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2008年6月29日

黒水城文献発見百周年

 纪念黑水城文献发现一百周年学术研讨会召开(光明日报)

 6月22日の中国光明日報の記事によれば、黒水城文献(カラホト文書)発見を記念した研究討論会が、中国で開かれたとのこと。以下に全訳を掲載する。なお、訳に誤りがあったらご指摘頂ければ幸いです。


 黒水城文献発見百周年記念学術研究討論会が開かれた
 先日、河北省の社会科学院によって「黒水城文献発見百周年記念学術研究討論会」が石家荘市で開催され、北京、山東、河北などの学術研究機構の20人余りの専門家、学者が参加して、黒水城文献発見の時期と文献の特徴、黒水城文献と宋遼夏金元史研究、黒水城文献研究の動きと発展の方向性などについて活発な討論が行われた。
 黒水城文献発見の時期については、孫継民から、1908年の黒水城文献発見と1909年の黒水城の「有名な塔」文献の発見を区別すべきこと、1908年4月に(P.K.)コズロフが黒水城で西夏文や漢文などの文献を発見したのを最初とすることが提起された。
 黒水城文献の特徴については、白濱によれば、(L. N.)メンシコフの「黒水城文献は西夏の羅太后の蔵書である」という観点は誤りで、黒水城文献は実際には元代のエチナ路所蔵の文書とモンゴルが西夏を滅ぼす際に獲得した戦利品であると考えられるとのこと。
 黒水城文献の資料価値と研究意義については、李華瑞によれば、西夏文文献の発見には少なくとも以下のような意義があるという。はじめに、宋史の観点からすると、黒水城文献が発見される前は、西夏史研究は主に宋代に編纂された文献に依存していた。黒水城文献の出現で、西夏自身の文献、文物を利用して西夏の歴史を読み解くことが可能となった。次に、文献整理の観点からすると、敦煌文献と西夏文献にはそれぞれに長所があるが、歴史研究の価値からすると、西夏文献は敦煌文献と比べても歴史研究に大きな貢献をすることができると考えられる。さらに、出席者は宋代の文献と宋代の文献を基に編纂された清代の文献は西夏史の参考として研究されるだけで、西夏史の研究はより多く西夏文献に戻るべきだと思うだろう、そして黒水城文献の解読が一歩一歩進むについれて、それは西夏史研究のレベルを引き上げるのに大きな作用を生むだろう。

 西夏は、遼や金と比べて正史を持たなかったというハンディから、従来両国にくらべて歴史研究は大きく遅れをとってきた。カラホト文書が利用できるようになった昨今、この状況は一変し、こと文献研究の隆盛という点では、墓誌の研究が盛んな遼に肩を並べ、金を上回りつつあるというのが実態に近いのではないだろうか。

 そう思う一方で、私の訳に誤りが無ければカラホト文書を持ち上げるという点で、この記事は少し景気が良すぎるのではとも思う。西夏国内にあっては、いち辺境の軍事都市にすぎなかったカラホトで発見された文書群がいかに大量であっても、西夏史の解明にどのくらい貢献し得るのだろうか。といいながら、自分は文書群の全体像を全く知らないのであれこれ想像するばかり。その研究の面白さは、昨日書いたとおりだし、多大な期待をしておく方が楽しいかもしれない。

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2008年6月28日

遼金西夏研究の現在(1)(感想)

遼金西夏研究の現在(1)
荒川慎太郎・高井康典行・渡辺健哉 編
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 2008.6

 まえがきによれば、本誌は2009年まで行われている東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究プロジェクト「遼・金・西夏に関する総合研究---言語・歴史・宗教---」の研究成果とのこと。その一貫という形で5編の論文が収録されている。各本文20頁前後、資料部分込みで112頁とコンパクトながらいずれも興味深い一文だった。簡単に以下に紹介する。

 (1)とあるように、続編の刊行が予定されている。本誌は、編者荒川さんより送って頂いたもの。ありがとうございます。


ヘルレン河流域における遼(契丹)時代の城郭遺跡
 白石典之

 モンゴル高原ヘルレン河流域に残る城郭遺跡の内、遼に関わるものとされるバルス=ホト1城、バローン城、ズーン城について、現地踏査と文献の再考から遼史の上での位置づけを見直したもの。3城の比定について、一例として中国歴史地図集(地図出版社)では、順に河董城、塔懶主城、皮被河城と記載されている。筆者はこれに対して考察の上で順に、1015年に耶律世良によって築かれた名前の伝わっていない城、11世紀後半に築かれた塔懶主城、1015年に耶律世良によって築かれた招州城の可能性が高いと結論している。

 考古学の成果と文献とを結びつけた考察で、白石氏らしい一論と思う。11世紀前半は西夏の建国と重なる時代で、河西地方(甘肅省の黄河以西)の覇権を遼と西夏が競っていた時代でもある。モンゴル高原の情勢は、遼の河西進出に直接影響がある可能性があり興味深い。


契丹(遼)における渤海人と東丹国---「遺使記事」の検討を通じて
 澤本光弘

 中国の文献に残る渤海人が中国の各王朝に朝貢した記録の内、926年に契丹によって渤海国が滅ぼされた後のもについて、その内容と意義を考察したもの。滅亡後の渤海、あるいは渤海人という言葉が、政治勢力としての渤海国と必ずしも関係がなく、契丹が渤海国に代わって置いた東丹国の関係者なども渤海と呼ばれていたとする。このため、「遺使記事」をひとつの根拠としている渤海国滅亡後の残存勢力のひとつと後渤海国について、従来考えられてきたような、契丹を脅かすほどの大きな勢力としての存在を否定する。

 小勢力と言えどもひとつの国、その歴史を書き換える可能性がある痛快な一論である。1992年に発見さらた耶律羽之の墓誌をはじめ、内外の文献、論文を駆使して力作で、たまたま渤海関係の本を読んでいたこともあり、とても面白く読ませて頂いた。


頭下軍州の官員
 高井康典行

 遼代の地方制度のひとつとして頭下軍州というものがある。有力者の私領地に起源をもつもので、政府の認可を得て州県を名乗ったが、中央権力の伸展により私としての権益が後退して一般の州県と同じものになったという。従来の理解の一端はこのようなものだったようだが、それでは簡単にすぎるのではというのが本論の説くところということだろうか。本論では、有力者の所属下にある農耕民や兵隊である人々「部曲」について、隷属した賎民的な身分の者を指す場合と、比較的自由な身分として私兵・家臣として仕えている者という2つの意味の違いを考察しながら、頭下軍州とそこに所属する官員の性格を考証して行く。

