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2008年5月31日

道州制 最近の動き

 首相の指導力で道州制に 麻生氏、年金は税方式(47ニュース 5月19日)

 この中で自民党の麻生氏は、

 現在の中央集権システムには限界があるとした上で「地域を経営する感覚で物事を考えるべきだ。日本の将来は地域主権型の道州制に移行すべきだ」と強調した。
 とのこと。ここのところ道州制についてのニュースが多くなっているが、これは道州制担当大臣の懇談会、道州制ビジョン懇談会が3月に中間報告を纏めてからの流れと思われる。中間報告は、同懇談会HPから概要本文がダウンロードできる(両方ともPDFファイル、本文は少し重い)。

 自分は、政治制度を改革して中央集権を改めるなら、中央が必要以上に持っている権限を地方に移すことからと考えている。地方分権という言葉を言い換えただけのことだが。麻生氏の発言もそうだが、中央集権を変えるためになぜ道州制の導入が必要なのかが自分にはわからない。

 上記中間報告の「1. 現状の問題点」の中の「(6)不十分な広域行政化と地方分権」には、

 現在の都道府県の大きさでは、広域自治体の単位としては狭小となり過ぎ、地域経済活動活性化や雇用確保など地域や住民から求められている課題に対応できないなど、行政の効率性が著しく阻害されている。
とあるが、本当にそうだろうか。そもそも今の都道府県には広域自治体として必要な制度が整っているのだろうか。あるいは、自治体は現行制度の中で適切に機能しているのだろうか。中間報告の上記一文の前には次の一文がある。
 都市圏の拡大やモータリゼーションの発展などにより人々の移動が広域化したこと、基礎自治体の財政力基盤を高める必要性などによって、市町村合併が進められてきたが、都道府県については明治21年以降ほとんど変更がなく、いまだに行政単位は47の「細切れ」状態にある。
つまり、時とともに必要性があって市町村合併が行われたのだから、都道府県も合併すべきという論である。平成の大合併について大雑把に言って、中央の失敗を地方に押し付けて財源を餌に半ば強権的に進められたもので、少なくとも部分的に機能低下を招いていると自分は評価している。市町村合併が進んだことは、都道府県の合併の必要性には繋がらない。

 懇談会の座長江口克彦氏は、自著地域主権型道州制(PHP研究所)の中で、効率的な行政の為には「12の州、300の市」が適当として、人口規模の平準化を説いている。地方へ権限を移すためには今の自治体では非効率だという。しかし、人口平準化の必要性は、地方自治を考える上では机上の空論であることは、以前道州制についての中に書いた。合併するなというわけではない。合併にはメリットもあるので、合併という判断があってもかまわない。ただ、地方自治を目指す以上それは各地方が判断すべきで、平準化という空論を根拠に押し付けるべきではない。それこそ、平成の大合併の失敗を、輪をかけて繰り返すことになる。

 中間報告書の「3.制度設計の基本的な考え方」の中の「(6)導入のメリットと課題への対応」には、メリットとして以下の7点が揚げられている。

 1.政治や行政が身近なものになることで受益と負担の関係が明確化し、効率の低い政治行政の要求が抑制される
 2.政策の意思決定過程の透明化が進み、住民参加が容易になる
 3.東京一極集中が是正され、多様性のある国土と生活が構築される
 4.地域の実情や特性を踏まえた迅速で効果的な政策展開が可能となる
 5.国の縦割り機構による重複行政がなくなり、補助制度による無駄遣いや陳情合戦の非効率が改革される
 6.十分な規模と権限を持った道州による地域経営がなされることで、広域の経済文化圏が確立される
 7.国の役割を国家本来の機能に集中させることで、国家戦略や危機管理に強い中央政府が確立される
2、3、5、7については、道州制の導入とは無関係。1、4は、中央の権限を道州へ移せば、より身近になり迅速になるという。正しいと思うのだが、都道府県でなくて道州でなければならない理由にはならない。6にある「規模」は上に書いたとおりで、経済文化圏というのはなんだかよくわからない。自分には、都道府県を道州に再編するメリットがさっぱり見えてこない。


 行革推進の700人委員会、道州制導入を提言(読売新聞 5月26日)

 このニュースによると700人委員会の水野、石原両氏は記者会見で、

 日本の統治構造を全面的に変えるために道州制導入が必要。2018年をメドに道州制を導入すべきだ
と述べたとのこと。どうしようもない中央政府を改革するために、道州制という劇薬を使うべしという考え方は政治的にはありうるのだが、地方自治を考える上で都道府県の再編はあまりにもドラスティックにすぎる。


 自民、道州制区割りで4案まとめる…分割数は9と11(読売新聞 5月29日)

 区割りばかりが話題になっているように見える。29日に行われた道州制推進本部と道州制推進委員会の合同会議の議題は、区割りについてだったようだ。区割りの議論ばかりしているわけではないにしても、単独の議題になるほどの重要なテーマということ。区割り論が不毛なことも、簡単ながら道州制についてに書いた。区割りに目を奪われていると、道州という枠組みだけができて制度改革は置き去りということになりかねない。

 地域主権型道州制を高らかに謳うのであれば、同時にそれは地域主で進めるべきで、中央主導で中央から押し付けるのは全くナンセンスである。

 以上により、道州制ビジョン懇談会が纏めた中間報告が薦める道州制の導入に強く反対する。

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2008年5月29日

(書評)ロシアとモンゴル

ロシアとモンゴル
中世ロシアへのモンゴルの衝撃
C.J.ハルパリン(Charles J. Halperin)著
中村正己 訳
ISBN978-4-88611-419-8
図書新聞 2008.3

 本書は、1985年に出版された「RUSSIA AND THE GOLDEN HORDE---The Mongol Impact on Medieval Russian History」の邦訳で、訳者によれば著者の希望により若干の訂正と字句の修正が加えられているとのこと。

 邦題には「モンゴル」とあるが、原題は上のよう「ゴールデン・オルド」で、本文中ではゾロターヤ・オルダーあるいは黄金の幕営と書かれている。前者は、原著のロシア語音を片仮名に置き換えたもので、後者はその意訳である。歴史用語としては、金帳汗国のほうが多少馴染みと思えるが、やや難があるとして避けたという。ゾロターヤ・オルダーとは、キプチャク汗国つまりジョチ・ウルスのことだが、著者はキプチャク汗国は不適切で使うべきでないと説いている。書名は、より分かり易くという意図で変えたとのこと。


 本書は、ジョチ・ウルスあるいはモンゴル時代のロシアについて、その後のロシアで歴史を語る上でどのようにモンゴルを過小評価してきたかを解説し、それに反証を加えることでモンゴルを評価し直そうというもの。したがって通史的な概説などではなく、ロシアにおける影響という点に焦点をあてて、再評価すべき部分を解説している。

 モンゴルを過小評価してきたということについて、現代での評価の低さという問題のほかに、年代記作者達がどのようにしてモンゴルの問題を避けてきたのかという点にも触れている。中世ロシアは、イベリアやバルカン地域などのようにキリスト教世界の境界地帯であると定義した上で、中世においてそのような社会では価値観と現実の違いを克服するために沈黙のイデオロギーという方法を利用してきたのだという。

 彼らの周りにある証拠からは結論を引き出さないと事実上決心した。(27頁)
つまり宗教教義などの価値観に矛盾すること、不都合なことについては無視し、黙して語らずに済ませてきたとのこと。

 この沈黙のイデオロギーを中心にして、下記目次のようなテーマによって解説と筆者の主張が書かれている。そのため歴史的な事件については必要に応じて触れられる形になっていて、クリコヴォの戦いなどロシア史の上で評価されてきたものが大きく取り上げられている。筆者の説明の中で重要なものの一つが、

