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2008年7月29日

西夏と年号 その2

西夏にはどんな年号があったのか?

 西夏の年号は、昨日書いたように宋史に30の年号が記録されている。ただし年表のような表形式ではなく、ただの箇条書き。一例をあげると、西夏の実質的な最初の皇帝とも言われている李元昊について、『宋史 夏国伝』(下記参照)に彼の死去の記事に続けて以下のように記している。

 在位十七年,改元開運一年,廣運二年,大慶二年,天授禮法延祚十一年。
 以下、最後のひとり前の皇帝李徳旺まで、同じ書き方で年号が記されている。下に宋史に記されている年号を箇条書きにして、さらにその年数を添えた。

 李徳旺の後に、最後の皇帝で末主と呼ばれる李睍がいるが、彼の時代に年号があったのかどうか宋史には記されていない。

 李純佑の天慶をとりあえず14として、書き添えた数字を単純に足し合わせると199になる。李元昊が開運と改元したことについて、宋史に

 景祐元年,(中略)。是歳,改元開運(以下略)
とあり、これは1034年のこと。李徳旺の乾定の末年をとりあえず1226年とすると、その間は193年間となる。199と193なので、問題点はひとつや二つでは無いことになる。この問題点を洗い出して整理していくのが当面の目標となる。

西夏年号一覧
 開運 1(李元昊)
 広運 2
 大慶 2
 天授礼法延祚 11
 延嗣寧国 1(ここから李諒祚)
 天祐垂聖 3
 福聖承道 4
 ◆都(◆:奢+單) 6
 拱化 5
 乾道 2(ここから李秉常)
 天賜礼盛国慶 5(ここから李秉常)
 大安 11
 天安礼定 1
 天儀治平 4(ここから李乾順)
 天祐民安 8
 永安 3
 貞観 13
 雍寧 5
 元徳 8
 正徳 8
 大徳 5
 大慶 4(ここから李仁孝)
 人慶 5
 天盛 21
 乾祐 24
 天慶 (李純佑、彼は例外で、在位14年とあるのみで、天慶が何年続いたかの記載がない)
 応天 4(ここから李安全)
 皇建 2
 光定 13(李遵頊)
 乾定 4(李徳旺)


< 宋史 夏国伝 とは >
 宋史は、モンゴル帝国の時代に元朝の宰相トクトによって纏められた歴史書であって、二十四史と総称される中国の正史のひとつとされる。名前のとおり宋国とその時代を扱ったもので、1345年に完成したとされている。全部で496巻あり、現在では中華書局から14,263頁、40冊本として出版されている。

 西夏については、列伝の中の外国一(485巻)、外国二(486巻)それぞれに「夏国上」、「夏国下」のタイトルで纏められている。当ブログでは、これらを纏めて『宋史 夏国伝』と表記する。

その3へ
最初へ

(追記)
 用語の整理と説明文追加のため、8月6日に加筆しました。また、引用文以外の漢字は、基本的に常用漢字へ改めています。
 一覧表に誤りがあったので、11月24日に訂正しました。

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2008年7月28日

西夏と年号

 年号あるいは元号とは、かつて世界にいくつもあった年の数え方のひとつで、今でも使っているのは今年を平成20年と呼ぶ日本だけとなった。前漢武帝の時代に遡るとされる年号は、もともと「何々王の何年目」という世界各地で見られた数え方に、皇帝の名前と関係のない抽象的な名前を使うという変わった方法である。

 中国歴代王朝の影響力によって普及した年号は、中国、日本以外でも、例えばwikipediaの元号をたどれば、ベトナム、朝鮮や大理、ホータンといった国々の年号を探すことができる。


 西夏についての話になる。宋や遼、金といった国々と緊張関係にあっただけでなく、それらの国々の大きな影響を受け続けた西夏でも年号が使われた。西夏について、一番多くの記録を残している宋史の外国伝には、30の年号が書かれている。それらの年号が、西暦の何年に相当するのかということについてなのだが、一次、あるいは古い二次資料というレベルで整理された年表などは残念ながら存在しない。断片的な資料を元に復元を試みた先人が既に何人も居られるのだが、人によって違いがありその差はまだ全ては説明されていない。

 自分にとっても年号は、西夏について調べ始めた最初にぶつかった問題点のひとつだった。その頃は、まだ参照すべき資料が不足していたため、以来西暦のみの表記で年号を全く使わずに過ごしてきた。最近になってようやく資料が揃ってきたので、それらの整理を順次当ブログの上でしていこうと思う。


<目次>
 その2 西夏にはどんな年号があったのか?
 その3 李元昊時代の年号 1
 その4 李元昊時代の年号 2
 その5 李元昊時代の年号 3
 その6 李元昊時代の年号 4
 その7 李元昊時代の年号 5
 その8 李諒祚時代の年号

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2008年7月27日

ペルシア語文化圏における十二支の年始変容について(感想)

 デジタル・クワルナフで馬頭さんが紹介されていた史林 第91巻 第3号(史学研究会)。自分は、諫早庸一氏のペルシア語文化圏における十二支の年始変容について---ティムール朝十二支考---が読んでみたいなと思い買ってみた。

 本論は、チュルク・モンゴルによって草原からペルシャ語文化圏へもたらされた十二支が、ペルシャでいつ頃変化を遂げたのかというもの。本論のいうところの十二支は、60年周期の十干十二支ではなく、12年周期の十二支。そして日本ではないので、12番目はブタとなる。先日エスファハーンのところで少しだけ触れたが、ペルシャ語文化圏はイスラム化以前からの伝統として、春分の日を新年の始まりとしてノウルーズと呼んている。

 本論によれば、中国の影響が大きいというモンゴル帝国の暦は、現在の旧正月と同じように立春前後に新年が始まるもので、イル=ハン朝の暦も同様であったとのこと。モンゴル時代の名残として、イル=ハン朝滅亡後も行政文書の年表記に十二支を加える習慣が残ったが、いつの頃からか古い伝統と混ざり合い、十二支の表記の上でも新年はノウルーズからに変わっていったという。この変化がいつ頃起きたのか、もう少し具体的に言えば、ティムール朝の前半なのか後半なのかというのが本論が目指したもの。