 墓誌や文献資料から家臣であって主人の頭下軍州の官員になり、刺史という州の長官からさらに他の一般の州の長官へと転任していく人物が紹介される。そのような事例から、頭下軍州の官員であっても出世して行く上で一般の州との差異はあまりなかったという。それは彼らの多くが漢族であって、唐末からの藩鎮という軍閥割拠の状況で確立されてきた制度の影響という。その意味で、頭下軍州を契丹固有の制度として考察するばかりでなく、時代の流れの中で理解されるものとする。

 自分に頭下軍州について馴染みがないので、この理解で良いのかどうか今ひとつ。本論は、頭下軍州の官員を経た人物が多数紹介された力作で読み応えがある。自分的には南北だけでない遼の地方制度について、勉強し直す良い機会になるように思う。


西夏文軍事法典『貞観玉鏡統』の成立と目的及び「軍統」の規定について
 小野裕子

 『貞観玉鏡統』とは、西夏における軍隊の法律で、100年前に発見されたいわゆる黒水城文献(カラホト文書)のひとつで、西夏文字で印刷されたもの。本論では、その条文の解読、解釈を通して、西夏の軍隊の指揮官であって隊を構成する部族の長でもあるという軍統について考察するもの。戦闘時における賞罰規定などの解釈によって軍統の姿が見えるだけでなく、12世紀初頭という成立年代に関わって、西夏のおかれた時代背景も間接的ながら見えて来るものとなっている。

 本論は、なによりも長文の西夏文字文献の解釈をもとにしたもので、その点では国内ではまだ希少な論文である。条文の注釈の他に、釈文と漢字への逐語訳も添えられている。法制史という以外にも有意な内容をいろいろと含んでいて、西夏文字の解読が進むと西夏史への理解が深まることを期待させるものが色々とある。西夏文字の文献は甚だ高価で大部で自分のような者が簡単に手を出せるものでもないが、もう少し勉強してみなくてはなるまい。


モンゴル国における契丹文字資料と研究状況(1)
 松川節

 モンゴル高原東部にあるサルバン=オール、エルデネ=オール、アラシャーン=ハダの3つの岩壁に刻まれた契丹文字とされる銘文について紹介したもの。先行記事の紹介および、2005年に自身で実見した結果を簡単に考察している。解読研究の状況など続稿でとのこと。


<Google Map>
 バルス=ホト1城バローン城ズーン城
 3城跡とも写真の解像度が高くない所だが、四角い形が見て取れる。バルス=ホト1の東に立つという塔は、残念ながら雲の中。

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2008年6月27日

京津城際鉄路

 北京〜天津都市間鉄道、時速394.3を記録(中国情報局)

 北京〜天津都市間鉄道は、直轄市の北京と天津間120キロを結ぶ。同鉄道プロジェクトは2005年7月4日に着工し、2007年12月16日に全線開通した。7月1日から試運転の段階に入り、8月1日から正式に運行が始まる。

 中国では、オリンピック開通に合わせて、中国初の新幹線京津城際鉄路の北京南〜天津間が8月に開通、120kmを30分で結ぶとのこと。1995年に天津港から北京市内までをマイクロバスに乗って高速道路経由で3時間で移動したとき、それで十分に早いと思ったが、30分となると相当に早い。定期券の発売も検討されているようで、今の自分の通勤時間よりも短いくらい。

 さて、その北京天津新幹線がどこを走るのか、Google Mapを見ると一部解像度が低いところと、天津寄りで撮影時期が古い部分を除いて8割程度ルートを辿ることができる。ルートや駅の位置について、分からない所は北方論壇で見つけた記事に掲載されていた図面を参考にしてGoogle Mapに線を引いてみた。

 京津城際鉄路 位置図(Google Map)

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2008年6月23日

ヴィンランド・サガ 6

アフタヌーンKC510
ヴィンランド・サガ 6
幸村誠 著
ISBN978-4-06-314510-6
講談社 2008.6

 5巻発売からちょうど8か月。仕事終わりも待ち遠しく早速買ってきた。屍の山を築いて終わった前巻の話がどう収まるのかというところで、それなりの決着を見せている。

 7巻からは、新しい展開が見られることになる。8か月先というと来年2月。暑さはこれからだというのに、2月を思うのはさすがに気が早すぎるか。

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2008年6月22日

ゲルが広がる風景

 昨日のエントリーで、GoogleMapでシネウス遺跡を探していた時に、写真に遊牧の民に家ゲルや家畜の群と思われるものまで写っているのを見て少し驚いた。

 (以下については、記事作成当日のGoogle Mapの航空写真を見ながら作成しています。Google Mapのデータが更新されると、内容と食い違いようになると思います。)


大きな地図で見る
 これが最初に見つけた写真。倒れた細長い石碑・・・にしては大きい。左の白い長方形の長辺が、GoogleMapに添えられたメジャーで計って10m前後ある。よく見ると、右には丸いのがひとつ。これは直径5mほどだ。ああ、ゲルなのか・・・という感じだった。そう思って周りを見る。写真右下のところ、茶色い四角を見て、おっ遺跡か・・・と見てしまうが、土か石を積み上げて作った家畜を入れるための囲いじゃないだろうか。



大きな地図で見る
 上の写真だと、季節のせいなのか写真のせいなのか一面に茶色い沙漠のようだ。少し引いてみたのがこの写真。ゲルがある場所が、川が流れる水に恵まれた場所なのが分かる。夏には一面緑の草原になるのだろう。



大きな地図で見る
 なるほど!・・・と思って川沿いを探すと、ゲルがいくつも点在している。この写真、真ん中下あたりの小さな点は羊や山羊の群だろうか。真ん中少し上にゲルが見える。その上にいろんな色のものが並んでいる。これはひょっとして固定の建物だろうか。ここら辺をあちこち見ると、丸いゲルの横に四角い家と思しきものが並んでいることが多い。移動用のゲルと固定家屋(倉庫?)を両方持つことが、ここら辺には多いということだろうか。


 今まで時々Google Mapでモンゴルの遺跡探しをしていたが、ゲルに気がついたのは初めて。そう思ってあちこち見てみたが、沢山写っているわけではないが、ここだけというわけでもないという感じ。モンゴルでは、写真の倍率が高いとこがそもそも限られているというのもあるし、倍率が高くても雪景色というところも結構ある。


大きな地図で見る
 これは、ウランバートルの北、オルホン川の支流沿いに点在するゲル。下の川の中に家畜の群がいるように見える。

 遊牧の人々の生活を覗き見るというと聞こえが悪いが、居ながらにして垣間見られるのはなかなか興味深い。とはいえ、やっぱり一度は本物を見に行かなければならない・・・とは思うんだけど。

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2008年6月21日

モンゴルの都市発展と交通に関する総合研究(感想)

