字があることが自分には気になる。宋史の記述が正しいとすれば、西夏では廟号と尊号がなんらかの形でリンクしていたのではないか。また、宋史の記録を整理する際に廟号と尊号を混同して間違えたという可能性があるかもしれない。


 ここで話が廟号に戻る。李元昊は、世祖の廟号を贈られることを希望していた、というのが仮説の核心である。彼の尊号がその現れではないかと。

 この世祖は、景宗に比べると結果論的に格段に格の高い廟号で、錚々たる皇帝が並んでいる。李元昊より後の人物だが、モンゴルの5代目フビライ、清の3代目順治帝などは特に大物である。李元昊に相応しい廟号だと考えて、それほど贔屓目ではないと思う。そして、赫連勃勃の廟号も世祖である。
(参照:Wikipedia


 以上の話は、仮説に仮説を重ねているのでほぼただの妄想である。ただ、李元昊と赫連勃勃の関係というのは少し考える価値があるように思える。

 なお、李元昊には世祖の代わりというわけかどうか、赫連勃勃と同じ諡号武烈皇帝が贈られている。

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2008年4月12日

たこ焼きとビール

 奈良市内西大寺の界隈に住んでいたころ、通いつけてたたこ焼き屋が移転の上新装開店したというので、昔の呑み友との酒宴を兼ねて遠征してきた。


 大阪市内より確実に寒い奈良だが、西大寺境内の染井吉野は既に散り終わり、かわりに八重の里桜が見頃だった。


 新装なったたこどうらく。昔の店とは雰囲気が全く変わった。


 スタミナマヨネーズをかけたたこ焼き。既にビールには口がついてました。


 よく飯代わりに食べていたお好み焼き。今日はモダンで。ビール4杯?5杯?飲んで、たこ焼き、お好み焼き、帆立焼き、もやし炒めで3000円ちょっと。ちょっと食べ過ぎ。


 たこ焼きは、持ち帰りの方がたぶん売れている。持ち帰り客専用の待機スペースができたので、お客さん増えるかも?

 あっ、しまった。お祝い持ってくの忘れてた・・・


大きな地図で見る

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2008年4月11日

北東アジアの中世考古学(感想)

アジア遊学 107
特集 北東アジアの中世考古学
ISBN978-4-585-10358-5
勉誠出版 2008.2
目次は、本書タイトルのリンク先を参照

 本誌の特集は、タイトルのとおり渤海から金、13世紀初期に金から分裂した東夏(あるいは東真)国の時代の、中国東北部から沿海州にかけてを考古学から考察したもの。必ずしも最新のものというわけではなく、ロシア人のものを含むこれまでの研究成果も対象にしている。

 目次にあるように、10頁前後の小論を9本集めた前半部分と、1頁から数頁ほどの遺跡紹介を15本並べた後半部分からなる。また、執筆者の一人臼杵勲氏が研究代表者を務める文科省の特定領域研究補助事業北東アジア中世遺跡の考古学的研究と直接繋がるもので、報告書掲載の論文を再構成したものを含んでいる。なお、同報告書や調査に伴う写真などをHPで見ることができる。


 簡単に感想を添えると、金の官印について考察した井黒忍氏の一文が、考古学と金初期の政治史を絡めた部分が興味深く読むことができた。また、北東アジアの農業について触れた小畑弘己氏の一文は、どうしても狩猟採集と言われがちなこの地域について、農業の実態がうかがわれて勉強になった。一点だけ注文がつくのだが、筆者によってロシア語地名のカタカナ表記にばらつきがあるのは、なんとかならなかったのだろうか。

 ところで、北東アジア史に関係する本として、北方世界の交流と変容(山川出版社)、北東アジア交流史研究(塙書房)、中世の北東アジアとアイヌ(高志書院)が、わりとあいついで出版された。新書、ハードカバー、箱入りと質量が異なり、エリアや時代にも違いがあるが、いずれにも臼杵氏が関わっている。自分は、北方世界の交流と変容のみ既読で、北東アジア交流史研究は買ってからそろそろ1年になるが、重量級なのでまだ手がつかないでいる。これを機会にと纏めて読めば、記憶力が落ち始めた頭にも良く残るだろうか。