 本論は、イル=ハン朝からティムール朝にかけてのペルシャ語文献の中から、十二支が使われている所を集めた上で論考されている。資料として約100例にのぼる一覧表が添えられている。自分は、中国圏からは離れた所で、十干十二支でない十二支が使われていた実例を見てみたいと思っていたのだが、この表だけでも十分に面白かった。

 いままで、さほど暦に興味を持っていた訳ではないので、ほぼ知らなかった世界ということになるが、本論の注によればそもそも十二支の発祥はいまだに良く分からないという。ほぼ無前提に中国で始まったものと思っていたので、これもちょっと驚き。

 また、質が随分と違ういくつもの暦を並べて比較するのに、どれだけの計算が必要だったのかが想像できない。それだけも本論はなかなかに力作と思うのだが、馴染みの無い世界を見せて頂いたということで面白い一論だった。


 イランは、今でもイラン暦とイスラームのヒジュラ暦という性質の全く違う暦が同居している。そこに、中国由来の暦が持ち込まれた時、大混乱に陥ることはなかったのだろうか。

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西夏文字Tシャツ

 西夏語勉強会の先生のご紹介で、下のようなTシャツを購入。真ん中に書かれている文字が西夏文字で、上から「ミ 文 字」。ミとは、西夏あるいはタングートのことなので、西夏文字で「西夏文字」と書いてあることになる。写真では読めないが、西夏文字の下にはTangut scriptと書かれている。

 なかなか良いでしょう(笑)

 サイズは、女性向けの150と160、それにS、M、L、XLの6種類。色は、チャコール(赤みがかったグレー)、デニム(紺)、オリーブグリーンの3種類とのこと。残念ながらLサイズはオリーブグリーンが在庫切れだった。

 興味ありという方は、もじもじカフェまで、問い合わせてみてください。


 こちらが、チャコール。


 こっらが、デニム。


 話は変わりますが、いちおう当ブログの本館である西夏史への招待は、今月で開設3周年を迎えました。珍しいTシャツを紹介してもらったので、記念にプレゼント企画なんぞやってみようかと思います。

 HPのカウンターがあと少しで10000という所まで来たので、カウンターが10000を超えてからメールを頂戴した方、先着で3名様に西夏文字Tシャツをプレゼントさせて頂きます。興味のある皆様、こちらからご応募ください。当選の方には、折り返し私からメールさせて頂きます。

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2008年7月26日

Newton 2008年9月号

Newton 2008年9月号
雑誌07047-09
ニュートン プレス 2008.9

 流行モノということで、「三千年の歴史を経て,いま 北京」と題して、70頁余りの特集を組んでいて、以下の4部で構成される。

 1 変貌と悠久の首都
 2 北京3000年---波乱の歴史を追う
 3 北京の世界遺産---写真とイラストでめぐる
 4 特別取材「北京の科学」

 1部は、グラビアページで「鳥の巣」や北京空港の新しいターミナルビル、景山から撮った故宮(5年前撮影は古くないか?)などの写真がならぶ。そこには自分の知っている北京と知らない北京が入り交じる。

 2部は、戦国燕国から現代までの北京の歴史。隋唐代の龍舟、モンゴル時代の大都、清代の天安門など復元イラスト(大都のイラストはこちらで見られる)に加えて、契丹、女真、モンゴル、満洲族の辯髪比較が載っている。

 3部では、周口店、万里の長城、明十三陵(世界遺産としては、明・清朝の皇帝陵墓群)、故宮(世界遺産としては、北京と瀋陽の明・清朝皇宮群)、頤和園、天壇が紹介されている。闇夜にライトアップされた天壇の写真がちょっと良い。

 4部は、超伝導研究、中国初という月探査衛星、天文台の話。ここに、ワンフーと名付けられた月のクレーターが紹介される。ワンフーとは、明の時代にロケットを作って宇宙を目指したというワンフー(万戸あるいは王富)に因むという。この人物のことは全く知らなかった。詳しくは、望夢楼明朝のロケット操縦士ワン・フー氏の謎を参照されたい。


 歴史的な部分ということでは、2部と3部に40頁あまり割かれ、著名な方々が協力者として名を連ねておられる。あまり調べたことがない時代などは、自分の知らない情報がわりと載っているのだが、細かい所ばかりでなく突っ込み所が散見されるが、突っ込み所なのか、自分の勘違いなのかを調べてみるとなかなか良い勉強なった。とりあえず、中国の歴史地図集をほぼコピーしただけの歴代王朝の変遷図と、全般に「民族」という言葉で説明しようとしているところはどうにも違和感あり。

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2008年7月25日

(書評)タンパク質の一生

岩波新書 1139
タンパク質の一生
---生命活動の舞台裏
永田和宏 著
ISBN978-4-00-431139-3
岩波書店 2008.6

 タンパク質といっても食べ物の話ではなく、また筋肉とかの話でもない。分子生物学、あるいは生化学の分野、タンパク質の分子レベルでの話で、細胞の中でタンパク質がどのように作られるのかというもの。タンパク質がどう働くのかという面は中心ではなく、どう作られ、どう管理され、どう壊されるかというタンパク質のサイクルをミクロレベルで追ったもの。


 タンパク質というと、筋肉のような肉の塊のようなイメージだろうか。人の筋肉を作る筋繊維の主成分で、細胞と細胞を繋ぐ役割をもつコラーゲンもそのひとつであり、タンパク質は人を形作っているものの重要な要素だ。また、タンパク質には様々な化学反応を媒介する機能を持つものがあり、それらは酵素と呼ばれている。本書によれば、人の体重の2割弱がタンパク質で、体重70kgだと10kgほどだという。

