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2008年10月30日

(書評)アフリカ・レポート

岩波新書 1146
アフリカ・レポート
---壊れる国、生きる人々---
松本仁一 著
ISBN978-4-00-431146-1
岩波書店 2008.12
目次などがこちらから見られます

 本書は、昨年朝日新聞を退職したという筆者が、長年の現地取材などを元に纏めたもので、2006年から08年にかけて朝日新聞紙上に断続的に掲載したレポートなどを加筆再編したものとのこと。

 1章は、農業がの国の経済を支えていたというジンバブエの話。白人敵視策をはじめとした場当的な政策と災害などに対する無策によって農業生産が大幅に減り、極度のインフレなどで経済が崩壊したという。2章は、アパルトヘイト撤廃から10年余りを経た南アフリカについて。国が警察力を中心とした治安維持に国が関心を持たなかったがために、極度に治安が悪化しているという。1、2章に共通しているのは、無策や収奪、収賄といった政府の腐敗という問題。

 3章は、アフリカ各地に進出する中国人の話。中心は、一旗上げること目論み南アフリカで小売業を営む人々。年に1万人を越える中国人が移り住み既に数十万人が暮らしているという。中国人が現地経済を握るという一面マイナスな話、利益を出すために苦労している中国人のことなどが紹介されている。

 4章は、アフリカ各地から母国を離れ、パリと東京で暮す人々の話。在日アフリカ人の4分の1がナイジェリア人という。

 5章は、アフリカ各地で腐敗した政府に代わって住人自らが自立を模索している話。6章が、アフリカ人と共に長い努力によって産業を築いてきた日本人の話。


 新聞記者らしい内容なのだと思う。とくに前半の3つの章はアフリカの負の面が全面に出た話で、血生臭い事件がでてくるなど絶望的な状況が語られている。これに対して5、6章がプラスな面の話で、それ自体はかなり感心できるものなのだが、今だ地道な努力というレベルであって、良い話はまだこれくらいなのかとも見えてしまう。

 そういった状況は、筆者が語る内容自体にはそれほど錯誤の少ない事実なのだろうと思う。ただし、一点としての話が深い分その事実がその地域や国の現状をどこまで反映しているものなのか。自分にとっては、筆者が短絡的に一面の事実を普遍化していないか反問しながら読まざるをえないというやや肩の凝るものだった。全体として、多くの事例を集めることでバランスを取ろうとしているように見えるし、そのように評価できる部分が多いものの、全面的にはその疑問は払拭されなかった。

 それでは、これからアフリカはどうなっていくのか、解決策はあるのか、また日本人はどう関わって行くべきかということについて。5章と6章がその一つの答えという意味と思われる。特に6章に登場する日本人には深い敬意を覚えるし、5章の話に光を見ることもできる。ただ、それは政府レベルの腐敗という点では、相当に小さな光りであって国としての先行きは見えてこない。筆者があとがきで「中間レポート」というあたりは、ここら辺にあるのかもしれない。その意味では、続編を期待しておきたい。


 1章に登場するジンバブエについては、本書に登場する白人敵視政策とそれに反発した欧米諸国の経済制裁というニュースをタイムリーに読んでいたことを思い出す。当時読んでいたレポートは、農産業の崩壊による飢餓に対して経済制裁が混乱に拍車をかけていることを問題視していたように記憶している。

 以来自分は、経済制裁の効果に疑問を持っている。ジンバブエのムガベ政権は、今年の大統領選挙を強引に乗り越えていまだ健在である。ではどうするのかという答えは、残念ながら自分にも無いのだが。

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2008年10月29日

カルモナ

 カルモナは、セビーリャから路線バスで東へ50分、アンダルシアの大地がなだらかに波打つ平原のただ中に築かれた城塞都市。一部に城壁を残す旧市街は、迷路のような路地が続き、白漆喰で塗られた家々が作る風景でも知られた観光地。


 新市街の広場にあるバス停から東へ少し歩くと、教会の向こうに塔が見下ろす門が聳えている。そこから、旧市街の中心にあるサン=フェルナンド広場まで続くのがプリム通り。両側の白い壁と空を隠す日除の下を人々が行き交っていた。


 カルモナは、平原の中で少し高くなった丘の上に築かれている。街の外周を歩くと新市街が広がる西側以外は、なだらかな平原がどこまでも続く風景が広がる。


 街中は、まったく迷路のように細い道が続き、方向感覚を狂わせてくれる。自動車が通れるところもあるが、狭い道が多い。奇麗に塗られた白漆喰の壁と蒼い空の組み合わせが、いかにもという絵になる。


 街の東、丘が崖へと変わるところに塞が残っている。その一部は、国営の観光ホテル、パラドールとして整備され、中庭を囲むカフェで一息つける。


 街の北東、少し赤みを帯びた石が積み上げられた城門、コルドバ門。小振りながらも迫力のある姿を留める。


 カルモナの歴史は、ローマ時代の砦にまで遡るという。街中に立派な門構えを見せる市博物館があり、街の変遷を再現したジオラマが展示されている。

 この他にいくつかの立派な教会や市場があるという街。ゆっくり歩いて1時間ほどで一回りできる。歩き疲れたらパラドールや広場にあるカフェで一休み。白い壁は、今も新しく塗り替えられていて、地元の人々が普通に暮らしている。

 観光客で賑わっていても、溢れ変えるほどではなく、中世のまま時間が止まった街というのでもない。丘から見晴るかす風景、迷路の小道と白壁が印象的な、歴史の古い今も生きる街。セビーリャから気軽に日帰りのできる、のんびりと気持ちのよい街。自分は、適度なアップダウンを気持ちよく散歩して過ごした。


<参考>
 カルモナ市公式サイト
 アンダルシア散策(Edilux 2003年)

 Googleのマイマップ2008年秋 スペインの旅 カルモナへ、この他にもカルモナの写真を載せています。

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2008年10月27日

『密使、西へ翔る』完結

 雪豹さんが、ブログラクダに乗った人は天に近いへ1か月にわたって連載した小説『密使、西へ翔る』がこのたび完結。

 時代は13世紀中頃、オゴデイ=ハーンの逝去の後、皇后ドレゲネが監国していた時。次のハーンを擁立するためのクリルタイへのバトの出席を促すため、モンゴル高原から遥かヴォルガ川河畔まで単身旅立った勇者スベエテイの物語。

 リアルで細かな描写と、どこまでどんな資料を読み込めばここまで書けるんだ、という深さを楽しませて頂きました。印象的にはバトがちょっと若ずくりでないかいとは思いましたが、サライとバトの話とか、オルダの登場とか面白かったです。

 雪豹さんは、以下のように言ってますので、心当たりの方は是非御対応を。

 歴史好きの素人が史料を読んで妄想したことをおもしろおかしく(?)書いてます。 「おまえの拠っている説は古い! オレの説を読め!!!」と思った専門家の方! 是非資料をください。

 密使、西へ翔る
 第一話は、こちらから → 闇に舞う二羽の白鷹


 次回作も期待してます(^^)

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2008年10月26日

リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか

 昨日のエントリーリニア中央新幹線 Bルートが無理なわけを書いていた時は気がつかなかったが、24日に長野県のHPにリニア中央新幹線に関連する情報がアップされていた。


 情報は2つある。一つは、リニア中央新幹線の整備促進についてという関連情報を集めたページ。従来から有った促進期成同盟会へのリンク以外に、6項目8件の文書についてpdfファイルへのリンクが貼られている。とりあえずアップしたという感が残るものだが。

