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2008年4月 6日

西夏の建国について

 先日の一日遅れのエイプリルフールネタで、『西夏二三〇年の興亡』という書名をつけてみた。なぜ230年と思われた方もおられると思う。たとえば、『ウィキペディア(Wikipedia)』を引くと西夏には、

 西夏(せいか、1038年-1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。
とあり、これだと190年にしかならない。西夏の歴史は、チンギス・ハンの命と引き換えに1227年に終わっている。その後に再興されたという話は、まだ聞いたことがないので終わりは1227年しかない。

 では、1038年はどういう年か。宋の歴史を纏めた宋史の西夏伝の李元昊に関係する部分に、

 宋の宝元元年に(中略)皇帝の位に即いた、時に30歳。
とある。宝元元年が1038年にあたる。西夏の初代皇帝と言われている李元昊が、皇帝になったのが1038年であり、西夏の国はそこから始まるということである。そうですか・・・と言ったら230年もエイプリルフールで終わってしまう。

 1038年以外を西夏の始まりと考えている意見がある。小高裕次氏は自身のHPの中の西夏に関するFAQで、

 李元昊の父である李徳明が没し、元昊が王国を継承して国号を大夏と改め、自らを皇帝と呼んだのが1032年のことです。その後、皇帝の座につくための式典を行ったのが1038年、宋に使いを送って独立を宣言したのが翌1039年です。そこで、中国側の文献では西夏建国を1038年としているものが多いのですが、西夏の味方である私としては、1032年建国説を採ります。
としている。

 1038年か1032年かは、多少混乱が見られる。例えば東洋史辞典(京大東洋史辞典編纂会、1991年10版)は、西夏を1038年からとしているが、李元昊は1032年から皇帝を称したとしていて、その違いには特に説明がない。西夏文字研究の大家西田龍雄氏をひくと、西夏王国の言語と文化(岩波書店1997年)の3章「西夏王国とその文化」の中で、

 1032年、徳明の子。元昊が平西王を継承すると、自から大夏皇帝と称し、宋の支配から完全に離脱した独立国家を誕生させた。(298頁)
とあり、1032年ともそれ以降のいずれかの年ともとれる書き方をされている。この原因は、李元昊が李徳明の後を継いだのが1032年で、宋史に上のような1038年という記述があるからだ。しかしどちらを採っても230年にはならない。


 他に何かあるのかといういと、李元昊以前から西夏は存在したとする考え方がある。少し前にこの事を簡単に纏めたものを読んだ(何に書いてあったのか忘れてしまって、探しも見つからなかった。ご存知の方がおられたら是非ご教示を)。そこには、李元昊の祖父李継遷の時という説と、西夏の母体となった勢力がそれ以前からあったので西夏もそれ以前からあった(建国年は不詳)という説が紹介されていた。

 まずこの後者について。西夏の母体となったタングート族の勢力は、9世紀後半から今の陝西省北部に存在した。しかし、李継遷と彼以前とは同族ではあっても系譜的に4世代、あるいはそれ以上離れている。また、李継遷と彼以前との間に政治史的にも断絶がある。この2つを理由に、自分は李継遷以前から西夏があったという説を採らない。


 自分は、西夏は李継遷の時代からという説を唱えてみたいと最近考えている。西夏は、宋や遼に近寄ったり離れたりしていたので、どこまでが宋や遼の属国時代で、どこからが独立時代かと規定するのは難しい。ならば、西夏を作った人達にそれなりに独立への意思があって、かつそれに適当な実態が伴っていたら、独立勢力として認めてみてはどうか。

 李継遷を初代とする理由は2つある。ひとつには、彼に贈られた廟号である。李継遷が太祖、李徳明が太宗、李元昊が景宗という廟号だったとされている。これが、実際に西夏で決められたものだとしたら、西夏での公式見解は太祖と呼ばれた李継遷が初代ということになる。そして李継遷時代の末期は、小さいながらも独立といえる勢力であったとも評価できる。

 2つ目は、李元昊以前にも西夏で皇帝を自称していた可能性があること。宋史には、李徳明が1012年に李継遷へ皇帝の尊号を贈ったという記録がある。これが事実なら、この時点かそれ以前から、西夏の主は皇帝を自称していたことになる。


 西夏の建国を何年にするか、だいぶ絞られてきたがここからも難しい。李継遷のどの時点をもって西夏が始まったとするか、あまり決定打がない。とりあえず今日の時点では、以下の二つを並べてここいらへんという意味で「1000年頃」としておく。これだと1227年までおよそ230年になる。