 タンパク質は、20種類のアミノ酸分子が紐状に繋がってできていて、そのアミノ酸の並び方や長さの違いで数万種類のタンパク質があるという。生物の遺伝子には、そのアミノ酸の並び方が書かれているのであって、遺伝子とはタンパク質の設計図である。ここまでが本書の2章までの話で、ここから先が20年前の高校生物では習っていない自分にはとても目新しい話となる。

 アミノ酸が紐状に繋がれば筋肉や酵素ができるかというと、そうでもないというのが3章の話。紐は、決められた形に折り畳まれることで初めて正しく機能するタンパク質になるという。この折り畳むことをフォールディングといい、タンパク質の種類によっては正しくフォールディングされるのは、数分の一から数十分の一の確率であるという。

 フォールディングを助けるのもタンパク質で、シャペロンと呼ばれている。このシャペロンが筆者にとって重要な研究対象であるとのこと。シャペロンといっても色々な種類があり、フォールディングの過程もタンパク質の種類によって様々。中には筆者が「電気餅つき器」と呼ぶ器形のものがあり、中に紐を入れて蓋をしてから折り畳むのだという。

 4章は、タンパク質それぞれには細胞の内外に働く場所があり、そこまで運ぶための方法や、その途中でのフォールディングの話。5章は、寿命や再利用という話で、タンパク質には種類によって数十秒から数ヶ月の寿命があり、細胞の中に破壊と再生の仕組みがあるという。6章は、タンパク質の品質を管理する仕組みの話で、その仕組みが破綻した場合の例として、どのような病気があるのか紹介されている。


 最新の細胞生物学ものというと、詳細で複雑な化学反応が解明(あるいは仮定)されたというものを時々見かける。小さな細胞の中の複雑な科学反応と、人にはそんな細胞が60兆個もあるというスケール感が読んでいて面白い。本書もそのような一冊だが、タンパク質が作られる過程というのは自分には新しい分野で、退屈すること無く一気に読み終えた。

 細かい内容についていえば、本書は複雑な化学的部分はかなりはしょってあって読み易いのだが、説明が良くて流れをイメージし易い。また、イメージに寄り過ぎずかといって化学式沢山というわけでもなく、程よくバランスが取れているように感じた。細かい数字の齟齬や、著者の専門でない部分への疑問は多少あるものの、全230頁あまりの入門書として、また新しい情報が満載の細胞生物学ものとして十分にお薦めできる一冊である。


<目次>
1章 タンパク質の住む世界---細胞という小宇宙
2章 誕生---遺伝子暗号を読み解く・・・
3章 成長---細胞内の名脇役、分子シャペロン
4章 輸送---細胞内物流システム
5章 輪廻転生---生命維持のための「死」
6章 タンパク質の品質管理---その破綻としての病態

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2008年7月23日

チェーザレ 5巻

モーニングKCDX
チェーザレ 破壊の創造者 5
惣領冬実 著
ISBN978-4-06-375523-7
講談社 2008.7

 15世紀末、北イタリアを舞台にチェーザレ・ボルジアが活躍する?物語の第5巻。

 初めての実戦。
 最後の青春。
 帯にこのふたつの言葉が並べられている。細かく言えば、一つ目が本巻の後半、二つ目が前半に当てはめられる言葉。ただ、実戦というか学生が二手に分かれて行った実戦まがいの模擬戦なのだが。チェーザレはいまだ大学を卒業しておらず、話はあいかわらずのんびりしたペース。連載で一度読んでいるのだが、初めて読むほどに面白かった。

 巻末には、監修の原基晶氏による「ルネッサンス時代の大学生活」が載る。週刊モーニング先週号の予告どおりなら、明日発売の号から本巻の続きの連載が再開される。次巻の発売は来春?


 チェーザレ 1、2巻
 チェーザレ 3巻
 チェーザレ 4巻

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2008年7月21日

東アジアと日本 交流と変容(感想)

東アジアと日本 交流と変容
統括ワークショップ報告書
今西裕一郎 編
九州大学21世紀COEプログラム(人文科学) 2007.2
 (目次は、上記書名のリンク先を参照)

 21世紀COEプログラムとは、日本学術振興会のHPによれば、

 我が国の大学に世界最高水準の研究教育拠点を形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図るため、重点的な支援を行うことを通じて、国際競争力のある個性輝く大学づくりを推進することを目的
とした文部科学省の助成事業とのこと。東アジアと日本 交流と変容は、2002年度に採択された人文科学分野のプログラムで、本書は2006年の11月に九州大学で行われた5年間にわたる事業の総括としての行われた研究会の報告書。プログラムによれば、研究会では2つのサブテーマ設けて併せて16人の論者による発表と各サブテーマ毎の討論、総合討論が行われている。本書は、その内容に沿ったもので、3回の討論も集録されている。なお、本書は発表者のひとり舩田さんより頂いたもの。ありがとうございます。


 一つ目のテーマが、ヒトの移動とイノベイション。古代から近世初頭までの人や技術などの移動による影響の解明、検討を通して

交流と変容の観点からみた「東アジアの史的特質」の析出
を目指したものとのこと。発表は、アイデンティティをメインあるいはサブテーマとしたものが過半を占め、人の動きの中でどう捉えられてきたのかが重要な要素となっている。この点は討論でも同様で、アイデンティティの多重性という言葉で締められている。近代国家という形以前のアイデンティティをどう考えるかという点で、自分には興味深い内容をいくつか含んでいた。


 二つ目が東アジア世界の形成と中華の変容。これまでの成果を踏まえながら、このプログラムにおける中心的な概念であるという

 東アジア、中華の問題
について一定の総括を目的としているとのこと。発表は、国の形や人々の意識という点についてのもの。ここのテーマとして興味深いものが並んでいるが、漢と匈奴とかモンゴル時代の中国とイラン、あるいは明代のモンゴルなど、東アジアより扱う範囲が広いのは相対化ということだろうか。討論では、その相対化という面からか、東アジアをどう捉えるのかという方向に流れるようにみえるが、対象が広くて自分には全体像が捉え難い。


