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2008年8月30日

8月30日購入書籍

ユーラシア考古学選書
スキタイ
騎馬遊牧国家の歴史と考古
雪嶋宏一 著
ISBN978-4-639-02036-3
雄山閣 2008.9

 漢代以前のシルクロードに続くシリーズ第4弾。あとがきによれば、本書は下記の先行著作を再編改訂したものに、近年の研究成果について書き起こしたものを加えたとのこと。スキタイものというと、林俊雄氏の著書スキタイと匈奴 遊牧の文明(講談社)が記憶にあたらしいところ。ただ、これが120ページ余なのに対し、本書は240ページ余がまるまるスキタイ。

 考古学と文献の両方からの検討ということのようだが、考古学部分を中心に図版が多く掲載されている。ぱっと見の印象として、巻末掲載の4図がなかなか良い。地図としてもいろいろ楽しませてくれそうだ。先行書のいくつかは既読だが既に忘却の彼方。面白そうなので早速といいたいところなのだが、未読の山をどうしたものか。。。


<目次>
序 古代中央ユーラシア草原の騎馬遊牧民
1 スキタイ考古学研究のあゆみ
2 スキタイ遊牧国家をめぐる議論
3 スキタイ時代の編年的枠組み
4 キンメリオイ問題
5 第一スキタイ国家:北カフカス
6 第二スキタイ国家:黒海北岸草原の支配
7 第三スキタイ国家:クリミアの小スキティア
おわりに スキタイの文化遺産


<先行著作>
サルマタイの西漸
 講座 文明と環境5 文明の危機---民族移動の世紀---(朝倉書店 1996年)収録

カマン・カレホユックの金属製鏃
 アナトリア考古学研究 カマン・カレホユック7(中近東文化センター 1998年)収録

世界の考古学6 中央ユーラシアの考古学(同成社1999年)3章2〜4章

騎馬遊牧民スキタイの王権の成立と発展
 古代王権の誕生III 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編(角川書店 2003)収録

キンメリオイおよびスキタイの西アジア侵攻
 西アジア考古学4 (日本西アジア考古学会 2003年)収録

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2008年8月29日

スペースデブリ

ロシア宇宙局、デブリとの衝突回避のため国際宇宙ステーションの軌道を緊急修正
(technobahn 8月29日)

 ロシア連邦宇宙局(Roskosmos)と欧州宇宙機関(ESA)は28日、スペースデブリとの衝突を回避するために国際宇宙ステーション(ISS)の緊急軌道修正作業を実施したことを発表した。

 同ニュースには、過去1年半で4件のデブリ関連のニュースがリンクされている。

 プラネテス(幸村誠著 講談社)の連載が終わって4年。2年で4件では、まだ商売にはならないが、さほど遠くない未来(オラネテスの時代設定は70年後)に普通の人が仕事で空に上がる時代が来るのだろうか。やっぱり、一度くらは行ってみたいよなぁ。

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2008年8月27日

アフガニスタン邦人殺害事件

 拉致の第一報を知ったのは、アフガニスタンなどで活動をされている別のNPOの方のブログだった。世に報じられることなく、NPO、協力隊、JICAあるいは個人として地道に活動されている方は沢山居られることと思う。昨今では、このブログの様に現地から情報発信される方が増え、単に見知らぬ地の情報に触れられるばかりでなく、活動の分野と地域の広さに目を見張る思いでいる。


アフガン山中で拉致された日本人発見、遺体収容し下山へ=州知事
(ロイター 8月27日)

 既に報じられたように、事態は残念なこととなった。こういう言い方で伝わるものかどうか、自分は他人事として言い尽くせないような思いを感じている。なんともおかしな言い方なのだが。

 既に四半世紀、アフガニスタンで活動してきたペシャワール会のこと、治安の悪化が伝えられていたとはいえ、事件は起きないに違いないという期待はあったものの、残念ながら例外とはならなかった。ただ、事件の情報は錯綜していてまだ不明なところが多い。上のロイターの記事中には、

 反政府武装勢力「タリバン」は、伊藤さんの拉致に関して情報を持っていないと述べた。
とあるものの、

 男性の拉致については、タリバンが犯行声明を出している。
アフガン治安部隊、拉致日本人救出のためタリバンと戦闘中 現地警察発表 (AFP 8月26日)

というのもある。ペシャワール会の中村哲氏は、インタビューの中で次の様にコメントしている。

 犯人が村人に追われて逃げる途中、(伊藤さんは)撃たれて死亡したようだ。単なる強盗、身代金目当てで、政治的なものではないと思う。
「治安悪化の認識甘かった」=ペシャワール会の中村代表−アフガン邦人拉致・タイ
(時事通信 8月27日)

タリバンというのは、裾野が広くて雑多な集団と見られているので、例え犯人がタリバンに繋がっていたとしても、中村氏の見立てが正しい可能性は十分にある。政治性がなければ単なる事件・事故と見る事ができるとはいえ、治安の悪化が深刻であることに変わりがない。ただ、その社会的な背景がわりと明瞭なだけに、余計に煮え切らない物が残る。


 これからどうなって行くのかということになる。アフガニスタンの状況が悪化するままに世界から忘れ去られるというのが最悪である。目先のこととして、それに対処していこうという活動を基本的に自分は支持する。また、中村氏が厳しい判断を迫られているとはいえ、どんな決定を出したとしても氏と会を支持していけると思っている。


 既に事件を元に様々な論評が出てきている。たとえば、以下のようなコラムがある。

 福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の伊藤和也さん(31)が拉致されたアフガニスタンでは、反政府武装勢力タリバンの活動が活発化、駐留米軍などとの戦闘が激化の一途をたどっている。日本の国際貢献の中核を担うはずの自衛隊は、憲法上の制約などから部隊派遣に踏み切れない状況で、危険と直面しながら民間NGOが活動を続ける国際貢献の「ねじれ」が、事件の遠因にあるとも言える。
アフガン邦人拉致 危険覚悟のNGO活動 自衛隊は派遣できず 国際貢献に課題
(西日本新聞 8月27日)

 自衛隊の派遣に反対し続けてきたペシャワール会に、自衛隊派遣前提の論評というのはかなり奇異に見えてしまう。また、貴い命とはいえ、これを期にと危険が強調されることも単純に過ぎる。自衛隊にペシャワール会のような活動が不可能であることは、イラクの実績で既に明らかなこと。このような記事が増えて、事態あらぬ方向に流れないことだけは特に願っておきたい。

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2008年8月26日

(書評)世界史を書き直す 日本史を書き直す

懐徳堂ライブラリー 8
世界史を書き直す 日本史を書き直す
阪大史学の挑戦
懐徳堂記念会編
ISBN978-4-7576-0473-5
和泉書院 2008.6
目次は、上記書名リンク先を参照

 本書は、大阪大学に籍を置く(置いていた)6名の研究者がそれぞれ異なるテーマを設定して、歴史を見る上での新しい視点を示そうというもの。発売されて2か月ほど、既にAbita QurMarginal Notes & Marginaliaなどで取り上げられているが、未読本に囲まれた状況でやっと読むことができた。

