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2008年6月28日

遼金西夏研究の現在(1)(感想)

遼金西夏研究の現在(1)
荒川慎太郎・高井康典行・渡辺健哉 編
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 2008.6

 まえがきによれば、本誌は2009年まで行われている東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究プロジェクト「遼・金・西夏に関する総合研究---言語・歴史・宗教---」の研究成果とのこと。その一貫という形で5編の論文が収録されている。各本文20頁前後、資料部分込みで112頁とコンパクトながらいずれも興味深い一文だった。簡単に以下に紹介する。

 (1)とあるように、続編の刊行が予定されている。本誌は、編者荒川さんより送って頂いたもの。ありがとうございます。


ヘルレン河流域における遼(契丹)時代の城郭遺跡
 白石典之

 モンゴル高原ヘルレン河流域に残る城郭遺跡の内、遼に関わるものとされるバルス=ホト1城、バローン城、ズーン城について、現地踏査と文献の再考から遼史の上での位置づけを見直したもの。3城の比定について、一例として中国歴史地図集(地図出版社)では、順に河董城、塔懶主城、皮被河城と記載されている。筆者はこれに対して考察の上で順に、1015年に耶律世良によって築かれた名前の伝わっていない城、11世紀後半に築かれた塔懶主城、1015年に耶律世良によって築かれた招州城の可能性が高いと結論している。

 考古学の成果と文献とを結びつけた考察で、白石氏らしい一論と思う。11世紀前半は西夏の建国と重なる時代で、河西地方(甘肅省の黄河以西)の覇権を遼と西夏が競っていた時代でもある。モンゴル高原の情勢は、遼の河西進出に直接影響がある可能性があり興味深い。


契丹(遼)における渤海人と東丹国---「遺使記事」の検討を通じて
 澤本光弘

 中国の文献に残る渤海人が中国の各王朝に朝貢した記録の内、926年に契丹によって渤海国が滅ぼされた後のもについて、その内容と意義を考察したもの。滅亡後の渤海、あるいは渤海人という言葉が、政治勢力としての渤海国と必ずしも関係がなく、契丹が渤海国に代わって置いた東丹国の関係者なども渤海と呼ばれていたとする。このため、「遺使記事」をひとつの根拠としている渤海国滅亡後の残存勢力のひとつと後渤海国について、従来考えられてきたような、契丹を脅かすほどの大きな勢力としての存在を否定する。

 小勢力と言えどもひとつの国、その歴史を書き換える可能性がある痛快な一論である。1992年に発見さらた耶律羽之の墓誌をはじめ、内外の文献、論文を駆使して力作で、たまたま渤海関係の本を読んでいたこともあり、とても面白く読ませて頂いた。


頭下軍州の官員
 高井康典行

 遼代の地方制度のひとつとして頭下軍州というものがある。有力者の私領地に起源をもつもので、政府の認可を得て州県を名乗ったが、中央権力の伸展により私としての権益が後退して一般の州県と同じものになったという。従来の理解の一端はこのようなものだったようだが、それでは簡単にすぎるのではというのが本論の説くところということだろうか。本論では、有力者の所属下にある農耕民や兵隊である人々「部曲」について、隷属した賎民的な身分の者を指す場合と、比較的自由な身分として私兵・家臣として仕えている者という2つの意味の違いを考察しながら、頭下軍州とそこに所属する官員の性格を考証して行く。

 墓誌や文献資料から家臣であって主人の頭下軍州の官員になり、刺史という州の長官からさらに他の一般の州の長官へと転任していく人物が紹介される。そのような事例から、頭下軍州の官員であっても出世して行く上で一般の州との差異はあまりなかったという。それは彼らの多くが漢族であって、唐末からの藩鎮という軍閥割拠の状況で確立されてきた制度の影響という。その意味で、頭下軍州を契丹固有の制度として考察するばかりでなく、時代の流れの中で理解されるものとする。

 自分に頭下軍州について馴染みがないので、この理解で良いのかどうか今ひとつ。本論は、頭下軍州の官員を経た人物が多数紹介された力作で読み応えがある。自分的には南北だけでない遼の地方制度について、勉強し直す良い機会になるように思う。


西夏文軍事法典『貞観玉鏡統』の成立と目的及び「軍統」の規定について
 小野裕子

 『貞観玉鏡統』とは、西夏における軍隊の法律で、100年前に発見されたいわゆる黒水城文献(カラホト文書)のひとつで、西夏文字で印刷されたもの。本論では、その条文の解読、解釈を通して、西夏の軍隊の指揮官であって隊を構成する部族の長でもあるという軍統について考察するもの。戦闘時における賞罰規定などの解釈によって軍統の姿が見えるだけでなく、12世紀初頭という成立年代に関わって、西夏のおかれた時代背景も間接的ながら見えて来るものとなっている。

 本論は、なによりも長文の西夏文字文献の解釈をもとにしたもので、その点では国内ではまだ希少な論文である。条文の注釈の他に、釈文と漢字への逐語訳も添えられている。法制史という以外にも有意な内容をいろいろと含んでいて、西夏文字の解読が進むと西夏史への理解が深まることを期待させるものが色々とある。西夏文字の文献は甚だ高価で大部で自分のような者が簡単に手を出せるものでもないが、もう少し勉強してみなくてはなるまい。


モンゴル国における契丹文字資料と研究状況(1)
 松川節

 モンゴル高原東部にあるサルバン=オール、エルデネ=オール、アラシャーン=ハダの3つの岩壁に刻まれた契丹文字とされる銘文について紹介したもの。先行記事の紹介および、2005年に自身で実見した結果を簡単に考察している。解読研究の状況など続稿でとのこと。


<Google Map>
 バルス=ホト1城バローン城ズーン城
 3城跡とも写真の解像度が高くない所だが、四角い形が見て取れる。バルス=ホト1の東に立つという塔は、残念ながら雲の中。

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コメント

遼金西夏研究の現在 (2)のカタログをしています。編者の一人、高井康典行の生年がわかりましたらお教え下さい。ローマ字にすると同名の人がおりまして、区別をつけるのに苦労をしています。
Webで探しましたが、読み方とアジア・アフリカ言語文化研究所の研究者といういがいは、わかりませんでした。
何年生まれかだけでもよろしいので、お教え下さい。
Hisako Rogerson
Library of Congress
Cataloger, NEA Section

投稿: Hisako Rogerson | 2010年12月 2日 00時25分

>Hisakoさま

申し訳ありませんが、
高井氏のプロフィール詳細は存じ上げておりません。
刊行もとにお問い合わせください。

投稿: 武藤 臼 | 2010年12月 3日 06時32分

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