 この二つのテーマを受けて、最後に27ページにわたって総合討論が掲載されている。南北朝時代や宋元といったところを画期として中華が変わっていくという話、外交圏と経済圏の二重性という話、中華とある程度の距離を取った朝鮮の小中華という話、あるいはそもそも論として二つ目のテーマから続く東アジア枠組み論など、個々の発言者の話は興味深い。日本を含めて時代的にも空間的にも多様な話が展開して、その意味では東アジアにおける交流のダイナミズムとか変容とかはなんとなく見えて来るが、総論としての纏まりが自分には今ひとつ捉えきれなかった。


 あと、個々の発表内容について、いくつか紹介とコメントを。

モンゴル時代における民族接触とアイデンティティの諸相
 舩田善之

 もともとキタイや漢族、タングートとされる人々がモンゴル時代に政権側として活躍し、モンゴルとしてのアイデンティティを持っていたという事例が紹介されている。モンゴル、色目、漢人、南人とされたモンゴル時代の身分制度が虚構だという論は以前から目にするが、漢人を含む具体的な事例という点で興味深い。


鮮卑の文字について---漢唐間における中華意識の叢生と関連して---
 川本芳昭

 北魏において、万葉仮名的な鮮卑文字が使われていた可能性を間接的に肯定し、その意味を説いたもの。可能性という点で中国史のなかの諸民族(山川出版社)の中で川本氏によって触れられていたもので、本書の中でもとくに読みたかった一論。資料状況により推論であるとのことだが、新しい文字資料が次々と出て来る中国のこと、実物の出現を夢見たいところ。


モンゴル帝国の国家構造における富の所有と分配---遊牧社会と定住社会、中華世界とイラン世界---
 四日市康博

 モンゴル帝国における統治機構の複雑さを模式的なモデル化を試みたもの。ピラミット的な行政機構だけでなく諸王の領地などが入り乱れていた話は、既に概説書にも出て来る話だが、このようなモデル論はイメージという点で理解の助けになる。それでも全体像は複雑なもので、それが有効に機能しているところは、自分にはなかなかイメージできない。

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2008年7月19日

西夏語勉強会 初級編

 午後から西夏語の勉強会に参加した。今回からは、新しく初級編として西夏文金剛般若経がテキストとなる。勉強会に参加してちょうど2年になるが、今までは中級編の見学という状態だったので、2年経ってもあいかわらず西夏文初心者のままなのだが。4時間近く辞書をひっくり返しながら逐語訳に挑戦した。

 文法が漢文とは全く異なるので、先生のアドバイスの効果は絶大である。それに、見学しているのと自力で訳出するのでは、脳に残るものが全く違うので、少し深い世界が見えてくるまで真面目に取り組んでみようかと思う。


 後学の為に、西夏文金剛般若経に一番近そうな漢訳文を探してみたところ、ウィキソースの中文ページに鳩摩羅什訳の金剛般若波羅蜜經を見つけたので、リンクを貼っておく。


 TANGUT DICTIONARY(京都大学文学部 2006年)

 本日大活躍した西夏語辞典。

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2008年7月17日

野茂英雄引退

 野茂英雄投手が引退=日本人メジャーの先駆者、日米201勝(時事通信社)

 日本人選手の米大リーグ進出の実質的なパイオニアとなり、日米通算201勝(155敗)を挙げた野茂英雄投手(39)が現役引退を決意した
 一度球場で見てみたいと思っていた選手のひとりだったが、ついに実現せずにこの日が来てしまった。野茂というと中国のウルムチを思い出すというのがいかにも自分らしい。彼がアメリカへ渡り、早速大活躍して話題になったのが1995年、自分が大陸を旅行中のこと。中国ではあまり出会ったことのないアメリカ人バックパッカーとウルムチのホテルで同室となり、野茂を種に野球の話をしたことを良く覚えている。

 桑田の引退など、いよいよ残り少なくなってきた同世代選手の引退という寂しさがあるが、野茂ならきっとまた話題を提供してくれるに違いない。


 野茂の年度別成績(時事通信社)

 勝ち星は多いが、結構負けも多く、奪三振も多いが、四球もそこそこ出していて防御率ちょっと高めというところがいかにも波瀾万丈な野茂らしい。といいながら、通算奪三振3122、防御率3.86は凄い数字だな。

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2008年7月16日

1995年アジア紀行〈カラシュバレー〉

 パキスタンとアフガニスタン関係のニュースで名前が良く出るようになったパキスタン北西辺境州。州都ペシャワールから3000mを越えるロワライ峠を北へ越えるとチトラールの谷へ出る。ヒンドゥクシュ山脈から流れるチトラール川は、アフガニスタンへと下り、クナール川、カブール川と名前を変えて再びパキスタンへと流れてインダス川へ合流している。チトラール川沿いの中心となる街チトラールから、15kmほど南にカラシュという名の谷がある。谷には、顔立ちや服装、言葉、宗教などに独特の文化を残しているとして知られるカラシュの人々が暮らしている。

 カラシュバレーは、ブンブレット、ルンブール、ビリールという3つの谷がある。パキスタンの中でも特に奥地となるこの谷に滞在したのは、1995年の9月16日から20日のこと。谷の奥の山を越えるとアフガニスタンという国境地帯にある谷へ行くには、チトラールの警察で発行される入域許可書が必要だった。

 チトラールから乗り合い自動車で30分ほど、アユーンでジープに乗り換えて深い谷筋に開かれた悪路を1時間進んでブンブレット谷のカラカールに入った。秋の実りの季節で、トウモロコシとクルミの収穫の最中だった。


 カラシュの人々を有名にしているものの一つが女性の服装。あまり写りが良くないのだが、写真右に家畜の番をしている女性の後ろ姿が写っている。


 カラシュバレーは水と緑が豊な美し谷。南斜面には広葉樹の低木が生え、北斜面には3葉や5葉の松、唐松などが見られ、直径1mを超す大木も珍しくなかった。また、カラシュの人々の家はそんな豊富な木と石を組み合わせた平屋や2階建ての平たい造り。谷の山裾に団地のように集まって建っている。写真の真ん中下に写っているのだが、木造だったからか印象深い谷の風景のひとつだった。