 各章の内容を乱暴に要約する。イギリスの産業革命について、中国、インド、アメリカなど世界的な物の流れを見ながら捉え直そうとする1章。10世紀の敦煌での農地所有に関わる訴訟文書を読み解きながら、オアシスに暮らす人々の生活や、祁連山山麓で遊牧する人々との関わりの復元を試みた2章。世界史という広がりを説く上で、海上貿易が果たした役割をアジアを中心として概説的に問い直す3章。武士が台頭した時代という中世像に疑義を示し、神仏習合を中心に宗教パワーを問い直すことで新しい像を示そうとする4章。17世紀に相次いで生まれた清朝と江戸幕府という二つの軍事政権について、その類似性を検証しながら両国の新しい歴史像の提示を試みる5章。19世紀後半から20世紀初めにかけての全盛期イギリス帝国像を政治、経済、軍事などの特徴的な部分を絞りながら、アジア、特に日本との関わり方を捉え直そうとする6章。


 6つの内容は、日本だけを扱ったものが1つ、日本も関わる世界史が3つ、日本が出てこないもの2つという組み合わせで、全体としては時間的空間的な網羅性も特異性もない。文章などの体裁も著者の個性そのままという感じでばらつきがあるが、それが悪いとは思わなかった。新しい視点を提示するという抽象的な企画に、意欲的な文章をオムニバス的に集めたという一冊と見る。

 対象として一般読者が強く意識されたもので、素材的に多少とも難のあるものを、いかにして読み易く纏めるかという工夫が読み取れる。その工夫の仕方もそれぞれ。特に個性的なのが、「帰ってきた男」というタイトルからして思わせぶりな2章。訴訟文書という論文として書かれれば文章読解か類例比較で終わりそうな素材を、想像を膨らませてストーリーを組み上げている。それでいて、実証的な世界からさほど外れていないというなかなかの力作に見える。


 書名からして意図的だが、6章で230頁という量も力まずに読める厚さを意図して絞ったものと思われる。また、オムニバス的とはいえ各章が結構面白かったので、それほどバラバラという印象は残らなかった。

 扱っている時空は結構広いので、章によっては自分の守備範囲をかなり越えている。イギリスが関わる1章と6章、中世日本を扱った4章が特にそうだが、さほど大袈裟な印象は受けないものの、限られた頁数に納める為に単純化している可能性は残るので、機会と時間があればより詳しい本に当たってみたい。

 とはいえ、意図に見合った面白い一冊という評価でどうだろう。歴史好きな者にとってより視野を広げる為の素材として、お薦めめできる一冊と思う。

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2008年8月25日

将国のアルタイル 2巻

シリウスKC
将国のアルタイル 2
カトウコトノ 著
ISBN978-4-06-373130-9
講談社 2008.8

 トルコ・中東風のトルキエ将国とドイツ・フランス風のバルトライン帝国がせめぎ合う、仮想大陸を舞台にした物語。4月に1巻が出たばかりなので、なかなか早いペース。3巻は今冬と予告されている。

 2巻は、前巻の騒動の責任をとらされて格下げ謹慎を喰らった主人公が旅に出るという話。1巻の紹介では、主人公を「13人の軍人の一人」と紹介したがそこまで偉くはなくて、ひとつ格下の42人の将軍の一人だったとのこと。

 宗教の話が出て来るが、精霊崇拝が盛んだそうで一神教ではないそうな。いきなり戦争に突入というわけではないようで、しばらく小競り合いという様相か。話のテンポは相変わらず良い。設定を覚えるのについて行けないくらい(笑)

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2008年8月24日

西夏と年号 その4

李元昊時代の年号 2

 その3の最後で、李元昊時代の年号について暫定的に次のように纏めた。

 開運:1034年、1年
 広運:1034年〜1035年、2年
 大慶:1036年〜1037年、2年
 天授礼法延祚:1038年〜1048年、11年


 まず、『宋史 夏国伝』で未紹介のところから。「寶元元年」(1038年)で始まる一文の次の段に以下の文がある。

 明年,遣使上表曰:
 臣祖宗本出帝胄,(中略)。遂以十月十一日郊壇備禮,為世祖始文本武興法建禮仁孝皇帝,國稱大夏,年號天授禮法延祚。
これは、明くる年、つまり1039年に、「臣」李元昊が宋の皇帝に送った上表文である。10月11日に儀式を行って皇帝になり、国名を「大夏」にして、年号を「天授禮法延祚」としたことなどが記されている。前段の「寶元元年」の一文の中に「即皇帝位」という文言が見られるので、李元昊は1038年の10月に即位して、翌1039年に宋へ上表文を送ったと解釈できる。

 これによって天授礼法延祚への改元が1038年の10月のこととなるが、大慶に3年目があったことになって上の纏めがあっさりと崩れる。しかし、『宋史 夏国伝』にはこれ以上の情報がないので、違う資料に当たる事になる。


 次に利用するのが、『続資治通鑑長編(下記参照)』。この中には、李元昊時代の年号に関係するものは3か所あるが、最初の巻第115の部分は、その3で紹介した広運への改元とほぼ同じ内容なので省略。他の2か所を次に示す。

 巻第119、景祐3(1036)年12月の部分。

 趙元昊(中略)。私改廣慶三年曰大慶元年。
広慶3年を大慶元年に改元したとのこと。「趙元昊」とは、李元昊のこと。祖父の時代に宋から「趙」という名字を与えられているため、『続資治通鑑長編』では一貫して李元昊を趙元昊と記している。「私改」とあるのは、年号は宋朝が制定した年号だけが唯一正しいのであって、李元昊が私的に勝手に改元したのだという意味に解釈できる。

 巻第122、宝元元(1038)年の10月の部分。

 趙元昊築壇受冊,(中略)改大慶二年曰天授禮法延祚元年,(以下略)
大慶2年を天授礼法延祚元年に改元したとのこと。この一文は、上記『宋史 夏国伝』の10月11日のことと同じ事件を記している。


 まず、一文目に「廣慶」という未出の年号が出てくる。これについて、李華瑞氏は『西夏紀年綜考』(宋夏史研究/天津古籍出版社 2006年)の中で、「(広慶の慶は)運の誤りとすべきである」としている。広運が正しいとすることに見解が一致しているようで、異論はまだ見たことがない。

 つぎに、二つ目の文に「大慶二年」とある点。巻第119の大慶への改元を正とすれば、1038年は大慶3年になるが、これを誤りと指摘したものは見当たらない。いくつかの資料を見た限り、ほとんどが1038年を大慶3年・天授禮法延祚元年と書いているので、これも定説化しているということだろう。