平成17年〜19年度科学研究費補助金
 (基盤研究(B))研究成果報告書
内陸アジア諸言語資料の解読による
モンゴルの都市発展と交通に関する総合研究
研究代表者 松田孝一
2008.3

 本誌は、モンゴル帝国およびモンゴル高原に関わる碑文調査、都市遺跡調査とそれらに関わる文献研究についての論文を集めたもの。そのことから、あるいは掲載論文の一覧からもまた察せられるように、守備範囲はひろく多岐に渡っている。したがって、本誌全体として何が言えるのかというものではないが、草原の歴史についてどのような研究がなされているかという点描として見るだけでも興味深い。

 自分的には、時代や地域として興味の範囲に近いが、研究先端の話は機会があれば触れているという状況で断片しか知らない。ただ趣味として読んでいるわけだが、その前提で掲載論文の一部について簡単に解説と感想を書いてみる。なお掲載論文の一覧は、先月の一文を参照。


モンゴリアのイヘ・アスヘテ(Ikhe-Askhete)画像銘文の文献学的再検討
---2006/2007年夏の日蒙合同調査を通してみた---
 大澤孝

 イヘ・アスヘテ遺跡は、モンゴル高原中央部、カラコルムの北北東90kmほどの所にある埋葬遺跡で、著者によれば第二突厥時代の王族に連なるアルトゥン・タムガン・タルカンが被葬されているという。研究史、先行研究、遺跡の紹介と、2つの石槨から読み取られた突厥文字で刻まれた銘文について考察されている。銘文は2つの石の両面に延べ37行あり、全文について読み取った文字、そこから再現される文章が掲載され、翻訳と注釈が加えられている。

 タルカン本人に関わることや政治史に直接関わることは書かれていないが、先行研究を書き換える解釈がなされているようだ。この銘文は、葬られた人の功績を刻んだ墓碑のようなものではない。ほとんどの文章に「残念だ!」とか「悲しい!」とかが付けられているが、これは定型文ということだろうか?追悼碑というにもあまり脈絡がないようだが。突厥文字そのものの写真は掲載されていないが、文字をどう読み取って解読していくかの過程が見て取れる。


シネウス碑文テキスト再改訂版
 森安孝夫・鈴木宏節・齋藤茂雄・白玉冬・田村健

 シネウス遺跡もモンゴル高原中央、カラコルムからは北北西150kmほどの所にある遺跡。遺跡と碑文の写真は、雪豹さんの突厥が好きっっっ!写真が見られる。また、碑文から取られ本論文の素材となった拓本については、大阪大学総合学術博物館統合資料データベースの「データベース検索はこちら」から入って、「モンゴル国現存遺蹟・碑文調査(ビチェース・プロジェクト)」の下にある「カテゴリ一覧表示」で表示される一覧の中から、判読可能な大きな画像が見られる。

 シネウス碑文は、ウイグル汗国第2代の葛勒カガンの紀功碑とのこと。彼は8世紀半ばの人物で、唐の安史の乱に派兵している。本石碑にも50行におよぶ膨大な文章が、突厥文字で書かれている。判読できないものもだいぶあるようだが、カガンの紀功碑なので直接政治史に関わるようなことも書かれている。本論は、1996年、1997年に採取された拓本をもとに碑文を読み直した結果によるもので、新しい内容が発見されたわけではないが、文の見直しでより合理的な解釈がなされているとのこと。

 内容としては、突厥のことがでてきたり、安史の乱に関わって唐がでてきたりと興味深いもの。ただ、結構重要そうなところが判読されないこともあり、自分には碑文の全容がいまひとつ把握できない。ウイグルについての概説モノを読み直すともう少し面白く読めるだろうか。


チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察
 宇野伸浩

 本論は、チンギス・カン前半生、つまりカンに即位するまでのことについて、元朝秘史集史を比較して、その違いを検討したもの。方向的には、元朝秘史の内容を集史を元に批判的に考証している。ここではそのさわりということで、チンギス・カン家の養子、テブ・テングリ殺害事件、チンギス・カンの第一次即位の3つについて検討されている。

 そもそも、こういう研究がまだあまりされていないという。そうなのかと思うのだが、あいかわらず「集史の邦訳が・・・」という話に行き着く。とりあえず雪豹さんのブログを楽しく読ませて頂いている。そもそもこの3つの出来事は、秘史をベースにした小説やドラマでは欠かせないエピソードだ。この3つだけでも随分とケチがつくわけで、大変興味深いので今後の進展に期待したい。多少難しい内容でも、一般書として出版すればモンゴルファン必読となること請け合いである。


カラコルム三皇廟残碑とモンケ・カアンの後裔たち
 村岡倫・谷口綾

 カラコルム三皇廟とは、14世紀前半にモンゴル帝国の元首都カラコルムに建てられた碑文で、廟の建立について漢文で記されたもの。所在不明だったものが1996年に再発見されたとのこと。新たに採られた拓本により碑文の解釈をしたのが、本論前半の谷口氏による論。後半では、村岡氏がそれを足がかりのひとつとして、東西の文献を用いながら第4代ハーンモンケの子孫の動向を探っている。

 とくに村岡氏の論には惹かれる。モンケの子孫というと、フビライの時代に反乱を起した子のシリギは、フビライの子ノムガン没落のきっかけであり、知る人ぞ知るという名前である。それ以外はというと、自分の記憶にはさっぱりなのだが、本論では曾孫の代に至る系図が復元されている。単に名が残っていただけでなく、小ながらもウルスと形容できる勢力を持ち、中国にも独自の領地(いわゆる投下領)も持っていたという。とくにカラコルム方面での影響力があり、上記碑文にも名を残しているとのこと。

 ジョチ、チャガタイ、フビライの子孫は別格にしても、オゴデイやアリクブケの子孫についても、フレグ=ウルスやチャガタイ=ウルスのハンとして、あるいはいわゆる北元のハーンとして名前を残しているが、モンケの子孫はさっぱり出てこない。モンケがモンゴル帝国の中でそれなりに存在感のあるハーンであるだけに、この落差は一種寂しくもある。本論は、その末路を語るものとして興味深い一論である。


<Google Map>
 イヘ・アスヘテ遺跡シネウス遺跡

 イヘ・アスヘテ遺跡は、論文に掲載された経緯度で表示しただけなので、GoogleMapの精度を含めて遺跡がこの点かどうかは不明。そもそも遺跡の広がりが10m四方ほどで、碑石も大きいものでも2mに満たないので、判読はむりだろう。左側に点々と映っているは家畜の群だろうか。

 シネウス遺跡は、中央ユーラシアの考古学(藤川繁彦編 同成社 1999年)の305頁掲載の図版を見ると、白く見える積み石や全体を囲む堀の形などからこれかなと思う。現地に行かれた方の確認を請う(笑)