 豊な木々は、木材として細い道を小型トラックを使って運び出されていた。集積所に無造作に集められた木は、太いものばかりで直径60、70cmほど、160ほどの年輪を数えることができた。


 こちらは、豊な水を使った製粉所。横回転と思しき水車が激しく回転していた。


 とある家のそばで出会った犬。中国からパキスタンへと乾いた土地を巡る中で、緑が奇麗な谷の散策はとても楽しいかった。


<Google Map>
 カラシュバレー

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2008年7月14日

アフガニスタン関連ニュース

 7月に入って、アフガニスタン関係のニュースが連日のように伝えられている。戦闘やテロに関わるものについて、起きた日順に並べると以下のような状況。

1日
 アフガニスタンでタリバン33人殺害、多国籍軍発表(AFP)

4日
 アフガン駐留米軍、武装勢力の車両空爆と 民間人死亡と州政府(CNN)

5日
 アフガニスタン・カンダハル州選出下院議員が銃撃され死亡(読売新聞)

6日
 アフガニスタン東部で多国籍軍が空爆、民間人22人死亡か(AFP)

7日
 アフガニスタンのインド大使館で自爆攻撃、41人死亡(ロイター)

13日
 アフガニスタン国際治安部隊10人死亡、1日の死者数では最悪規模(AFP)
 アフガンで自爆テロ、20人以上死亡(CNN)


 4日と6日の空爆については、アフガン政府調査チーム報告(AFP)が報じられ、合わせて民間人64人が死亡したという。死者の数や事件の内容がややセンセーショナルというのもあって目につく報道がされているのかもしれない。治安の悪化は以前から報じられていたことで、急速に悪化しているというわけでもないと思うが、混迷の度合いが深いのは確かだろう。


 この間、日本国内の自衛隊派遣問題やサミット関係以外でも、アフガニスタンを取り巻くニュースは以下のようにいくつも報じられている。

3日
 米海兵隊2200人のアフガニスタン駐留期限を延期、11月まで(AFP)

10日
 英国防相 イラクよりアフガン懸念(産経新聞)

11日
 テロ組織掃討に全力 米・パキスタン外相会談(産経新聞)

13日
 米がアフガン増派を準備か イラクからシフト?(産経新聞)

 アメリカとイギリスのアフガニスタン駐留に関わるニュースが続く。しかも増強というものだが、軍事力でどこまで事態が好転するのだろう。

 イギリスの国防相のコメントについて産経新聞の記事は短いが、イギリスのDaily Telegraphには駐留の継続について以下のようなコメントが載っている。この後でイギリス軍が抱える問題点などにも触れていて、さほど強気という感じはしないが、余計なお世話じゃないかとは思う。

 Let us acknowledge that this is a long term and challenging enterprise.
 (これは長期のやりがいのある事業であると認めよう。)

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2008年7月12日

日本のイネ「南に源流」?

 日本や中国で栽培されるイネ「ジャポニカ」の起源が、インドネシアやフィリピンまでたどれることがわかった。
 日本のイネ・ジャポニカ「南に源流」 遺伝子研究で解明(朝日新聞)

 7月7日の朝にこのニュースを読んで「ほほー」と思いながらも、古い野生種の起源が東南アジアにあるのならそれはそれでも良いかと思った。しかしニュースには、

 アジア各地の古い栽培品種142系統を調べた。
とあり、また話の出所、農業生物資源研究所のHPには、

 コメの大きさを決める遺伝子を発見!日本のお米の起源に新説!

 さらに、様々な地域で栽培されていた約200種の古いイネ品種でqSW5の機能の有無等の遺伝子の変化を調査した結果、従来の学説(長江起源説)とは大きく異なり、ジャポニカイネの起源は東南アジアで、そこから中国と伝わり、そこで温帯ジャポニカイネが生まれたことを示す結果が得られました。
とある。栽培種についての比較であって、東南アジアで栽培されている品種をポイントとして、長江起源説が覆される可能性があると示唆されている。


 さて、どうなんだろう・・・と思い、上記新聞記事に

 ただ、遺伝子の変化を、直接イネの栽培化と結びつけるのは難しい。考古学資料とのすり合わせが必要だろう。
とコメントされた総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎氏の話を聞くべく、研究所主催の公開講座ユーラシア農耕史---風土と農耕の醸成---の第3回米(コメ)の登場と稲作文化を聴講してきた。

 ・中国の稲作考古学---遺跡から探る稲作の起源と深化---(中村慎一)
 ・プラント・オパール分析から見た水田稲作の起源と伝播(宇田津徹朗)
 ・稲作で人が変わる?(若林邦彦)

 講座は、このような3氏による発表があり、佐藤氏を加えた討論があった。中国での稲作に関わる遺跡の新しい話、農耕化の漸進性、食用植物の多様性、さらには縄文人と弥生人の対立や住み分けに疑義が挟まれるなど、短時間ながら多様で興味深い内容だった。佐藤氏は期待どおりにニュースに触れられ、上記のコメントを補足する形で、現在確認されている東南アジアの農耕文化が中国に比べてかなり新しいことを問題とされていた。


 野生種と栽培種という話に戻る。研究の対象は栽培種だった。東南アジアの古い品種であっても、栽培種なのだから稲作農耕とともに中国など他の地域からもたらされた可能性は十分に想定できる。東南アジアに野生種があってその遺伝子が調べられるか、中国よりも古い稲作の遺跡が見つからない限り、稲作発祥の地という話としては中国が最有力であることは変わらないだろう。したがって、この研究の評価は現時点で遺伝学的な研究という範囲に留まることになる。遺伝的に米の系統と明らかにする方法として興味深いが、同様な研究が他でなされているかどうか私にはわからない。

 ちょっと細かいことだが、比較対象となった品種の数が、研究所の発表では「約200種」とあるが、上記朝日新聞の「142系統」や47NEWS「約140種」と、ちょっと違う数字があるのは何故だろう。