 本誌巻末には、別に『チベット族の一妻多夫婚の構造---雲南省迪慶チベット族自治州徳欽県の事例から』という六鹿桂子氏による小論が掲載されている。これは、雲南省北西部に今も残るという一妻多夫婚の実態について、聞き取り調査の成果を纏めたもの。中国西南地方で一妻多夫というと、女系を中心とした通い婚タイプがいくつかのメディアで紹介されていたように記憶している。この事例は、それと違って兄弟で一人の嫁をめとるのが基本形という。さらには、姉妹と同時に結婚する形の一夫多妻も併存しているとのこと。自分には全く初めて聞く話でかなり興味深いものだった。


<Google Map>
 以下は、本誌で紹介されている遺跡の内、Google Map上で確認できたもの。クラスノヤロフスコエ城址はかなり奇麗に見える。
 塔虎城跡泰州古城(矢印が北門付近)、八連城渤海の上京クラスノヤロフスコエ城址金の上京会寧府址ニコラエフカ城址

 それから、一妻多夫婚の調査地域徳欽県の中心部と、迪慶チベット族自治州の州都シャングリラ県の中心部

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2008年4月10日

大チベットとチベットの歴史

 嵐の予感!民族学者、「大チベットという国が存在した事実はない」と断言---中国(Record China)

 一週間近く前のニュースでいくつかのサイトで話題になっていたが、興味のあるテーマなので少し考察をしてみた。この記事によれば、中央民族大学の喜饒尼瑪氏は以下のように述べたという。

 ダライ・ラマが主張する『大チベット』とは現在の自治区だけでなく、四川省、甘粛省、雲南省、青海省を含めた地域を指すもので、これらの地域が中国の歴史上において『大チベット』であった事実はない
さらに、これに続けて以下のよう述べている。
 西蔵(現チベット自治区)」は元(1271年〜1368年)の時代には中央政府による直接統治下にある1行政区域として地図に画かれており、王朝や政権は変わっても、現在に至るまでずっと中央政権の管轄下にあった
この内、前半部分は喜饒尼瑪氏の他3人のチベット専門家が揃っての質疑応答だったようで、以下にその日本語訳が掲載されている。

 チベット学者会見(1)拉薩事件は民族問題ではない(人民網)
 チベット学者会見(2)暴力事件の背後に「西蔵独立」(人民網)

 後半部分については日本語訳が見つからず、新華ネットから以下の元記事を見つけた。

 歷史上並不存在所謂的“大藏區”(新華網)

 この元記事のうち、Record China記事の後半に関わる部分について原文を転載しておく。

 十三世紀中葉,西藏正式歸入中國版圖,成為中國元朝(公元1271-1368年)中央政府直接治理下的一個行政區域。自此之後,盡管中國經歷了幾代王朝的興替,多次更換過中央政權,但西藏一直處于中央政權的管轄之下。
<訳>
 13世紀中頃、チベットは正式に中国の領土に帰属し、中国元朝(1271〜1368年)の中央政府に直接統治されるいち行政区域となった。これより後、中国で何代かの王朝が盛衰し、しばしば中央政権の交替を経験したにもかかわらず、チベットは一貫して中央政権の統治下にあった。

 なかなか突っ込み所のある一文だが、特にチベットと明朝の関係についてチベットが明朝に従属していたことが前提になっている。また、16世紀中頃にモンゴルのアルタン・ハーンがチベットへ遠征し、後にダライ・ラマの名を贈ったこと。また、清朝が侵攻する前にジュンガル部が進駐していたことなど、150年あまりの出来事がそっくり無視されている。