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2008年6月18日

北陸遠征のおまけ

 今年の連休の北陸旅行は、昨年初めて買ったデジカメを持っての初めての長期旅行。調子に乗って撮った写真503枚。個別に紹介する話は尽きたが、大活躍だったカメラに敬意を評して、未紹介の写真をもう少し。


 山深い白山麓に立ち寄った理由は2つ。ひとつが鳥越城攻めで、もうひとつがカメのきた道(平山廉 著、NHKブックス 2007年)で紹介されている天然記念物と亀の化石を見るため。写真真ん中あたりの崖が、いろんな生き物の化石が大量に含まれているという桑島層が露出した化石壁。この崖そのものが天然記念物。そこにトンネルを掘ったところ・・・という話が本書に紹介されているが、崖の両側にそのライン・トンネルの入り口が見えている。近くまで行って見る予定だったが、残念ながら崖崩れのために近づけず。亀の化石の方は、対岸にある白山恐竜パークで間近で見ることができた。


 能登島の西、半島との間に架けられた橋ツインブリッジのと。主塔を2つ持つ斜張橋。地形図に中能登農道橋とあるとおりに農政管轄の農道で、無駄遣いと揶揄された橋のひとつでもある。ひと事としてドライブするぶには楽しいのだが。


 能登半島東海岸の名所のひとつ、軍艦島の通称をもつ見附島。大型貨物船とも、人の顔とも、あるいは魚ともいろいろに見えそうな。


 能登半島北部、重要文化財の上時国家(石川県)。すぐ近くに下時国家もある。北前船とかいろいろ歴史的なネタがありそうと思って寄ったが、建築物としての話題がほとんどだった。傍から見る限り、看板に本家とか書かれていて、両家で主役の座を争っている風があったがそういうものなのかなぁ。最近修理された下家の方が奇麗だが、建物としての迫力は上家の方が上。両家の真ん中に民族資料館があったのだが、残念ながら休館。


 海辺を走った記念に燈台で記念撮影は定番だが、今回は帰ってきた日に紹介した禄剛埼燈台とこの観音崎燈台の2つだけ。観音崎とはあちこちにありそうな名前だが、これは七尾南湾の入り口にある。特に観光地という訳ではないので、人気が無いのが良い。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
化石壁ツインブリッジのと見附島上時国家観音崎

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2008年6月17日

1995年アジア紀行〈阿勒泰〉

 阿勒泰(アルタイ)市は、中国の西北、新疆ウイグル自治区イリカザフ自治州阿勒泰地区にある。普通中国では、阿勒泰のような「県クラスの」市や県の上には、自治州、「地区クラスの」市あるいは地区があって、その上が省や自治区になる。新疆の天山以北の半分を占めるイリカザフ自治州は、おそらくその広さのために州の中にさらに塔城、阿勒泰という2つの地区がある。阿勒泰市は、その阿勒泰地区の中心となる街。

 アルタイ山脈は、今は中国、モンゴル、ロシア、カザフ4か国の国境地帯だが、もともと遊牧の民が駆け回った地域で、中央ユーラシアの歴史には欠かせない地名だ。そのアルタイ山脈に因む阿勒泰だが、その歴史はあまり古くはない。名前が残るような街として登場するのは19世紀後半、清朝時代も末期のこと。

 ジュンガル部が勢力を広げていた新疆北部が、清朝の勢力下に入ったのは18世紀半ばの乾隆帝の時代。ジュンガル盆地北部は、今のモンゴル国最西部を勢力圏としたホブドの領域の一部となった。つまり外モンゴルの一部だった。新疆へ所属が変更になったのは、1907年(あるいは1906年)のホブド・アルタイ分治の時のこと。モンゴル国が独立するのはもう少し先になるが、現在のアルタイ山脈を境とする中国新疆北部とモンゴルの国境は、この時に初めて形作られたことになる。

 阿勒泰の歴史は、チベット仏教寺院が19世紀後半に建てられたことに始まるという。以来寺院の名前によって承化寺と呼ばれていた。1921年に初めて県が置かれたときの名前も承化県だった。1954年に阿勒泰県と名前を変え、1984年に市へ昇格している。


 街として100年余りの歴史しか持たない阿勒泰には、ガイドブックに載るようなものは何も案内されていない。観光ということでは、何年か前にTVで紹介されたハナス湖への拠点とされることの方が一般的かもしれない。自分が阿勒泰へ立ち寄ったのは、ジュンガル盆地一周とアルタイの山並みを自分の目て見るという目的のためで、1995年8月1日から5日まで滞在した。


 阿勒泰の街は、北極海へ流れるオビ川の支流クラン川が流れる谷間に細長く広がる。西岸は、その川によって造られた急な崖が川岸近くまで迫っていて、20分ほど登ると写真のような風景が広がる。ほぼ北を眺めたもので、発展途上のまだ小さな市街の向こうにアルタイ山脈に連なる山々が続いている。


 南を眺めると、山並みの先にジュンガル盆地が霞んで見える。


 街の北側、クラン川沿いに樺林公園という名の森林公園がある。名前のとおり、立派な白樺や柳が森をなしていた。アルタイ山脈から流れる水が清く、炎天下に足を浸すと冷たくて気持ち良かった。


<参考>
 アルタイ・オリアンハイの宴の歌(上村明)
 行政区劃簡册 2007(中国地図出版社 2007年)
 中国歴代行政区劃(中国華僑出版社 1996年)
 新疆維吾尓自治区地図冊(成都地図出版社 1994年)

<Google Map>
 イリカザフ自治州アルタイ地区

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2008年6月15日

(書評)シルクロードの考古学

早稲田大学 オンデマンド出版シリーズ
シルクロードの考古学
岡内三眞 編著
ISBN978-4-88752-209-1
早稲田大学 文学学術院 2008.3

 本書は、考古学を中心としたシルクロードについての入門書。編著者のはじめにによれば、やさしい言葉で説くシルクロード史入門書で、現地で使えるハンディーなテキストとのこと。具体的には、下に書き出した目次のとおり。総論は、各テーマの下により具体的な一文を見開きで置き、6章で24篇。地域編は、関連する町や遺跡の紹介3頁と1頁のコラムの組み合わせ。小コラムを含む延べ大小50篇余りを、編著者である岡内氏のほか14人の若手研究者が分担執筆している。刊末に載るブックガイドは、参考文献ではなく関連一般書の紹介が中心。

 版形が山川出版社のリブレットシリーズとほぼ同じで、頁数も本文100頁とほぼ同じ程度。目次を見れば、具体的な掲載範囲がほぼ察せられると思うので、長くなったが細かいところまで並べた。範囲は広いが広く浅くというわけでもなく、ポイントを絞ることで可能な範囲での深さや情報の新しさも盛り込まれている。一文一文はよく書かれていて、執筆者が多い分多少の善し悪しは言えなくはないが、図版や写真も多くて十分な内容と思う。