 『続資治通鑑長編』を有効とすると『宋史 夏国伝』が間違いということになるが、『続資治通鑑長編』の記述が具体的で、有効な反論材料が見当たらないことから、広運、大慶どちらも3年あったとする方に分があり、広く受け入れられているように見える。また、改元された月については明記していない資料もあるが、『中国歴史紀年表』(上海人民出版社 2007年)などは『続資治通鑑長編』に従っている。以上を纏めると次のようになる。

 開運:1034年、1年
 広運:1034年〜1036年12月、3年
 大慶:1036年12月〜1038年10月、3年
 天授礼法延祚:1038年10月〜1048年、11年

 これには反論の余地はないのだろうか。次回少し検証してみる。


< 続資治通鑑長編 とは >
 宋史などのいわゆる正史は、紀伝体という形式で書かれた歴史書だが、これに対して編年体という形式で書かれた歴史書の代表に資治通鑑がある。古代から10世紀までを纏めた資治通鑑に対して、その続編とも言えるものがいくつか纏められた。『続資治通鑑長編』はそのひとつで、12世紀の後半に李燾によって纏められた。本来は980巻有ったというが、今日には520巻だけが残されていて、中華書局から12,391頁、20冊本として出版されている。

 北宋時代の歴史書だが、西夏についても多くの記録が残る。加えて、宋史よりも200年近く早く成立していることもあり、西夏の歴史を考える上で重要な資料のひとつとなっている。


その5へ
その3へ
最初へ

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2008年8月23日

楼蘭故城を探す

 一昨日のエントリーに楼蘭がでてきたが、Google Mapで見るとどう見えるのかと思いながら、広大な沙漠の中から小さな遺跡を探すのが大変でまだ見たことがなかった。この機会に一度徹底的に探してみようと思い、いろいろとネット上を彷徨い歩いてみた。

 まずはなにか資料を、ということで行き当たったのがオーレル=スタイン。自分が紹介するまでもない探検家だが、彼の著作はディジタル・シルクロード・プロジェクト所収の「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベースで詳しく見ることが出来る。また、同じデータベース所収でスウェーデンの考古学者フォルケ=ベリマンが作成した地図は、スタインが発見したものを含む楼蘭周辺の遺跡が多くプロットされていてとても有用。

それらとにらめっこしながら作ったのが楼蘭周辺遺跡地図。ミーラン故城を含む5つの遺跡をプロットした。ほかにももっとプロットできないかと思ったが、拡大率が厳しいところは断念し、見た目て遺跡が確認できないものもあきらめた。

 代わりにということで、敦煌の西側、玉門関周辺についてもプロットしてみた。こちらは写真を見ながら自力で行っている。


 参考にした頁は以下のとおり。図名は自分が適当に付けたもの。

 ベリマン著『新疆の考古学的調査』からロプ・ノール地方図楼蘭周辺遺跡配置図小河周辺図

 スタイン著『Serindia vol.3』から楼蘭故城平面プランミーラン故城平面プラン

 スタイン著『極奥アジア vol.3』から方城故城平面プラン(左上)、海頭故城平面プラン(右)。


 楼蘭、ロプノールといえば、上流から水が流れなくなってすっかり乾ききってしまっているが、Google Mapには偶然にか、数年前のものと思われる水のある孔雀河の一部を見ることが出来る。


 楼蘭周辺遺跡地図にプロットした楼蘭故城、海頭故城、方城故城を見比べると、楼蘭故城が群を抜いて大きいことがわかる。GoogleMap上の計測で周囲1360m、一辺が340mほどの方形ということになる。しかし、昨日紹介した伊藤氏の楼蘭(鄯善)国都考によれば、それらはいずれも前漢時代の楼蘭の都とはし難いという。ただし、楼蘭故城は下層から焼け跡が見つかったことから、今に残る遺跡の下に前漢時代の街が眠っている可能性があるとのこと。


 楼蘭には、おいそれと近づけない場所というイメージがあったが、今はツアーがあり、ネット上に旅行記を残している人を見つけることもできる。次のサイトはわりと良く纏まっていたが、GPSを持参され位置を記録されていて、比較的GoogleMapとの相性がよくて差が小さかった。

 楼蘭紀行血の色はワインのいろ より)

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2008年8月21日

西北出土文献研究 第6号(感想)

西北出土文献研究 第6号
ISSN1349-0338
西北出土文献研究会 2008.3

 新潟大学の關尾史郎氏が代表を務める西北出土文献研究会の会誌?の第6号。論説2本、ノート2本、書評2本を集録。目次は、關尾氏のブログを参照されたい。なお、本書は著者のひとり佐藤さんより頂いたもの。ありがとうございます。

 簡単ながら、興味を惹かれた部分について感想を。


随葬衣物疏と鎮墓文---新たな敦煌トゥルファン学のために---
 關尾史郎

 五胡から唐の時代にかけてての敦煌とトルファンの墓葬について検討したもの。随葬衣物疏鎮墓文といずれも自分には馴染みがない。随葬衣物疏は、もとは副葬品のリストであったものが、後に鎮魂祈祷の性格を持つようになったもの。鎮墓文は、陶器に記されたもので、主に書式や埋納形式に二種類あるとするが、いずれも死者が生者に祟りせずに鎮まることを祈ったものとのこと。

 敦煌とトルファンそれぞれに、墓葬の変遷と時代との関わりなどが考察されている。五胡の時代についていえば、敦煌は鎮墓文でトルファンでは随葬衣物疏が墓に納められたというもので、ともに五胡王朝の変遷の影響を受けていながら、墓葬は近似していないとのこと。随葬衣物疏といった墓葬文化とその変遷を読み解くというのが面白かったし、それによって地域と地域の関係が見えて来るというのも興味深い。


楼蘭(鄯善)国都考
 伊藤敏雄

 シルクロード世代にとって馴染みの楼蘭故城ではなく、領域国家としての楼蘭の首都の位置について、諸文献と考古学的成果を利用して再検討するもの。初期都城がロプノール近くにあって後に南遷したという南遷説、最後までロプノール近くにあったとする北方説、最初から南方にあったとする南方説の3つを比較して南遷説の可能性が大きいとする。また南遷の時期について、国の名前が鄯善に代わった紀元前77年は考え難いという。しかしながら、初期に相当する都城遺跡が未確認のため、初期都城の位置については不定とする。

 誰かの本の影響か、77年遷都を漠然と自明に近いイメージを持っていた。まだまだ検討の余地があるどころか、少なくとも前期についてはほとんど分かっていないに近いという状況が示されている。半ば伝説で蜃気楼のような楼蘭が、いまだにそのベールの向こうという実態は、まだロマンは終わっていない的な興味を掻き立てて楽しくすらある。位置関係など地図的な話が楽しいので、楼蘭遺跡について再度触れる予定。


ロシア蔵西夏文『天盛禁令』刊本の未公刊断片
 佐藤貴保

 今春の遼金西夏史研究会の折に触れられたものについて、その一部を整理したもの。西夏文字で刷られた『天盛禁令』について、ロシア、サンクト=ペテルブルグでの実検調査を踏まえて、従来『天盛禁令』の6葉目とされていた断片が、未見の9葉だったことを明確に提示している。