 ・李継遷と宋の講和が成立して、定難軍節度使を認められた997年
 ・1002年に征服した霊州(今の寧夏回族自治区銀川市の霊武市)を拠点と定め、そのことが宋に公認された1003年

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西夏史」カテゴリの記事

コメント

紀元前900年代前後或いは紀元前300年前後までには建国してると思いますよ。
いや4/1ネタではなくて(笑)
西晋のAD279年~280年(呉滅亡年)にかけて戦国魏の王墓もしくは封君墓から発掘された『穆天子伝』という西周穆王の西域遠征の記録(太行山脈から天山山脈までの紀行文、一説に趙の武霊王の時代に編集されたとも)に、

宗周:長安附近の西周の都
西土:西域など
河宗の邦:オルドス
陽紆の山:陰山
河首:黄河の河源附近
崑崙の丘:崑崙山

庚辰、天子は宗周の廟に大朝し、乃ち西土の数を里(はか)る。
曰(ここ)に、宗周テン水より以て西して、北のかた河宗の邦、陽紆の山に至る、三千有四百里なり。
陽紆自り西のかた西夏氏に至る、二千又五百里なり。
西夏氏より珠余氏に至り、河首に及ぶ、千又五百里なり。
河首襄山より以て西して、南のかたショウ山、珠沢、崑崙の丘に至る、七百里なり。
~(中略)~
各行数を兼ねれば、ニ万有五千里なり。

とありまして、陰山から河首まで五千里、
途中に「西夏氏」という部族の居るところがあって、
陰山から河首までの距離の5/8の地点です。
「河首」はたぶん黄河の水が一滴、二滴になってるところじゃなくて、できるだけ水源に近い青海省の山中だと思います。
だから西周の穆王が歓待されたという西夏氏の中心の部落は寧夏回族自治区の西南あたりになるでしょうか。

私は宋金時代の西夏って地域が前からずっと気になっていました。
ああいう寧夏から陝北の夏州までを統治している形態というのは、中国国家の弱いときじゃないとあり得ない訳で、
しかし陝北地域を制圧して陝西や山東の農耕民を入植させたのって秦の始皇帝が始めてですから、
この『穆天子伝』には陝西に拠った西周と、内蒙古西部や寧夏、青海といった地域の遊牧ないし牧畜民、オアシス民の緩やかな関係が窺えるんです。
牧民のところに天子がやってきたら酒飲ませていい気にさせて帰ってもらうという(笑)

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年4月 7日 04時08分

さすが中国ですね、まだまだ面白そうな文書が出て来る。できれば、西夏の歴史に直接関わるものがいろいろ出てくると良いんだけど。

横山やオルドスといった地域の歴史は、案外知られてなくてそれでいて面白いと思いますね。長安に近いし、今は漢族の黄土高原のようなイメージもありますが、歴史的には様々な人達が雑居する時代がずっと続いていて、それでいて長安に近いから関内の消沈とは無関係ではいられないし。

西夏だけクローズアップすると奇異にみえますが、西夏のオルドス支配は、チベットが中央アジア最大の国家だった時代の流れの中にあるわけです。その前提でみると自分には違和感無く見えてきます。
それにプレ西夏のころの横山、オルドスはタングート以外にもチベット、突厥、ウイグル、沙蛇にソグドと大変に賑やかな所でしたから、そういう文脈でも解き明かせると面白いのですが。

>寧夏から陝北の夏州までを統治している形態というのは、中国国家の弱いときじゃないとあり得ない訳で、

そもそも横山とオルドスを安定的に維持した中原王朝ってほぼ皆無ですよね。中原王朝という枠よりも遥かに大きいモンゴルと清を別格にすれば、あとは北魏と唐の全盛期それぞれ100年くらい。

投稿: 武藤 臼 | 2008年4月 8日 01時06分

>横山やオルドスといった地域の歴史は、案外知られてなくてそれでいて面白いと思いますね。

オルドスはまだしも横山に至っては指し示す地理的範囲さえはっきりしていないような気がします。
未だに横山県のままでしたっけ?
その点というか、既存の陝西省という地理的区分を利用できる陝北(陝西省北部)は将来有望であると思います。
地理区分としても地域史の対象範囲としても。

漢中などの秦嶺山脈以南は「陝南」と称されていますから、洛水、ケイ水などの渓谷の出口部分と関中平野を「陝中」、そして延安から長城線の横山までを「陝北」と呼び分けることができ、
この区分は陝西省という省が地形や政治的経過によって蛇行をくりかえすふしぎなかたちの境界線をもっていることに依存します。
いわば歴史的な変容に依存した地域区分です。