 オンデマンドという点は、シリーズ名にされているとおり本書の特徴で、恐らくは一般書店への配本は無く、取り寄せ注文のみに対応しているということ。自分は、Abita Qurでの紹介を読んで早速にと近所の書店に注文したが、一週間かからずに届いた。


 これで終わらしても良いと思うのだが、蛇足を承知でもう少し書き足す。一つ目は、4月に史林 第91巻 第2号を読んだことの影響。この中に間野英二氏の森安孝夫氏の対する「シルクロード史観」についての再反論が掲載されている。さとうさんが博客 金烏工房で書かれている点、脱シルクロード史観ということを頭に置くと、本書では南北という言葉も多少でてはくるし、毛皮の交易やロシアも出ては来るものの、東西ラインが自明的でそこばかりに目が行ってしまうのは避けられない。考古学を看板にするのだから、もう少し中立に中央ユーラシアあるいは、中央アジアの考古学というタイトルで展開することはできなかったのか。

 もう一点は、地域篇の掲載地について。ここは細かく言うといろいろ指摘できる。内容ではなくて名前について言うと、ウルムチみたいな現代都市があり、ペルセポリスやパルミラなど歴史上の都市もある。イスランブールでなくてコンスタンティノープルなのはなぜか。カラコルムがあるがトルファンとクチャ、ホータンがない(トルファンとクチャは総論に入っている)。東西交流として考えると、パキスタン、アフガニスタン、イラク、カザフやロシア、コーカサスが含まれていない。内容の善し悪しというよりも、この構成の意味しているところに興味を持ってしまう。


 一文一文は良く書かれており、入門書として面白い内容と思う。ほぼ同じ情報量でリブレットよりも500円高い1300円。値段に見合うかどうかは、読む人に拠るところだろうか。


<目次>
Part1 総論
1 シルクロード学入門
 1 シルクロードのヒトと自然
 2 シルクロードの動植物
2 シルクロードの歴史
 1 シルクロードの夜明け
 2 漢と匈奴の抗争
 3 魏晋南北朝の南北交流
 4 唐とペルシャの交流
 5 元のユーラシア交易
3 シルクロードのオアシス都市群
 1 タクラマカン沙漠の北と南
 2 トックズサライの遺跡と遺物
 3 クチャの遺跡と仏教壁画
 4 トルファンは民族興亡の地
 5 砂に埋もれた隊商都市・桜蘭
4 シルクロード伝来の文物
 1 シルクロードの絹馬交易
 2 絹・毛織物の制作と交易
 3 ペルシャ渡来のガラスと金銀器
 4 西域の流通貨幣
 5 西域伝来の音楽と舞踊
 6 慶州と奈良・正倉院の西域文物
5 シルクロードの発掘調査と研究
 1 早稲田大学シルクロード合同調査
 2 交河故城とヤールホト古墳群
 3 漢代長城、関、烽火台
6 壁画古墳から生活を探る
 1 中国の古墳壁画
 2 壁画に見るソグド人の生活
 3 唐代壁画とキトラ古墳、高松塚
Part2 地域編
1 慶州
2 北京
3 西安と洛陽
4 カラコルム
5 敦煌
6 ウルムチ
7 カシュガル
8 フェルガナ
9 サマルカンド
10 ペルセポリス
11 パルミラ
12 コンスタンティノープル
資料

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2008年6月14日

丸山城

 天気を心配していたのだが、週末が近づくにつれて降水確率が下がってきたので、それではということで連休以来ひと月振りに城攻めにでかけた。目標は、三重県伊賀市にある丸山城

 丸山城は、1578年に織田信長の息子信雄が伊賀の領有を目指して築かせたものという。しかし、これに反発した国人衆によって翌年奪われてしまう。信雄は奪還の兵を出すが敗退、1581年に信長が指揮して大軍を出して伊賀全域を押えて城も奪還した。一連の戦いを天正伊賀の乱という。伊賀上野城が築かれるまでは、伊賀でいちばん大規模な城だったという。



 近鉄大阪線の伊賀神戸で近鉄から独立した伊賀鉄道に乗り換えて6分、丸山駅のひとつ南にある上林駅で降りると田植えの終わった田圃の向こうに丸山が横たわっている。山というか、いわゆる里山で標高は213メートルあるが、標高差は麓から60メートルほどとさほど高くない。西に木津川が流れ、川や谷によって周りから切り離された独立の丘で、丸山城は山城というよりは平山城に近いだろう。


 道らしい道がある登り口は南、西、北の3か所(下地図中の赤矢印)。3か所とも看板など案内が何も無い上に入り口が分かり辛い。南側から登ると5分ほどで小さな社がある広場に出る。道は山道としては広く、社への参道として広げられたものとみる。


 社から天守台まではなだらかな登りを5分ほど。広さ十数メートル四方、高さ4、5メートル程の独立した郭で、高さ4、5メートルと巨大な石碑が立つ。天守台といわれれば、ちょうどそのくらいの広さという感じ。


 天守台の周りは、少し広い郭が取り巻いている。その一角に、昭和35年と刻まれた天正伊賀の乱の慰霊塔が立ち、新しい花が供えられていた。


 その郭の東側には土塁、堀切、あるいは虎口と思われる地形が良く残っている。写真は、間に深い堀が入る二重の土塁。


 写真は、木津川の支流で北の山裾を流れる比自岐川。立派な水堀という雰囲気がある。写真下側、流れの上に渡された赤い鉄板の橋を渡ると北側の登り口がある。この道は、一気に登る急な道だが天守台まで10分もかからない。途中に元文五年と刻まれた一部崩れた鳥居があるので、こちらも長く参道として使われてきた思われる。

 西側へ下る道は、他の2つの道と比べて細い獣道状。尾根筋の西端にある水道施設のある場所を経て麓まで10分ほど。


 丸山城は、一度は織田軍を退けた堅城であるがいわゆる里山で、麓に暮す人々によって常に使われてきたものと見受ける。谷筋には溜池や田畑の跡があったりと、平な地形や土塁状のものが城に関わりがあるのかどうか見分けるのは難しい。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(伊勢路)を基に作成しています。」


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 丸山城周辺

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2008年6月11日

松波城

 今年のゴールデンウィークに回った10か所目、最後の城は能登町の東端にある松波城。能登畠山氏の支族といわれる松波氏の拠点だった城。1577年に越後の上杉勢が能登へ侵攻した時には、数百人が籠城して攻城戰の後に落城したという。