 喜饒尼瑪氏の見解として書かれているが、実はこれが現在の中国政府の公式見解であるらしい。つまり中国人の歴史的な常識なのである。一般中国人にとって、良い悪い以前に前提として存在しているのである。700年以上の歴史がある中国領土だから、「祖国分裂の陰謀(朝日新聞)」というように否定的な言い方ができるのだ。


 元記事には、Record China記事前半の「歴史上において『大チベット』であった事実はない」の部分について、以下のようなより詳しい説明が加えられている。

 公元9世紀,吐蕃王朝崩潰後,上述地方長期以來或各自為政,或分屬不同民族建立的地方割據勢力,或統一于中原王朝,但西藏地方政府從未管轄過西藏以外的其他藏區。
<訳>
 9世紀、吐蕃王朝が崩壊した後、上述の地方(『大チベット』のこと)は長い間各々が勝手に振る舞うか、異なる民族が建てた地方勢力に分かれるか、或は中原王朝に統一されていて、チベット地方政府がチベット以外の大チベットを統括することはなかった。
(以上の翻訳はいずれも我流です、間違いがありましたらご教示ください)


 ここで目を引くのが、最初に吐蕃王国崩壊以後という前提が暗に書かれていること。触れられることがないので一般にはあまり知られていないように思うが、8世紀後半から9世紀前半にかけての吐蕃王国は、衰退に向かう唐をしのぎ、中央アジアでイスラム帝国と争うほどの大国だった。最盛期には、南は雲南、北は天山山脈の北にまで遠征し、その勢力は現在の甘肅省、四川省西半、雲南省、新疆ウイグル自治区の南半からパミール、西トルキスタンの一部にまでに及んだ。これは現在の中国の西側半分以上という広大な地域だ。


 以上のことから何を考えるかである。自分は、歴史を政治に持ち込む際にバイアスが加えられた一例としてまず見る。中国人にとってチベットについての前提が他の人とは異なるから、歴史を前提としているかぎり話が進まない。また逆に言えば、かつて巨大な吐蕃王国があったのだから大チベットは独立すべきと短絡するのも可笑しな話である。

 もう一つ考えたことは、近代以前における独立国家という定義の曖昧さ。これは、西夏の建国についてで書いた西夏の始まりはいつかとも関連する。現代のように領域がはっきりしていれば、ほとんどの場合で独立しているか否か、かしかない。最近はまともには使い道が無い言葉として属国、あるいは保護国というのがあるが、これは1と0の間という意味で0.5と定義してみようか。近代以前の国について、この1と0.5と0で分類できるかというと無理だと思う。この1と0の間は断続的に続く広大なグレーゾーンである。孤立無援な鎖国国家ならともかくとして、国と国との間に上下関係が想定された時代には、相対関係としては1と0の間のどこかとしか定義できない。そこに0.5以下が属国で以上が独立国という基準を作ってみたところで、作為的な作り物にしかならないのである。

 ほかにも色々と考えてみたが、いまひとつ纏まらないのでとりあえずこんなところで。

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2008年4月 9日

幕末古写真風写真

 幕末古写真ジェネレーターが、こんなに手軽に遊べるものだと今頃気づきました。それでも楽しいので1990年中国紀行を種に遊んでみる。



 北京紫禁城。ヨーロッパの宣教師が撮った写真、というには手前のバスでばれてしまう。


 西安郊外華清池。このくらいの方が時代がかっていて大唐を偲べるというもの。


 敦煌莫高窟前の沙漠にて。ご先祖さまではありません。


 トルファン郊外、交河故城。どこかの国の探検隊が残した・・・風な一枚。


 杭州西湖。銀板というより水墨画風。


 租界時代華やかなりし頃・・・というには服装が無理か。

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2008年4月 6日

西夏の建国について

 先日の一日遅れのエイプリルフールネタで、『西夏二三〇年の興亡』という書名をつけてみた。なぜ230年と思われた方もおられると思う。たとえば、『ウィキペディア(Wikipedia)』を引くと西夏には、