「民族」であるとか「国家」であるとかに不自然なかたちがあるように、「地域」というモノ、区分にも不自然なものが一杯あるのですが、
しかし私巫俊にしましても、自分の住む地域の歴史を語ろうとするとき、どうしても政治であるとか区分によってつくられた不自然な範囲である伊賀という言葉を避けることができません。

地質学的、数千万年規模の自然科学的な点から歴史を構築すると、実は「伊賀国」というのもはかなり虚構的というか、統一性のない幾つかの地方(郡や郷のレベル)が、畿内の政権との関係や山城、滋賀、伊勢方面との距離感から、とりあえず定められた地域と境界線、それが伊賀国であったりします。
伊賀という国は、外の国の人からすると割りと整ったかたちの一塊の地域に見えるんですが、住んでみたり行ってみれば、それがそうではない。全然異なるもの同士がより大きな枠組みである外国(山城国造国とか)の成立に伴って、とりあえずひとつの国としてくっついたもの、という感じがします。
そのことは例えば名張市と伊賀市では地質が大きく違うということからも分かるんです。

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年4月12日 06時57分

横山については前田正名氏の論考があるんですが、まだ私はもってないので、以下は私のイメージを含む大雑把な話です。
横山は、北から渭水へ合流する支流とオスドス高原との間にある丘陵地帯で、陝西省北西部、甘肅省北東部、寧夏自治区南東部にかけて東西に広がってます。また、北側がなだらかにオルドス高原へ続くのに比べ、南側は深い谷が幾筋も走って複雑な地形となっているため、山脈部分だけでなく南側山麓の渓谷部分を含めた方が西夏時代の歴史地理的にとっては意味があるかなと捉えてます。
ここが西夏と宋の主戦場だったため、西夏史にとっては欠かせない地理的概念ですね。

横山県は、手元にある昨年の資料の上ではまだ横山県のままです。ただ、以前は楡林地区の管轄でしたが、今は楡林市の管轄になってますね。

伊賀は、地理的には大和・南山城側の水系なのに、今三重県になっているのは、伊賀が藤堂家領だったからでしょうか。以前は4郡だったのに、合併で2市になってしまいましたね。

投稿: 武藤 臼 | 2008年4月13日 02時48分

知 太 原 府 呂 惠 卿 嘗 上 営 田 疏 曰 : 「 今 葭 蘆 、 米 脂 裏 外 良 田 , 不 啻 一 二 萬 頃 , 夏 人 名 為 『 真 珠 山 』 、 『 七 寶 山 』 , 言 其 多 出 禾 粟 也 . 若 耕 其 半 , 則 両 路 新 砦 兵 費 , 已 不 盡 資 内 地 ,  能 盡 闢

- 4270 -

之 乎 ? 前 此 所 不 敢 進 耕 者 , 外 無 捍  也 . 今 於 葭 蘆 、 米 脂 相 去 一 百 二 十 里 間 , 各 建 一 砦 , 又 其 間 置 小 堡 鋪 相 望 , 則 延 州 之 義 合 、 白 草 與 石 州 之 吳 堡 、  胡[六]以 南 諸 城 砦 , 千 里 邊 面 皆 為 內 地 , 而 河 外 三 州 荒 閑 之 地 , 皆 可 墾 闢 以 贍 軍 用 . 凡 昔 為 夏 人 所 侵 及 蘇 安 靖 棄 之 以 為 兩 不 耕 者 , 皆 可 為 法 耕 之 . 於 是 就 糴 河 外 , 而 使 河 內 之 民 被 支 移 者 , 量 出  乘 之 直 , 革 百 年 遠 輸 貴 糴 , 以 免 困 公 之 弊 . 財 力 稍 豐 , 又 通 葭 蘆 之 道 於 麟 州 之 神 木 , 其 通 堡 砦 亦 如 葭 蘆 、 米 脂 之 法 , 而 橫 山 膏 腴 之 地 , 皆 為 我 有 矣 . 」

夏人とか「橫山膏腴之地」とか出てくるので挙げてみました。『宋史』食貨志です。詳しく読んでないので今話している横山といっしょかは分かりませんが。

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年4月13日 09時26分

>伊賀は、地理的には大和・南山城側の水系なのに、今三重県になっているのは、伊賀が藤堂家領だったからでしょうか。

長い年月をかけて近畿地方の中心が京都市、大阪市、神戸市の方に移動してしまいましたので、

凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。
(『日本書紀』孝徳紀、改新の詔の条)