 西から伸びる丘陵の末端部で、南北を川に、西側を谷で区切られた半独立状の丘の上にある。東側から小さな谷が入り込んでいて、それを真ん中にした逆コの字形、標高は30mほどの平山城。


 城の東側には3年前までのと鉄道が走っていて、松波という名の駅があった。鉄道跡は線路が剥がされて、道路に架かっていた部分が撤去されている。松波駅跡は、今は松波城と畠山氏について解説するミニ資料館になり、写真のような城の模型が飾られている。


 逆コの字形の東南端は、のと鉄道の前身、国鉄能登線が通った時に鉄道によって切り離された。東出丸と呼ばれている部分で、深い堀切が残るなど松波城の中では一番城らしい雰囲気がある。


 東出丸から線路を跨いでいた陸橋を越えて坂道を登ると、10分ほど松波城本丸と書かれた碑が立つ所に出る。大手門に続くいう虎口の土塁が残っているが、広い本丸跡は近代以降にも造成されたようで、ただのっぺりと広く城跡という雰囲気はあまりない。


 逆コの字から西へ飛び出した形の尾根の先に搦手門址の碑が立つ。最近開通した国道のバイパスがすぐ後ろを走る。本丸周辺は整備されているが、そこから北西へ向かうと細い道のほかは薮状態になる。搦手へ続く道も途中から薮の中になるが、小さい郭を連ねたように見える地形が残る。


 搦手から逆コの字の北側にあたる部分を東へたどると、院ノ山という名の碑が立つ平地が広がっている。郭でなく平地と書いたのは、こちらもただ広い平地が広がっているようで、城跡という雰囲気がなかったから。資料を見てみると谷で区切られた100m四方ほどの広がりが東西に2つあるが、どちらも写真のような杉林と竹薮の中。ただし、その平地が切れて谷に向かう斜面には帯郭や虎口を思わせる地形が残る。法面もわりと急でそこだけ見ると山城のようでもあり、この平坦部全体も昔にある程度造成されたものに見える。その造成が戦時のものか平時のものなのか、歩いただけではもちろんわからない。

 城全体の広がりの広さにはわりと驚いた。東出丸から搦手門址まで直線で700m近くあり、数百人程度で籠城する規模には見えない。越後軍侵攻の時に籠城したのは、この広がりの中の一部なのではと想像するが、ただの想像である。



「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(松波)を基に作成しています。」

 本丸の碑が立つ所まで道は細いが車で入ることができる。国道を南から来たときは、信号を左折して橋を渡ると右に入り口がある。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 松波城周辺

<参考資料>
石川県中世城館跡調査報告書 II
 石川県教育委員会 2004

七つ尾 第25号
 七尾城址文化事業団 2006.9

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2008年6月 9日

茨城空港

 茨城空港 路線誘致に四苦八苦 大手冷ややか 「海外格安」狙い(FujiSankei Business i)

 国予測の需要は年間約81万人。県は羽田、成田両空港の補完を強調。北海道、大阪、福岡、沖縄の4路線を中心に誘致しようと06年から毎月欠かさずに航空会社詣でをしてきた。

 首都圏の新しい玄関、今、ひらく。茨城空港、2010年3月開港予定。(茨城県)

 百里基地を民間共用にして首都圏第三の空港にというプランは記憶にあるが、2年後開港を目標に事業が進んでいるとは知らなかった。東京から1時間半もかかる空港に補完を期待できるとは自分も思わないので、国内線の空港として価値がどのくらいあるのか少し考えてみたい。


 参考になるのは、隣の福島県にある福島空港。福島県の人口が208万人、茨城県が297万人。茨城県について、東京に近い千葉県および埼玉県寄りを除くと200万人を切るが、福島県北部が仙台空港に近いことを考えると、圏域人口としては茨城県の方が少し多い程度と見積もれるだろう。

 また、空港として最大のライバルとなる羽田空港まで、電車を使って出るのにかかる時間はどうか。郡山からだと新幹線を使って2時間10分、水戸からは特急を使って2時間。時間的にもあまり差がない。


 その福島空港について。現在一日に片道で、大阪へ5便、札幌へ2便、沖縄へ1便飛んでいる。福島県のHPによれば、2007年度の国内線利用者は40万人ほど。

 もう少し詳しく、国土交通省の航空輸送統計調査を見てみる。2006年度の数字で、伊丹便が1日5往復で年間152,741人、関空便が1日2往復、57,604人、併せて1日7往復、210,345人。ほかに、札幌便が1日2往復121,801人、那覇便が1日1往復71,554人となっている。福岡便が2006年に、名古屋便が2007年になくなっている(福島空港の沿革 福島県)。

 利用者数的にも便数的にも重要な大阪便の推移を、もう少し詳しく見てみる。

 2001年度伊丹便1日2往復、250,375人
 2002年度伊丹便1日3往復、244,642人
 2003年度伊丹便1日3往復、256,306人
 2004年度伊丹便1日3往復、秋から5往復、249,361人
 2005年度伊丹便1日4往復、関空便1日2往復、191,813人
 2006年度伊丹便1日5往復、関空便1日2往復、210,345人

 利用率は平均で60%前後で、小型機を使って便数を増やしても、利用者の減少に歯止めが掛からないと読み解けるのではないか。2007年度には関空便が1往復減、今年はさらに伊丹便が1往復減っている。

 新幹線を使った場合と比べてどうか。郡山から東京で乗り継いで大阪まで4時間15分で20,120円。飛行機だと特割で23,700円、フライト1時間5分で、アクセスを入れて2時間ほど。料金差が小さくて時間が半分なので、飛行機利用のメリットはかなりある。ただし、今のダイヤで昼前後に4時間の空白があるので、次便を待つなら新幹線を使った方が早い時間帯があることになる。今以上の減便は、利用者の減少に拍車をかける危険があるわけだ。

 大阪便には、札幌便や那覇便にない利用価値がある。それは、福島空港では維持できなかった福岡便をはじめ、四国、九州方面へ、大阪乗り継ぎ利用を期待できるという点。しかし、新幹線を使って羽田空港を利用した方が安い。しかも便数が多いので時間的なデメリットは大きくない。つまり、お金を出して都心での乗り換えを嫌う人にしかメリットがない。


 茨城空港について考えてみる。上のニュースにあるとおり、需要予測は年間約81万人とのこと。しかし、東京へのアクセスで似た条件にある福島空港から見ると、まず、大阪便、札幌便、沖縄便で福島空港の年間利用者40万をクリアできるかどうか。これが結構厳しいハードルであることが見えて来る。羽田空港までの料金はどうかというと、郡山からは新幹線を使って8,440円で、水戸からは特急を使って4,490円、バスならさらに安くて3,500円。この差が小さくないように見える。