 モンゴル人はルーシを大草原から統治した
という表現。ジョチ・ウルスのロシア支配は、中央アジアや中国など他のモンゴル諸国と異なり、初期に少数の役人を送り込んだ以外には長く間接統治が続いた。そのことがジョチ・ウルスを他のモンゴル諸国よりも長く続かせた一因であると説くとともに、モンゴルの影響を分かり難く、無視し易くしているという。

 もう一点、筆者が説いていたことで印象に残っているのが、商業についてのモンゴルの影響ということ。モンゴル以後のロシアでの東方貿易について、モンゴルの影響が少なくないことを説いている。国内のモンゴルものというと、フビライによる海への展開と商業という点が語られるが、陸と海の違いとはいえジョチ・ウルスでも商業の果たした役割が説かれることは、なかなか興味深い話だった。


 自分の読解力の問題なのか内容の問題なのか、4章あたりまでは話が前後するようで把握し辛かったが、後半はわりと読み易かった。従来の方向性に反証する内容という点では、そのわりにさほど強弁しているようには見えず、内容のバランスがとれているように見えた。それは、国内で書かれたいくつかのモンゴルものを読んだ影響かもしれない。

 細かい部分についてもう少し。本書はこのような内容なので、ジョチ・ウルスについて自分の知らない情報が多く出て来るわけではない。ママイやトクターミシュなどは馴染みがあるものの、エディゲイ、アフマードといったあたりが何度か登場するところは自分には新鮮だった。とくにバトゥの直系が断絶して以降のことは知らないことだらけなので、ロシア史での位置づけということも含めて勉強になった

 モンゴルを見直すという切り口は、今となってはさほど珍しくないとはいえ、20年前ではどうだったのだろう。それがチンギスやフビライではなく、ロシア史の流れの中で説かれるというのは新鮮で面白かった。ジョチ・ウルス史の概説という期待からは外れるものの、読み終わってみれば十分に面白い一冊だった。


<目次>
第1章 中世の民族・宗教的境界地帯
第2章 キーエフ・ルーシと大草原
第3章 モンゴル帝国とゾロターヤ・オルダー
第4章 モンゴル人のルーシ統治
第5章 ルーシの政治におけるモンゴル人の役割
第6章 モンゴル人支配についてのルーシ人の「理論」
第7章 経済的ならびに人口誌的諸結果
第8章 モンゴル人とモスクワ大公国の専制政治
第9章 モンゴル人とルーシ社会
第10章 文化的活動
第11章 結論

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2008年5月28日

信州まつもと空港の延命

 松本空港チャーター便に助成(産経新聞)

 19年度の松本空港の利用者数は昨年10月の減便が響き、滑走路拡張でジェット化した平成6年度以降で最低の9万7594人に落ち込んだ。
 松本空港発着の国際チャーター便を使う旅行を企画した旅行会社に往復で10万円を補助する計画だ。

 GW中の松本空港 減便など影響で搭乗者数49%減(信濃毎日新聞)

 (GW中の)利用率は、札幌線は5.5ポイント増の75.4%、福岡線は2.2ポイント減の78.1%、大阪線は0.8ポイント増の55.1%だった。

 信州まつもと(松本)空港をほぼ一年前に書いている。昨年度の利用者97594人は、海外チャーター便の利用者2千人を加えての数字だから、定期便の利用者の減少は減便と機種の小型化以上に大きいと考えるべきでろう。大雑把な見込みだったとはいえ、自分の予想よりもやや大きな減少である。

 唯一毎日就航している大阪便の搭乗率が50.7%でしかない。それで維持されているというのが不思議でならない。昨年書いたように、大阪便を利用するメリットはほぼ皆無。GWにも関わらず55%という低い利用率は当然といえば当然で、大阪便の利用が改善することは今後ともまずありえない。

 札幌便の搭乗率はかなりの改善だが、福岡便は減少している。もともと必要性が低いことに加えて、札幌週4便、福岡週3便という中途半端な設定ではこの傾向に歯止めをかけることは難しいだろう。

 昨年20、30便程度の就航だったと思われるチャーター便は、どんなに頑張った所で倍増することはないだろうから、利用補助といっても大した額ではないかもしれない。それでも、そこまでして就航を維持する必要があるのだろうか。

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2008年5月25日

アラル海

 昨日発売された日経サイエンス7月号に8頁の特集で最近のアラル海を紹介した記事が載っていた。しばらくぶりに見る情報で、少し驚きだったのでアラル海の海面縮小について、以下で少し紹介してみる。

 同特集のダイジェストがこちらで読めます。載っている写真は、アラル海南のかつての海岸線。

 以下の内容は、当記事を作成した日のGoogle Mapを元に作成しているため、Google Mapのデータが更新された場合、内容と合わなくなるかもしれません。



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 この画像が現在Google Mapで見られるアラル海の姿。海面の縮小がニュースになってもうどれくらい経つだろう。小アラル海の分離や島の巨大化が話題になったのは覚えている。日経サイエンスの特集には、1976年、1997年、2007年の衛星写真が掲載されているが、このGoogle Mapの画像は1997年のものに近い。2007年のものでは、大アラル海(小アラル海が分離した残りの部分、小アラル海は下記を参照)中の島が完全に陸地とつながり、大アラル海はその部分で東西2つの海に分断されてしまっている。その上水深が比較的浅いという大アラル海の東半分の海面縮小が著しい。


大きな地図で見る
 こちらが、大アラル海と分離された小アラル海。カザフスタン領になる小アラル海は、堰を築いて大アラル海への流水を止めることで水域として再生させるという計画が、だいぶ前にニュースになった。同特集によると、最近はその成果が現れて漁業などが復活しつつあるという。


大きな地図で見る
 大アラル海の北にある湾。正確に言うと「あった」ということになるのだろう。同特集の2007年の写真を見ると、この鳥が翼を広げたような湾は、頭の部分を残して干上がってしまっている。


大きな地図で見る
 同特集では、今はただの陸地になってしまったボズロジェーニエ島にあったという、旧ソ連の実験施設のことが採り上げられている。元島だった部分をざっと見てみて、人工的なものが見つかったのはここだけだった。ここがその施設だろうか?左に見えるナスカの地上絵みたいなのは滑走路の跡だろうか。


<おまけ>
 シル川河口付近アム川旧河口付近クフナ・ウルゲンチ周辺

 アム川の河口は、途中で塞き止められて完全に干上がっている。アム川河口というと、13世紀にモンゴルに抵抗して滅ぼされたホラズムシャー朝の都ウルゲンチを思い出す。今はトルクメニスタン領となった旧ウルゲンチ(クフナ・ウルゲンチ)が、河口からはだいぶ距離があることを確認した。

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2008年5月24日

七尾城 2

 戦国時代、能登の中心だった七尾城は、今年の連休の旅の中でも一番の目玉で、期待以上に興味深い城だった。少し長くなるがもう少し書いてみる。

 昨日は、本丸周辺について書いたが、パンフレット「史跡 七尾城跡」で紹介されているコースは、本丸下の駐車場を起点に、寺屋敷、三の丸、二の丸、本丸と見て回るもので所要50分とある。2時間近くかけて、コース以外の大手道の途中までや西の丸などを回ってみた。


