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2008年9月29日

(書評)コーカサス 国際関係の十字路

集英社新書 0452A
コーカサス 国際関係の十字路
廣瀬陽子 著
ISBN978-4-08-720452-0
集英社 2008.7
序章がこちらから読めます

 8月初め、南オセチアから始まった一連の事件からもう2か月近く。自分は、半月の旅行中に情報的不足な状況にあったこともあり、今ひとつその後の状況を掴みきれていない。

 本書がこの時期に出版されたのは偶然ではあるものの、諸々の事件を理解する上での基本情報を載せたものとして極めてタイムリーだった。内容としては、グルジア、あるいは対ロシアに限定されるものではなく、コーカサスの南北両側を範囲として、重要なキーワードを押えたて現状をできるだけ把握することを目指したものとなっている。

 構成は、下記目次のようになっているが少し書き足すと、地理、地勢などの全体像を取り上げた1章、各国が抱える問題を取り上げた2章と3章、石油、天然ガスを巡る問題を取り上げた4章、対ロシア問題と南コーカサス三国における政治情勢の変化についての5章、その他の外側の国々との関わりを説く6章となる。ほぼソ連解体以後の話で、部分的に必要なもののみ時代を遡って解説を加えている。


 新書版220ページという厚さで、かつコーカサスの南北両側を対象にしているので、深さという点ではもちろん限界がある。特に各論部分は、チェチェンを除いてはかなりあっさりという内容で、興味が向く部分では物足りなさが残る。バランスという点では、グルジアの事件以前の段階としてはこの位だろうか。

 とはいえ、コーカサス地域の情勢についての入門書という点で、コンパクトに良く纏まっていると評価したい。特に各国関係、ロシアの関わり、石油や天然ガスについての解説は自分にはかなり勉強になった。また、民族や宗教についての慎重な取り扱いや、この地域を理解する上での基礎的用語を多く解説している点も評価したい。

 もともと情報が不足している地域のこと、基本情報と簡単な現状分析を含む入門書という位置づけで重宝する一冊ではないだろうか。本書を先に読んでいれば、先のグルジアを巡る事件についてもう少しまともな分析が出来たのではと思う。というか、随分と基本的な情報を抜きにしてニュースを眺めていたものと恥ずかしくすら思う。事件後でもあり、もう少し深い情報が欲しいとも思うのだが、現状ちょっと手一杯というところ。


<目次>
 序章
 1章 コーカサス地域の特徴
 2章 南コーカサスの紛争と民族問題
 3章 北コーカサスの紛争と民族問題
 4章 天然資源と国際問題
 5章 コーカサス三国の抱える課題
 6章 欧米、トルコ、イランのアプローチ
 終章 コーカサスの今後

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2008年9月28日

ヘルシンキ

 前に書いたように、ヘルシンキトランジットは降って湧いた話だった。その上搭乗便の都合で、到着した日の夜から翌日の昼過ぎまでと、帰り際の数時間をヘルシンキの街中で過ごすことが出来た。その結果、行ったことのある最北の地点は、北緯49度から一気に60度まで上がった。北極圏まであと少し、日本の近くならカムチャツカ半島の北の付け根にあたる高緯度なのだから驚く。シベリアほど極寒ではないのだろうが、9月の初めというのに七竃の実が赤く色付き、もう秋の装ういだった。


 バックパッカーとして旅をする時は、基本的には歩く、時間と体力が許す限り気の向くままにとにかく歩く。理由の一つには、知らない街でバスや電車に乗るのが少し億劫ということがある。


 ヘルシンキでもかなり歩いたが、郊外電車にバス、地下鉄、トラムまで乗れるという便利な一日切符があったので、それらも有効に使った。ヘルシンキ市内で6ユーロ、郊外まで乗って12ユーロ。日本の一日券のような始発から最終までではなく、買った時点から24時間有効。夕方の飛行機で降り立ち、翌日の夕方に飛び立つ自分は一枚で済む。写真は、ヘルシンキ中央駅前を走るトラム。市内には路線が縦横に走っていて、一番多く乗った。


 北欧の歴史にはあまり縁がない。ヘルシンキにどんな見どころが有るのか、行くまで全く知らなかった。今でも自分の部屋にはたいした情報がない。ガイドブックを引き写してもしょうがないので、目についたものを少し紹介して、ヘルシンキの話は簡単に終わる。


 この旅の中で、沢山カメラに収まることになった教会の最初の一枚。宵闇にライトアップされて白い外壁が奇麗に浮かび上がったヘルシンキ大聖堂。建物の右側が改修中で、足場が組まれて幕がかかっている。


