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2008年4月10日

大チベットとチベットの歴史

 嵐の予感!民族学者、「大チベットという国が存在した事実はない」と断言---中国(Record China)

 一週間近く前のニュースでいくつかのサイトで話題になっていたが、興味のあるテーマなので少し考察をしてみた。この記事によれば、中央民族大学の喜饒尼瑪氏は以下のように述べたという。

 ダライ・ラマが主張する『大チベット』とは現在の自治区だけでなく、四川省、甘粛省、雲南省、青海省を含めた地域を指すもので、これらの地域が中国の歴史上において『大チベット』であった事実はない
さらに、これに続けて以下のよう述べている。
 西蔵(現チベット自治区)」は元(1271年〜1368年)の時代には中央政府による直接統治下にある1行政区域として地図に画かれており、王朝や政権は変わっても、現在に至るまでずっと中央政権の管轄下にあった
この内、前半部分は喜饒尼瑪氏の他3人のチベット専門家が揃っての質疑応答だったようで、以下にその日本語訳が掲載されている。

 チベット学者会見(1)拉薩事件は民族問題ではない(人民網)
 チベット学者会見(2)暴力事件の背後に「西蔵独立」(人民網)

 後半部分については日本語訳が見つからず、新華ネットから以下の元記事を見つけた。

 歷史上並不存在所謂的“大藏區”(新華網)

 この元記事のうち、Record China記事の後半に関わる部分について原文を転載しておく。

 十三世紀中葉,西藏正式歸入中國版圖,成為中國元朝(公元1271-1368年)中央政府直接治理下的一個行政區域。自此之後,盡管中國經歷了幾代王朝的興替,多次更換過中央政權,但西藏一直處于中央政權的管轄之下。
<訳>
 13世紀中頃、チベットは正式に中国の領土に帰属し、中国元朝(1271〜1368年)の中央政府に直接統治されるいち行政区域となった。これより後、中国で何代かの王朝が盛衰し、しばしば中央政権の交替を経験したにもかかわらず、チベットは一貫して中央政権の統治下にあった。

 なかなか突っ込み所のある一文だが、特にチベットと明朝の関係についてチベットが明朝に従属していたことが前提になっている。また、16世紀中頃にモンゴルのアルタン・ハーンがチベットへ遠征し、後にダライ・ラマの名を贈ったこと。また、清朝が侵攻する前にジュンガル部が進駐していたことなど、150年あまりの出来事がそっくり無視されている。

 喜饒尼瑪氏の見解として書かれているが、実はこれが現在の中国政府の公式見解であるらしい。つまり中国人の歴史的な常識なのである。一般中国人にとって、良い悪い以前に前提として存在しているのである。700年以上の歴史がある中国領土だから、「祖国分裂の陰謀(朝日新聞)」というように否定的な言い方ができるのだ。


 元記事には、Record China記事前半の「歴史上において『大チベット』であった事実はない」の部分について、以下のようなより詳しい説明が加えられている。

 公元9世紀,吐蕃王朝崩潰後,上述地方長期以來或各自為政,或分屬不同民族建立的地方割據勢力,或統一于中原王朝,但西藏地方政府從未管轄過西藏以外的其他藏區。
<訳>
 9世紀、吐蕃王朝が崩壊した後、上述の地方(『大チベット』のこと)は長い間各々が勝手に振る舞うか、異なる民族が建てた地方勢力に分かれるか、或は中原王朝に統一されていて、チベット地方政府がチベット以外の大チベットを統括することはなかった。
(以上の翻訳はいずれも我流です、間違いがありましたらご教示ください)


 ここで目を引くのが、最初に吐蕃王国崩壊以後という前提が暗に書かれていること。触れられることがないので一般にはあまり知られていないように思うが、8世紀後半から9世紀前半にかけての吐蕃王国は、衰退に向かう唐をしのぎ、中央アジアでイスラム帝国と争うほどの大国だった。最盛期には、南は雲南、北は天山山脈の北にまで遠征し、その勢力は現在の甘肅省、四川省西半、雲南省、新疆ウイグル自治区の南半からパミール、西トルキスタンの一部にまでに及んだ。これは現在の中国の西側半分以上という広大な地域だ。


 以上のことから何を考えるかである。自分は、歴史を政治に持ち込む際にバイアスが加えられた一例としてまず見る。中国人にとってチベットについての前提が他の人とは異なるから、歴史を前提としているかぎり話が進まない。また逆に言えば、かつて巨大な吐蕃王国があったのだから大チベットは独立すべきと短絡するのも可笑しな話である。

 もう一つ考えたことは、近代以前における独立国家という定義の曖昧さ。これは、西夏の建国についてで書いた西夏の始まりはいつかとも関連する。現代のように領域がはっきりしていれば、ほとんどの場合で独立しているか否か、かしかない。最近はまともには使い道が無い言葉として属国、あるいは保護国というのがあるが、これは1と0の間という意味で0.5と定義してみようか。近代以前の国について、この1と0.5と0で分類できるかというと無理だと思う。この1と0の間は断続的に続く広大なグレーゾーンである。孤立無援な鎖国国家ならともかくとして、国と国との間に上下関係が想定された時代には、相対関係としては1と0の間のどこかとしか定義できない。そこに0.5以下が属国で以上が独立国という基準を作ってみたところで、作為的な作り物にしかならないのである。

