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2008年8月15日

潔い死

樺太で自決 女性交換手の無念 悲劇伝える資料など 石狩で展示
 (北海道新聞)

 終戦直後の樺太・真岡(ホルムスク)で旧ソ連軍が迫る中、真岡郵便局の女性交換手九人が集団自決した悲劇を伝える展示「永訣(えいけつ)の朝---樺太に散った九人の逓信乙女」が十三日、石狩市民図書館で始まった。
 敗戦直後の樺太、ソ連軍の侵攻を目の当たりにして9人の女性が自殺したという真岡郵便局事件。何故自殺なのか、救うことはできなかったのか(居合わせた全員が自殺したわけではな)と考える一方で、では自分がその時代、その場所に居合わせたらどうだったのかとも想像する。

 『戦陣訓』あるいはそれに類する「捕虜になるくらいなら潔く死ぬべき」という思想が、当時どの程度一般的であったのか自分は知らない。潔さという言葉に、事の終わりに「飛ぶ鳥あとを濁さず」を思い浮かべる程度に格好良さを感じる自分であれば、時代、状況によって死を選んだ可能性は十分にあると思っている。

 『戦陣訓』の言葉としては、「生きて・・・辱めを受けず」を使うところを「潔く」としたのは、半月前のニュースがまだ頭に残っているからだ。


終身刑:保岡法相、導入否定的 「希望がなく残酷」「日本の恥の文化になじまぬ」
 (毎日新聞)

 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。
 真岡郵便局事件にこのニュースを並べるのはかなり失礼なことと思うが、「潔く死」という言葉にどうしてもケチを付けておきたいので、あえて牽強付会の謗りを冒す。牽強付会の謗りは甘んじて受ける。

 「潔く死」と言う言葉は、およそ支配する側にとって都合が良いだけのものではないかということである。歴史書を開けば、死によって何かを残した者を挙げることはできる。それでも、そういう人がそれほど沢山いたとは思わない。それに、犯罪以外の代償として命を要求されない今の時代には、死に見合う何かを残すことなど不可能に近い。

 そんな中身の無いモノを、文化であるとして支持を得ていると主張されているのだが、少なくともこの国民の中に自分は含まれていない。そもそもとして、「潔い」以上に「文化だから」という言葉が使われることがいかにも胡散臭い。制度の善し悪しを言いたいのであれば、より具体的な言葉だけで説く方法があるはずである。それともこれは、この文章を選んだ記者のセンスということだろうか。


 潔さという言葉に、些かも格好良いという意味合いが含まれていなかったら、9人の内何人かは思いとどまったのではないか、というのは話としては飛躍だとは思う。それでも、人々に向かって「潔く」などと言う者に底の浅さを感じるのは、自分だけでは無いのではないだろうか。


 三年続けて、敗戦の日を意識てして書いてみたが、多少なりとも文章力は上がっているだろうか?

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