 西夏文字文献の研究がまだまだこれからという実態を良く示している。佐藤さんの次の論文が楽しみである。

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2008年8月18日

南欧西夏

喬治亞軍隊撤出南歐西夏首府
(中央廣播電台)

 10日あまりが過ぎ後はロシア軍がどこまで撤退するのか、という辺りの駆け引きがニュースの中心になってきたグルジア情勢。どういう形に収まるのかまでは注視していこうとは思うものの、事件についての解説記事やブログが増え、このブログで採り上げることには一応区切りがついたと見ている。以下はまったくの余談。


 南歐西夏、この文字を検索サイト上で見かけた時は、これがグルジア関係のニュースとも思わず、かといって西夏と南ヨーロッパの関係というのも意味不明で見流していた。それでこれが「南オセチア」と読むと気づくのに少し時間がかかった。そもそも、中国語のニュースサイトで探すニュースは中国関係のものに限られるので、カタカナで覚えている固有名詞にどんな漢字が当てられているかさほど気にしたことがない。

 なにやら、これも西夏の縁ということで、グルジア情勢関連ニュースから地名を探してみる。

 喬治亞:グルジア
 特比利西:グルジアの首都トビリシ
 南歐西夏:南オセチア
 茨欣瓦利:南オセチアの州都ツヒンバリ
 哥里:ゴリ
 波蒂:ポチ
 北歐西夏:北オセチア
 阿布卡西亞:アブハジア
 卡多里峽谷:コドリ渓谷

 台湾の中央廣播電台に限定してみても南オセチアが「南歐希夏」、ゴリが「戈里」と書かれているものがある。これが中国になるとまた異なる。

 格魯吉亜:グルジア
 南奥塞梯:南オセチア
 阿布哈茲:アブハジア


 中華書局などが出版している中国の古典歴史書では、固有名詞に下線が引かれているので固有名詞に苦労することはあまりない。日常生活の中で固有名詞を読み分けるという作業は、慣れという範疇を越えているように思われるのだが、苦労はどれくらいのものだろう。


<参照もと>
全面備戰 阿布卡西亞下達軍事動員令
躱避戰北歐西夏計劃接收2000名南歐西夏居民
俄喬停火似能維持俄軍仍留駐喬治亞
俄國空襲喬治亞 國際社會加緊調停
50多架俄機轟炸喬治亞首都特比利西
(以上は全て中央廣播電台)
安理会南奥塞梯冲突問題磋商陷入僵局(杭州网)

<Google Map>
 グルジア-ロシア紛争関係

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2008年8月16日

1995年アジア紀行〈シリンホト〉

 中国内モンゴル自治区シリンゴル(錫林郭勒)盟の中心地シリンホト(錫林浩特)市。内モンゴルの中東部に広がる大草原のただ中にあるこの街に滞在したのは、95年の6月26日から7月1日のこと。赤峰駅前のバスターミナルを朝一に出たバスで、大興安嶺を越えて丸一日かけて辿り着いた。

 シリンホトは、この旅の最初の目的地だった。青草が広がる大草原をこの目で見て走り回りたかったからで、そのために初夏という時期を選んで旅立ちの日取りも決めた。北京のほぼ真北450km、モンゴル国との国境までなら近いところで200kmという位置にある。

 もともと遊牧民の大地であるから、街としての歴史はそれほど古くはない。チャハル部の領域として、シリンゴル盟の一部となったのが清朝の時代、17世紀のこととされる。チベット仏教の寺院が建てられ、街としての歴史が始まったのは18世紀に入ってから。アバハノール(阿巴哈納爾)旗の中心となり、寺院に因んで貝子廟と呼ばれていたものが、シリンホトに改められたのが1953年。街が大きくなり、アバハノール旗がシリンホト市に昇格したのが1983年のことだった。

 どこまでも広がる草原と広い空という風景は、期待どおりのものだったが、食べ物についての印象も強く残っている。中国では、肉といえばだいたい豚肉のこと。あえて選ばなければ、肉うどんに乗っている肉は豚で、餃子に入っている肉も多分豚。しかし草原の街のこと、シリンホトでは黙っていれば全て羊の肉が出て来る。普通の羊肉くらいの匂いであれば、自分はさして気にならないが、数日間、三食羊肉を食べ続けて、自分の身体が羊臭くなっているのに気がついたときは少し驚いた。


 大興安嶺をバスで越えて行く時の写真。長大な山脈とはいえ、西の端はなだらかな丘陵地帯。内モンゴルとはいえ、山脈の南側は入植者が開いた畑が続いている。風景は、山並みを北へ越えたとたんに緑一色の草原へと一変した。


 シリンホトの南、丘の上から街を見下ろしたところ。見下ろすといっても、広くてなだらかな草原の上では、写真で解るようには写らない。地平線まで続く大地に忽然と街があるように見えるが、街の側をそこそこ大きな川が流れていて、この水源こそが街の命だろうと想像できる。


 丘かの辺りから東を見る、丘の大きさが少しわかる。真ん中あたりに米粒のように羊が写っている。


 街の北には、村が点在している。村の回りには畑が広がり、その外側で放し飼いの様に羊が放牧されていた。


 街の歴史そのものでもある寺院は、建てた人の爵位に因んで貝子廟と呼ばれているという。内モンゴルの4大寺院のひとつと謂い、かつては巨大な伽藍を擁したというが、今は文革期を生き残った小さな建物が残るだけ。


<Google Map>
 シリンホト周辺

<参考>
 中国歴代行政区画(中国華僑出版社 1996年)
 シリンホト市のHP
 貝子廟(北京写真集)

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2008年8月15日

潔い死

樺太で自決 女性交換手の無念 悲劇伝える資料など 石狩で展示
 (北海道新聞)

 終戦直後の樺太・真岡(ホルムスク)で旧ソ連軍が迫る中、真岡郵便局の女性交換手九人が集団自決した悲劇を伝える展示「永訣(えいけつ)の朝---樺太に散った九人の逓信乙女」が十三日、石狩市民図書館で始まった。
 敗戦直後の樺太、ソ連軍の侵攻を目の当たりにして9人の女性が自殺したという真岡郵便局事件。何故自殺なのか、救うことはできなかったのか(居合わせた全員が自殺したわけではな)と考える一方で、では自分がその時代、その場所に居合わせたらどうだったのかとも想像する。

 『戦陣訓』あるいはそれに類する「捕虜になるくらいなら潔く死ぬべき」という思想が、当時どの程度一般的であったのか自分は知らない。潔さという言葉に、事の終わりに「飛ぶ鳥あとを濁さず」を思い浮かべる程度に格好良さを感じる自分であれば、時代、状況によって死を選んだ可能性は十分にあると思っている。

 『戦陣訓』の言葉としては、「生きて・・・辱めを受けず」を使うところを「潔く」としたのは、半月前のニュースがまだ頭に残っているからだ。


終身刑:保岡法相、導入否定的 「希望がなく残酷」「日本の恥の文化になじまぬ」
 (毎日新聞)