 七尾城の主要部分では、いちばん北に広がる三の丸。南北に100m近い広がりがあり、真ん中を石垣で区切った跡が残る。


 二の丸から本丸側に階段状に続く郭。草で隠れているが石垣が築かれている。写真の道の部分は、左手にある郭の東側を守る土塁の上にある。


 三の丸から大手道を少し北へ下ったあたり。左手に細長い郭があり大手道との間に土塁が続いている。

 昨日紹介した本丸周辺と二の丸、三の丸までで500mほどの広がりがある。七尾城資料館で購入した七つ尾 第25号の特集七尾城跡によると、七尾城は全体で2km×3.5kmの広がりがあるとのこと。同誌で解説されている郭群の主なものを、掲載されている図面を参考に地形図の上に色づけしてみた。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(七尾)を基に作成しています。」
(地図をクリックすると大きな地図が別のウィンドウで開きます。)

 北西から南東へかけて2km以上の広がりがある。本丸から離れた郭の中には、独立性の高い形を持ったものも見られ、それだけでひとつの城とも見れる。これらは、巨大な城郭群とみるべきなのだろう。広がりという点では、国内でも大きい部類に入るのではないだろうか。

 北側の山麓には守護所と呼ばれるところがある。雛壇状に郭がならび、守護や家臣の屋敷があったという。前面には堀があったことが確認されているとのことで、ここだけでもかなり大規模だ。これだけ広大だと、全てを守りきれるものでもないと思うのだが、1576年に上杉謙信が攻め込んだ時などはどうだったのだろう。

 城の主要部分は、本丸の北に三の丸、東南に長屋敷と言われている郭を並べた配置で、郭の間は深い堀切で区切られている。長屋敷は、パンフレットなどにも載っているが、散策ルートには入っておらず、道も整備されていない。なんとなく興味を覚えて、予想以上に急な斜面と深い薮を掻き分けて登ってみた。


 写真は、その東側の端に続く土塁の一部。郭の東側ほぼ全体が土塁で覆われ、その先に深い谷がある。七つ尾 第25号によれば、幅40m、深さ25m、長さ150mある堀切とのこと(上の地図上に3本引いてある線の一番右側)。土塁の上から堀切の底に降りるのはかなり大変だったが、降りてみると普通に地形的な谷のように見えた。地形図ではっきり分かる大きな堀切というのも凄い。

 地形図を見ると、長屋敷は本丸よりも20mほど高く、その東にはさらに高い場所があるのが見て取れる。山の上としては地形的になだらかなこの東へ続く尾根は、七尾城にとって大きなウイークポイントに見える。そのための深くて巨大な堀切ということなのだろう。


 本丸より80m高い位置にある展望台から見た七尾城。本丸を丸々見下ろせる位置にある。七尾城を攻めるための指揮所として絶好の位置ではないか。


 目玉とはいえ、半日しか予定していなかったので、本丸周辺しか見ていない。七尾城がこれほど大きな広がりを持つことは行くまで知らなかったというのもある。全部を見て回れば、2日かけても見て回れるかどうか。パンフレットで案内されている範囲は、看板が備えられ、道にも手が入っていて手軽に見て回れる。その範囲の外側は薮が深く、地形も厳しくて大変そうだ。

 それでもこれだけの大きさの山城である。機会があれば丹念に見て回りたいとも思う。階段状の石垣、高くて急な堀切や土塁、形の良く残った郭群と実戦的で興味深い山城だった。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 七尾城周辺

<参考資料>
七つ尾 第25号
特集 七尾城跡
七つ尾編集委員会 編
七尾城址文化事業団 2006.9

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2008年5月23日

七尾城 1

 今年のゴールデンウィーク7つめの城は、戦国時代に能登の中心として、恐らく北陸の中でも特筆されるほどの規模を誇った七尾城。能登の守護畠山氏の居城だった七尾城は、海に面した七尾市街の南東、標高300mの山の上にある。どれくらい大きな山城かについては、後日改めて解説する予定。

 麓から登って標高差250mほどとかなり登ることになる。是非ともその大きさを体感してみたいところだが、旅行中ということで手抜きをする。本丸直下の駐車場まで県道が続いているので、手軽に城の中心部を散策できる。なおパンフレットには、麓の資料館から城跡往復の散策は2時間半と紹介されている。


 駐車場の案内板に掲載されているイラストマップ。いくつかの解説本を含めて、七尾城として紹介されているのはほぼこの範囲。しかし、周囲に連なる郭はこの数倍の広がりがあるとのこと。


 本丸の下にある調度丸から桜馬場の下にある石垣群を見上げたところ。高さ数mの石垣が階段状に連なっている。

 ところで、七尾城は1577年に攻防戦の末に越後の上杉謙信によって陥とされた。その後、1581年に織田信長のものとなり前田利家に与えられた。しかし利家は、翌年に七尾市街に新し拠点を築き始め、さらに翌1583年に加賀の北半分を領地として得たため金沢へと拠点を移している。この目まぐるしい変遷のため、なかなかに立派な石垣が誰の手によるもので、利家の手がどのくらい入っているのかは判然としていないようだ。


 本丸の北面も階段状の石垣になっている。写真は最上段の部分。


 近くにある展望台から撮った本丸の写真を拡大すると、右側に階段状の部分が見える。


 本丸には、高い土塁と櫓の跡と見られる一段高い部分があり、今は小さな神社が建っている。その櫓台から北に七尾市街と七尾湾を見下ろしたところ。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 七尾城周辺

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2008年5月22日

ティムールとトクタミシュ

ティムールとトクタミシュ
---トクタミシュ軍のマーワラーアンナフル侵攻とその影響
北海道武蔵女子短期大学紀要40
川口琢司 著
ISSN0389-9586
北海道武蔵女子短期大学 2008.3

 1997年刊行の岩波講座 世界歴史11中央ユーラシアの統合(岩波書店)でキプチャク草原とロシアの章を書かれ、最近ではティムール帝国支配層の研究(北海道大学出版会)を出された著者の新しい論文。本の海のアストロラーベのちょくさんから送って頂いた。どうもありがとうございます。

 本論は、15世紀のハーフィズ・アブルーが残した歴史書歴史集成の中の第4章バイスングルの歴史精髄を中心に、ペルシャ語文献を用いてジョチ・ウルスのトクタミシュが中央アジアに攻め込んだ際のティムール朝の情勢を考察したもの。上に揚げた2書の間に位置するような研究だが、本論は歴史集成を元にした研究として前著の続編という位置づけであるとのこと。

 情報の少なく大変興味深い分野なので、前著のような論文集が世に出る日を楽しみに待ちたい。

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2008年5月21日

末森城

 日本国内に三国(みくに)とつく地名はどのくらいあるものか。ある日本地図帳の索引を開いてみると、三国町、三国ヶ岳、三国川、三国山脈、三国岳、三国峠、三国トンネル、三国山、併せて25件載っていた。一つひとつ調べたわけではないが、この内の多くは江戸時代までの国が、3つ接する場所に因むものと思われる。上の25件の中には、自分が知っているものがいくつか載っていないので、全国にもっとあるはずである。

 ゴールデンウィークの北陸巡りも中盤、白山山麓から金沢を飛ばして一気に能登の入り口へと北上した。加賀、越中、能登の三国が接する場所にも三国山という標高323mの山がある。自分にとって能登最初の城末森城は、三国山から北へ10kmほどの場所にある。

 織田信長が本能寺に散ってから2年後の1584年、かつて同じ信長傘下の武将だった越中領主の佐々成政と、能登と加賀北半分を領していた時の前田利家が戦端を開いた時、争奪の対象になったのが末森城だった。利家の家臣奥村永福が守る城を成政が攻めた理由が、三国の境に近い要地だからだったという。


 城跡のある末森山は、南北に続く海岸から2kmほど東にある標高138mのこんもりとした山。山頂から西へ伸びる尾根が登り道で、尾根の先端は今は国道によって断ち切られていて、そこに橋が架っている。