 ロシア時代のものという、街の東に建つウスペンスキー寺院。街を歩けば何度か日本人ともすれ違った程度に日本からの観光客も多いようだが、この教会の中に日本語を見つけた時は少し驚いた。


 地図を開けば分かるように、ヘルシンキはバルト海の東奥、フィンランド湾に臨む街。バルト海を目に残そうと海辺をだいぶ歩いた。港には、湾を回遊する遊覧船が何艘も停まっていて、パンフレットを配る客引きもいた。魅力的だったが、迷った末に乗らず、その分せっせと海岸を歩いた。


 港には、テントを並べたマーケットが立ち、近くには建物に入ったマーケットもあった。食品は、建物に入ったマーケットの方が豊富で、肉、ハム、チーズからケーキまで並んでいたが、生魚はどちらでも売っていた。写真は、テントの下の大きな鉄板で焼かれた鮭の切り身とジャガイモ。鮭もバルト海産なのだろうか。


 GoogleのMy Map2008年秋 スペインの旅 ヘルシンキへ、この他にもヘルシンキの写真を追加しました。

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2008年9月27日

西夏王陵の保護

中國投巨資對“西夏王陵”進行搶救性保護
(新華社 9月21日)

 “東方のピラミッド”との誉れの西夏王陵が破壊に遭うことから免れるため、中国政府は策定を進めている文化財保護計画のプランを基にして、この10年で累計7000万元余りを投入して西夏王陵の緊急的な保護に用いている。

 西夏(王)陵は、寧夏回族自治区銀川市観光の目玉で、中国の観光旅行記的なブログで数日に一本は紹介されている。新しいところでは、宁夏行之五----游西夏王陵(心怡的博客)など。ピラミッドとは根本的に造りや企画が違うので、“東方のピラミッド(東方金字塔)”という言い回しはどうかと思うが、ネットを見ていても普通にあちこちで見かける。


 写真は上記ニュースで触れている3号陵の中心となる土山(陵台という)。この陵台は、版築によって土を突き固めて造られているもので、モンゴル軍による破壊以来800年の風雨に耐えてきたほどに堅いものだが、徐々に破壊が進んで来ている。ニュースの中では、その原因として風雨、羊の放牧、車両による蹂躙が挙げられているが、軍による射撃の標的とされた過去もあり、それらしき跡は現地で確認できる。

 雨という点では、西夏陵が点在する賀蘭山麓は乾燥地帯で年間降水量200mm程度という。それでも、その賀蘭山によって集水された雨水が流れ下ることが時折あるのだろう、山麓には西から東へと幾筋も枯れ川が走る。航空写真を見れば、実際に流水によって破壊された跡が確認できるし、南側には陵を守るためと考えられる堤防も存在している。


 ニュースには、7000万元とある。これは、1999年以来の3号陵整備に伴う1000万元と、2006年から10年にかけて4号陵、6号陵の補強などを行う5882万元の合計ということだろう。日本円にして11億円弱というとあまり大きな額ではないようにも見える。3号陵は、現在もっとも整備が進んでいる陵墓で、西夏王陵観光といえば3号陵の見学になる。


 これは、2006年からの整備対象になっているという4号陵。2005年に現地を見た限りでは、周囲にバラ線が張られ、一部に補強や復元が行われているように見えた。


 こちらが6号陵の陵台。2005年当時、バラ線などの囲いはなく、直接観察することができた。風化が原因なのか、陵台の崩壊が進んでいた。6号陵に適切な保護が加えられて現状が維持されればと思うが、6号陵の近くにあってより破壊が大きい5号陵に触れられていないのは何故だろう。


 西夏史研究の大家李範文氏は、ニュースの中で次のようにコメントしている。

 兵馬俑が秦漢の文化の代表であるように、西夏王陵は少数民族文化の代表で、全世界でここにしかない。もし保護を強化しなければ、今後西夏の歴史文化研究の全体に致命的な打撃になるだろう。
やや大仰な物言いとも思うが、適切な保護が必要なのは確と思う。昨今の中国の情勢では、歴史テーマパーク化するのではとの懸念をしてしまう。ただ、3号陵の整備が陵そのものは部分的な復元や参道の整備に留まり、大袈裟なのは陵園の入り口や博物館周辺の方なので、テーマパーク化は辛うじて避けられている。また、歴史テーマパークという点では、銀川市郊外の別の場所に西夏影視城(上記ブログの続編宁夏行之六-----参观西夏影视城参照)があり、さらに別の場所に西夏陵の復元が進められているというニュース(この話は現在追跡中で、新しい話が出てきたら紹介する予定)もあり、遺跡そのものをテーマパークする意義はあまりないだろうと期待しておきたい。


