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2008年10月19日

西夏と年号 その6

李元昊時代の年号 4

 前回からひと月以上あいてしまった。繰り返しになるが少し復習。これまでに紹介した李元昊時代の年号は、「開運」「広運」「大慶」「天授礼法延祚」この4つ。これらは、『宋史 夏国伝』李元昊について書かれた部分の最後に並べて書かれている。

 ところが、その最後の所には書かれていないものの、『宋史 夏国伝』李元昊についての別の所にもうひとつの年号が書かれている。それは、『宋史 夏国伝』李元昊が父の後を継いだことについて書かれた文章の最後の一文。

 初,宋改元明道,元昊避父諱,稱顯道於國中。
これは1032年のことで、その年の11月、宋朝では明道への改元が行なわれた。これに対して李元昊は、「明」が父の名徳明と重なるのでそれを避けるとして、代わりに顕道を使わせたというのである。

 先代、あるいは先祖の名前の字を避けるということは、中国の歴代王朝で行なわれている。前漢の時代は、最初の皇帝の名「邦」を避けて代わりに「国」を使ったなどなど、実例は沢山揚げられると思う。ただし、この宋と西夏のように上下関係のある状況で、下に位置する国の王の名前を忌避したという事例が他にあるのか、遺憾ながら自分にはその有無を示すことができない。


 忌避というだけならば、字は違うが同じものだと考えることができる。『宋史 夏国伝』はそう考えたから他の年号と併記していないのだろう。

 また、長部和雄氏の『西夏紀年考』では、顕道は李元昊の年号についての論考の中で取り上げず、結語の中の一論として、西夏の時代の起算をいつからと考えるかという話の中で紹介しているだけ。一般の西夏の年号とは別扱いであって、『宋史 夏国伝』に近いということだろう。


 一方岩崎力氏は、『西夏建国とタングート諸部族』(中央大学 アジア史研究 第14号/白東史学会 1990年)の中で顕道の問題を次のように評価している。

 明道元年(1032)は、李元昊にとって、その後の一連の行動の正否を占う記念すべき年であった。(中略)徳明の避名を名目として宋の正朔を拒否し、ここに顕道の年号を採用して公然と宋に対抗する姿勢を明らかにしたのである。
これについては、「宋に対抗する姿勢を明らかにした」とまで言い切っていいのかという疑問が残る。例えば、明らかにするならば全く別の年号にすれば良いのではないかと。


 他の研究者はどう考えているのだろうか。しかし、そういった文章を見つけることができなかったので、残念ながら分からない。ただし、『中国歴史紀年表』『東方年表』記載の年表、あるいは李範文氏主編の『西夏通史』(寧夏人民出版社 2005年)『The Cambridge history of China vol.6』(下記参照)などに掲載されている年号一覧表には、いずれも西夏最初の年号として顕道が記されている。少なくとも一応として、現代の研究レベルでは、西夏最初の年号として評価されていると言ってよいだろう。

 顕道を西夏の年号と捉えること、宋に対抗するという意識、そして李元昊時代の他の4つの年号との繋がりという点でも、顕道という年号がいつまで使われたのかを考えると、もう少しはっきりとした答えが出てくると思う。しかし、この点も簡単には片付けられない。少し長くなったので次回に。


<The Cambridge history of Cnina vol.6>
 自分が利用しているのは、中国語訳の『剣橋中国遼西夏金元史 907-1368年』(中国社会科学出版社 1998年)。原著者はHerbert FrankeとDenis Twitchettで1994年版。


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