 案内に従って細い道を登って行くと、橋の手前に数台の車が停められる駐車場がある。


 橋から城跡へと続く道は新しく付けられた林道で、どこまでが本来の登城道跡なのかわからない。場所によって元々ある土塁なのか、林道の法面なのかの区別もつけ難い。写真は、右上が若宮丸、左上が三ノ丸とのこと。間の切り通しが大手門だったという。


 二ノ丸まで林道が続いているので、歩く分にはいたって快適。橋から標高差100m、1km弱の道程だが、寄り道しなければ15分から20分で本丸まで辿り着ける。写真が本丸で、南北に細長く広がっている。写真真ん中に見えているのは、城の詳細な図面と解説、年表が書かれた案内板。


 杉の木立の間からは、海岸林の向こうに日本海が霞んで見えている。



「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(宝達山)を基に作成しています。」


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 末森城周辺三国山

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2008年5月19日

中宮温泉 山田旅館

 一向一揆の里から手取川を遡り支流の尾添川へ。スキー場や温泉がある白山一里野高原を過ぎると谷がいよいよ深くなり、道は白山スーパー林道へと続く。5kmほど登ると白山国立公園のビジターセンターがある。思いのほか面白い展示が見られたが、連休前半の夕方近くで閑散としていた。中宮温泉はさらにその先、小さな谷に入った所にある。

 山田旅館は、その小さな温泉地にある旅館の一軒。その何軒かの中から連休の北陸旅行中の宿のひとつに選んだのは、特に理由や縁があったわけではなかった。


 標高750mを越える旅館周辺。萌え始めたばかりの林が奇麗で、桜も少し見られるが、高い所にはまだ雪が残っていた。話によると今年は連休前に急に雪が消えた、普段の年はもう少し残雪が多いのだという。


 大人が3人も入るといっぱいになる露天風呂。塩化物・炭酸水素塩泉で、僅かに濁り、湯口の周りの析出物が温泉らしくて良いのだが、泉温が50度を越えるため、ぬる湯に長風呂好きな自分にはちょと熱い。


 豪華!という旅館飯でなく、いかにも山里の宿らしい夕食。手前左から漬け物、蕗味噌、蕎麦、岩魚の塩焼き、コゴミの酢の物、付け出し、山三葉の胡麻和え、虹鱒の刺身。鍋も山菜だった。どれも美味しかったが、虹鱒の刺身は特に甘くて美味しい。1泊2食温泉つき8000円でこれだけ食べられれば満足です。

 ところで、鍋の出汁取り用にと入っていた脂身、猪とは違うなと思って聞いてみたら熊だった。15年ぶりに口にする熊。追加料金で刺身も食べられるとのこと。事前に知っていれば頼んだのだが。紅葉の頃にでも熊目当てに出直したくもある。


 いたって普通な朝食。お粥は温泉粥とのこと。


 スーパー林道は、夏になるまでの半年間閉鎖されているためこの時期はまだ抜けられない。中宮温泉までは無料で登れるが、中宮温泉の入り口近くにある料金所はまだ閉じられたまま。その向こうにはまだ雪が残っていた。


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2008年5月18日

鳥越城

 加賀国の手取川というと、織田信長好きには上杉謙信との戦いで惨敗した川の名前として知られているだろうか。信仰の山白山から流れ下るこの川は、その上流に深く細長い谷を幾筋も刻んでいる。鳥越城は、手取川と支流大日川の間にある南北に細長い山の上に築かれた山城。

 一向一揆の国だった加賀に信長が攻め込んだのは、越前を平定した直後の1575年。以来5年に渡って攻防が繰り返されたが、白山山麓一帯の抵抗は激しく、最終的に鎮圧されたのはさらに2年後のことという。

 鳥越城は、もともと二曲(ふとげ)に居を構えていた鈴木氏が、信長の侵攻に先駆けて整備したものという。一揆鎮圧以後も、後に金沢に入った前田氏によって拠点として整備利用されたと考えられている。

 この城はまた、積極的な発掘と復元整備が行われた城でもある。発掘の結果、本丸では短期間に何度も整備し直されたことが確認されたとのことで、城の性格が良く現れているということなのだろう。



 本丸の標高が310mほどで、山麓から120mの標高差がある。西側から車で上れる舗装道路があり、郭の入り口に駐車場がある。写真は、駐車場に立てられた案内板。本丸を中心に南北に5つの郭が連なっている。


 本丸の虎口に復元された門。本丸と二の丸の間の堀を埋めて石垣を積み上げていて、この形そのものは信長時代以降のものと考えられる。


 本丸虎口脇の櫓台から見た本丸。建物の跡が示してある。


 山麓北側の眺め。右から流れているのが手取川。右から山が迫って来るあたりで、左から流れて来る大日川と合流している。ほとんどの田に水が張られて田植えの最中というところ。


 道の駅一向一揆の里の隣にある一向一揆歴史館。親切に対応していただき、上映が終わったばかりのビデオを最初から見せて頂いた。厚さは20頁ほどだが、自前の叢書シリーズが充実していたので、興味の範囲で購入してきた。なお、鳥越村は2005に合併して白山市になっている。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 鳥越城跡周辺二曲城跡周辺

<Google Map>
 雪の鳥越城跡


<戦利品>
一向一揆歴史館叢書3
一向一揆と前田利家
鳥越村一向一揆歴史館 2002.4

 

一向一揆歴史館叢書4
越中一向一揆
鳥越村一向一揆歴史館 2002.9

 

一向一揆歴史館叢書7
「国指定史跡鳥越城跡附二曲城跡」シンポジウム
北陸中世城郭の整備と活用
---史跡鳥越城跡附二曲城跡の回顧と展望---
鳥越村一向一揆歴史館 2003.9

 

一向一揆歴史館叢書8
加賀一向一揆
鳥越村一向一揆歴史館 2004.4

 

一向一揆歴史館叢書9
一向一揆と上杉謙信
鳥越村一向一揆歴史館 2004.9

 

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2008年5月17日

(書評)ぼっちゃん

ぼっちゃん
魏将・カク昭の戦い
河原谷創次郎 著
ISBN978-40-5403642-0
学習研究社 2008.5

 本書は、中国の三国時代、228年の冬に諸葛亮率いる蜀軍が攻めた魏の陳倉城攻防戦を描いた小説。本書タイトルがいうところの主役ぼっちゃんとは、魏の将軍で陳倉城守備軍を指揮したカク昭(郝昭)の息子カク凱(郝凱)のこと。そのカク凱が一人称で父のカク昭を語る。

 数ヶ月の籠城準備と20日間ほどの籠城戦をめぐる物語で、陳倉城(現在の陝西省宝鶏市の東郊)が舞台。それにプロローグとしての軍議とエピローグでの皇帝への謁見などが添えられている。登場人物は、カク昭親子とその取り巻、陳倉城と周辺の有力者、援軍の将軍王双、蜀側の軍使でカク昭の同郷人キン詳(靳詳)と名前があるのはそれくらい。プロローグの軍議に曹真、費曜など、エピローグに明帝曹叡が登場する。諸葛亮は、名前が再三出てくるが姿を見せるのは攻防戦の最中に少しだけ。魏延、張コウ(張郃)なども名前だけ。

 タイトルにぼっちゃんとあるのは、カク凱の叔父の彼に対する愛称「侯子」を著者がぼっちゃんと意訳したことと繋がっている。前線勤務が長くて出世に縁遠く、それでいて忠実な武将であろうとする父に不満を持つ若者が、初陣で父の下で働いて自分の未熟さを自覚し、やがて父の大きさを知る。ぼんぼんというほどではないものの、若輩な主人公の成長という物語を流れとして、陳倉城攻防戦を描いたというシンプルなストーリーである。