<参考>
 西夏史への招待 西夏陵

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2008年9月23日

2008年秋 スペインの旅

 二週間余りかけてスペインを巡る旅から昨日戻った。もともと、いつかは歩いてみたい世界のひとつとして、アンダルシア三都巡りというような漠然としたプランがあり、長めの休みが取れたことで日の目を見た。具体化させる段で、イスラム系勢力がアンダルシアを治めていた時代の都コルドバ、セビーリャ、グラナダの三古都に、西ゴートの頃からマドリッドが首都になるまで半島内陸部、メセタの中心だった古都トレドを加えた四古都を廻るというプランを考えた。

 日本から直行便の無いスペインのこと、ドイツのフランクフルトかパリ経由で、マドリートかバルセロナへ飛ぶという目論みだったが、チケットの手配を依頼した段階でさらに変化した。9月の旅の予約に7月の後半では遅いという認識がなかったからだった。結局フィンランド航空でヘルシンキ経由、行きがヘルシンキ一泊のリスボン行き、帰りがバルセロナ発という形に落ち着いた。

 さらに現地へ入ってからの情報や気分を加えて、五つの古都に三つの首都、七つの街や遺跡を巡るという大掛かりな旅となった。


 詳しい紹介を順にしていこうと思っています。期待十分の一とお待ち頂けると幸いです。全体像は、GoogleのMy Map2008年秋 スペインの旅へ順次書き足して行きます。とりあえず今日はさわりを。



 最大の見どころグラナダのアルハンブラ宮殿。その一角、水をふんだんに使い緑が溢れるヘネラリーフェ庭園。


 白い街というのがブームのようで、雑誌やガイドブックにも特集ページを見かけるほど。アンダルシアに限らず、大きな街から小さな村まで漆喰で輝く家並はあちこちで見かけた。写真は、カルモナのとある街角での一枚。


 旅の後半には、薄く雲が広がったり小雨に遭ったこともあったが、前半は初秋というには強い陽射しと高い空が広がり、蒼色の映える写真を撮ることができた。写真は、コルドバのメスキータのミナレット。


 アンダルシアを東西に流れるグアダルキビル川に映して姿を重ねた月。満月ではないが、仲秋十五夜の月。


 グルメではないので、食べに走ることはほとんどない。何より一人歩きでの食べ歩きは難が伴う。今回は、朝や昼はカフェ、夜はBarでということが多かった(多くの店が両方を兼ねている)。昼間歩き回ると夜のビールの味は格別。つまみが一皿か二皿あれば良い量だったが、写真の店はなかなか美味しかったので奮発して三皿。串焼き、イワシの酢漬けとジャガイモの和え物。

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2008年9月14日

アンダルシアを放浪中

アンダルシア3古都巡りをメインにスペインを放浪中です。
今日は、一番の見所グラナダのアルハンブラ宮殿を半日かけて回りました。
明日はメスキータなどを見るために、コルドバへ移動します。

スペイン時間9月13日午後9時15分

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2008年9月 5日

久しぶりにバックパッカー

 遅めの夏休みが、長めに取れたので放浪の旅に出ます。

 ノートパソコンや携帯電話などは持って行かないので、ネットへのアクセスはホテルとネットカフェ頼み。

 コメントを頂いた場合、しばらく返事ができないかもしれません。ご容赦下さい。

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西夏と年号 その5

李元昊時代の年号 3

 前回、次の様に纏めた。

 開運:1034年、1年
 広運:1034年〜1036年12月、3年
 大慶:1036年12月〜1038年10月、3年
 天授礼法延祚:1038年10月〜1048年、11年

 無理を承知で反論の余地を探してみる。まずこの中で、自分的に反論の余地が無いと思うところ。

 1. 開運から広運へひと月余りで改元されて、それが1034年であること
 2. 大慶から天授礼法延祚への改元が、1038年10月であること

 まず1について。開運から広運への改元については、その3の中で『宋史 夏国伝』を引用したが、『続資治通鑑長編』の巻第115、景祐元(1034)年に、言葉遣いは違うがほぼ同じ内容があり、しかもその年の李元昊を巡る政治的な動きがそこそこ長文で記されている。加えて1034年には、まだ触れていない李元昊時代のもうひとつの年号の問題があり、1034年は動かないと考える。