 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。
 真岡郵便局事件にこのニュースを並べるのはかなり失礼なことと思うが、「潔く死」という言葉にどうしてもケチを付けておきたいので、あえて牽強付会の謗りを冒す。牽強付会の謗りは甘んじて受ける。

 「潔く死」と言う言葉は、およそ支配する側にとって都合が良いだけのものではないかということである。歴史書を開けば、死によって何かを残した者を挙げることはできる。それでも、そういう人がそれほど沢山いたとは思わない。それに、犯罪以外の代償として命を要求されない今の時代には、死に見合う何かを残すことなど不可能に近い。

 そんな中身の無いモノを、文化であるとして支持を得ていると主張されているのだが、少なくともこの国民の中に自分は含まれていない。そもそもとして、「潔い」以上に「文化だから」という言葉が使われることがいかにも胡散臭い。制度の善し悪しを言いたいのであれば、より具体的な言葉だけで説く方法があるはずである。それともこれは、この文章を選んだ記者のセンスということだろうか。


 潔さという言葉に、些かも格好良いという意味合いが含まれていなかったら、9人の内何人かは思いとどまったのではないか、というのは話としては飛躍だとは思う。それでも、人々に向かって「潔く」などと言う者に底の浅さを感じるのは、自分だけでは無いのではないだろうか。


 三年続けて、敗戦の日を意識てして書いてみたが、多少なりとも文章力は上がっているだろうか?

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2008年8月14日

スラブ・ ユーラシアの今を読む

 スラブ研究センターのHPに、スラブ・ユーラシアの今を読むと題するコラムの第1回と第2回として、廣瀬陽子氏と宇山智彦氏のグルジア・南オセチア関連の一文が掲載されている。

最近のグルジア情勢によせて
 廣瀬陽子

南オセチア紛争:非承認国家問題の正しい理解を
 宇山智彦  

 短文ながら、広い視座で簡潔に纏められている。「非承認国家・未承認国家」、「凍結した紛争」、「GUAM」と「民主的選択共同体」、「BTCパイプライン」などなど初めて聞くような用語が解説されていて、一連の問題を考える上で示唆に富む内容となっている。


 やや細かい部分だが得心いった点のひとつが、宇山氏が触れた「南オセチア臨時行政府」のところ。今は、Wikipediaの南オセチア紛争でも簡単に触れられているが、ネットを検索してみる限り数日前まで日本語での解説は一切無かったと思われる。Wikipediaに載っている地図にグルジアが実効支配しているエリアが図示されているが、その塗り分けがどこまで実態を反映しているのかは分からないものの、州都ツヒンバリと臨時政府所在のクルタが対峙している様子を見て取ることができる。

 それを前提にすると、先日のエントリーに書いた「ロシアからの支援道路」が、グルジア軍に包囲されているツヒンバリと北部地域やロシアとを結ぶために、山中を迂回して造られたという解釈で間違いように思われる。

<Google Map>
 グルジア-ロシア紛争関係Google Mapで見る南オセチア 2
 関係する地名を追加しました。

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2008年8月12日

南オセチアをGoogle Mapで見る

ロシア大統領、グルジアへの軍事作戦停止を指示
(AFP 8月12日 19:13)

 ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領は12日、グルジアに対する軍事作戦の停止を決定したと発表した。
 10日にグルジア軍が南オセチアの州都ツヒンバリからの撤退を始めてから丸二日、今度こそ収束に向かうだろうか。この間、ロシア軍はトビリシ近郊を空爆、黒海の封鎖を実施したほか、グリジア領内、ツヒンバリに近いゴリ、黒海沿岸のポチ、西部のグルジア軍基地があるセナキ、アブハジアに境する街ズグディディへ侵攻したと伝えられている。

ロシア軍、グルジア海軍艦艇を撃沈 空港への空爆も
(AFP 8月11日 06:43)
露、グルジアの4都市に侵攻、首都攻防の懸念
(産経新聞 8月12日 10:58)
ロシア軍「セナキを撤退」 アブハジアでは掃討作戦
(朝日新聞 8月12日13:26)

<Google Map>グルジア-ロシア紛争関係


 ところで、一昨日のエントリ−を整理していて気になったのが南オセチア州と州都ツヒンバリを巡る地理的なこと。地図をただ見ていてもぼんやりとしか見えてこなかったが、家一軒一軒が確認できるという威力なのか、Google Mapの航空写真を見ていると、かなり具体的な現地を見ることができるので、そこに地図にはない実物感を感じ取っている。細かく調べ始めると、すぐに解像度、撮影時期が不明なこと、現地を全く知らないこと、ほぼ真上からしか見えないことなど、限界もまた実感できるのだが。それでもじっくりと読み解くと、世界地図帳からの空想では限りなく不可能なものを見ることが出来るように思う。


 まず、州都ツヒンバリについて。州内での州都の位置関係については、ウィキペディアの南オセチア紛争 (2008年)に添えられている地図を見るのが手っ取り早い。州都「Tskhinvali」は、州域の南よりにあり、すぐ南に州境があるのがわかる。この地図を頭に置きながらをGoogle Map見てみる。


大きな地図で見る
 ほぼ中央に州都ツヒンバリがある。上に見える白い山々がカフカス山脈。真ん中下寄りに左から右へ川(クラ川)が流れていて、これを底辺した三角形が見えないだろうか。この三角形がツヒンバリを含む盆地の形そのものだ。ツヒンバリは三角形の上の頂点に近いところにある青色の点。ここでひとつ言えることだが、南オセチア州の南にある州都が盆地の北端近くにあるのだから、南オセチア州北側の過半が山岳地帯ということになる。その位置にどんな歴史的経緯があり、意味があるのか全く知らないのでその点は放置する。カフカスを北へ越えればロシアである。

 次に上のニュースにも出て来る、ロシア軍が攻めたというゴリが下の方に見えている。川沿いに二つあるピンク色の点の右側がそうだ。ゴリは、ツヒンバリから流れてくるクラ川の支流が合流する場所にあ。Google Mapで距離を測ってみると30kmほど。拡大して川沿いにゴリからツヒンバリへ向かうと、緑に包まれた村と田園が交互に続く。自分は、奇麗な田園風景だと思った。この僅かな距離と緑の風景の中で、ここ数日の紛争が続いていたはずである。

 このくらいの航空写真では、詳しくないと軍用車両が見分けられるわけもなく、よくよく見た所で緑の田園風景にしか見えない。ただ、地図よりは実物感があるということ、それが手軽に見られるということが、毎度のことながら凄いことと思う。


 あと、細かい話をもう少し。この航空写真がいつ撮られたものかということは分からないが、南オセチアの独立運動が始まるよりも前ということはないだろう。根拠はないのだが、古くても5年内外だろうと想定している。その点では、ツヒンバリとゴリの間に係争に関わるもの、具体的にフェンスやバリケードの様ないかにも国境というものがあるのかと思った。しかし、少なくとも線ととして長く続く固定的なものは読み取れなかった。