 小説としての三国志演義の後半部分、諸葛亮が5度に渡って魏を攻めるあたりがクライマックスと言えるだろうか。本書の陳倉城攻防戦は、その2回目にあたる。その戦いの一方の主役なので、カク昭は魏ではそれなりの重要人物というイメージが自分にはあった。しかし正史の三国志にカク昭の伝はなく、本紀の中の諸葛亮北伐記事に魏略からの引用として注釈が加えられているだけ。その注釈には、最小限の経歴と攻防戦をめぐるエピソードが紹介されている。カク凱は息子として名前のみ見える。勇将カク昭としては、随分扱いが小さいものとあらためて少し驚いた。

 本書の特徴として、上に揚げたシンプルなストーリーと少ない登場人物というのもあるが、一番の特徴は人名の書き方にある。台詞として人を呼ぶ時は、基本的に名字に愛称や敬称を添えるというもので、名前(諱)は敵将を指す時など特別な場合だけ。字名も出ては来るが、その場にいる人に対しては官職名からくる敬称が基本的に使われている。したがって、諸葛亮孔明というようなおかしな表現はない。この点を徹底している小説を一度読んでみたいと思っていたが、日本と中国の歴史ものの中でここまで徹底しているものを自分は初めて読んだ。馴染んだ名前よりもイメージし難いというのは確かにあるが、本書では登場人物の少なさもあって読み進めるとあまり苦にならなかった。気にさえならなければ、敵と味方の違いなど人間関係で呼び分けるのが明瞭に表現されるので、読んでいてかなり面白い。

 話のテンポはかなり良くて読み易く、ストーリーがシンプルな分それなりに深く描けているように思う。蜀が好きな人が読むと全く物足りないかも知れないが、魏側としてみても曹真をデブ将軍と書くなど、わりと低い目線で書かれていて正にカク凱の立場そのものである。名前だけ登場する張コウが英雄扱いなのは、三国志の中でも曹操や張コウが好きな自分の好みにはあっている。

 本書は、三国志関連小説の中でもかなりマイナーな小ストーリーを扱った異色な一冊と言えるだろう。読む人によって評価が別れるとも思うが、自分はとても楽しませて頂いた。250頁と決して薄くはないが、面白くて一気に読み切った。従来のものとは違った一冊としてお薦めしたい。

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2008年5月16日

1995年アジア紀行〈ダウラタバード〉

 インド西岸の大都市、ムンバイ(ボンベイ)から列車で半日東へ向かうと、デカン高原北西部の要衝アウランガバードに着く。ムガル朝6代皇帝アウラングゼーブの名前が残る街。ヒンドゥ教や仏教の石窟で知られるエローラ遺跡観光の拠点ともなる。そのエローラへ向かう途中にあるのがダウラタバードの古城遺跡。のべ5か月滞在したインドの中で、自分的に特に気に入った場所のひとつ。

 アウランガバードに滞在したのは、東インドで新年を迎え、時計回りにインド大陸を回っていた時、1996年の2月18日から23日にかけてのこと。エローラへ出かけた翌20日に訪れた。中国やインドで城というと、多くは城壁で囲まれた街のことになる。この古城も街の跡を囲む巨大な城壁が今も残っているが、街の西側にある巨大な岩山があり、穿たれて塞になっている。この難攻な岩の塞がこの古城のシンボルである。砦の頂上から見渡すデカン高原の風景が素晴らしく、気がつけば日がな一日砦で過ごしていた。それだけでは飽き足らずに22日に再度出かけている。それほどに自分を魅了した城塞だった。

 古城は、北インドと南インドを結ぶ要地であったようで、かなり古くから街ができていたという。13世紀に北インドに興亡したデリースルタン朝の時代には、一時ここが首都になったという。また、17世紀にデカン高原征服を目指したムガル朝によって攻められている。長い時代城塞として機能してきたこの古城には、巨大な大砲が今も据えられたまま残っている。


 城の入り口、東側から岩山を見上げる。右側に見えるミナレットが古城のもうひとつのシンボル。


 麓から見上げた岩山。岩山に岩を積み上げて築かれている砦には、岩山の中に開けられたトンネルを登っていく。


 砦の上からの眺め。乾期で乾いた大地に緑が点在している。左下に砲台が残っている。


 石垣の上に白い毛並みに黒い顔を見せる猿がいる。ほぼ廃墟となった古城の今の住人は、彼らとリス。


 大きな古城には、岩の砦だけでなく建物もあちこちに残っていて、見て回って飽きることがない。地元の小学校の遠足コースでもあるらしい。


<Google Map>

大きな地図で見る

 左側に堀で囲まれた岩山が見える。馬面や大きな門を連ねて広い堀が残る城壁が三重に残っているのが見て取れる。

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2008年5月14日

大聖寺城

 大聖寺城は、石川県の南端、加賀市大聖寺の町の西にあった平山城。福井県との県境から続く台地の北端に位置していて、加賀国の南を押える要地だった。

 記録としては建武の中興の頃、14世紀の初めに遡るという。織田信長が攻め入った頃は一向一揆の拠点のひとつで、信長による加賀支配の最初の拠点となった。1576年に簗田広正が織田軍最初の城主として入ったが、ほどなく更迭された。その後20年ほどの間の城主は、柴田勝家の家臣拝郷家嘉、丹羽長秀の家臣溝口秀勝、小早川秀秋の家臣だった山口宗永(正弘)と交代している。関ヶ原の戦いの際は、西軍についた山口宗永が前田利家の子、利長に攻め滅ぼされて最終的に前田家のものとなったが、後に一国一城の令が出たために廃城となった。

 1639年に前田家の支藩が大聖寺に置かれた時に再建が計られたが、幕府から許可が下りなかったという。大聖寺藩時代の藩邸は、城跡の東麓におかれていたとのこと。


 城跡は、今は錦城山の名で呼ばれている。逆コの字型に真ん中の谷を囲んで尾根が続き、その上に大小の郭が連なる。真ん中は駐車場と芝生広場。駐車場に車を置いて、入り口にある案内図(かなりアバウトだが)に従って、東丸、鐘が丸、西の丸、三の丸、戸次丸、二の丸、本丸と回れば、30、40分ほどで一回りできる。歩道と標識が整理されていて、標高差も50mほどなので手頃な散歩コースといったところ。戸次丸は、簗田広正が信長から与えられた名字、別喜に因むと思われるが、いつから戸次丸と呼ばれているのだろう。


 本丸櫓台跡の中腹に立つ「山口玄蕃頭宗永公之碑」。


 城の南西面を中心に大きめの土塁が残る。写真は、本丸の櫓台跡から続く土塁で数メートルの高さがある。


 詳しい図面を見ると、大聖寺城は上に挙げた7つ以外にも沢山の郭が連なっている。中でも大きいのが南西にある鐘が丸と本丸の北東にある二の丸。写真はその二の丸。

 二の丸に限らず城跡全体が緑に包まれている。資料によれば、江戸時代を通して城跡は立ち入り禁止だったとのこと。そのために江戸初期までの城としては土塁などが良く残っているが、その歴史に見合って樹齢数百年ありそうな大木があちこちに聳えている。欅も多いが樅の大木が沢山ある。


 東丸からの市街の眺め。


 城跡の北、大聖寺城の外堀だったと思われる旧大聖寺川の畔には、藩政時代の数少ない遺構という長流亭が建っている。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(大聖寺)を基に作成しています。」