 茨城空港で札幌、沖縄、大阪以外のルートはどうか。やはり羽田空港に料金的に福島空港より近いという点が大きい。福島空港で飛ばなかったものが、茨城空港で飛ばせるとは想定し難い。昨今は、燃料高騰によりむしろ地方路線は整理が進んでいる。そんな中で、福島空港よりも条件が悪そうに見える茨城空港に対して、茨城県の要請に応える会社がいくつあるだろうか。

<Google Map>
 福島空港百里基地

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2008年6月 8日

アフガニスタンへの自衛隊派遣

 アフガン支援、陸上含め検討 官房長官表明(日経新聞 6月1日)

 この中で町村官房長官は、来年1月に特別措置法が期限切れになることへの対応について、以下のように述べて陸上自衛隊の派遣も検討しているという。

 活動の継続と合わせてプラスアルファの活動ができるかどうか。アフガニスタンの陸上も含め、視野を広げて考え始めようとしている

 ペシャワール会:陸自アフガン派遣なら活動中断も(毎日新聞 6月7日)

 町村氏の発言を受けて、ペシャワール会の現地代表中村哲氏は、6月7日の会見で

 日本人が武装勢力の攻撃対象となるのは確実で、会員の安全確保が難しくなる
として、邦人スタッフの帰国と活動の一時停止の可能性を示唆したという。さらにアフガニスタンの現状を分析して、
 アフガンに非戦闘地域はほとんどなく、仮にあっても軍が進駐すれば戦闘地域化する
 深刻な食糧難や相次ぐ誤爆で政府や外国軍への反発が強まって
いるとのこと。別のニュースは以下のような記事も伝えれいる。

 政府、アフガンに調査団派遣 自衛隊の本土活動念頭(47ニュース 6月5日)

 政府ではアフガンへの現地調査団派遣やスーダンの首都ハルツームにある国連スーダン派遣団(UNMIS)司令部への自衛官派遣を先行して行うことにより、7月の主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)で日本の貢献姿勢をアピールしたい考えだ。

 アフガンに政府調査団 政府 アフガン、スーダンに陸自部隊派遣検討(産経新聞 6月7日)
 ゲーツ米国防長官が石破茂防衛相に対し、アフガン本土での自衛隊活動に強い期待を伝えていた


 現時点で自衛隊が行えることがあるのかとも思うが、現実問題として自衛隊を派遣できる場所はないようにも思う。また、アフガニスタン復興が、外交の目的ではなく手段にされるというのも面白くない。自分は、中村氏の発言を重く受け取らざるを得ない。


 最近の中村哲氏の講演会の報告に以下のものがある。

 中村哲医師(「ペシャワール会」)「アフガンはテロの巣窟ではない」(JanJan)
 ペシャワール会中村医師「丸腰だから現地の人に伝わるものがある」(JanJan)

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2008年6月 7日

大河ドラマの誘致

 一昨日、2010年の大河ドラマ決定を採り上げたが、「次の大河ドラマは?!」というと誘致という話題を目にすることがある。今年の鹿児島での盛り上がり方とか、連休に回った北陸で見かけた利家とまつフィーバーの痕跡、観光客の増加と反動による減少に対する一喜一憂などなど侮れない影響力があるのは確かだが。


 これからの誘致を目指しているものはどうかと検索してみるとタイムリーなものが2件。

 「保科正之」NHK大河ドラマ化へ 国会議員の会が設立(長野日報)

 「塚原ト伝」を大河ドラマに 茨城・鹿嶋市関係者が知事へPR(産経新聞)

 江戸初期というのは、戦乱や混乱が少ない分地味にならざるを得ないが、春日の局があったのだから保科正之でもという論法は成り立つだろうか? 保科正之---徳川将軍家を支えた会津藩主(中央公論社 1995年)を出版されたころ読んだのは覚えているが、内容は既に忘却の彼方。塚原ト伝は、全く守備範囲外で何もコメントできない。自分的には2つとも世界がちょっと狭いと思うのだがどうだろう。


 NHK大河ドラマに「藤堂高虎」を! 誘致する会/市民の力で実現へ(ローカルみえ)

 もう一件引っかかってきた6年前の記事。これは、恐らく今年の放映を目指した運動だったのではないかと思う。三重県津市にとっては、今年が藤堂高虎の四国今治からの転封400年にあたるからだ。残念ながら実らなかったということだろうか。

 藤堂高虎公入府400年記念事業年間スケジュール等について(津市)


 自分の趣味的には、大河ドラマへの期待は伊達政宗や毛利元就のような戦国時代地方史の放映。一番見たいのが戦国島津氏。島津三代の野望島津四兄弟という方向で。あとは、長宗我部とか北条、少し趣味に走って松浦、村上、九鬼などを扱う海賊ものとかなどなど。長宗我部元親は、桐野さんなどが唱えている本能寺の変関係の話題を絡めると、かなり面白くなると思うのだが。この中に実現するものがあるだろうか。


 北陸で見かけた大河ドラマ利家とまつの名残


 福井県敦賀市、金ヶ崎城跡の麓にある金ヶ崎宮の境内で見かけた説明板。


 放映を機に立てられた末森城跡の石碑。

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2008年6月 6日

穴水城と長一族

 ゴールデンウィーク9つ目となる穴水城。能登島を車で一周した後、七尾北湾の北西にあたる穴水に寄ったのは、たまたまといえばそうなのだが。城跡があり、多少なにかしら残っているらしいので、とりあえず情報収集のために穴水町歴史民俗資料館に立ち寄った。資料館の方には親切にしていただき、いろいろと資料を見せて頂いた。

 ほぼ何も知らずに立ち寄ったという不覚な話だが、資料館の展示を目にするまで穴水が長(ちょう)氏縁の地ということを知らなかった。長氏は鎌倉時代に能登で地頭職を得て以来の家柄で、戦国時代には能登国内の有力な国人領主だった。越後の上杉謙信進攻に対して徹底的に抗戦し、織田信長に助力を求めている。前田利家が能登に入ると鹿島郡の半分を領地として利家の与力となり、後に前田家中で2番目に大きな領地を持つ家臣となった。その長氏が戦国時代に本拠としていたのが穴水城だった。

 穴水城は、穴水の市街から川を挟んだ東側の丘陵にある山城。中心は、地形図に61.7mの三角点が表示されているあたりで、北麓に町役場、南麓に資料館がある尾根筋に広がっている。資料によれば、役場のある谷筋を真ん中にしてコの字型の尾根上に遺構が残っているという。


 役場のあたりから登って行く遊歩道があるらしいのだが、日が西に傾きあまり時間がなかったので車を使った。城の中心部が小さな公園として整備されていて、脇にある駐車場まで直接登ることができる。駐車場脇には石碑と案内板が。