 南側からツヒンバリに入る道を追ってみると、なんとなく街に入る手前あたりで道の質が落ちているように見えるので、結果的にか実態としてかはわからないが、南北の行き来に障害があることが想像できる。


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 これは、クラ川支流の東側を南北に走る道がツヒンバリの市街へ入る手前のところ。土嚢かなにかが並べられているように見えるが、どうだろうか。



大きな地図で見る
 この写真真ん中は、ゴリから続く鉄道の終点にある駅、勝手に名前をつければツヒンバリ駅である。この水色?の屋根の大きな建物は駅舎だろうか。回りを見ると、構内の広い駅なのに客車も貨車も機関車も見当たらない。線路はあるように見えるが、南へ追って行くとやがて薮の中にほとんど隠れてしまう。もう少し南へ行くと、途中から線路がはっきり見えて来る。グルジア側ではそれなりに線路の保守が行われているのだろう。ただ、列車が走っているかどうかは分からない。



大きな地図で見る
 次は、ツヒンバリの北西、山の中に伸びる道。道の法面がまだ白いことから、10年内外に造られた、あるいは大幅に改良された道ではないかと想像する。この道を北へと追って行くとやがて川沿いの道へと繋がり、その道をさらに上流へ行くとロシアとの国境近くまで続く。解像度が悪いこともあって峠は正確にはわからないが、わりと整備されたロシアからの支援道路とみて間違いないだろう。

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2008年8月10日

グルジア情勢

南オセチア州都に進攻=村を空爆、住民15人死亡−グルジア
(ロイター 8月8日 12:58)

 7日夜、グルジア軍が州都ツヒンバリを包囲、市内へ向けて進攻するとともに、8日朝には空軍機5機が自治州内の村を空爆した。
 このニュースを読んだのは、8日の深夜のことだった。オリンピック開幕関連のニュースが賑わうなかで、「何故今」ということと、内容を見る限り小競り合いを越えているという事態にかなりショックを受けた。以下、ニュースサイトを辿りながら整理を試みる。


グルジアと南オセチヤ境界で銃撃、自治州側兵士6人が死亡
(読売新聞 8月2日19:07分)

 インターファクス通信などによると、グルジアと同国からの分離独立を主張する南オセチヤ自治州の境界地域で、1日夕から2日朝にかけてグルジア軍と自治州独自部隊の間で銃撃戦があり、自治州側の兵士ら6人が死亡、15人が負傷した。グルジア側では4人が負傷した。

南オセチアで独立派勢力と治安部隊が交戦
(毎日新聞 8月7日 10:38)
 グルジアからの分離独立を求める南オセチア自治州で6日、独立派勢力とグルジア治安部隊が交戦し、本格的な戦闘の再燃が懸念されている。
 7日夜の州都ツヒンヴァリ攻撃のニュースが伝わり始めたのが日本時間で8日になってからだったが、この2つのニュースはそれより早く今月頭から既に戦闘が始まっていたことを伝えている。これは、1日頃から小規模な戦闘が続いていて、それを引き金として7日夜の本格的なグルジア軍の侵攻に発展したということになるのだろうか。


国連安保理、南オセチアでの戦闘停止呼びかける声明で合意できず
(ロイター 8月 8日 16:58)

 7日(アメリカ東海岸時間か?)中に動き出した安保理だが8日になっても合意ができなかったとのこと。


ロシア戦闘機がグルジアを空爆、安保理会合は決裂
(AFP 8月8日 19:50)

 グルジア内務省は8日、ロシア軍の戦闘機3機がグルジア領内の軍事拠点を爆撃したとAFP記者に明かした。
 これは、南オセチアに駐留しているロシア軍とは別に、恐らくはロシア本国からの空爆を伝えていると見られる。


南オセチア、本格交戦も=ロシアが軍事介入−グルジア、総動員令
(時事通信 8月9日 1:30)

 ロシア軍の戦車や装甲車数十両が南オセチア州都ツヒンバリ近郊に到達したのが目撃された。
 ロシア軍は空軍だけでなく、カフカスを越えての地上増援部隊の派遣にも踏み切り、はやくもツヒンバルに入ったということだろう。


ロシア首相、北オセチア電撃訪問=グルジアで戦闘の軍鼓舞
(時事通信 8月10日 0:22)

 8日のオリンピック開会式に出席していたプーチン首相は、翌日には係争地の北側、北オセチアの首都入り。


アブハジアでも戦闘、安保理会合は停戦要求で合意できず 南オセチア情勢
(AFP 8月10日 9:49)

 グルジア国内で南オセチア同様に分離・独立を目指すアブハジア自治共和国にも軍事衝突は飛び火した。同自治共和国政府はグルジア軍への軍事行動を開始したと発表。
 これは、グルジアが抱えるもうひとつの係争地、アブハジアでの戦闘を伝えるニュースで、陽動とも漁父の利狙いとも取れる。既にコドリ渓谷へロシア軍による空爆があったことを伝えるニュースもある。

 Upper Kodori Attacked(Civil Georgia 英文)


「南オセチアから部隊撤退」とグルジア当局者
(CNN 8月10日 16:12)

 グルジア当局者は10日、同国部隊が南オセチア自治州の州都ツヒンバリから撤退したと述べた。
 ロシアの反攻が早くかつ強力だったということだろうか。このコメントどおりなら、本格的な開戦から3日で収束に向かうことになる。グルジアは、なにも得る物が無かったということになりそうだ。


 とりあえず悪化が防げればまだマシと思うが、20年来という争いは簡単には解決しそうにない。グルジアがオリンピックの最中を狙って、有利な停戦調停を目論んだとも考えられるが、経過を見る限りあまりその可能性は無いのではないかと自分は考える。

 民族対立という言葉は使いたくない。その「民族」が言い表している大きさが小さくなるほど地域コミュニティーや部族といった概念との境が曖昧になるようには思う。それでも、宗教や経済の問題も丸め込んで「民族対立」と表現してしまうのは安易と思うのだ。

 また、グルジアを巡る南オセチア、アブハジア、パンキシ渓谷の各紛争のいずれにもロシアが絡んでおり、単にロシアが各民族を支援(パンキシ渓谷の場合は逆)しているだけでは済まない問題であろう。近くには、以下のようなニュースがあり、安保理が結局機能しなかったのも昨日今日の話ではない。

ウクライナとグルジアがNATO加盟なら軍事的措置も=ロシア軍参謀総長
(ロイター 4月11日)


 ニュースを纏めるといってもニュースを流し読み、ネットで情報を漁る程度では表層的に留まるのが限界である。地名や用語を調べようとしても、わりと早く壁にぶつかる。この地域の複雑さや日本からの遠さを実感してしまう。諦めてもしょうがないので、少しでも勉強してみようとは思うのだが。