 内容のあるものとしては、「リニア中央エクスプレス建設促進長野県協議会」の下に「平成20年度総会における決議文(pdf)」という、今年の8月付けの同協議会名義の決議文がある。その中で「リニア中央新幹線の早期実現を図るため」として7項目を列記している。この内1と7を以下に転載するが、文書中では太文字で表現されているので、特に重要という意味だろうか。

 1 リニア中央新幹線の県内ルートはBルートとすること。なお、県内に必ず駅を設置することとし、設置にあたっては沿線市町村の意見を踏まえて検討すること。
 7 今後のリニア中央新幹線の推進にあたっては、沿線自治体と十分調整すること。
「Bルートとすること」という所についてJR東海、あるいは国が異を唱えたら協議会はどう対処するのだろう。


 もう一つは、10月24日付け知事会見の中にあるもので、信濃毎日新聞記者牛山氏との質疑応答を記録したリニア中央新幹線について(1)と、朝日新聞記者杉浦氏との質疑応答を記録したリニア中央新幹線について(2)が載っている。以下気になるか所についてコメントするが、引用は知事の回答のみ最小限しかしないのでリンク先も参照されたい。

 まず、信濃毎日新聞記者との応答部分。JR東海による報告についてどう受け止めているか、という質問に対する答えについて。

 (前略)BルートかCルートかになるかなどというのは、長野県と、無理に言えば山梨県くらいしか関心がない、(中略)南アルプスは世界遺産に登録しようというような志を持っていまして、一説によりますと現在も隆起しているのだそうですね。そういうところにリニアを通すということはずいぶん大変なことではないかと。(以下略)
 前段について、ルートについて長野県と山梨県以外に関心が有る人はいないということだろうか。下記の別の応答の中で「メールでもずいぶんご批判をいただいており」とあるから、批判を各地から受けているのではないか。また、このブログではこの一週間でリニア関連のページへのアクセスが特に多く、それでいて長野、山梨からのアクセスがそれほど多くない。関心の(深さは不明だが)広さは物語っているように思う。

 後段について、JR東海は22日に国に提出した報告書の中で南アルプスのトンネルについて、「建設可能と判断した」(北海道新聞)と報告したとのことだが、知事は報告書に納得していないということか。


 次に、駅の設置についての質問に対する答えについて。

 長野県は大県ですから、二つでも三つでもいいのではないですか。(以下略)
 まず、長野県に3つ造ることの難点は昨日書いた。2つでも同じと思っている。

 「長野県は大県」と言っていることについて、面積の広い県という意味で大県といっているのなら有効な反論ではないが、人口も加味した場合を考えてみる。長野県南部、諏訪・伊那・飯田地域の人口は、今年9月現在で57万人、松本、塩尻に木曾を加えて90万人(長野県のHPより)。これに対して東西に長い県に東西に東海道新幹線が走る静岡県の総人口が380万人(静岡県のHPより)。静岡県には新幹線の駅は6つある。人口を比べる限り駅3つは多いと見る。


 次は、Bルートという主張は長野県のエゴだという誤解を払拭させることについての考えは、という的を外した質問に対する答えについて。

 ガバナーメールでもずいぶんご批判をいただいております。(中略)東京と大阪だけ結んだら、あるいは東京、名古屋、大阪だけスピードを出して走ったらそれですべてよろしいのだと、(中略)そんなの飛行機で飛べば良いではないか、その通りなのです。(中略)一番大事なことは沿線が影響を被るのです。その影響が甘受できる程度のものであるためには、どのような利益がその地元に還元されるのかということがなければいけない。それだけです。
 「東京と大阪」以下は、東京、名古屋、大阪を早く結ぶためなら飛行機で十分だという意味のようだ。しかし、東京大阪間として捉えても、それは空港に近い一部の人についてのみ当てはまること。リニア新幹線が飛行機より圧倒的に早く結ぶことを目指したものであることを、理解されていないということだろうか。加えて、JR東海がリニア新幹線を東海道新幹線のバイパスと位置づけている(JR東海のHPより)ことも理解されていないようだ。

 「一番大事なことは」以下について。これは、意図的にはぐらかせているのだろうか。Cルートが通る予定の飯田については、駅を造ることは十分に可能だと思うが、その場合諏訪や伊那は沿線ではない。通過する沿線には利益をという主張はある程度は理解できるが、Bルートを主張する理由にはならない。長野県としての協力・・・と言われるかもしれながい、程度の問題としてそれは拡大解釈すぎると自分は考える。


 次は朝日新聞記者との応答部分。駅関係について金銭的な部分はどうか、という質問に対する答えについて。ここは、財源についてという重要な所という意味もあるが、何が言いたいのか漠然としているので全文引用する。

 今、その5兆1千億で敷設いたしますと言っているけれど、これについてだっていろいろな議論があるのです。JR東海は、東海道新幹線という大変重要な高速交通体系を中心にしてできあがった会社でありまして、そこで得られるメリットというものを大いに享受して、JR中央3社の中でも非常にいい業績を上げている訳です。だから、東海道新幹線のオールタナティブ(alternative)としての、代替路線としてのリニア新幹線を自前でやりたいというような財務能力を得た。これについては、純粋民間会社ではないでしょうと、もともとは国民の負担において、国鉄というものが維持されて、それを民営・分割化するプロセスで、どれだけ多くの国民の負担を置き去りにしてきているのかという議論があります。そういうような問題も含めて、総合的に経済的な議論をしなければいけないという問題だと私は思っています。
 結局のところ、JR東海は大きな利益が上がっているのだから、国民に還元しろと言いたいのだろうか。それが正しかったとしても、それを長野県に特別に回す理由にはならない。財源問題もはぐらかしたいという意図なのだろうか。


 質疑応答を通しての感想を少し。まず、駅を設置する条件、リニア新幹線の位置づけなど、自分と認識が違う所が見えてきた。Bルートの理が見えてこない上に、財源問題に具体的に答えていないことも不満が残るし、焦点がぼやけて何が言いたいのか分からない所もある。結局の所、自分のBルートは無理という考えは覆らなかった。これを読まれたほかの方はどう考えるだろうか。

 余談だが、信毎の記者の不甲斐無さが腹立たしいほどだが、この程度なのだろうか。

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2008年10月25日

リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ

 リニア中央新幹線と長野県から続きの話。

 前回も書いたように、長野県の主張の中には「地域振興」という言葉が何度も出て来る(例えば、信州・フレッシュ目安箱 2008年5月7日回答)。「地域振興」のみを理由として地元に利があるというルートを主張しているのである。以下で述べるように、この主張にはほとんど理が無いと自分には思える。


 東海道新幹線は、東京から名古屋へ毎日走っているのぞみ号が片道70本、座席数で9万席を越える。これは、一日18本の特急あずさ号のほぼ10倍にあたる。これは座席数の話なので、利用率なども加味すればあずさ号の東京諏訪間の輸送量は相当に小さいと予想できる。

 一方で東海道新幹線はそれでも不足とされ、増発が計画されている(ダイヤ改正で「のぞみ」増発へ)。これだけの需要があれば、首都圏と中京圏の直結を第一義的に考えることには十分に理があるだろう。ついでに地元もという話ではなく、まして迂回してまでというのはかなりの逸脱である。


 リニア新幹線東京名古屋間の建設費5兆1000億円に対して、諏訪へ迂回した場合に増える建設費はおよそ7000億円以上(リニア中央新幹線を諏訪へ)で、全体の7分の1にあたる。地域振興を名目とした額としては、あまりにも大きい数字ではないか。