 中心部の南東側一段下の郭。位置的には二の丸に相当するように見えるが、さほど広くはない。桜の木が並び、生け垣が整えられているがちょっと草が茂り気味。


 中心となる、おそらくは本丸に相当する郭。南側には下の郭との間に虎口らしい形が残るが、土塁や櫓台らしきものは見当たらない。


 中心部の北に広がる郭。資料を見るとここが一番広い。公園として整備されているのは上の2つの郭だけで、他は笹が生い茂る杉林の中。中心部周辺には、この他にも大小の郭が雛壇状に良く残っている。標高差60mほどとさほど高くなくて守りは堅くないかと思ったが、北側の谷へ下るあたりはかなり急な斜面を保っていて、見た目よりも実戦的なのかとも思う。資料によれば、中心部分は東西方向に350mほどの広がりがあり、道路に一部破壊されたところはあるものの、時間をかけて回れば堀切などもう少しいろいろ見られたようだ。


<国土地理院 地図閲覧サービス>
 穴水城周辺

<参考資料>
石川県中世城館跡調査報告書 II
 石川県教育委員会 2004

天恵の系譜
加能州における長一族の八百年
長進 著
体育施設出版 2006.6

 


圖録長家資料
穴水町教育委員会 1996.3

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2008年6月 5日

2010年の大河ドラマ

 2010年の大河ドラマは「龍馬伝」。坂本龍馬の生涯を描きます!(NHK)

 去年は5月の初めくらいには、2009年の大河は・・・という話しがあったので、2010年についてはいつ発表になるだろうかと心待ちにしていた。正直に言って幕末を守備範囲とはしていない自分には「なんだ・・・」という落胆が最初に来た。それはまあ些細なこと。

 本作は、脚本家福田靖氏のオリジナルになるとのこと。守備範囲外なのであれやこれやとの意見はないのだが、2004年の新選組!、今年、2008年の篤姫、そして2010年とわりと短い間に幕末が続くので、TVの影響としてのイメージはそれなりに溜まりつつある。加えて京都に越したという環境も多少影響するかもしれない。2年後には、もう少し小うるさく見ているのだろうか。

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2008年6月 4日

小丸山城

 ゴールデンウィーク8つ目となる城は、1581年に能登の新しい領主となった前田利家が、険阻な七尾城に代わる能登の拠点として築いた新しい七尾城、通称小丸山城。JR七尾駅から北西へ500mほどで、小丸山公園と呼ばれている丘がある。標高差20mほどのこの丘が七尾城の跡。1583年に利家が加賀の北半分を得て金沢に移ってからも造築が続けられたといい、江戸初期に廃城となったが明治以降も一時県庁が置かれるなど能登の中心的な場所だった。


 国道から公園への入り口に立つ案内板。本丸、天性丸、宮丸、大念寺山という4つの郭が並び、御祓川を外堀とする平山城だったという。本丸と天性丸が公園になっているが、南側を国道が掠めて通り、特に天性丸の方が大きく削られているように見える。国道を挟んで南側になる大念寺山は、別名御貸屋山という丘で今は住宅地に埋もれている。宮丸は、本丸の北西に愛宕山の名前で小さな丘として残っている。


 奇麗に公園として整備された本丸。隅に高くなった所があり、櫓跡と推測されている。


 本丸に立てられた像。一豊と・・・ではなく、利家とまつ。

 車を置く場所にちょっと困ったが、城跡はちょとの散策で一回りできる公園。国道側の入り口は本丸と天性丸の間で、高さ10mほどの堀切になっていて上に橋が架かる。どのくらい往時のものかはともかく、この堀が唯一城跡らしく見える。


 七尾城近くの展望台から見下ろす七尾市街と七尾湾。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(七尾)を基に作成しています。」


<参考>
石川県中世城館跡調査報告書 II
 石川県教育委員会 2004

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2008年6月 1日

1995年アジア紀行〈カトマンズ〉

 ネパールの首都カトマンズには、1995年の10月21日からの一週間と11月13日から10日間、延べ半月に渡って滞在した。雨期が明けてから寒さが増すまで、ネパールを歩くのに良い季節だった。

 現在のネパールの話題というと、現国王に対する退位勧告だろう。調べてみると、前国王が殺害されたのが7年前、2001年の今日だった。以来混乱が続き観光客が随分減ったといわれるが、これからどうなっていくだろう。13年前のネパールは、南アジアの中では落ち着いて滞在できる国として、旅行者の間で人気があった。

 カトマンズ滞在中の10月24日には日食があった。インドの少し南の方まで行けば皆既が見られたのだが、カトマンズでも三日月のように細くなった太陽が見られ、辺りは涼しく薄暗くなった。自分が今まで見た中では一番欠けた日食だったが、信仰深いカトマンズの人々にとっては見てはいけないものだそうで、秋祭りの季節で騒がしいほどだった街が、その数時間だけ静まっていたのが印象的だった。

 また、エベレスト近くでトレッキング中の日本人10数名が雪崩に巻き込まれて亡くなったのが、この11月の10日頃のことだったと思う。直後に所要でカトマンズの日本大使館へ出かけたが、「館内に無線の音がひびいていた」と自分のノートには書いてある。



 旧市街の少し南にある旧王宮とダルバール広場。新王宮に国王が移るまでネパールの中心だった場所。ベンガラ色の壁と白壁の建物が並び、独特な塔型の建物にカトマンズが思い出される。広場は観光客の集う場所であり、出店がでたりイベントが開かれたりしていたように記憶している。


 カトマンズは宗教の街でもある。街中や周辺には仏教とヒンドゥー教の寺院が点在している。そのひとつ、街の東北郊外にあるチベット仏教系寺院のボダナートにある巨大ストゥーパ。


 こちらもチベット仏教の寺院。街の西、カトマンズを見下ろす高台の上に建つスワヤンブナートのストゥーパ。チベット仏教らしい目が印象的だが、高台全体に猿の群れが長年住み着いていて、モンキー・テンプルと呼ばれているという。


 街の東寄り、新市街の大通りの点描。交差点の真ん中に建っている像が何だったか記録していない。ネパールの中では、走っている車に新車が多かった。通りの突き当たりに見える三角屋根を乗せた門が新王宮の入り口。現国王が近々立ち退くであろう場所。


 スワヤンブナートから見下ろした、盆地の街カトマンズ。盆地であるが故に大気汚染が深刻ともいわれる。自分にはネパールの印象は大変に良く、今でももう一度訪ねてみたい国のひとつである。


<Google Map>
 カトマンズ盆地全景ボダナートスワヤンブナート旧王宮新王宮

 ボダナートの巨大さは、GoogleMapで見ても良くわかる。

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