<Google Map>
グルジア-ロシア紛争関係

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2008年8月 8日

(書評)モノから見た海域アジア史

九大アジア叢書 11
モノから見た海域アジア史
モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流
四日市康博 編著
ISBN978-4-87378-966-8
九州大学出版会 2008.4

 本書は、文部科学省特定領域研究のひとつ、東アジア海域交流の中の海域比較研究の成果の一部として纏められたものとのこと。目次は、上記書名リンク先を参照されたい。目次にあるように、石材、木材、陶磁器、貴金属を素材として交易や交流を説き起こした5つの章と、各地の考古学者を中心とした8人と編者によるQ&A形式の対談を集録した第6章よりなる。Quiet NahooAbita QurMarginal Notes & Marginaliaやまやまの日々雑記の各ブログで紹介されたのを見て、面白そうと思い読んでみた。

 1から5章について、簡単には以下のような内容。第1章は、木材と組み合わせて使われた碇用の石材、碇石について。遺物として残る碇石の形やその広がりから、それを用いた船を想定してその交流の広がりを考察したもの。第2章は、仏教上の交流によって日本から宋へ送られた木材とそれに関わって交わされた文献に関わるもの。第3章は、貿易に関わった陶磁器の中でも交易品そのものとしてよりも、物を入れるために使ったとして著者が言うところのコンテナ陶磁について、その遺物の広がりや産地について考察したもの。第4章は、交易品としての陶磁器の中でも中国龍泉窯の青磁について、砧青磁と呼ばれる花瓶を中心にその盛衰を追ったもの。第5章は、モンゴル時代について中国から中近東に至る銀錠や銅銭の流れについての考察となっている。


 1から5章は、各30頁前後で本書が新書版ということもあり、さほど多い頁数ではない。しかしながら、特定の物に絞ることで、交流の状況を具体的かつ簡潔に纏めている。物としての範囲は狭いものの語られる地域としては日本各地から中国、東南アジア、中近東という広がりを持ちスケールは決して小さくない。自分の興味的にはどちらかというと二の次ということもあり、文化経済な領域は概念的抽象的に過ぎるとなかなか捉えきれないということが多い。本書は、その絞り方と読み易い文章で自分にも把握し易い内容になっている。その上に、碇石とか砧青磁とかどれもさほど馴染みのない物ばかりなので、思いのほか興味深く読むことができた。

 第6章は、上に書いたように対談形式で各4頁程度。やや短く物足りないと言えなくもないが、絞ったテーマについてわりと先端的な考古学の話題が上手く纏められているように思う。こちらは、国内の考古学中心の話だが、硫黄、夜光貝、十三湊と7つきりのテーマながら興味深いものを並べている。


 本書は、文科省関係のプロジェクトものではあるが、論文集的な報告書ではなく、どちらかというと一般向けを意識した入門書という内容。タイトル通りで、特定のモノから海域を通した交流を見て行こうというもの。自分には、その物が具体的にあることでその交流の流れが想像し易い内容だった。考古学的な話が中心なので、波乱も盛り上がりもない話ではあるが、プロジェクトに意図されているような内容を伝えるための入門書として、十分に面白い一冊だった。

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2008年8月 6日

西夏と年号 その3

李元昊時代の年号 1

 李元昊時代の年号は、その2の繰り返しになるが、『宋史 夏国伝』に以下のように記されている。

 元昊以慶暦八年正月殂,年四十六。在位十七年,改元開運一年,廣運二年,大慶二年,天授禮法延祚十一年。
 慶暦八年は、1048年にあたる。開運、広運、大慶、天授禮法延祚の4つの年号があり、延べ16年ということになる。

 『宋史 夏国伝』の景祐元(1034)年には、

 是歳,改元開運,逾月,或告以石晉敗亡年號也,乃改廣運。
と記されている。1034年に年号を開運としたが、「逾月」つまり翌月に開運は縁起が悪いと言われて広運に代えたのだという。「石晉」とは、五代十国の後晋のことで、開運は後晋が契丹によって滅ぼされた946年に使われていた年号。西夏で開運が使われたのはたったひと月ということになる。『宋史 夏国伝』にある「開運一年」とは、2年目は無かったという意味に解釈できる。

 次に、『宋史 夏国伝』に

 復改元大慶。
という一文があり、そのすぐ後に「寶元元年」(1038年)とあるので、大慶への改元が1037年までのどこかということになるが、『宋史 夏国伝』の記事だけでは年が特定できない。


 とりあえず、大慶への改元を1036年元日、天授礼法延祚への改元を1038年元日と仮定して、4つの年号を整理すると以下のようになる。

 開運:1034年、1年
 広運:1034年〜1035年、2年
 大慶:1036年〜1037年、2年
 天授礼法延祚:1038年〜1048年、11年

 いちおう辻褄が合っているように見える。形としては、長部和雄氏が『西夏紀年考』(史林/史学研究会 1933年)に纏められたものと同じで、恐らくそれを引いたと思われる『東方年表』(平楽寺書店 1955年)とも同じ。しかしまだ未検討の部分があり、『中国歴史紀年表』(上海人民出版社 2007年)と比較すると細部が合わない。よって李元昊時代がまだ続く。


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その2へ
最初へ

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2008年8月 5日

Google Map ストリートビュー

 既にあちこちで話題になっているGoogle Mapの新しい機能、ストリートビュー。地図と現地写真がそこそこの精度でリンクされているというのは、考えればいろいろと使い道がありそうだ。ただし、場所により精度にばらつきがあること、撮影された日時が保証されないこと、解像度にそれほど高くない限界があること、そもそも撮影されている場所が限定されていることなど、まだまだ使い道が限定される要因は多い。


 とりあえず手っ取り早く、京都、幕末の大河ドラマといえば、重要な舞台のひとつ蛤御門を見てみる。場所が分かればこんな具合。

大きな地図で見る


 下の写真は、今年3月の記事、信長時代の二条御所に添えたもの。

 同じ場所をGoogle Mapで見ると以下の様。同じ場所だとは分かるが、この大きさだと文字までは読めない。

大きな地図で見る


 それから、この写真っていつ頃撮られたものなの・・・ということだが、細かくは一つひとつ検証してみないと何とも言えないが、京都市内について見るとわりと今年の上半期に撮ったものが多いように見える。たとえば、四条大橋を見ると、既に川床が組まれている。回りを見ると組み上げ中のものがあり、最近改装された店がまだ改装中というのもあるので、今年の5月の連休明けというのが分かる。


 このくらいの精度であれば、現地に写真を撮りに行く価値は十分にあると思うので、暑さが終わる頃になったらまたあちこちと出かけようかと思う。

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2008年8月 4日

チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展

 仕事帰りに、大阪梅田の大丸ミュージアムで始まった、中国・内モンゴル自治区博物館所蔵 チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展を見てきた。東映のHPに案内があるが、再来年の5月までに全国10か所で開催されるとのこと(HPには9か所しか案内されていないが、カタログには2010年4月から山梨県立博物館の案内がある)。