 西夏(せいか、1038年-1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。
とあり、これだと190年にしかならない。西夏の歴史は、チンギス・ハンの命と引き換えに1227年に終わっている。その後に再興されたという話は、まだ聞いたことがないので終わりは1227年しかない。

 では、1038年はどういう年か。宋の歴史を纏めた宋史の西夏伝の李元昊に関係する部分に、

 宋の宝元元年に(中略)皇帝の位に即いた、時に30歳。
とある。宝元元年が1038年にあたる。西夏の初代皇帝と言われている李元昊が、皇帝になったのが1038年であり、西夏の国はそこから始まるということである。そうですか・・・と言ったら230年もエイプリルフールで終わってしまう。

 1038年以外を西夏の始まりと考えている意見がある。小高裕次氏は自身のHPの中の西夏に関するFAQで、

 李元昊の父である李徳明が没し、元昊が王国を継承して国号を大夏と改め、自らを皇帝と呼んだのが1032年のことです。その後、皇帝の座につくための式典を行ったのが1038年、宋に使いを送って独立を宣言したのが翌1039年です。そこで、中国側の文献では西夏建国を1038年としているものが多いのですが、西夏の味方である私としては、1032年建国説を採ります。
としている。

 1038年か1032年かは、多少混乱が見られる。例えば東洋史辞典(京大東洋史辞典編纂会、1991年10版)は、西夏を1038年からとしているが、李元昊は1032年から皇帝を称したとしていて、その違いには特に説明がない。西夏文字研究の大家西田龍雄氏をひくと、西夏王国の言語と文化(岩波書店1997年)の3章「西夏王国とその文化」の中で、

 1032年、徳明の子。元昊が平西王を継承すると、自から大夏皇帝と称し、宋の支配から完全に離脱した独立国家を誕生させた。(298頁)
とあり、1032年ともそれ以降のいずれかの年ともとれる書き方をされている。この原因は、李元昊が李徳明の後を継いだのが1032年で、宋史に上のような1038年という記述があるからだ。しかしどちらを採っても230年にはならない。


 他に何かあるのかといういと、李元昊以前から西夏は存在したとする考え方がある。少し前にこの事を簡単に纏めたものを読んだ(何に書いてあったのか忘れてしまって、探しも見つからなかった。ご存知の方がおられたら是非ご教示を)。そこには、李元昊の祖父李継遷の時という説と、西夏の母体となった勢力がそれ以前からあったので西夏もそれ以前からあった(建国年は不詳)という説が紹介されていた。

 まずこの後者について。西夏の母体となったタングート族の勢力は、9世紀後半から今の陝西省北部に存在した。しかし、李継遷と彼以前とは同族ではあっても系譜的に4世代、あるいはそれ以上離れている。また、李継遷と彼以前との間に政治史的にも断絶がある。この2つを理由に、自分は李継遷以前から西夏があったという説を採らない。


 自分は、西夏は李継遷の時代からという説を唱えてみたいと最近考えている。西夏は、宋や遼に近寄ったり離れたりしていたので、どこまでが宋や遼の属国時代で、どこからが独立時代かと規定するのは難しい。ならば、西夏を作った人達にそれなりに独立への意思があって、かつそれに適当な実態が伴っていたら、独立勢力として認めてみてはどうか。

 李継遷を初代とする理由は2つある。ひとつには、彼に贈られた廟号である。李継遷が太祖、李徳明が太宗、李元昊が景宗という廟号だったとされている。これが、実際に西夏で決められたものだとしたら、西夏での公式見解は太祖と呼ばれた李継遷が初代ということになる。そして李継遷時代の末期は、小さいながらも独立といえる勢力であったとも評価できる。

 2つ目は、李元昊以前にも西夏で皇帝を自称していた可能性があること。宋史には、李徳明が1012年に李継遷へ皇帝の尊号を贈ったという記録がある。これが事実なら、この時点かそれ以前から、西夏の主は皇帝を自称していたことになる。