 Bルートに決定した場合にこの追加建設費を誰が払うのか。JR東海が得られる利益が限られるなら、地元負担という声が出るのは当然である。長野県のホームページには、この膨大な建設費については何も書かれていないし、知事や関係者の発言としても自分はまだ聞いたことが無い。

 長野県の予算規模は、歳入総額が8330億円で支出の内一般公共事業費が794億円(平成20年度の予算の概要)。開通が17年後として、20年分割で払ったとしても毎年350億円以上という額を長野県が払い続けるのは不可能に見る。

 そうすると、長野県は国の予算をあてにしているということだろうか。ところが、国の2008年度整備新幹線予算が706億円(平成20年度予算政府案 総務省)で、目下東北、北海道、北陸、九州と各地の新幹線が建設の途中にある。さらに、全国新幹線鉄道整備法第13条によれば、「機構」の建設費用を国と都道府県が負担するとあるだけで(機構とは、鉄道建設・運輸施設整備支援機構のこと)、JR東海が自前で建設する場合は想定されていない。


 他にもBルートの無理を挙げることが出来る。長野県の主張は、すなわち諏訪、上伊那、飯田と3つ駅を設置することを目指しているということだ。東海道新幹線で名古屋新大阪間はのぞみで50分かかる。名古屋新大阪間には、現在3つの駅がある。すったもんだの末に中止になった栗東を入れても4つ。

 直通を主体とする列車を走らせる上で、中間駅の増加はダイヤ設定の妨げになる。東京名古屋間は、JR東海の計画でおよそ40分という。今の東海道新幹線と比べると、長野県だけで3つの駅を造ることは、鉄道の輸送技術的にかなり無理があることと思う。

 また、迂回すると50kmほど長くなるので時速500kmで6分、実際には迂回するとカーブが増えることから、もう少し長く10分近く所要時間が延びることになる。東海道新幹線がJR発足以降数分の所要時間短縮にしのぎを削ってきたことを考えると、決してたかだか10分とは思われない。


 JR東海に利が無いにもかかわらず、「国民経済の発展」「国民生活領域の拡大」「地域の振興」という「新幹線鉄道網の整備」の3つの目的の1つだけを根拠に迂回を主張することは、無駄と言い切ってよいのではないか。つまり、Cルートが技術的に可能である限り、Bルートになることはあり得ないのである。

 長野県に残されているのは、Cルートが環境破壊であると主張することだろう。ただ、仮にそうであったとしても、既に利益誘導のために無理に「我が儘」を主張している実態を見せてしまった以上、環境環境と言っても白々しく見えるので、少なくとも声高に叫ぶのは止めた方が良い。加えて、一連のニュースによって長野県の評判がどれだけ落ちたのかということも真剣に考えて欲しい。


<追記> (10月26日)
 10月24日付けで、長野県のHPにリニア中央新幹線関連の情報がアップされていました。それについてリニア中央新幹線 知事の質疑応答ほかをアップしました。

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2008年10月23日

産経新聞の特集 対馬が危ない

対馬が危ない
 (上)韓国、不動産相次ぎ買収
 (中)島民の3倍、韓国から大挙
 (下)生き残りへ苦渋の“歓迎”
 (産経新聞 10月21日、22日、23日)

 産経新聞のサイトに、3日間に渡るかたちでこのような特集がアップされた。

 一日目が、韓国資本による不動産買収を取り上げたもので、ホテル、民宿、釣宿として韓国人向けに営業しているという。二日目は、定期航路で釜山港と厳原港が結ばれ、年間約1600人程度だった観光客が2004年以降急増、昨年は6万5千人を越えたという話。三日目は、対馬は林業、漁業が低迷し、高齢化、過疎化、出稼ぎといった問題を抱えていて、韓国人、韓国資本を受け入れざるを得ないというもの。

 そういった中で、国境の島としての安全保障や主権国家としての領土保全、韓国人の増加による文化的な浸食、様々なトラブルの増加といった問題点が指摘されている。最後には、次のような対馬市長のコメントが紹介されている。

 「少なくとも国境に面した島については、安全保障の点からも外国資本による不動産買収を認めない除外規定など、実効支配につながることを防ぐ手だてを設けるべきだ」
 「日本人の国境に対する感覚は極めて希薄。対馬の資源を生かした新たな産業を興すなど、国境に面した島を守る施策をとるべきだ。それが国境を国土として国が守っていくことになる」
そして、次のような言葉で締めくくっている。
 韓国資本による対馬攻勢は激しいスピードで進んでいる。残された時間は少ない。


 タイトルからしてそうだが、随分とズレた内容だと自分は思う。ズレという意味はいくつかある。ひとつには今さらというもの。記事自体にあるように、以前からのことであって急増という意味では既に5年来のできごと、今危機的だと書かれること自体に隔たりを感じる。

 また、そもそも国境での交流が盛んになるということは、平時であればあたりまえのこと。どちらかというと、やっと普通の国境地帯になってきたと自分は考える。もちろん、甚だしいトラブルや事件事故、違法行為などがあれば対処するのは当然としても、不動産買収自体を問題とするのもおかしな話。相当に陳腐な言い方だが、日本もやってきたことだ。

 閉鎖的なリゾートを造って閉じこもるということは、問題がないわけではないが特別なことでもない。その上でどうやって交流を盛んにするか、知恵を絞って行くべきだろう。落とすお金が少ないという話も、少なくとも国内に普遍的なことで特別な話ではない。


 対馬市長のコメントも、ちょっとまてと思いたくなるもの。不動産取得と実効支配は別ものであり、除外規定を設けるのも過剰反応と思える。

 なによりも国境の島であることが、対馬にとって最大の資源であり武器である。この資源は、国内では沖縄の八重山、北海道の北と東、そして対馬だけが持っている極めて特異で限られたものである。したがって、「国境に面した島を守る」ではなく「生かす」だろうと思うし、なによりそう考えられているわけで、それは「しかたなく」と言われるものとは思われない。

 自分は、国境の街に惹かれる。アジアの各地、今年はスペインでも見てきたが、そこには他とは違った空気が流れる空間がある。逆手に取れば、韓国人にとってばかりでなく、日本人にとっても魅力的な観光地になる。


 多少理想論であることは承知している。自分はまだ対馬を見ていない。国内で国境を体感できるのなら、できれば早く見に行きたいと思う。

 国境は、いつの時代にあってもどこの地域でも、そこで向かい合う両方の文化に染まる場所である。その意味で韓国の文化が押し寄せることは普通のことであり、両国の言葉が飛び交うのも当たり前のこと。守るではなく、あくまでも交流前提で考えるべしと思う。

 もうひとつ。対馬は魏志倭人伝の時代から南北の交流によって生きてきた。対馬がその中心でなく、ただの辺境であった戦後数十年が変なのであって、今対馬は本来の姿に戻りつつあるとも言える。まあ、机上の空論でもはあるのだが。

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2008年10月22日

リニア中央新幹線と長野県

JR東海、リニア3ルートを国交省に報告
(日経新聞 10月22日)

 2025年に首都圏ー中部圏での開業を目指すリニア中央新幹線のルート案などを盛り込んだ地形・地質調査を国土交通省に提出した。南アルプス直下を貫通する「直線ルート」を含む3ルートについて建設が可能であることを報告した。

 17年先と気が長い話ではあるもののいよいよ具体的に動き出す。とりあえず東京名古屋間ということで、東京都、神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県を通るルート(Google マイマップ参照)が想定されるが、この件についてニュースになるのは長野県ばかり。JR東海が押しているという直進案(Cルート)に対して、長野県と県下関係地域が諏訪経由案(Bルート)を主張していることが再三報じられている。このことは、以前リニア中央新幹線を諏訪へでも書いている。どうも治まりがわるいので、もう少し書いてみる。