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2008年7月 8日

中国四大美女

 (前略)歴史的な絶世の美女とされる王昭君の像が登場した。中国は早くから王昭君を民族親善のシンボルと位置づけているが、モンゴル族には不満を口にする人もいる。
 内モンゴルの聖火リレーに「歴史的」絶世の美女登場(中国情報局)

 王昭君は美人だったのだが・・・という話はわりと有名と思うが、中国四大美女の一人に数えられているのは知らなかった。まして、枕流亭ブログ[電子画像]中国史上の三十四人の美女で紹介されている34人となると知らない人の方が多い。名前は知っているが、美人だったのかという人もいるが・・・

 ニュースの話については、どこにでもありそうな詰まらない話。民族とか中国とかモンゴルとか並べ立てるのは全く現代の概念である。まして、政治の贄にされた人を今また道具として使うなどセンスが疑われる。


 フフホト市郊外には「王昭君の墓」とされる遺跡があるが、王昭君の墓との言い伝えがある場所は、他にも多く存在する。
 記事の最後にこのようにある。1995年にフフホトの南郊で撮った下の写真は、王昭君墓としては一番有名な所と思う。


 最近はどうなっているのだろうと思って、ネット上を色々と物色してみるとなかなかに面白い。

 俯瞰昭君墓境觀 (Resize of P1020213)

 リンク先の写真には、2005年7月26日とある。墳丘の上から撮った写真だが、これだけでももう95年の面影がないほどに変わっている。

 王昭君墓(KYCHU さんの公開ギャラリー)

 こちらは、2006年7月14日とのこと。この間1年の変化は凄いのなんの・・・

 参观王昭君墓(郑严的博客——我看到的长城)

 3つ目が、2008年4月2日の日付のブログ記事。完成後というところか。各地でテーマパーク化というのはちらほら聞く話。



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 Google Mapのこの写真も3年以上前ということになる。

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2008年7月 7日

中国ロシア間東部国境問題 終幕へ

 アムール川(中国名・黒竜江)の大ウスリー島(黒瞎子島)の半分などが9月にロシアから中国へ引き渡されると伝えた。
 ロシアから中国へ9月引き渡し=大ウスリー島の半分など−香港紙(時事通信)

 このニュースの元記事がこちら。

 半個黑瞎子島9月回歸文匯報

 上記時事通信の記事で「半分など」と書かれているなどが、銀龍島(ロシア名タラバーロフ島)のことなのが分かる。文匯報の記事一覧には、中俄邊界談判 經歷41年風雨と題して、1964年の協議開始から2004年10月の協定調印を経て、9月の移管に至るまでを年表に纏めたものが添えられている。2004年の協定には、今回移管される一島半の他に、アルグン河上のアバガイト島(阿巴該圖洲渚、ロシア名ボリショイ島)のロシア帰属も盛り込まれていた。

 中国とロシアの国境問題については、ほぼ一年前に中国ロシア間東部国境問題 その後を書いた。移管がいつ行われるのだろうと思っていたが、国境問題は時間がかかるということなのだろうか、協定調印からほぼ4年が経つ。


 北大スラブ研究センターの岩下明裕氏の資料中ロ 国境秘話をもとにして、Google Map上に新しい国境を引いてみた。大ウスリー島(黒瞎子島)の分割線は適当です。

 中国ロシア国境

<参考>
中・ロ国境4000キロ
 岩下明裕著/角川書店2003

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2008年7月 6日

アフガニスタン情勢

 先日ペシャワール会の会報96号が届いた。最初に、会代表中村哲氏より「自立定着村の創設に向けて」と題した報告があり、2007年度の概況、2007年度の現地活動の概要などの内容よりなる。会のHPにも今月の中、下旬には要旨が載ることと思うが、「2007年度の概況」について簡単に触れておく。報告は、次の様な内容で構成されている。

 無政府状態の拡大、パキスタンに波及する混乱、アフガニスタン難民強制送還と東部の混乱、旱魃の進攻と「国際社会」の無知、対日感情の動き、PMS(ペシャワール会医療サービス)現地活動への影響。

 無政府状態の拡大については、

 農村部で外国軍とその協力者が安全でいられる地域は、もはや消滅しつつある。
という。ネットでニュースを検索しても無政府地帯がどの程度の広がりなのかは分からない。

 米海兵隊2200人のアフガニスタン駐留期限を延期、11月まで(AFPBB News)

 このようなニュースを見る限り治安が悪化している状況は見えるが、アフガニスタンよりもパキスタンの方が情報が多いように思う。

 北西部「タリバン式」強要 拡大する武装勢力(毎日新聞)

 この特派員による報告は、ペシャワールでの治安の悪化を伝えているが、中村氏による以下の報告を些かながら裏付けている。

 ペシャワール(中略)郊外は既にタリバーン勢力とその同調者によって実効支配されていることは知られてよい。

 「対日感情の動き」は、ひと月前に書いたアフガニスタンへの自衛隊派遣と関連するもの。

 深刻な事態として以前から報告されているのが旱魃に関わるもの。アフガニスタンでは数年前より大旱魃が続いていて、

 07年秋、東部アフガニスタンではコメ・トウモロコシの収穫はさらに壊滅的な打撃を受けた。
という。この問題について、氏の発言以外の情報はほぼ皆無な状態。ただ、水利事業が会として最大規模の事業であり、旱魃対策として前倒しで事業を急いでいるとのこと。

 

外相は24日の会見で、国内の政治情勢と照らし合わせて、アフニガスタンへの自衛隊派遣は困難だとの見解を表明した。
 「アフガニスタンへの自衛隊派遣は困難」(AFPBB News)

 自衛隊派遣と息巻いてひと月足らず、このニュースでは民主党中心の参議院のためと説明されているが、実際にはアフガニスタン情勢が予想以上だったために、揚げた手を下ろす言い訳を探しているに過ぎないのだろう。予想以上という状況によって、中村氏の活動が継続できるかもしれないというのは、皮肉とかいう以前の状況である。