 西夏の建国を何年にするか、だいぶ絞られてきたがここからも難しい。李継遷のどの時点をもって西夏が始まったとするか、あまり決定打がない。とりあえず今日の時点では、以下の二つを並べてここいらへんという意味で「1000年頃」としておく。これだと1227年までおよそ230年になる。

 ・李継遷と宋の講和が成立して、定難軍節度使を認められた997年
 ・1002年に征服した霊州(今の寧夏回族自治区銀川市の霊武市)を拠点と定め、そのことが宋に公認された1003年

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2008年4月 5日

鴨川で花見

 鴨川沿いの桜は散り際のちょうど見頃を迎え、花見客でごった返していた。かく言う自分もその人波にまぎれて、10年来の知己となった歴史好きの友人主催の酒宴へと出かけた。


 少し霞んではいたものの天気に恵まれ、まだまだ気温の下がる夜用の装備ではかなり暑いほど。鴨川の土手の桜は、遅咲きのものに5分咲き程のものもあったが枝垂桜はちょうど見頃。土手に植えられた紅い若葉がちょっと強烈に映る紅要黐(べにかなめもち)の赤、朝鮮連翹(ちょうせんれんぎょう)、山吹、菜の花の黄色、雪柳の白と桜以外の色も賑やかで楽しい。

 とりあえずということで、コンビニで仕入れたつまみを肴に、主催者氏持参の日本酒を呑みながら、鴨川の土手で日が暮れるまで一次会。二次会は、先斗町の韓国料理屋comyonへ。店に辿り着くまで、三条から木屋町や先斗町へ下っていくあたり、どこもかしこも人だらけ。凄い賑わいだった。


 まずはマッコリで乾杯。ネットを見るとアルコールは6〜8度と書いてあった。飲み口は良いがもう少し高いと思って呑んでいた。さほど強くない自分は、これで十分酔えます。


 料理は、ユッケ、ナムル、チジミを頼んで、冷麺で締めた。一次会から呑んで食べ続けたのでこれでも満腹。料理はどれも美味しかったが、品数の割に少し高めの気もするが先斗町だとこのくらいか。


 散開した頃には10時を回っていたが、まだまだ賑わいわ続いていた。

 お付き合い頂いた皆様、ありがとうございました。

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2008年4月 4日

(書評)新書で入門 新しい太陽系

新潮新書 238
新書で入門
新しい太陽系
渡部潤一 著
ISBN978-4-10-610238-7
新潮社 2007.11

 久しぶりに自然科学ものを一冊。冥王星が話題になったのは一昨年の夏のこと。国際天文学連合によって惑星が再定義されて、それで冥王星が惑星から準惑星に変わったというもの。ここでも冥王星と題して簡単に採り上げた(ニュース元はリンク切れ)。筆者は、その国際天文学連合の「惑星定義委員会」の委員の一人で、国立天文台天文情報センターでセンター長を務めている。

 本書は、タイトルの通り太陽系について新しい情報を盛り込んだ入門書である。下記目次にあるように14章で8つの惑星と太陽と月、小惑星、彗星、それに冥王星を紹介している。新しい観測結果や学説を紹介することが中心ではなく、太陽系を紹介しながらそのなかに新しい情報が織り込まれているというつくり。

 入門書という点では、ガリレオとか天王星や海王星の発見などの基本的な話も盛り込まれ、数字的な部分も紹介されている。ただしあくまで読み物なので、基礎データとして数字を並べた表などは載っていない。比較的新しい話題として、今世紀になってから打ち上げられた数々の惑星探査や天体観測の成果にもふれているが、それが中心ではないのでそこそこ詳しく紹介されているものもあるが、全てを網羅しているわけでもない。