 ほかにも色々と考えてみたが、いまひとつ纏まらないのでとりあえずこんなところで。

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コメント

そういえば、3年くらいまえに遼金史専攻の先生の授業を受講していたときのことを思い出しました。
まず最初に中国の各省の位置を地図で確認していくという授業スタイルだったのですが、省名を音読するように指示された学生が西蔵という字を読めないということがありました。
そこで先生は「チベットだよ」というだけで「西」と「蔵」という字には触れず、話題が流れていきそうになったので、
私は「西チベットだとしたら東は何処でしょうか?」と質問してみました。
しかし先生にとっては不意の質問だったらしく、何か考えてらっしゃるようでしたので、そっと「青海が東チベットにあたると聞いたことがあるのですが」と質問の理由を言ってみたのですが、先生の答えは「青海はチベットじゃないだろう」という答え。

ほかに後漢末の動乱で漢族の9割が死滅した、ともおっしゃられたことがあり、そう断定される理由を質問しましたら、「正史に書いてありますから」という答え。正史に書いてあったら本当なのかと思いつつ、漢族の死滅と北方人の中国人化からなる征服王朝論を持論とする先生が、チベットについて目を向けてらっしゃらないのは少し残念に思いました。

専攻されている先生ですらこうだとすると、それだけ世界大戦後の中国国家はチベット問題への関心をチベット自治区だけに制限してイメージさせることに成功したのかもしれないと、何だか納得したような気持ちです。

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年4月11日 03時32分

いや、あったんじゃん!見事なまでに完全に!自分で言ってるジャン!ってだけの話のような…。
吐蕃が独立国じゃないとは言ってないんだ。当たり前といえば当たり前なんですが、「独立国だったことはない」なんて連呼してるから、吐蕃の事は歴史上抹殺されてるのかと心配してましたよん。

投稿: 雪豹 | 2008年4月11日 22時05分

巫俊さん、なかなかやりますね(^^)
中国の歴史研究者とチベット問題では決して噛み合う事はなかった・・・という話は何度か聞いた事がありますが、自分が中国語が達者だったら、本音として本当にそうなのか聞いてみたくはあるのですが。

雪豹さん
自分、おーー書いてあるとは思いましたが、でも書いてあるだけじゃんとも思います(^^;
申し訳程度の言い訳では納得できませんて

投稿: 武藤 臼 | 2008年4月12日 01時29分

喜饒尼瑪氏の見解ではグシ・ハン朝とかどうなってるんでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%8E%8B%E6%9C%9D
グシ・ハン朝が統一チベットでないとか、中国の中央政権の管轄下にあったとか言われてるんだとすると悶絶するんですけど…。

投稿: NAGAICHI Naoto | 2008年4月12日 10時07分

NAGAICHIさん、こんばんわ

私が探した範囲では、喜饒尼瑪氏の発言としては上に引用した以上のことは見つからなかったです。

かわりに中國西藏新聞網のサイトの中に
「元、明、清時期的西藏地方」
http://www.chinatibetnews.com/BIG5/channel6/42/200208/13/189.html
なる文章があって、「三、清朝逐步加強對西藏地方的直接管理和噶廈地方政府的形成」の中で、固始(グーシ)汗政権の成立について、次のような文で締めていますが、これって、清朝政府が公認したグーシ・ハーンとダライラマの連合政権による封建的な統治(でいいのかな?)・・・って、まんま悶絶の対象ということ?!

在清朝中央政府的支持下,西藏地方開始了以第巴地方政權為形式的蒙藏僧俗封建主的聯合統治。

投稿: 武藤 臼 | 2008年4月13日 04時21分

ウィキペディアには、かなりきばって「大チベット」という記事を書いたんですが、Googleで「大チベット」で検索かけると、Topページにでてこないのはむろん、10数ページみてもでてきません。他のいろんな検索語でぐぐってみると、Wikiの項目が第1ページ目の、しかもトップから2−5番目にでてくることがおおいのに。

中国に都合のわるい検索語を後ろにまわす裏取引をやってるのかとうたがいたくなるくらい(「大チベット区」はトップにでてきます)。

投稿: 海野勇 | 2010年9月 3日 15時04分

>海野勇さん

コメントありがとうございます

wikipwdiaを差し置いて、このブログが上にあること自体が不思議です^^;

Googleの検索には、通称Google八分と言われる現象が確認されてますが、中国批判内容を含むチベット関連項目は他にも多数あるわけで、「大チベット」のタイトルだけではじかれてるとしたらなんとも不可解です。

そもそもGoogleは中国撤退問題で中国政府とは決して良好な関係には無いと自分は思ってるんですが、実際どうなっているんでしょう。

wikipediaのチベット関連にも、なかなか力作が並んでいますね。
最近あまり時間が取れてないので、改めて勉強させていただきます。

投稿: 武藤 臼 | 2010年9月 5日 14時28分

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