リニア中央新幹線:地形地質調査 県内は「Bルート」希望
(毎日新聞 10月22日)

 上記ニュースに先だって、このニュースが報じられている。この中で長野県知事村井氏は、次のようにコメントしている。

 JR東海がリニアをまっすぐ走らせることができるとの認識を持っただけだ。県の立場を変えることなく、私企業の言うことに反応することもない
 国土交通省から、自治体と相談してルートを決めろ、と指示が出るはず。明治以来、自治体の意見を聞かずに鉄道を引っ張ったことがあるか。南アを世界遺産にする動きもある
本当にこんなことを言ったのだろうか。そもそもこの事業は、JR東海が建設するという前提ありきのこと。それを否定すれば17年後の開通もありえない。その上で「私企業の言うこと」という言い方は暴言に近い。

 揚げ足取りを少し。明治以来、自治体の意向とあまり関係なく造られた鉄道を揚げることは可能と思う。また、全国新幹線鉄道整備法(法令データ提供システム)を読む限り、「自治体と相談しろ」とはどこにも書かれていない。協議なんて必要ない・・・とは言わないが、地方の我が儘まで聞く必要があるのかどうか。「我が儘」という点については後で触れる。


 この知事のコメントが、どこまで知事の発言の核心なのか。また、長野県としてはどう考えているのか。長野県にも当然ながら公式HPがあるにも関わらず、さっぱり分からない。長野県内の鉄道についてというページには、リニア中央新幹線については外部にリンクが貼ってあるだけで、県や知事のコメントが全くない。

 違うページを探すと、信州・フレッシュ目安箱というメールなどで寄せられた意見に、県の担当者が答えたと思しきページがある。その中に、リニア中央新幹線に関係するものがいくつか見つかる。たとえば2008年5月7日回答の中には、次の様に担当者の回答が纏められている。

 法の目的の趣旨である地域振興の観点から、県としましては、今までどおりBルートによる整備が必要と考えており、(以下略)
新幹線整備法を根拠に「地域振興」だから「Bルート」というのが主旨というのは、知事の発言と方向性としてはそれほど変わらないように思う。

 (それにしても、長野県の公式見解が纏まって読める文章が、ネット上にまともに無いというのはどうかと思う)

 この新幹線整備法について。確かに同法の第一条に「地域の振興」という文言があるが、全文を「法令データ提供システム」から引用すれば次のとおり。

 この法律は、高速輸送体系の形成が国土の総合的かつ普遍的開発に果たす役割の重要性にかんがみ、新幹線鉄道による全国的な鉄道網の整備を図り、もつて国民経済の発展及び国民生活領域の拡大並びに地域の振興に資することを目的とする。
つまり「地域の振興」は、「国民経済の発展」「国民生活領域の拡大」と併記された3つの目的のひとつということ。3つのうちのひとつだけを振りかざしてもBルートを押す根拠としては弱い。ほかの2つにも「資する」のか、あるいは妨げないのか長野県は、知事はどう考えているのだろう。


 だいぶ長くなったので、続きは後日に。


<追記> (10月26日)
 当エントリーの中程に、「長野県内の鉄道についてというページには、リニア中央新幹線については外部にリンクが貼ってあるだけで、県や知事のコメントが全くない。」とありますが、10月24日に長野県のHPが更新されてリニア中央新幹線の整備促進についてというページが新しく作られています。また、同日づけの知事会見には、リニア中央新幹線関連のものが含まれています。

 これらのことも含めて、続きはリニア中央新幹線 Bルートが無理なわけリニア中央新幹線 知事の質疑応答ほかをご覧ください。

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2008年10月19日

西夏と年号 その6

李元昊時代の年号 4

 前回からひと月以上あいてしまった。繰り返しになるが少し復習。これまでに紹介した李元昊時代の年号は、「開運」「広運」「大慶」「天授礼法延祚」この4つ。これらは、『宋史 夏国伝』李元昊について書かれた部分の最後に並べて書かれている。

 ところが、その最後の所には書かれていないものの、『宋史 夏国伝』李元昊についての別の所にもうひとつの年号が書かれている。それは、『宋史 夏国伝』李元昊が父の後を継いだことについて書かれた文章の最後の一文。

 初,宋改元明道,元昊避父諱,稱顯道於國中。
これは1032年のことで、その年の11月、宋朝では明道への改元が行なわれた。これに対して李元昊は、「明」が父の名徳明と重なるのでそれを避けるとして、代わりに顕道を使わせたというのである。

 先代、あるいは先祖の名前の字を避けるということは、中国の歴代王朝で行なわれている。前漢の時代は、最初の皇帝の名「邦」を避けて代わりに「国」を使ったなどなど、実例は沢山揚げられると思う。ただし、この宋と西夏のように上下関係のある状況で、下に位置する国の王の名前を忌避したという事例が他にあるのか、遺憾ながら自分にはその有無を示すことができない。


 忌避というだけならば、字は違うが同じものだと考えることができる。『宋史 夏国伝』はそう考えたから他の年号と併記していないのだろう。

 また、長部和雄氏の『西夏紀年考』では、顕道は李元昊の年号についての論考の中で取り上げず、結語の中の一論として、西夏の時代の起算をいつからと考えるかという話の中で紹介しているだけ。一般の西夏の年号とは別扱いであって、『宋史 夏国伝』に近いということだろう。


 一方岩崎力氏は、『西夏建国とタングート諸部族』(中央大学 アジア史研究 第14号/白東史学会 1990年)の中で顕道の問題を次のように評価している。

 明道元年(1032)は、李元昊にとって、その後の一連の行動の正否を占う記念すべき年であった。(中略)徳明の避名を名目として宋の正朔を拒否し、ここに顕道の年号を採用して公然と宋に対抗する姿勢を明らかにしたのである。
これについては、「宋に対抗する姿勢を明らかにした」とまで言い切っていいのかという疑問が残る。例えば、明らかにするならば全く別の年号にすれば良いのではないかと。


 他の研究者はどう考えているのだろうか。しかし、そういった文章を見つけることができなかったので、残念ながら分からない。ただし、『中国歴史紀年表』『東方年表』記載の年表、あるいは李範文氏主編の『西夏通史』(寧夏人民出版社 2005年)『The Cambridge history of China vol.6』(下記参照)などに掲載されている年号一覧表には、いずれも西夏最初の年号として顕道が記されている。少なくとも一応として、現代の研究レベルでは、西夏最初の年号として評価されていると言ってよいだろう。

 顕道を西夏の年号と捉えること、宋に対抗するという意識、そして李元昊時代の他の4つの年号との繋がりという点でも、顕道という年号がいつまで使われたのかを考えると、もう少しはっきりとした答えが出てくると思う。しかし、この点も簡単には片付けられない。少し長くなったので次回に。


<The Cambridge history of Cnina vol.6>
 自分が利用しているのは、中国語訳の『剣橋中国遼西夏金元史 907-1368年』(中国社会科学出版社 1998年)。原著者はHerbert FrankeとDenis Twitchettで1994年版。


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2008年10月18日

亀山城から本能寺へ

 先の旅から戻って気がつけば4週間、何か旅行中の2週間よりも短かったような。ぼやぼやしていると少しは?動くようになった足腰が鈍ってしまうので、秋晴れの一日歩きに出かけた。