 本書の特徴は、筆者が冥王星問題に直接関わったという点である。その事は、プロローグや13、14章で詳しく触れられている。天文好きにはさほど目新しい情報ではないかもしれないが、自分のように息抜きに時々空を見上げる者には十分に面白い話題である。

 全224頁とそれほど厚い本ではなく、その中で太陽系ものとしては冥王星にそこそこ頁を割いているので、木星や土星の衛星の話題が最小限しかないなど情報の深さには限りがあり、本書はその範囲内でできることを纏めたといえる。あえて言い足せば、写真が少ない。素材はいくらでもあるので、もう16頁増やして写真を多く載せても良かったのではと思う。

 入門書という位置づけを押えながら、新しいものを含む広い情報を良く纏めてあると評価できると思う。奇異な内容の無い良い本と思うが、強いていえばそれでも軽いと思う人は結構いるのではないか。その意味ではもう少し厚くしても面白く纏め得たのではないかと思う。


<目次>
1.プロローグ
2.大家族の中心にある“ストーブ”---太陽
3.ストーブの周りを駆け回る走者---水星
4.美しき女神の名を持つ“妹”---金星
5.青色はぐれ星---地球
6.身近にありながら謎の多い衛星---月
7.不気味に赤く光る軍神---火星
8.太陽系の空白地帯に位置するもの---小惑星と彗星
9.太陽系惑星の王者---木星
10.壮大な環を擁する妖しいまでの美しさ---土星
11.へそ曲がりの惑星---天王星
12.内部からの発熱で予想外に暖かい---海王星
13.太陽系の果て---冥王星と太陽系外縁天体
14.惑星の定義---なぜ冥王星は準惑星になったのか

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2008年4月 2日

一日遅れ

西夏二三〇年の興亡
---偉大なる祖先を語る
李継信 著
ISBN978-4-123-45678-9
エア新書 2008.4

 宣和堂遺事博客 金烏工房を見てどうしても真似をしてみたくなった。一日遅れあたり、流行に疎い自分らしい。。。

 どうせならということで、もう一冊(笑)

 


俺に掘らせろ!
---遺物が語り始めた
武藤臼 著
ISBN978-4-987-65432-1
くうき出版 2008.4

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2008年4月 1日

1990年中国紀行 <上海>

 1990年もあと僅かという12月の下旬、上海を起点として大陸に円を描いた旅は、その円を閉じることで終幕を迎えた。

 年明け第二便の鑑真号での帰国を前に、バックパッカーが集まったホテルの一室では、連夜に大小の宴会が開かれたが、一番盛り上がったのはカウントダウンパーティーだった。室内で爆竹というわけにいかなかったが、代わりにと風船を仕入れてきた智慧者にはちょっと関心した。旧暦でない新暦の年末年始、お国柄ということでホテルの外は全く静かで、旅行者が集まったホテルの一室だけが浮いているようだった。

 昼間は昼間で、中国最後の数日と食べ歩き、買い歩き、北へ西へ南へと歩き回った。


 黄蒲江沿いに続く街並は、租界時代の雰囲気を残しているという。18年前には、まだテレビ塔はなかった。この18年、北京へは4度立ち寄る機会があったが、上海との縁は全く無く、自分の中の上海にはいまだにテレビ塔が建っていない。


 上海観光の定番のひとつ、上海雑技団。病み上がりのパンダが滑り台を一滑りで退場したのはご愛嬌。


 上海に滞在した間、何度か昼飯に通ったラーメンの屋台。パーコー麺が美味しかった。


 鑑真号に始まり、鑑真号に終わる。黄蒲江沿いの港の船上から、バンドの建物群を名残惜しく遠望した。


 東シナ海の彼方、中国に沈む夕日。4か月に渡った旅の静かな終幕。

<Google Map>
上海(黄蒲江とバンド)


<あとがき>
 昨年から1年あまり続けてきたこの企画は、これで最終回となりました。当ブログ唯一の定期企画でしたが、来月からは懲りることなく、1995年アジア紀行と題して新しく始める予定です。

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