西夏と年号 その3
李元昊時代の年号 1
李元昊時代の年号は、その2の繰り返しになるが、『宋史 夏国伝』に以下のように記されている。
元昊以慶暦八年正月殂,年四十六。在位十七年,改元開運一年,廣運二年,大慶二年,天授禮法延祚十一年。慶暦八年は、1048年にあたる。開運、広運、大慶、天授禮法延祚の4つの年号があり、延べ16年ということになる。
『宋史 夏国伝』の景祐元(1034)年には、
是歳,改元開運,逾月,或告以石晉敗亡年號也,乃改廣運。と記されている。1034年に年号を開運としたが、「逾月」つまり翌月に開運は縁起が悪いと言われて広運に代えたのだという。「石晉」とは、五代十国の後晋のことで、開運は後晋が契丹によって滅ぼされた946年に使われていた年号。西夏で開運が使われたのはたったひと月ということになる。『宋史 夏国伝』にある「開運一年」とは、2年目は無かったという意味に解釈できる。
次に、『宋史 夏国伝』に
復改元大慶。という一文があり、そのすぐ後に「寶元元年」(1038年)とあるので、大慶への改元が1037年までのどこかということになるが、『宋史 夏国伝』の記事だけでは年が特定できない。
とりあえず、大慶への改元を1036年元日、天授礼法延祚への改元を1038年元日と仮定して、4つの年号を整理すると以下のようになる。
開運:1034年、1年
広運:1034年〜1035年、2年
大慶:1036年〜1037年、2年
天授礼法延祚:1038年〜1048年、11年
いちおう辻褄が合っているように見える。形としては、長部和雄氏が『西夏紀年考』(史林/史学研究会 1933年)に纏められたものと同じで、恐らくそれを引いたと思われる『東方年表』(平楽寺書店 1955年)とも同じ。しかしまだ未検討の部分があり、『中国歴史紀年表』(上海人民出版社 2007年)と比較すると細部が合わない。よって李元昊時代がまだ続く。
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