 以前より暖めていた企画、明智光秀とその軍団を真似て丹波亀山城より本能寺へ駆ける・・・のは無理なのでとにかく歩いてみるというもの。朝の電車で亀山ならぬ亀岡へと向かった。


 本能寺へと向かう前に、まず亀山城跡を見て回った。自分が今まで回った江戸時代のそれなりに地形が残っている城跡の中で、宗教法人が管理して、しかも中心部分が聖地となっているという例には初めて出会った。本丸を二分していた堀の名残と思われる部分までは入れるものの、そこから先は基本的には入れないそうだ。

 写真は、亀岡駅の南に残る外堀。一部気の早い木が色づき始めていた。左側が本丸跡。ここ以外にも堀の跡は何か所か確認できるし、街を歩くと外堀に面していた門などの案内板が立っていたので、いくつかを訪ね歩いた。


 亀山城を後に、できるだけ古い山陰道を探しながら東へ向かったが、馬堀駅周辺は団地などの造成で無くなっているのを確認した。山陰道の名残が確認できたのは、写真の篠村八幡宮へ辿り着いてから。ここまでゆっくりあるいて1時間。

 篠村八幡宮は、太平記の時代に足利尊氏が鎌倉幕府に叛旗を翻した場所。境内には、それに因む石碑が立っていた。


 八幡宮からさらに1時間、国道と京都縦貫道を越えて老ノ坂峠を目指すと、亀岡市と京都市の境に立つのがこの石碑。「従是東山城国」と刻まれている。神社からここまでは、田圃の端などに残る山陰道をだいたいは辿ることができる。


 峠を下り、国道を越えて旧道を進むと、写真の場所に出る。左上の電柱に「山陰街道沓掛」と書かれた交差点の名前と思しき看板が掛かっている。本能寺へと向かう明智光秀の部隊が、休憩を取ったとされている場所。真っ直ぐ進めば京、右へ曲がれば大坂、光秀の決意が明かされた場所という。峠からここまでは、かなり寄り道をしたので1時間以上かかっている。


 沓掛から先は市街地で景色を見ながらという趣きではなくなる。代わりに、京都から見て最初の宿場街であるという、少し面影が残る樫原の街並を眺めながら歩いた。ここまでで、足はかなり悲鳴を上げた。休憩を長めに取ったので、桂川に架かる桂大橋を渡ったのは沓掛からさらに1時間後。

 足が多少重くても橋があるので渡河に苦労はないのだが、明智軍はどうやって渡ったのだったか。


 いわゆる丹波口から京に入り、壬生を通って本能寺跡に辿りついた時にはもう夕方だった。地図上で計って22kmほどの道程。だいぶ寄り道をしたので30km近くは歩いている。峠越えで6時間半ならまあまあだろうか。といっても足はパンパンなので、傷みが引くのに何日かかるだろう。

 明智軍は、このコースを軍装で辿り、しかも着いてからが戦の始まりだった。まったく頭の下がる思いでいる。


 ところで、老ノ坂峠を越えるにあたって、学研の歴史群像シリーズの「明智光秀」に載っているコラムを参考にした。今の国道9号は、当時の山陰道とはかなりルートが違うからだが、その中には峠付近は道が行き止まりで踏査困難と書かれている。

 下の地図は、その老ノ坂峠周辺のもので、赤線が自分の歩いたルート。真ん中に亀岡市と京都市の境があり、これを越えてしばらく行くと細い踏跡が残るだけの道が坂を下るまで続いている。一応踏破することはできるのだが、「明智光秀」掲載の地図を見る限り大正時代に残っていた峠道は下の地図の青線であるらしい。しかしこのルートは、峠付近が清掃工場、山麓が霊園の敷地になっていて地形が大きく変わっているので、旧道を辿るのは確かに不可能と思われる。

 もう一点、歩いていて気がついたのだが、このルートには峠と言える場所が2か所ある(地図に「峠?」と記したところ)。このどちらか、あるいは両方併せて老ノ坂峠になるのだろうか。東側は確認しようがないが、西側の峠を東へ少し下った所に「京都の自然二百選 老ノ坂峠(山陰道)」と書かれた標識が立てられている。どうも微妙な位置で、これは西側を老ノ坂峠と言っているのか、それとも付近一帯を老ノ坂峠周辺の自然と言っているのだろうか。


「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(京都西南部)を基に作成しています。」


<Google マイマップ>
 亀山城から本能寺へ 参考地図

<参考>
 俊英 明智光秀(学研 2002年)

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夏漢字典


夏漢字典
李範文 編著
賈常業 増訂
ISBN978-7-5004-2113-9
中国社会科学出版社
1997年7月第1版、2008年6月第2次印刷

 11年振りに増補改訂なったという夏漢字典が届いた。A4版で約1200頁、ハードカバーで箱入り。著者李範文氏のほか、西田龍雄氏、クチャーノフ氏などの写真入り。

 鞄に入れて鞄が耐えられるだろうか。持ってなかったのと言われそうだ。はい、持ってませんでした(汗

 扉対向に「獻給寧夏回族自治區 成立五十周年」という一文が入っている(「献給〜」は「〜にささげる」「〜に贈る」)。記念事業だったのか?


<参考>
 成立50周年を迎える寧夏回族自治区
(北京週報 9月23日)

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2008年10月17日

セビーリャのアルカサル

 セビーリャのアルカサルは、旧市街の南寄りに大聖堂と勝利の広場を挟んで立っている。アルカサルとは、城あるいは宮殿の意味とのことだが、ここのアルカサルは城壁に囲まれているもののどちらかといえば宮殿である。

 セビーリャのアルカサルの歴史は、10世紀のアンダルス=ウマイヤ朝時代にゴート時代の教会の跡地に総督府を築いた時に遡るという。アッバード朝、ムワッヒド朝の時代に拡張がなされ、13世紀カスティーリャによる征服の後も14世紀のペドロ1世を初めとする歴代の国王の手によって増改築が繰り返されたという。

 とはいえ、セビーリャが政治的にアンダルシアの中心だったのは、11世紀から12世紀にかけてのことで、スペイン王国時代には国内に何か所かあった宮殿のひとつに過ぎなかった。いわば離宮である。ヨーロッパで王宮というと、パリのベルサイユのような建物を思い浮かべるだろうか。首都マドリッドにある現王宮は、威容という点ではそういう雰囲気の建物だった。セビーリャのアルカサルは、100m四方に満たない敷地に様々な建物が建ち並んでいて、しかもほとんどの建物が二階建て一部に屋根裏的な三階が見られるという規模で、威容という点ではかなり見劣りがする。

 この宮殿の特徴のひとつは、ムデハルと言われるイスラム教とキリスト教折衷の様式にある。自分が建築様式を見分けて理解しているわけではないが、漆喰で立体的に飾られた柱や天井、モザイクタイルなどは確かにイランなどのモスクで見たものを思い出させる。加えて、宮殿の南に広がる庭園は、東西400m、南北300mあまりと建物部分の数倍の広さで、様々な形に植えられた木々を見て歩くだけでも楽しかった。



 建物としては、ペドロ1世の時代に起源を持つというペドロ王の宮殿あるいは、ムデハル様式の宮殿と呼ばれる建物が見どころの中心。写真は、孔雀のアーチに飾られた出入り口が三方にある大使の間

 ムデハル様式の宮殿は、一階はがらんどう、いわば建物だけで宮殿らしい調度の類は二階に展示されているようだ。ただ二階には入場制限があり、時間待ちが煩わしくて自分は結局見ていない。