<国土地理院 地図閲覧サービス>
 大聖寺城跡周辺

<参考>
石川県中世城館跡調査報告書 III
 石川県教育委員会 2006

戦国人名事典
 新人物往来社 1991

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2008年5月13日

頂き物

平成17年〜19年度科学研究費補助金
 (基盤研究(B))研究成果報告書
内陸アジア諸言語資料の解読による
モンゴルの都市発展と交通に関する総合研究
研究代表者 松田孝一
2008.3

 3月の遼金西夏史研究会の折にお話があったのでお願いしたところ、松田先生より快くお送り頂いた。A4版258頁に下記のように10本の論文を掲載。かなりの重量物だが、近々に勉強させて頂きます。併せて、2005年から2007年までのモンゴルにおける調査記録を掲載したニューズレター03も頂戴した。ありがとうございます。


<掲載論文>
モンゴル高原における都市成立史の概略
---匈奴時代〜モンゴル時代---(増補版)
 松田孝一・白石典之

モンゴリアのイヘ・アスヘテ(Ikhe-Askhete)画像銘文の文献学的再検討
---2006/2007年夏の日蒙合同調査を通してみた---
 大澤孝

シネウス碑文テキスト再改訂版
 森安孝夫・鈴木宏節・齋藤茂雄・白玉冬・田村健

チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察
 宇野伸浩

カラコルム三皇廟残碑とモンケ・カアンの後裔たち
 村岡倫・谷口綾

安西楡林窟のウイグル語銘文再読
 松井太

『勅賜興元閣碑』の再構
 松川節

モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書
 中村淳

ヒジュラ暦748年イマーム・ユーヌス墓碑銘
 矢島洋一

モンゴル国シャルガ遺跡群出土遺物について
---陶磁器資料を中心にして---
 白石典之

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2008年5月12日

(書評)ジャガイモの世界史

中公新書 1930
ジャガイモの世界史
歴史を動かした「貧者のパン」
伊藤章治 著
ISBN978-4-12-101930-1
中央公論新社 2008.1

 足尾鉱毒事件で北海道へ移住した人々の話に始まり、ジャガイモに支えられていたために不作による飢饉で大勢のアメリカ移民を生んだアイルランド、ジャガイモが本格的に普及した18、19世紀のドイツやロシア、さらには満蒙開拓やシベリア抑留など、ジャガイモに関わる話が次々に登場する。そもそもジャガイモは15世紀以降に新大陸からもたらされたものであるので、歴史といってもインカ帝国について触れた第2章の2を除いて近現代史に限定される。また、ジャガイモの原産地といわれる南米ペルーのティティカカ湖の浮き島や、長野県飯田市下栗の傾斜地でのジャガイモ栽培の紹介などは全く現代の話である。

 中には、背景を説明するために延々とジャガイモが出てこない部分があり、その背景の方がメインでジャガイモは脇役であるようにすら読める。ジャガイモの変遷について体系的に語っているわけではなく、話が時代順に流れているのでもなく、章と章の繋がりもない。著者自身があとがきで

「ジャガイモの世界史」という大仰なタイトル
と書かれているが、自分もそう思う。本書は、ジャガイモの歴史を扱ったものではなく、ジャガイモが出て来る社会史的な小論をオムニバス的に収録したものと言えるかと思う。


 だからと言って内容が酷いというわけではない。元新聞記者らしい文章なのではと思うのだが、多くの文献に当たった上で現地を回り、実際に体験した人達の話を聞いて取材を纏めたという、新聞の少し長がめの連載コラムという趣き。前段としての蘊蓄が豊富で、国を異にする多くの人が登場する。ただし、文献の扱いについては二次、三次利用が多いようで曖昧さが残る。さほど実害はないのかと思うが、歴史が関わるとちょっと気になる。

 第4章のアイルランドの話はテレビで採り上げられていたのを見たことがある。また、ティティカカ湖の浮き島もなんどか映像になったように思う。それ以外の部分、中でもヨーロッパに普及しだした頃の話と日本の明治以降の話は、今までに読んだことのない話であったり、ジャガイモという切り口が新鮮だったりと勉強になる部分が多く興味深く読めた。

 ジャガイモの文字を繰り返し読んでいたら急に食べたくなり、スーパーで買い込んで2日続けて腹一杯食べた。ジャガイモを主食にした料理は結構好きだ。ジャガイモ料理というとネパールのカトマンズで食べたマッシュポテトにミートソースをかけたのを思い出すのだが、しばらく楽しめそうな気がする。


<目次>
第1章 オホーツク海のジャガイモ
 1 栃木から最北の地へ
 2 入植を支えたジャガイモ
 3 芋判官
第2章 ティティカカ湖のほとりで---ジャガイモ発祥の地
 1 ふるさとの湖で
 2 インカ帝国を支えた食物
第3章 ペルー発旧大陸行き---そしてジャガイモは広がった
 1 だれが伝えたのか
 2 ヨーロッパへの普及
第4章 地獄を見た島---アイルランド
 1 英国支配とジャガイモ
 2 大飢饉と移民
第5章 絶対王政とジャガイモ
 1 大王とともに---プロイセンの場合
 2 農学者の創意工夫---フランスの場合
 3 抵抗を越えて---ロシアの場合
第6章 産業革命と「貧者のパン」
 1 産業革命の明と暗
 2 日本の産業革命
第7章 現代史のなかのジャガイモ、暮らしのなかのジャガイモ
 1 戦争とジャガイモ---ドイツの場合
 2 社会主義崩壊とジャガイモ---ロシアの場合
第8章 日本におけるジャガイモ
 1 ジャガイモ上陸の地---九州
 2 天に一番近い畑はジャガイモ畑だった---長野
 3 「サムサノナツ」とジャガイモ---東北
 4 満蒙開拓団の現代史---満洲、那須
 5 シベリア抑留とジャガイモ
 6 「男爵イモ」の街---北海道
 7 文学に描かれたジャガイモ
終章 「お助け芋」、ふたたび?

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2008年5月11日

吉崎御坊

 戦国時代、北陸を語る上で欠くことが出来ないのが一向一揆と本願寺。中でも加賀国は、守護富樫氏が1488年に滅ぼされてから、織田信長によって1580年に征服されるまで、百年近く本願寺門徒によって支配されたこことはそれなりに知られていることだろうか。

 本願寺と北陸地方との結びつきは、第8代宗主蓮如が布教に力を入れたことの影響が特に大きい。彼が越前吉崎に拠点を置いて活動したのは1471年から75年にかけてのこと。宗教史としてよりは、北陸戦国史の重要な場所のひとつとして、吉崎は機会があれば訪ねてみたい場所のひとつだった。


 吉崎は、福井県の最北部にある。南西から北西へ北潟湖が広がり、門前町を東へ抜けるとすぐ石川県になる。蓮如が吉崎御坊を開いた場所は、標高40mほどの丘の上で、当時は三方を潟湖に囲まれた半島だったという。


 吉崎御坊跡へは、二つの本願寺別院の間にある石段を登って行く。石段の上にそれを示す石碑が立っている。


 かつて坊舎が建っていたという丘の上は、今は公園として整備されていて遅咲きの桜が紅い花を咲かせていた。


 公園に立つ蓮如上人の銅像。


 吉崎御坊跡の北の湖畔には蓮如の事績を解説する記念館がある。写真は、その中にある蓮如の伝説を紹介した民話館のもの。建物は豪農民家を移築したものだそうで、梁の太さばかりでなくなかなか見物な建物だった。


 吉崎御坊跡の麓には、二つの本願寺別院が建ち並び熱心な信者で賑わっていた。蓮如が居たころも信者で賑わっていたというが、16世紀の初めに越前朝倉氏の攻撃によって一度歴史の幕を閉じている。