今は飛鳥期の辺境である赤石の櫛淵のあたりが殆ど神戸市の勢力圏という感じになっており、そもそも平安遷都という「都逃げ」が伊賀人にとって都に逃げられたということの始まりであり、明治以降も堂々と畿外である滋賀県が近畿入りを安堵されたのとは対象的に、平宗盛の時代は「畿内近国」に指定されて首都戒厳令下にあった伊賀、伊勢は、明治以降いよいよ帰属先を失いつつあります。
とくに伊賀は中京圏としては違和感がありますし、こうなれば近畿の外れ者の若狭とでも手を組んで近畿、中部辺境圏として歴史をアピールしていくしかないでしょうか(^^)

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年4月13日 10時42分

原文の細かいところを字書をひいて解釈している余裕がないので、大雑把な話で申し訳ないですが、出てくる地名は太原を除いて、今の陝西省北部の楡林市東部の黄河西岸沿い、綏徳県から神木県にかけてのものですね。石州自体は今の山西省にあった州ですが、一時石州が管轄していた吳堡などは、黄河の西岸、やっぱり陝西側の地名です。最後の一文の前半がよく分からないので、ここでいう「作物のよく育つ土地横山」というのがどこまで指しているのか分かりません。地図で見る限り、米脂あたりを横山の東端と見るのは違和感ないです。陝西省楡林市米脂県あたりは、初期には西夏領でしたが後に北宋領になります。周辺が西夏にとって重要な穀倉地だったことを誰かが書いてましたね。

自分の仕事的に三重県は、近畿であって関西でなく、かつ東海という両属的な扱いです。
藤堂高虎が豊家を裏切らず、筒井家が没落していなければ、伊賀は今頃は奈良県だったかもしれません(笑)
とはいえ、伊賀ってやっぱり伊賀じゃないですか?それで良い気もしますが。

投稿: 武藤 臼 | 2008年4月14日 02時00分

山西省側の石州が管轄していた吳堡の話など、とても興味深いです。
『中国歴史地図集』で地名と位置は把握していこうと思っていますので、今後もご教授くださいm(__)m
それにしても米脂とは興味をそそられる地名です。
神木、楡林と植物地名があるのもこの地方のかつての風景を想像させます(^^)

ところで元の甘粛行省寧夏府路(今の銀州市)って、「(西)夏を寧んずるの府路」という意味ですよね?
『中国歴史地図集』を見ていて気付きました。そういえば寧夏回族自治区は「回族」という印象と「なんとなく夏は暑そう」という印象から(笑)、あまり直截には西夏を連想しないはずですが、
ちゃんと「夏」の地名を継承しているのですね。

それから『宋史』夏國列伝下の「恵宋、夏之境土」を見ていましたら、河外の積石州というところが西夏領土であると書いてありました。
『穆天子伝』には「丙寅、天子は・・・以って枝{シ寺}(分岐した流れの渚)の中、積石の南河に飲む」とありまして、
前日の乙紐の日に、穆天子は温谷楽都という漢代の五原郡にあたる場所で、河宗氏(黄河を祭祀する本宗の一族)の饗応を受けていますから、この積石というところは、
『中国歴史地図集』の西夏の地図にはこの場所に州県がひとつもマッピングされていないんですが・・・
え~と、『中国歴史地図集』製作時に内蒙古の臨河県だったところあたり、北河と南河に分流する黄河の中洲の中で南河側のほとりが『穆天子伝』の指す「積石」のようです。
というのも、後代に「積石」という場所は甘粛の金城附近に求められたりと解釈に幅があるようでして、
やはり近世の地域大国である西夏研究の助けも借りたいと思うのです(^^)
西夏の積石州というのは何処なんでしょうか?

投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2008年4月14日 14時45分

>「(西)夏を寧んずるの府路」という意味ですよね?

なんとなく、あちこちに書かれているのを見ますね。元史地理志とか見ても出てないし。現地のガイドブックとかにも書いてありますが、ネタ元がどこにあるのかまでは分からないですね。


>それから『宋史』夏國列伝下の「恵宋、夏之境土」を見ていましたら、河外の積石州というところが西夏領土であると書いてありました。

これは、西夏伝の終わりの所、中華書局本でいえば、14028ページのところの内容ですか? ここでいう河外の積石州は、北宋の秦鳳路(あるいは熙河路)の積石軍(『中国歴史地図集 6』20ページ左上)のことです。地図集の比定が正しければ、現在の青海省海南チベット族自治州貴徳県の中心部付近になりますが、鈴木隆一氏はもう少し西じゃないかと書いてます。どちらにしても五原郡からは遠いですね。ここが西夏の領土になったのは、北宋が滅びてから、12世紀のはじめの話です。

投稿: 武藤 臼 | 2008年4月15日 02時03分

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