 宮殿内には大小様々にパティオと呼ばれる中庭がある。写真はムデハル様式の宮殿の真ん中にある乙女のパティオ。パンフレットには、石畳の真ん中に丸い小さな噴水という写真が載っているので、この細長い池は最近造られたものということになる。


 乙女のパティオを囲む回廊の天井を見上げた写真。色とりどりに塗られた立体的な漆喰飾りは、特に気に入っている。


 ムデハル様式の宮殿の東隣には、18世紀に建てられたというゴシック様式の宮殿がある。写真は、その中の一室で白漆喰と黄色に塗られたアーチが印象に残った庭園の広間


 庭園の広間に隣接した庭園のひとつ、一段高所に造られた池の庭園


 こちらは、さらに南側に広がる庭園の一角。細長く延びる糸杉や刈り込まれた生け垣で造られた迷路など楽しく見て回った。


<参考>
 セビーリャのアルカサル(セビーリャ市)
 世界歴史大系 スペイン史1(山川出版社 2008年)


 Googleのマイマップ2008年秋 スペインの旅 セビーリャへ、この他にもアルカサルの写真を載せています。

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2008年10月16日

1995年アジア紀行〈ペルセポリス〉

 ペルセポリス観光などのために、イラン南部の中心都市シーラーズへ滞在したのは、96年の3月19日から24日のこと。古代ペルシャ帝国、アカイメネス朝の聖なる都として、恐らくはイランにあるものとしては最も有名な遺跡とはいえ、その最寄りの街に5日も滞在したのはビザの延長という目的もあったため。

 イラン滞在にビザが不要だったのは当時すでに伝説のような話で、バックパッカーが大使館に申請して取れるのは、一週間のトランジットビザだけだった。それでは、陸路をパキスタンから入ると真っ直ぐトルコへ抜けるだけで終わってしまう。そこで延長ということになるのだが、当時のシーラーズの担当官は無口ながら親切な人物だった。驚いたことに、イスラム教の集団礼拝日である金曜日に手続きをしてくれた。オフィスを訪ねたとき、黙々とクルアーンを暗唱していた姿を覚えている。


 ペルセポリスは、シーラーズから北東へ50kmあまり。地図を見ると、谷間を縫うように走る道でひと山越えた隣の盆地にあるのが分かる。片道1時間、遺跡を隅々まで見て歩いて丸一日費やした。


 遺跡の主要部分は、南北がおよそ450m、東西が350mと大帝国の都としては意外に小さい。ザグロス山脈の中の比較的小さな山塊の西側山裾といった位置にあり、その斜面を少し登ると写真のように遺跡と盆地が一望に見渡せる。

 紀元前330年、征服者アレクサンドロスによって宮殿に火が放たれた。大宴会のあげくに酔った勢いで放火したという伝説が残る。遺跡を渡って来る風を受けながら、しばし空想に耽るにはこの高さはなかなか良かった。


 都には、柱が林立して巨大な宮殿が立ち並んでいたという。写真は、その中でも巨大な柱が保存されている謁見殿を北側、基壇の下から見上げたところ。


 都の入り口には巨大な石の階段がある。そこを登りきると巨大な浮き彫りが並ぶ万国の門が出迎えてくれる。


 ペルセポリスというと、レリーフの写真の方が知られているだろうか。あちこちの壁に多くのレリーフが残り、それを見て回るのがかなり楽しかった。

 写真の左にはライオンに襲われた牛、中央に楔形文字、右に朝貢使節?が見えている。ただし、遺跡についての詳細な資料もメモもないので、どこの壁のレリーフなのかは分からない。


 こちらも場所詳細は分からない。王と彼に使えている人々を描いたものだろうか。


<参考>
 西アジア史II(山川出版社 2002年)
 アレクサンドロスの征服と神話(講談社 2007年)

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2008年10月14日

(書評)ムガル帝国時代のインド社会

世界史リブレット 111
ムガル帝国時代のインド社会
小名康之 著
ISBN978-4-634-34949-0
山川出版社 2008.8

 書名に「社会」とあるが社会史の本というわけではなく、政治から制度、経済、社会、文化まで広く扱っている。しかも最初に簡単ながら地勢と前史まで載っている。本文わずかに87ページ、参考文献3ページという量。恐ろしくコンパクトに纏めてあるという一冊。

 内容は、下記目次のよう具合であまり付け加えることがないが、政治史的としてムガル皇帝がアウランゼーブより後がほぼ出てこないことは折り込み済みだった。南部諸国への遠征やマラータとの関係などは、その中で上手く纏められていると思う。


 自分的には、ムガル帝国の最盛期までの政治史には興味があるし、イギリスの進出にも多少関心があるが、さほど深い話は知らなかった。まして絵画や建築は何かの偶然に目にしたか、現地で見たことがあるていどで、政治制度は全くわからないという程度。

 そのレベルで見て、政治史以外について知らない情報が簡潔に纏められていて、いわば教科書的によく出来ていて解り易くとても勉強になった。本シリーズの特徴でもある上欄外の用語紹介は、他に増して多いようにも見える。実用性もそれなりに押えられていると言えるだろうか。

 政治史、あるいは歴代の皇帝の名前が並ぶような王朝史という目でみると、入門書としても物足りない。しかし、ムガル帝国時代の歴史全般としてみると、実績の無い皇帝のかわりに宰相や周囲の国の王の名前を押えるなど、本のタイトルに見合ったバランスが取れているとみる。高校教科書レベルよりも詳しい内容の、ムガル帝国を中心とした16世紀から18世紀にかけてのインド史の入門書という位置づけで、手軽で有用な一冊といって良いだろう。


<目次>
  インド世界の形成
 1 中世世界からムガル帝国の確立まで
 2 ムガル帝国の支配機構
 3 ムガル時代の経済発展と首都建設
 4 ムガル時代の社会と文化
 5 ムガル帝国の衰退

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2008年10月11日

セビーリャ

 グラナダ、コルドバと並んでアンダルシア三都のひとつと言われるセビーリャ。歴史はローマ時代に遡るといい、現在ではアンダルシアの州都としてスペイン第四の大都市だ。8世紀に始まるイスラム諸王朝の時代、アンダルシアの政治的中心はコルドバとグラナダだったが、11世紀にはアンダルス=ウマイヤ朝滅亡後の有力な地方勢力アッバード朝の首都となり、12世紀後半にはムワッヒド朝治下の中心都市となった。カスティーリャによって征服されたのは1248年のこと。

 セビーリャは、アンダルシアを貫いて流れるグアダルキビル川河口に近い川港として、古代から重要な交易都市であったという。カスティーリャ時代以後は、大西洋交易の拠点となるスペイン最大の都市として栄えたとのこと。


 セビーリャはスペイン最初の目的地だったが、意外な結果としてポルトガルの首都リスボンから陸路で入ることになった。9月8日、朝9時にリスボンを出たバスは、500kmほどの道程、1時間の時差と国境を越えて8時間でセビーリャへ到着した。


 ポルトガルとスペインの国境グアディアナ川、河口近くに架かる高速道路の橋の上を走り過ぎた。同じEU内なので手続きは無く、看板と地図を気にしなければただ川を渡ったというだけのこと。


 アンダルシアの母なるグアダルキビル川。街の西を北から南へ流れて今でも船が行き交う。地図を見ると、川の本流はより西側に作られたと思しき放水路にあるようだ。川沿いには、800年前に遡るという黄金の塔という名の塔が立っている。


 街の北から東にかけて、一部分だけだが城壁が保存されていた。その外側を広い道路が走っていて、城壁が残っていないところでもその外側と内側では脇道の走り方や建物の大きさに違いがある。おまかには、この道路が旧市街の外周を走っているものと想像できる。