<国土地理院 地図閲覧サービス>
 吉崎御坊跡周辺

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2008年5月10日

(書評)夕陽の梨

夕陽の梨
五代英雄伝
仁木英之 著
ISBN978-4-05-403631-4
学習研究社 2008.5

 中国五代十国時代の国のひとつ、後梁最初の皇帝となった朱全忠が、まだ朱温と名乗っていたころを描いた小説。唐朝末期、子供の時に父を失って家族が不遇になったころに始まり、黄巣の反乱軍に参加して各地を転戦するまでが描かれている。時代的には860年から880年、朱温9歳から29歳までということになる。ちなみに、彼が皇帝となったのが907年、息子に殺されたのが912年、61歳の時。

 ストーリーは、朱温が成長の後に塩商で出会った仲間を率いてホウクン(ホウは广に龍、クンは員に刀)の乱に参加、黄巣の乱にも参加して一軍を率いるまでになり、黄巣に従って各地を転戦した後に長安を陥して入城した所で終わりとなる。五代英雄伝とはあるものの、五代になるだいぶ前までしか語られない。

 登場人物としては、重要な人もふくめて架空と思われる人物も登場するが、ホウクン、黄巣の他、乱の首謀者のひとり王仙芝、朱温の次兄朱存、朱温の部下のホウ師古(ホウは广に龍)、朱珍、張存敬、唐朝側の辛トウ(言編に黨)、令孤綯、高駢など正史に名を残す人々が多数描かれている。変わったところでは、布袋が重要な人物として登場しているが、この時代の実在の人物というのは知らなかった。


 感想を少々。テンポ良く書かれていて読み易く、主人公に肩入れしながら楽しく読み終われたように思う。表現的に少しとりとめがなく、話を広げた分散乱している感じはある。章によって主人公から離れる部分があるのだが、あくまで主人公中心に絞った方が纏まったような気がしている。

 歴史ものとしてはというと、細かい部分でもう少しリアリティーが欲しい。字名が出てこないということもあるし、会話表現があまり面白くない。また、背景描写としても中国や唐末といった場所と時代を感じさせるものがあまりない。これらは、どうしても物足りなさとして残る。ただ人という点では面白く描かれており、朱温というマイナーな人物を中心に時代がそれなりに見えて来る。

 最後に、読み終わって自分が一番気になった点。それは、なぜ主役の朱温が朱全忠を名乗る前に物語が終わってしまうのかということ。野暮な話なのかなとも思うのだが気になる。主人公は、歴史上の評価よりはかなり好青年として描かれているように思う。苦悩を含む前半生があるからこそ波乱含みの後半生がある、という含みを読み取ることもできると思うのだが、それにしても随分と生真面目な主人公である。とはいえ、こういう意外な主役は大歓迎なので、次回作でも是非意外な人物に挑戦してほしい。

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2008年5月 9日

劔神社

 福井県を走る機会があったら是非寄ろうと思っていた場所のひとつが越前町にある劔神社。劔神社の所在は今は越前町だが、2005年の合併までは織田町だった。その地名から連想されるように、ここは織田信長縁の地。

 織田信長の先祖の系譜というのは、意外なのかもしれないがあまり詳らかではない。ただ、旧織田町の劔神社に縁があるといわれ、信長自身が神社を保護している。今も信長が神社に対して発給した文書が伝わり、柴田勝家が発給した文書には「殿様御氏神」と記されているとのこと。


 劔神社の境内。拝殿の奥では本殿を修築中。


 境内に立つ織田一族発祥地の石碑。


 境内に置かれた銅馬。大きな織田家の家紋五つ木瓜が目立つ。


 神社の北にある越前町織田文化歴史館。織田町時代に造られた施設で、歴史資料館と図書館が併設されている。

<国土地理院 地図閲覧サービス>
 劔神社周辺


<戦利品>
織田 こころの里 わざの里
織田町歴史資料館 常設展示図録
織田町歴史資料館 2001.10

 


織田町歴史資料館平成16年度企画展図録
織田一族の肖像画展
織田町歴史資料館 2002.9

 


越前町織田文化歴史館平成19年度企画展図録
信長戦記・越前激闘編
越前町織田文化歴史館 2007.9

 

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2008年5月 8日

敦賀3城

 京都から西近江路を北上して北陸を目指せば、その入り口は敦賀になる。敦賀というと、織田信長が初めて越前の朝倉義景を攻めた時に、最初に攻め懸かったという天筒山城と、その西側にあって新田義貞の時代から敦賀の押えだった金ヶ崎城が知られているだろうか。しかし、天の邪鬼たる自分が最初に向かったのは花城山城。

 花城山城は、敦賀の西側にあったとされる城で、信長が押えていた時代にはここが敦賀の拠点だったという。実は、そのことは最近知ったことで、具体的な資料に当たる時間がなく詳細をまだ知らない。何はともあれ行ってみるかということなのだが、最初の城に選んだのは信長関係だからというよりは、城主が武藤舜秀(きよひで)だったからというもの。

 武藤舜秀は、前歴があまりよく分かっていない人物だが、信長が敦賀を押えてから1578年に陣没するまで、一貫して敦賀に置かれていた武将。小さいながらも遊撃部隊を率いて各地を転戦していたという。なぜ私が舜秀にこだわったかというと、ハンドルネームを決める時にムトウスに武藤の字を当てたのは、彼の名字が頭にあったから。なぜ舜秀なのかと問われて、それほど深い理由があったわけではない。まあ、そういう一方的な因縁なのである。


 この写真の標高93mの山がその花城山城跡らしいのだが、周囲を歩いても何の案内もなければ、適当な登り口も見つからない。最初から薮こぎものともせずというわけにもいかず、手前の橋の赤い欄干に花城橋の名前を確認し、遠景を撮影して退散した。機会を見て再挑戦しなくてはなるまい。


 2つ目に登ったのが、花城山城からは敦賀の市街地を挟んだ東側、標高171mの天筒山城(手筒山城)。山の南側、国道476号から踏切を渡った先に駐車場があり、そこから山頂まで歩道が整備されている。


 その歩道を黙々と登ること20分で山頂に出た。写真は、山頂に建つ展望台からの眺め。敦賀港のほか、市街地と周囲の山々を全て一望できる。山頂周辺は、公園として整備されていて、城跡らしい遺構はほとんど見られない。


 代わりに、山頂の南東側、歩道の脇に写真のような看板が立っている。そこから続く尾根の上に小さいながらも郭、堀切が残り案内板が立てられている。


 3つ目が金ヶ崎城。天筒山城の西にあって、尾根伝いに歩いて行くこともできる。車で行くと、金ヶ崎宮の駐車場から石段を登り、境内にある案内に従えば城跡を巡る遊歩道を回ってこられる。神社に戻るコースなら標高88mの本丸跡とされるところまで回って20分とかからない。


 写真がその本丸跡。ここから東へ向かう尾根の上には、深い堀切が数本残っていて天筒山城よりも山城らしさを実感できるように思う。


 下のGoogle Map上のマークは、青が花城山城、右下の緑が天筒山城、左上の緑が金ヶ崎城を表している。赤は、武藤舜秀の後に敦賀の領主になった蜂屋頼隆が築いたと言われている敦賀城跡。堀が掘られ天守閣も建てられていたが、江戸時代の初めに廃城になったとされている。今は往時を偲ぶ石碑などがあるだけとのことだが、時間がなくて寄らなかった。

 地図上にプロットしてみると、敦賀の街と港を真ん中に、花城山城、敦賀城、金ヶ崎城が、それぞれの勢力と時代を明確に反映した場所に立地していたように見える。いかがなものだろうか。