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2008年7月 5日

リニア中央新幹線を諏訪へ

 JR東海、自己負担でリニア新幹線整備へ 東京〜名古屋(産経新聞)

 昨年暮れのニュースだが、JR東海は東京と名古屋を結ぶリニア中央新幹線について、建設費5兆1000億円を全額自己負担して建設を目指すと発表した。この建設ルートについて、東京と名古屋をできるだけ真っ直ぐ結ぶために、南アルプスをトンネルで抜けるという案が示されたことで様々な議論を呼んでいる。


 リニアBルート、諏訪の駅誘致で新組織立ち上げへ(信濃毎日新聞)

 このニュースにもあるように、諏訪地域への駅誘致がとくに取沙汰されている。上記の建設費5兆1000億円は、名古屋と東京の間の駅の建設費を含まず、それは地元での負担とされている。それでは、諏訪に駅を誘致した場合いったいいくらかかるのか。そもそもJR東海案は、建設費を押える上からも最短ルートを指向しているのだから、諏訪へ迂回させることによって派生する費用も地元負担と考えられる。簡単ながら試算してみる。

 まず、諏訪回るとどの位距離が長くなるか。地図の上に大雑把ながら線を引いてみる(My Map、JR東海が試掘している場所は、A氏の旅行生活大鹿村早川町より)。Google Map上での計測で、東京名古屋間を真っ直ぐ結んだ場合が約275km、諏訪回りの場合が約325km、その差約50kmとなった。この差と、諏訪と飯田の駅建設費が地元負担となる。

 上記5兆1000億円は事業総額なので、275km(あるいは、既に完成している実験線約18kmを除いた257km)の建設費以外、車両費をはじめとする諸経費も含んでいる。リニア中央エクスプレス建設促進期成同盟会のHPに、東京大阪間建設の際の車両費として6000〜7000億円という数字のが載っている。東京名古屋間だとこれよりも安くすむので、仮に5000億円としてみる。残りの4兆6000億円を257kmで割ると、約180億円となる。4兆6000億円には、東京と名古屋の駅建設費が含まれているので、1kmあたりの建設費は、これよりも安いことになる。

 山梨にある実験線を24.4km延長するという計画がある。この事業費総額が3550億円。これにも建設費以外の数字が含まれている。3550億円を24.4kmで割ると約145億円だから、少し安く見積もって1kmあたりの建設費を140億円としておく。

 駅建設費はどうか。中止となった東海道新幹線栗東駅の地元負担額が約240億円(産経新聞)、上越新幹線の本庄早稲田駅が約115億円(用地費除く、本庄市)。諏訪と飯田の2駅を作って200億円よりも安いことはなさそうだ。

 以上から、リニア中央新幹線に諏訪の駅を誘致するのにかかる地元負担は、線路建設に140億円で50km、7000億円、駅2つで200億円。かなり大雑把な計算ではあるが、合計で7200億円以上ということになる。


 飯田市長、リニア駅実現なら「県にも負担を」(信濃毎日新聞)

 長野新幹線の建設時に長野県は1000億円余を負担したとのことだが、リニア中央新幹線を諏訪に誘致するための費用はそれを遥かに上回る。リニア中央新幹線が公共交通施設であるとはいえ、JR東海が自己資金で造ると言っているのだから、この地元負担額を大幅に減額することは厳しいと思われる。あとは、国、県、市町村、あるいは地元企業などがどう出し合うかという話し合いが残る程度。

 現在の東海道新幹線と、東京と諏訪を結ぶ特急あずさ号とでは、輸送力に10倍以上の差がある。東京名古屋(あるいは大阪)間の輸送需要はとても大きく、その意味でもリニア中央新幹線が東京と名古屋を結ぶことに徹して、中間を素通りすることには大きな理がある。それを多少なりとも曲げて長野県に恩恵をもたらすための経費は極めて巨額となる。

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2008年7月 4日

天山北麓の故城跡

 国立民族学博物館の研究報告別冊20号ユーラシア遊牧社会の歴史と現在は、600頁を越す分厚い報告書で林俊雄氏、佐々木四郎氏、梅村坦氏等の論文が集録されている。この中に堀直先生の天山北麓の故城跡があり、現地で入手した地誌や研究書と自身の現地調査に基づく故城のリストが掲載されている。新疆ウイグル自治区の東は伊吾県から西は昭蘇県に至まで、イリ河流域を含む天山山脈北麓121か所の城跡の位置、緯度経度、大きさ、年代比定などのデータが載っている。

 それではということで、Google Mapで確認できたものを天山北麓の故城跡一覧にプロットしてみた。位置情報を元に、大きさや形などがそれと確認できたもの、あるいはそれらしいと思われるものは全部で21件だった。予想以上に苦戦したのは、Google Mapの写真の解像度の問題の他に、元資料の精度の問題、都市化による破壊と市街地へ埋没、農地化による破壊などがあった。ウルムチ周辺は都市化で全く確認不能。ウルムチの西、昌吉市から博楽市にかけては農地化したものが多かった。以下、探し当てたものに少しコメント。



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 艾斯克協海尓故城
 リストの2番目に載る100m四方ほどの正方形の城跡。2番目でこれだけ奇麗なものが見つかったので、全体でかなり見つかるかと期待してしまった。



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 巴里坤県漢城
 リストに載っている清代の県城跡で確認できたのは、奇台県の老満城遺跡巴里坤カザフ自治県の満城と漢城のみ。写真は、巴里坤県漢城の西門と思われるが、擁城の形がはっきり残る。北壁、西壁、南壁も連続して2kmほどがはっきり確認できる。



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 油庫故城
 リストには、北420m、東800m、南480m、西580mとある。不定形の城壁のうち、北から西へかけて900mあまりがきれいに残る。



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 波馬故城
 カザフスタンとの国境まで2kmという田園の中に、奇麗な方形と南北の門跡が確認できる。