 2については、1038年10月が李元昊が皇帝即位の儀式を盛大に行ったことに絡むもの。この儀式の政治的なアピール度は高く評価されていて、西夏の建国をこの時からとするのが一般的になっている。天授礼法延祚への改元の文は、実際にこの儀式に関わる文章の一部として書かれていて、儀式に併せて行われたのは十分に説得力がある。なお、西夏の建国時期については、以前書いた西夏の建国についてを参照されたい。


 次に、この二点を前提に仮説をひとつ立ててみる。まず、以前引用した『宋史 夏国伝』の李元昊についての記事、

 在位十七年,改元開運一年,廣運二年,大慶二年,天授禮法延祚十一年。
この内、広運と大慶は3年ではなくて2年までしか無かったというのが正しいとする。そうすると間が空いてしまうので、前回「誤りとすべきである」とされた広慶が、存在していて3年まで有ったとしてみる。単純に数字を合わせると次のようになる。

 広運:1034年〜1035年、2年
 広慶:1035年〜1037年、3年
 大慶:1037年〜1038年10月、2年

 広運から広慶への改元が1035年の途中、広慶から大慶への改元が1037年の途中とすると一応収まる。これを正しいとすると、前回に引用した『続資治通鑑長編』の「改大慶二年曰天授禮法延祚元年」と「私改廣慶三年曰大慶元年」がどちらも正しかったということになって都合が良い。ただし、「私改廣慶三年曰大慶元年」が景祐3(1036)年12月の部分に書かれているのが誤りで、1037年のどこかだったということになる。


 さてどうだろうかということだが、大慶への改元の文については『宋史 夏国伝』と『続資治通鑑長編』に共通点がある。まず『宋史 夏国伝』、

 元昊自製蕃書,命野利仁榮演繹之,(中略)。複改元大慶。
次に『続資治通鑑長編』巻第119、
 趙元昊自製蕃書十二卷,(中略)。私改廣慶三年曰大慶元年。
この両方に共通する「元昊自製蕃書」は、李元昊が西夏文字を制定したことを指していると考えられている。これに因んで、西夏文字は1036年に制定されたとして、例えば「図説 アジア文字入門」(河出書房新社 2005年)の88ページやWikipediaの西夏文字もそう書いている。

 『宋史 夏国伝』『続資治通鑑長編』のどちらも「元昊自製蕃書」を含む文の直後に改元についての文があり、それでいて段落全体の文章はかなり異なる。これだけでは1036年とは確定しないが、改元の記事が文字制定とセットだったことを否定するのは厳しい。加えて、文字制定を含む『続資治通鑑長編』の文章の政治的な重要性を考えると、1036年12月を否定するにはより強い証拠が必要になる。

 そもそもとして、この仮説は『宋史 夏国伝』の「廣運二年,大慶二年」を正しいとしながら、『宋史 夏国伝』に見られない「廣慶」で穴埋めしている。数字合わせとしては面白く、先人が誤りとした点をいくつか覆せるのも面白いが、残念ながら旗色は悪い。「廣慶二年丙子」と書かれた文書が見つからない限り無理だろうか(1036年が子年)。

 もうひとつ。牛達生氏は、『《嘉靖寧夏新志》中的兩篇西夏佚文』の中で西夏関係の逸文『大夏国葬舍利碣銘』の中にある「大夏天慶三年八月十日建」という文を、3つの根拠を示して「大慶三年」の誤りと指摘している。これは、逸文ながらも「大慶:1036年12月〜1038年10月、3年」を補強する有力な材料として、肯定的に受け止められているようだ。残念ながら、自分には否定する材料が無い。


 以上より、李元昊時代の年号は、前回纏めた以下のものが有力ということになる。

 開運:1034年、1年
 広運:1034年〜1036年12月、3年
 大慶:1036年12月〜1038年10月、3年
 天授礼法延祚:1038年10月〜1048年、11年

 なお、李元昊時代にはこれ以外に上に書いたようにもうひとつ年号がある。これについて次回触れる。


<備考>
 『《嘉靖寧夏新志》中的兩篇西夏佚文』は、『寧夏大学学報1980年第4期』に収録、『西夏史論文集』(白濱編/寧夏人民出版社/1984年)に再録。

 『大夏国葬舍利碣銘』は、『嘉靖寧夏新志 卷2』(胡汝砺編,管律重修,陳明猷校勘/明代)に収録、『党項与西夏資料彙編 上巻第一冊』(韓蔭晟編/寧夏人民出版社/1983年)に再録。