大きな地図で見る

<参考>
敦賀城ザ・登城

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2008年5月 6日

1995年アジア紀行〈フンザ〉

 今月からは、1995年の初夏から1996年の春にかけて、アジアの5か国を歩いた時のことを月2回のペースで紹介していきます。1990年中国紀行の時は、旅をした順に説き起こしましたが、そうするとさらに中国の話がしばらく続くことになるので、今回はランダムに紹介して行くことにします。

◆◇◆◇


 パキスタン北部、カシミール地域の中でも最北にあるのがフンザ地方。その中心にあるカリマバードに滞在したのは、8月22日から9月7日までのこと。21日に中国のカシュガルをバスで立ち、2日をかけて始めて陸路で国境を越えた後のことだった。この旅の中では3番目という長期間滞在したのは、なによりもフンザがこの旅の目的地のひとつだったからだ。フンザに行ってみたいと思うようになったのは、1990年の旅の途中、中国トルファンのホテルでパキスタンから来た旅人に話を聞いてからだった。


 フンザは、背後にある7000mを越える山並みと、眼下を流れるインダス川の支流フンザ川が造る深い谷の間になだらかな扇状地が広がっている。その扇状地では、谷底から水を汲み上げるにはあまりに深く、背後の山にある氷河から流れ下ってくる小さな支流の水を引いて灌漑している。乾燥地帯のフンザでは、灌漑されていない場所には草もほとんど生えていない。そのため、遠くから眺めると山肌に横に引かれた水路から上が土色で、下が緑色という独特の風景になる。

 カリマバードは、フンザ川沿いにある沢山の扇状地のひとつに広がる村だ。高台には、かつてフンザを治めた王が暮らしたという城が今も残る。その下に学校があり、さらに下には緩やかに弧を描く200mほどのメインストリートがあって、雑貨屋、土産物屋や食堂が並んでいた。昼食にカレーや麺を食べたり、特産の杏子のジャムや干し杏子を買った商店街だ。



 澄んで高い空に乾燥して土色の山並みと山麓に広がる緑。自分の目には、いかにもフンザらしい風景に見える。緑は、杏子の他にも林檎やポプラ、柳などが植えられていた。


 フンザ川の対岸から見たカリマバード。結構傾斜があり、村の少し下にあったホテルからは、どこへ行くのにも上り下りが必要だった。


 ホテルの部屋からフンザ川越しに撮った一枚。標高7788mのラカポシが、雲を被っていないのは意外に珍しかったように思う。


 村の背後に少し隠れて聳えるウルタル。登山家長谷川恒男の終焉の地としても知られた山。


 フンザですることというと、のんびりする以外には周辺の村の散策と車を雇っての氷河見物。そして7000mは無理でも、氷河がある所までくらいなら歩いて登ることもできる。昨今の事情は知らないのだが、当時登山道の状況は必ずしも良くなかった。地元の人達が使っている道をひたすら登るというものだったが、崩落したがれ場があちこちにあり、決して安全な道ではなかった。

 写真は、真ん中をよく見ると羊の群れと番人が映っている。右上の黒い岩に見えるのが氷河末端部で、ここから溶け出る水がカリマバードを支えている。


<Google Map>
 フンザの中心カリマバード付近。南側をフンザ川が流れる。

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2008年5月 5日

北陸遠征

 今夜、北陸への遠征から帰宅した。今年は、自分にとってわりと手薄な加賀、能登を主なターゲットに選んだ。福井、石川を縦走し、能登半島を一回りして帰宅するまで全行程1300km。恐らくは日頃の行いとあまり関係なく、今日の帰り道を除いて雨に会うこともなく、強い日差しにTシャツの跡が焼き付いた。

 最近の傾向どおりに山城巡りが中心になったが、温泉、岬、神社、資料館もいくつか回ることが出来た。また、能登の海の魚など美味しいものにも在り付き、昼間に山を歩き回った分を、夜にビールと肴で補給するという毎日だった。



 今回の遠征の到達点のひとつ、能登半島の北東端にある禄剛埼燈台。この燈台の建つ所を珠洲市狼煙町という。狼煙町とは何に因む地名だろう。


 南大門が復元された能登国分寺跡。七尾市街のすぐ南にある。国府もほぼ同じ場所にあったと推定されているようで、その時代から七尾は能登の要だった。


 城跡は、福井県と石川県で10か所回った。それらは日を改めて。



 どこを走っていても春真っ盛りという様で、花を欠くことがない。とくに柴桜と躑躅は、どこへ行っても手入れが行き届いていた。


 自分にとっては、花より緑。萌黄から新緑へと移ろう今頃の色合いがまた良い。写真は、下枝の楓と上の欅のコントラストに思わずシャッターを切った白山比メ神社(メは口編に羊、「しらやまひめ」と読む)の参道。


<Google Map>
 禄剛埼燈台能登国分寺白山比メ神社

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2008年5月 1日

ツヅラト峠《熊野古道》

 今回の熊野古道歩き5つ目となるのがツヅラト峠。最後にして一番歩きでのあるルート。峠の標高は350mを越え、ルート全長も9kmある。


 紀伊長島駅近くで腹拵えをしてから登り口を目指した。志子川沿いを緩やかに続いた道がこの記念碑にぶつかって、ここからが登山道のような登り道になる。ここまで3kmあまり、小さな峠をひとつ越えて1時間ほどかかっている。


 石碑を過ぎ、林道から外れて川を渡ると写真のような石畳が続く登り道にでる。檜林に急な石畳が続く。


 ほかの4つの峠道はそこそこ穏やかな散策路だったが、それに比べると峠の手前は部分的にかなり急な登山道となる。パンフレットなどには、石碑のところから峠まで2kmとあるが、もう少し短いようにも思う。時々息が上がったものの、休まずに歩いて40分で峠に出た。

 ここは、かつては伊勢と紀伊を分かった国境でもある。峠の東屋から少し上がると眺望の利く見晴し台がある。紀伊長島の向こうが熊野灘。


 峠からは、急な下り坂になる。過重な労働にもかかわらず両の膝は最後まで絶え抜き、林道に合流するまでの1km弱の道を15分で歩き切った。しかし、最寄りの梅ヶ谷駅までは平坦な道とはいえ、さらに3km、1時間近く歩かなければならなかった。


 熊野古道は、伊勢路のほかにも大峯道や紀伊路などがあるが、それらも含めて今回初めて歩いた。尾鷲地方らしく、どの峠道も杉や檜の林の中に道が続いている。初夏であっても花が楽しめる場所はそれほど多くないが、杉檜の香りが好きな自分にはちょうど良いかもしれない。

 熊野古道らしく石畳が敷かれている場所は、コース全体からするとさほど多くはないだろう。歩くことを目的にすると、石畳ではない方がむしろ有り難い。参詣道ではあるが巡礼道ではなく、先日も書いたように生活道路として利用されてきた道である。恐らくはそのために、どこかの巡礼道のように石仏やお堂などの聖所が点在していることもない。一面的には普通の山道である。ただ、東紀州の地形ということもあると思うが、コースは変化に富んでいるので、自分にはかなり楽しかった。片道が電車で5、6千円、3時間かかるというのが一番のネックである。もう少し近ければ、また歩きに行くのだけれど。



「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(長島、間弓)を基に作成しています。」

 赤線がツヅラト峠道です。記憶を頼りに全コースを再現しようと思いましたが、ツヅラト峠直前の部分は結局書けませんでした。地形図の線もだいぶ違うと思います。それ以外の部分は、大まかには間違いないと思いますが、細かい部分は「だいたい」です。
 地図をクリックすると大きな地図が別のウィンドウで開きます。

<国土地理院地図閲覧サービス>
 ツヅラト峠周辺

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