 展示は、モンゴル帝国に先立つ東胡、匈奴、鮮卑、突厥、契丹、モンゴル帝国時代、明清代のモンゴルの順に並ぶ。目につくという点では、モンゴル以前のバックルなどの金製品、清朝時代の服あたり。

 自分的にわりと関心したのが、契丹関係に陳国公主墓などわりと新しい墓からの出土品がいくつもあったこと。墓誌とかその拓本とかはさすがに無いものの、昨日とりあげた耶律羽之墓の副葬品の銅鍍金飾りが2つ展示されていた。それから、今日読み終わった本に出てきて物で、銀錠と青花の皿はちょっと見たいなと思っていたもの。

 珍しいものというと、シリア文字とウイグル文字が書かれたネストリウス派の墓誌、アラビア文字が刻まれた石棺とかかな。

 自分の主観的には、突厥時代のものという鹿の浮き彫りがなされた銀製の大皿が良かった。


 平日の夕方、閉館前だったせいか、空いていてのんびり見られた。思っていたよりも展示品が多くて楽しめたが、まあこんなものかとも。解説文は全般に中国人が書いたものそのままという感じなので、特に概要的な部分の内容は推して知るべし。細かいミスは探せばいくらも見つかるが、探さなくても目につくミスは近々に訂正されるらしい。

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2008年8月 3日

契丹の旧渤海領統治と東丹国の構造(感想)

 先月発売された史学雑誌 第117編 第6号(史学会)を購入。掲載文はリンク先のとおりだが、自分の目当ては研究ノートとして集録されている澤本光弘氏の一文、契丹の旧渤海領統治と東丹国の構造---「耶律羽之墓誌」をてがかりに---

 本論は、遼金西夏研究の現在(1)に掲載されている論文、契丹(遼)における渤海人と東丹国---「遺使記事」の検討を通じての中で重要な役割を果たした耶律羽之の墓誌を詳細に検討し、東丹国についてより深く検討しようというもの。

 東丹国は、契丹によって滅ぼされた渤海国の故地を治めるために作られた契丹の傀儡国、ないし衛星国のことで、契丹皇帝の長男耶律突欲(倍)が王とされた。しかし、その耶律突欲が後唐に亡命したり、反乱が続いたりして短い期間で国としての実態は無くなったと評価されてきた。これに対して、10世紀末近くまで東丹国の実態があったとする論文が既にいくつか出されているとのこと。本論もそれを肯定している。


 本論の検証が深まれば、東丹国についての歴史が書き換えられるだけでなく、契丹国の地方制度やその成立過程についても見直されることになるのではと思うのだがどうだろうか。また、本論には当該墓誌、35文字38行、千数百文字全文とその読み下し文が掲載されている。日本ではほとんどお目にかかることのない長文の墓誌に、何が書かれているのかということだけでも面白い。

 筆者は、おわりにの中で本論は東丹国に限定した考察であることを述べた上で、今後の可能性について触れている。東丹国のことだけでなく、契丹の政治や社会について今後でのような論が出て来るのか楽しみにしておく。

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2008年8月 2日

スカイ・クロラ(感想だけ)


 久しぶりの押井守監督作品。期待が大きかったので早速見に行ってきた。説明一切省略。

 映画小僧ではないので、あまり映画館に出入りしていないのだが、上映が終わっても満席のホール内が静まり返っていたのは今まで経験した記憶がない。確かに新たなる押井守の作品だと思う。

 暑さでぼんやりとしていた脳味噌が妙に空回りし出していたことと、押井守の次回作をかなり楽しみにしているというのが見終わっての自分である。余韻を押えるのに随分と時間がかかりそうだ。

 一部趣味的な映画しか見ない自分にとってこの夏は珍しく豊作で、既に何度か映画館に通っていてあと数作見る予定だが、その中で本作が一番強く印象に残るのは多分間違いない。


 あと、細かい話。これから見に行こうという方には、エンドロールが流れ始めても最後まで見られることを一応お勧めしておきます。それと、主題歌のアレンジが塩谷哲だったことに気がつかなかったのはちょっと不覚。もういっちょ。自分の嫌いなとある名称が何度も登場することがかなり癪に障る。押井氏が宮崎氏の轍を踏まないことを祈って止まない。


 予告編が見られます→「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」公式サイト

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2008年8月 1日

1995年アジア紀行〈カニヤクマリ〉

 インド東部オリッサ州の海辺の町で1996年の正月を迎えた後、インドア大陸一周を目指して南へ向かった。時計回りに街を巡り、マドゥライからバスでカニヤクマリに入ったのは1月28日のこと。街の南のコモリン岬は、北緯8度にあって大陸の最南端でヒンドゥー教の聖地でもある。まだ赤道を越えたことがない自分にとっては、今まで行ったことがある最も南の地でもある。西海岸に沿ってデリーを目指して北上するために街を離れるまで、3日間をのんびりと過ごした。

 岬は、ベンガル湾、インド洋、アラビア海が出会う場所で、季節柄なのか、場所柄なのか常に風が強く、波も高かった。ヒンドゥーの女神カニヤクマリが修行したという岬には、巡礼とも観光とも思える観光客が沢山訪れていた。山育ちの自分には、海を見ているだけで何事も無く時間が過ぎる。三方が海である岬は、日の出と日の入りの名所でもあり、その時が近づくと人々が海岸に集まってくる。

 既に10年以上の時間が過ぎた自分には、カニヤクマリの街の細部はほとんど思い出せないのだが、海岸線を散歩しながら見た夕日はかなりはっきりと思い出せる。夕日の印象しか残っていないのに、なぜか夕日の写真は撮っていない。逆に残っている写真は、記念に撮っているだけで写っている物が何であるのかあまり関心が無かった。以下の解説は、カニヤクマリ県のHPから調べたもの。


 これは、西側からコモリン岬を見たところ。左手の建物は、マハトマ=ガンディーの来訪を記念して建てられたという記念館。その向こう、岬に面して女神を祀るクマリ=アンマン寺院がある。


 岬の沖、岩の上に建つビベカナンダ=ロック記念館。偉大な哲学者であり改革者でもあるというスワミ・ビベカナンダの来訪を記念したものという。


 南インドを歩いていると、北インドよりも教会を見る機会が多いというのは自分の主観かもしれないが、マドラス(チェンナイ)やこのカニヤクマリなど、青い海に白い教会という取り合わせが印象的。この教会は、カトリック系という以外にはよくわからなかった。


(追記)
 「カニヤクマリ」の元の表記には、「Kanyakumari」と「Kanniyakumari」があり、これらのカタカナ表記として、カニヤクマリの他にカニヤークマリ、カンニヤクマリ、カンニヤークマリなどがあるが、自分の記憶に残るカニヤクマリを使った。

<Google Map>
 カニヤクマリとコモリン岬

<参考>
 カニヤクマリ県のHP
 在ネパール日本国大使館

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