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2008年9月 3日

サンダーフォースに西夏文字

アイエヌエイチ、池袋ギーゴ「3大シューティング祭り」 会場に200人以上のファンが集結!
(GAME Watch 9月1日)

 最近ゲームをする機会がなくて縁が無い話ではありますが、10月30日発売予定というPS2の「THUNDER FORCE VI」に西夏文字がでてくるそうです。

 だから、今『読めない字が出てくる』って皆思ってるだろうけど、あれ実は中央アジアで今は絶滅しちゃった西夏(せいか)文字を使っています。西夏文字って最近まで解読されてなかったんだけど、大学の先生のところで訳してた。だから、今回のエンディングとか、あそこらへんはサンダーフォースが好きな人ならグッとくる言葉が“すべて異星人の言葉として”きちんと言語体系、文字体系をもった言葉として翻訳されてます。
 この文章、長文な上に南海で、前後を読んでもさっぱり要点が掴めなかったんですが、適役の宇宙人が西夏語を話して西夏文字が出て来るということ?

 あと、モンゴル文字やモンゴル語、パスパ文字とかも出て来るそうで、こういう凝り性な設定は好きです。ちょっと声聞いて画面見たいと思うけど、PS2には全く縁がないので機会はないかもしれない。


<追記>
 ファミ通.comプロモーションムービーを発見。

 最初の画面、左側に縦に西夏文字が3文字。上から樹、星、也といった意味なので、「木の星です」あるいは「緑の星です」といった感じ。1文字目の下にある「Jungle Stage」の意訳といったところか。

 もう一か所、57秒あたりから2度表示される警告メッセージみたいなの。横書きで3行出て来るが、真ん中の6文字と付属の英文はちょっと判読しんどい。1行目は、頭を挙げるという意味で転じて「注意」。これも「Danger」にそのまま対応。3行目は、1文字目と2文字目は共に敵という文字で二字熟語でも敵あるいは敵軍。3文字目が来るという意味なので、3文字で「敵が来る」となる。1行目と3行目で「注意せよ ・・・ 敵が来る!」てな感じかな。

(9月4日)

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西夏文字Tシャツ(続報)

 以前紹介した西夏文字Tシャツを販売しているショップもじもじのサイトがオープンしたので、お知らせてしときます。

 ショップもじもじ

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2008年9月 1日

1995年アジア紀行〈ダージリン〉

 インド西ベンガル州の最北端、東をブータン、北をシッキム、西をネパールに囲まれたダージリンは、標高2180mの街。19世紀にイギリス人が避暑地として拓いたというが、今は紅茶の名産地として、所在は知らなくても名前は知られているだろうか。

 ダージリンに滞在したのは、11月23日から28日。避暑地に晩秋というか初冬に訪れたのは、あまり何も考えずにネパールからカルカッタ(コルカタ)へ抜けるなら是非紅茶を一杯飲みにということだった。インドといえど北インドの冬は、水シャワーに抵抗がある程度には寒くなる。まして標高の高いダージリン、加えて滞在している間は曇りの日が多く、11月とはいえかなり冷え込んだ。尾根の上にあった宿はいつも雲の中で、洗濯物がまったく乾かなかった。



 避暑地というと、軽井沢や那須など高原をイメージするかと思うが、ダージリンは南北に長く伸びる尾根の上にある。街中は、ほとんどの道が坂道。どこへ行くにも坂の上り下りが必要になる。


 街を外れると一面茶畑。街のお茶屋で飲める紅茶は、出荷した残り物と誰かが言っていたが、今まで飲んだダージリンの中で一番と思えるほど美味しかった。


 ダージリンには、イギリス領時代に作られた登山鉄道が残っている。今や世界遺産とか。急な坂をのんびりと登る列車は、人が走るよりも遅いほど。写真はダージリン駅。


 トーマスを思わせる可愛い蒸汽機関車。


<ダージリン鉄道を紹介しているブログ>
 3つとも味のある写真で紹介していて、見ていて懐かしくも楽しい。FUKUGは、「世界の車窓から インド編」のディレクラーfukugさんのブログ。

 ダージリン鉄道(すーさんの山日記)
 ダージリン・ヒマラヤ鉄道 インド(さるみみの見た世界 【世界一周旅行】)
 インド車窓日誌8 《おもちゃ列車でダージリンへ》(FUKUG)
 インド車窓日誌9 《夜明けから日暮れまで》(FUKUG)


<Google Map>
 地形表示で見ると、ダージリンが尾根にあることが良くわかる。
 航空写真表示地形表示

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