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2008年7月 2日

(書評)高句麗と渤海

高句麗と渤海
三上次男 著
ISBN978-4-642-08133-7
吉川弘文館 1992.12

 本書は、1987年に亡くなられた著者が生前に企画されたものとのこと。遺稿の整理を行われた田村晃一氏が書かれた後記によれば、未発表2編(2の2と付篇1)の他、1938年から1974年にかけて発表された15編を再録している。戦中に行われた現地踏査の紀行文的な記録、瓦や建物跡などの考古学的なもの、渤海国の滅亡や安定国についてなど文献を中心としたもの、および付篇として集録された概説的なものと多岐に亘る。

 特に印象に残ったのが紀行文的に書かれた2章「高句麗の遺跡」と3章「高句麗の山城紀行」で、1940年前後に筆者が実際に体験されたもの。この中では高句麗中期の都があった集安(本書内では旧称の輯安を使用)周辺や、中国東北部に残る高句麗が隋や唐と対峙した時代の山城が紹介されている。山城という遺跡に興味が湧くというのもあるが、中国東北部に残る高句麗関係の遺跡で集安よりも西のものの情報が自分には目新しい。

 付篇1として掲載されている「高句麗史概観」は、前史から唐による滅亡までの高句麗の通史的なもの。高句麗の周辺や関係史ということで粛慎や夫余などにも頁が割かれ、中国諸王朝との関係も丁寧に書かれている。50頁余りとほどよい量で、高句麗史概説として分かり易く纏まった一文である。


 高句麗の歴史的な枠組みを考えた場合、世間的には朝鮮史の中で捉えて百済や新羅、倭との関係で解説される方にやや中心があるような印象を自分は持っているが、本書は渤海との関係ということや恐らくは筆者の関心の方向性もあってより中国東北方面に視点が置かれている。昨今の高句麗は朝鮮か中国かという無意味な論争とは関係なく、高句麗を考える上で北方や西方の情報も重要であり、かつ自分がそういうものを読みたかったこともあってとても有意義な内容だった。

 細かいところでいうと、名称表記の違いや高句麗についての諸説の捉え方にやや古さが見えるものの、本書の企画からは仕方がないことで、その点は田村氏が加えられた補註によってある程度は補うことができる。また、全体として一貫したシナリオのある高句麗渤海論というものではなく、上記したように筆者の残したものを纏めたというもので、ややオムニバス的な印象が残る。

 高句麗について、日本にとって関係の深い国のひとつでありながら、関係史以外の部分でいまだ情報が少ないというイメージが自分にはある。このイメージが正しいければ、本書は内容的にやや古くて割り引いて読む必要がある部分を含むものの、なお有用な情報が多い一冊となる。全360頁と重量のある本だったが、自分的には重さに見合った興味深いものだった。


<目次>
1 高句麗の墳墓とその変遷
2 高句麗の遺跡
 1. 輯安行
  ---高句麗時代の遺跡調査---
 2. 輯安および付近の遺跡
 3. 東満風土雑記
  ---高句麗の遺跡をたずねて---
3 高句麗の山城
 1. 撫順北関山城
 2. 塔山の山城
  ---陳相屯塔山の高句麗山城---
 3. 燕州城調査行記
4 高句麗と渤海
 ---その社会・文化の近親性---
5 半拉城出土の二仏并座像とその歴史的意義
 ---高句麗と渤海を結ぶもの
6 渤海国の都城と律令制
7 渤海の瓦
8 渤海の押字瓦とその歴史的性格
9 渤海国の滅亡事情に関する一考察
 ---渤海国と高麗との政治的関係を通じて見たる---
10 新羅東北境外における黒水・鉄勒・達姑等の諸族について
11 高句麗と安定国
付篇1 高句麗史概観
付篇2 東北アジア史上より見たる沿日本海地域の大外的特質

<Google Map>
 「高句麗と渤海」関連地図

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2008年7月 1日

1995年アジア紀行〈エスファハーン〉

 16世紀初め、北西イランのタブリーズから始まったサファヴィー朝が、エスファハーンに遷都したのは5代君主アッバース1世の時代。王朝の最盛期を現出したその時代、「エスファハーンは世界の半分」と讃えられたという。

 イランを代表する古都を訪れたのは、イランが新年を迎えたばかりの1996年3月24日のこと。シラーズを昼前に出たバスで7時間半、サマータイムに入ったばかりのこと、暮れ行く中を街の南を流れるザーヤンデルード川を渡ったのを朧げながら覚えている。


 イラン暦では、春分の日から新しい年が始まる。丁度正月の観光シーズンの最中で、街の中心イマームの広場は観光客が大勢繰り出し、観光馬車が走り回っていた。もちもちとしたアイスクリームが美味しかった。


 イマームの広場の西に建つアーリー・ガープー宮殿は、観光客でも登ることができた。南を望むと、恐らくイランで最も有名なモスクイマームのモスクの青いドームがあり、その向こうにはザクロスの山並みが見える。


 モスクと言えば、タイルや漆喰壁に描かれた幾何学模様の美しさ。これは、イマームの広場の東に建つシャイフ・ルトゥフッラーのモスクの礼拝室のドーム天井。


 こちらは、イマームのモスクの門の天井。平面だけでなく立体的にも複雑。


  イマームの広場から北へ少し離れたところにある金曜モスク。この写真ではあまりはっきり見えないが、門はいかにもアラビア文字らしい装飾の字体で覆われている。

 エスファハーンでは、イマームの広場以外にもザーヤーンデルード川に架かる橋の下にあるチャイハネ、広場の東から迷路のように続く大バザール、広場の西にあるチェヘル・ソトーン宮などが見どころだが、大きな市街には大小のモスクがあちこちにあり、迷路のような道の先に小さなバザールがあったりする。

 チャイハネで川面を眺めながらのんびりお茶をしたり、迷路の先へあてどなく探検したりと、1週間くらい滞在しても飽きなさそうな街。しかしながら、フリーの旅行者には一週間のトランジットビザを一週間延長するのが精一杯。中2日の滞在で後ろ髪を引かれながら立ち去るしかなかった。


<Google Map>
 エスファハーン

<参考>
 イランを知るための65章
  明石書店 2004

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