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2008年5月 8日

敦賀3城

 京都から西近江路を北上して北陸を目指せば、その入り口は敦賀になる。敦賀というと、織田信長が初めて越前の朝倉義景を攻めた時に、最初に攻め懸かったという天筒山城と、その西側にあって新田義貞の時代から敦賀の押えだった金ヶ崎城が知られているだろうか。しかし、天の邪鬼たる自分が最初に向かったのは花城山城。

 花城山城は、敦賀の西側にあったとされる城で、信長が押えていた時代にはここが敦賀の拠点だったという。実は、そのことは最近知ったことで、具体的な資料に当たる時間がなく詳細をまだ知らない。何はともあれ行ってみるかということなのだが、最初の城に選んだのは信長関係だからというよりは、城主が武藤舜秀(きよひで)だったからというもの。

 武藤舜秀は、前歴があまりよく分かっていない人物だが、信長が敦賀を押えてから1578年に陣没するまで、一貫して敦賀に置かれていた武将。小さいながらも遊撃部隊を率いて各地を転戦していたという。なぜ私が舜秀にこだわったかというと、ハンドルネームを決める時にムトウスに武藤の字を当てたのは、彼の名字が頭にあったから。なぜ舜秀なのかと問われて、それほど深い理由があったわけではない。まあ、そういう一方的な因縁なのである。


 この写真の標高93mの山がその花城山城跡らしいのだが、周囲を歩いても何の案内もなければ、適当な登り口も見つからない。最初から薮こぎものともせずというわけにもいかず、手前の橋の赤い欄干に花城橋の名前を確認し、遠景を撮影して退散した。機会を見て再挑戦しなくてはなるまい。


 2つ目に登ったのが、花城山城からは敦賀の市街地を挟んだ東側、標高171mの天筒山城(手筒山城)。山の南側、国道476号から踏切を渡った先に駐車場があり、そこから山頂まで歩道が整備されている。


 その歩道を黙々と登ること20分で山頂に出た。写真は、山頂に建つ展望台からの眺め。敦賀港のほか、市街地と周囲の山々を全て一望できる。山頂周辺は、公園として整備されていて、城跡らしい遺構はほとんど見られない。


 代わりに、山頂の南東側、歩道の脇に写真のような看板が立っている。そこから続く尾根の上に小さいながらも郭、堀切が残り案内板が立てられている。


 3つ目が金ヶ崎城。天筒山城の西にあって、尾根伝いに歩いて行くこともできる。車で行くと、金ヶ崎宮の駐車場から石段を登り、境内にある案内に従えば城跡を巡る遊歩道を回ってこられる。神社に戻るコースなら標高88mの本丸跡とされるところまで回って20分とかからない。


 写真がその本丸跡。ここから東へ向かう尾根の上には、深い堀切が数本残っていて天筒山城よりも山城らしさを実感できるように思う。


 下のGoogle Map上のマークは、青が花城山城、右下の緑が天筒山城、左上の緑が金ヶ崎城を表している。赤は、武藤舜秀の後に敦賀の領主になった蜂屋頼隆が築いたと言われている敦賀城跡。堀が掘られ天守閣も建てられていたが、江戸時代の初めに廃城になったとされている。今は往時を偲ぶ石碑などがあるだけとのことだが、時間がなくて寄らなかった。

 地図上にプロットしてみると、敦賀の街と港を真ん中に、花城山城、敦賀城、金ヶ崎城が、それぞれの勢力と時代を明確に反映した場所に立地していたように見える。いかがなものだろうか。


大きな地図で見る

<参考>
敦賀城ザ・登城

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