 かつてイスラムが栄えたアンダルシアとはいえ、今はカトリックの世界。教会の建物は、特に見慣れない旅の始まりの頃どれもが文化遺産のようにも見えた。教会といば石造りで高い塔のある巨大なものというのは偏見のようで、よく見て歩けば大小様々で造りもかなり個性的。写真は、聖母信仰で知られているというマカレナ教会。


 そうはいってもセビーリャで一番に案内されるのは、巨大なセビーリャ大聖堂 。写真の右側に建つ塔はヒラルダの塔と呼ばれていて、その起源はイスラムの時代まで遡るという。また、聖堂内にはコロンブスが葬られている。


 大聖堂の南側には、もうひとつの見どころセビーリャのアルカサル(城あるいは宮殿の意味)がある。聖堂と比べると大きな建物が無いので、写真でみるとあまりぱっとしないが、城内は南側の庭園を取り込んだ広大な敷地があり、個性豊かな建物群は見て歩いて楽しいものだった。写真を沢山撮ってきたので、次回に少し詳しく紹介する予定でいる。


<参考>
 世界歴史大系 スペイン史1(山川出版社 2008年)
 世界歴史の旅 スペイン(山川出版社 2002年)
 アンダルシア散策(Edilux 2003年)


 Googleのマイマップ2008年秋 スペインの旅へ、この他にもセビーリャの写真を追加しています。

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2008年10月 8日

豊臣秀吉、大石内蔵助、尼子経久・・・

 緒形拳氏死去のニュースにはかなり驚いている。Wikipediaによれば、氏が出演した大河ドラマは9本。真っ先に思い出すのは豊臣秀吉役だが、出世作として知られる1965年放映の太閤記は見ていない。自分が知っているのは、1978年放映黄金の日日の中の秀吉。歴代秀吉役の中で最も格好良かったと思っている。その格好良さと晩年期の悪役振りの対称さと壮絶な最後は良く覚えている。

 氏の演技は、この他も目や耳が結構覚えている。1982年の峠の群像では、最終回、切腹へと向かうちょっとさばさばした大石内蔵助の姿を思い出す。1997年放映毛利元就の尼子経久役は、これも少し格好良すぎないだろうかと思って見ていた。主役に情けなさが残っているので、よけいにそう思えるのかもしれない。

 亡くなられたと聞くと、黄金の日日などは特に見直してみたいという気がしてきた。


 まだまだ早い71年と思う。心よりご冥福をお祈りしたい。

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2008年10月 7日

10月6日購入書籍

アイハヌム2008
加藤九祚一人雑誌
加藤九祚 編著
ISBN978-4-486-03708-8
東海大学出版会 2008.10

 今号は、本文230ページ余りがほぼ全てチムールの一代記で、チムール以後のムガール帝国初めまでの話が添えられている。「はじめに」によれば、原著者はキルギスのラフマナリエフ氏で、紀元前からオスマン帝国に至までを対象とした大著『チュルクの帝国』の中から、第6章「アミル=テムル」を訳出したものとのこと。

 目次は以下のとおり。

 14世紀後半のマーワラーアンナフル
 チムールの登場
 マーワラーアンナフルの統一
 モゴリスタンへの遠征
 ホラズムへの遠征
 チムールとトクタミシュ
 東部イランの征服
 西イランの征服
 インドの征服
 シリアとエジプトへの遠征
 チムールとバヤゼド
 サマルカンドへの帰還。中国への遠征。チムールの死
 その時代の文脈から見たチムールの肖像
 チムールの軍隊の構成
 行政組織
 国際関係
 文化と宗教
 チムール帝国の後継者たち
 大モゴールの帝国
 訳者追録

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2008年10月 6日

(書評)ジャガイモのきた道

岩波新書 1134
ジャガイモのきた道
---文明・飢饉・戦争
山本紀夫 著
ISBN978-4-00-431134-8
岩波書店 2008.5
目次などがこちらから見られます

 本書は、通史的にジャガイモの歴史を綴ったというものではなく、地域にテーマ絡めた6つの章よりなり、ジャガイモの歴史や栽培、利用方法などわりと広い視点から考察したもの。

 1章では栽培種としてのジャガイモの誕生を農学、生物学的に解説し、2章でインカ帝国を中心としたアンデス地方におけるジャガイモの役割を説き、3章でヨーロッパへの栽培拡大とアイルランドの悲劇を語る。2章は、単に歴史の話だけでなく栽培技術の解説なども交えている。3章がジャガイモの歴史ものとしては、他の本でも読んだことのある展開だが、ページ数的にはさほど多くはなく概略的。

 4、5、6章は、より限定された地域での話になる。日本に触れた5章では、ジャガイモ伝来から現代までの話に触れるが、4章と6章はほぼ現代の話。4章は、ネパールのシェルパの村における生活の中で重要な位置を占めるという話。6章は、ペルーでの大きな高度差を利用したジャガイモを中心とした農業とその問題という内容。


 本書の特徴は、筆者が農学の中でも農業経営論の専門家で、フィールドワークに取り組んできたことにあると自分には思える。本書の中では、4章と6章が長期の現地調査をベースとして書かれている。

 また、筆者の主張として強調されているのが、ジャガイモでも文明を支えられるという視点。伊東俊太郎氏や江上波夫氏による、穀物生産が文明を築いたとする文章を引いて、イモでは文明は生まれないという論に異を唱えている。


 5月にジャガイモの世界史(中央公論新社)を読んだ後、もっとジャガイモの歴史的なものを読みたいと思って買ったのが本書だった。新書版200ページで、上記のように歴史的な内容は前半だけ。その点では歴史ものがまだ読み足りない。

 フィールドワークを基にした4章と6章は、歴史とは別物ながらシェルパとジャガイモという自分には全く未知のものだったこと、ペルーでの多品種を同じ畑で同時に栽培する技術がかなり驚きだったことなどとても興味深い内容だった。また、終章を「偏見をのりこえて」というタイトルをつけるなど、ジャガイモの役割の見直しを強く唱えている点について、「偏見」というほどなのかとも思うが十分に説得力があったと考える。


 ジャガイモの歴史モノはまた探さなくてはと思うが、ジャガイモの話としては全く興味深く読み終わった。旅先で読終わったのだが、その後何度かジャガイモ料理を頼み、今日の夕飯にもジャガイモを食べた。なかなか楽しい影響を残した一冊だった。

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2008年10月 5日

観光圏

“安・近・短”から脱却、滞在型観光目指す16か所認定
 (読売新聞 10月4日)

 近接する観光地が連携して、2泊3日以上の滞在型観光を目指す「観光圏」として、観光庁は(中略)16か所が国土交通相の認定を受けたと発表した。
 このうち14か所に対し1000万〜2500万円の補助金を支給する。今年度の補助額は総額2億5000万円。
 滞在型を目指すという考え方は、それほど新しいものでもないように思うし、16か所だけと限定する必要があるのかとも思う。目に見えた実例が必要ということなのか、大型の補助事業で対象を絞りたかったのか。また、このニュースの事例紹介部分で
 県をまたがる二つの温泉宿を連泊すると2泊目が半額
とある。自分の感覚で連泊は同じ宿に続けて泊まることだが、同じエリアとはいえ滞在というイメージが随分広い。少し掘り下げてみる。


観光圏整備実施計画の認定及び観光圏整備事業の補助地域について
 (観光庁 10月3日)

 この中で観光庁では、「魅力ある観光地の形成」のために、「観光圏の整備による観光旅客の来訪及び滞在の促進に関する法律」に基づくとして、16エリアを対象に4つの「総合的な支援」を行うとしている。その一つ目が、

 観光旅客の来訪・滞在の促進に効果や成果の見込まれる事業に係る補助金の交付(補助率上限40%)
というもので、直情的にバラマキかと思ってしまう。今年度の事業であるから、比較的短期に集客を計ろうというものが多くなるだろうし、玉石が入り交じると予想する。


 ここで出てきた「観光圏整備法」について、以下の解説の中に「観光圏のイメージ」という模式図がある。

 観光圏の整備による観光旅客の来訪及び滞在の促進に関する法律
 (観光庁)

各市町村がそれぞれの特性を生かして役割分担をしながら、観光圏全体の魅力を向上していこうということなのだろう。これは、今まで個々に取り組まれてきたことを模式化したもので、総体としての魅力向上は意義があることと思う。

 この内、宿泊施設という点について上記模式図には「宿泊の魅力向上」として、「泊食分離の導入」「共通入湯券の導入」「宿による宿泊客への着地型旅行商品の販売」の3点があげられている。この他にも下記の文書の中の三と四で「もてなしの質的向上」「地産地消等の創意工夫ある取組」「地域文化の展示」「体験・交流の場の整備」「外観の統一感を創出するための外壁整備」「個人・グループ客へ対応した客室整備」といった事があげられている。

 観光圏の整備による観光旅客の来訪及び滞在の促進に関する基本方針(pdf)


 一面そのとおりなのだが、いずれも既に先進的な温泉地で長年取り組まれ、遅れをとった温泉地が追いかけるようになって何年にもなる。つまり、既に進行しているものを確認しているのに過ぎない。その上で現時点で決定している具体的は事業は、上記「総合的な支援」の4つ目に示された宿泊施設のハード整備への融資制度のみのようだ。

 (宿泊施設の整備に係る貸付制度の創設(pdf))


 この宿泊施設の話の中に「泊食分離」というのが出て来る。先月スペインを歩いてきた自分にはわりと実感が持てる。自分の場合、一泊25から30ユーロのシングルを目処に泊まり歩いていたので、夕食は全て外食「泊食分離」だった。スペインにもパラドールという食事も楽しみとする観光ホテルがあるそうだが、それ以外は基本は外食だろうと思う。なによりも外食が楽しい。大きな街しか回っていないが、そのどの街にも大きなオープンカフェがあり、夜遅くまで賑わい、料理も酒も美味しくて楽しかった。

 そんな自分が思い浮かべる「泊食分離」は、京都、鎌倉といった都市型の観光地である。上記の「観光圏のイメージ」模式図の「宿泊の魅力向上」に写真が2点添えられているが、入湯手形は熊本県黒川温泉のもので、いわば地方温泉地をイメージしているということだ。黒川温泉には30軒近くの宿があるが、素泊まりを基本とした宿は一軒のみ。そもそも黒川には夜も賑わう食事処が限られる。おなじ九州の有名温泉地由布院には100軒以上の旅館ホテルがあるが、素泊まり外食を基本とした宿は5軒ほどしかない。

 温泉旅館は、そもそも料理もウリ。だからなかなか「泊食分離」が馴染まないし、外食施設との連携という問題もついてまわる。ただ「泊食分離」がいらなとは思わない。旅館飯はそれなりに高くつく。予算を考えて良い温泉と普通の部屋があれば、夕食はラーメンでも良いと思うこともある。連泊した時には、二泊目は違う食事をと思うこともある。滞在ということの上に、旅のスタイルの多様性を考えれば「泊食分離」は都市でなくても現実的な問題となる。


 観光庁の施策について次の二つの点を問題としてあげてみたい。ひとつ目は、「長い目で見れているのか」ということ。黒川も由布院も数十年という時間の中で築かれてきた温泉地である。加えて観光圏を考えると、メリットなどの点で滞在促進地区が優越することが想像できる。根気づよく努力を続ける長い時間が必要である。

 もうひとつは「多様性」ということ。その点は「泊食分離」だけでなく、旅の時期や行き先、長さなどなど人それぞれで良いはずである。その点では、以下の内容にはズレを感じる。

 キーワードは「プレミアムデスティネーション」、観光立国戦略会議WGが構想
 (観光経済新聞 10月4日)

質の高さというのは、一面正しいと思うのだがどうもしっくり来ない。


茨城県、県央---県北で広域観光圏 集客の起爆剤に
 (日経新聞 10月1日)

 こんなニュースもある。単に集客増の種になる起爆剤程度と言ってしまったら、どちらにとってもおいおいと思う。金と人を注ぎ込んだだけで無駄だった、というのは勘弁してほしいのだが。

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2008年10月 4日

リスボン

 9月6日、ヘルシンキからの飛行機でポルトガルの首都リスボンへ入った。初秋の様相が濃かった北欧から降り立つと、陽射しが強烈で最初は真夏のように思えた。

 リスボンは、最初の予定には入っていなかった。スペインのマドリッドへ飛ぶチケットが目論みどおりに取れなかったからで、翌日のマドリッド行きと6日のリスボン行きと言われてリスボンを選んだ。最初の目的地セビーリャへは高速バスで丸一日の移動となるが、偶然のこととはいえ一国の都へ立ち寄るのだからと2泊して丸一日歩き回ることにした。

 リスボンでも、地下鉄、トラム、バス共通券がとても重宝した。一枚4.20ユーロの一日券は、ヘルシンキと同じで買ってから24時間利用でき、しかもぺらぺらの紙チケットながら非接触型の磁気カード。ポケットへ入れっぱなしで曲がってふやけても、地下鉄の自動改札やトラムの改札機でちゃんと反応した。



 一日で回れる範囲は限られるので、市街南部を中心に歩くことにした。写真は、その中でも観光スポットが集まるアルファマ地区。強い陽射しに空とテージョ川の青、屋根のオレンジ、漆喰壁の白のコントラストが写真をそれなりの絵にする。


 海外に出ても山城歩きが続く。サン=ジョルジェ城は、ローマ時代に遡ると言われる城塞で、小高い丘の上に今も石積みの城壁が残されている。城は、東側の街を囲い込む外郭、公園と王宮跡が広がる内郭と要塞からなる。写真は、塔、城壁と堀に護られた要塞の入り口。城壁の上からの市街の眺めがなかなか良い。


 こちらは、リスボンに数ある教会の中では大人しい外観ながら、天正遣欧少年使節が滞在したという縁を持つサン=ロケ教会。


 テージョ川の港前に建つ軍事博物館。もともと兵器庫だったというが、今もそのままの様に鉄砲、刀剣、大砲、甲冑が広い館内にこれでもかというほどに並べられている。一番奥の部屋には、螺鈿で装飾された日本製らしき火縄銃が2挺。


 一面市街地が広がっていて、地図や航空写真ではあまりイメージが湧かなかったが、歩いてみるとリスボンが坂の街であることが良く解った。その中途半端でない坂道に路面電車が走っているのには驚いた。今はほとんど観光用という感じのアルファマ地区を走る28系統は、10%を越すという箱根登山鉄道よりも急な坂や車一台がやっと通るような狭い道を物ともせずに走って行く。


 丘や谷は場所によって複雑に入り込み、それを無視したように市街地が広がり、急な坂道なんのそので縦列駐車が続いていた。


 Googleのマイマップ2008年秋 スペインの旅へ、この他にもリスボンの写真を追加しています。

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2008年10月 2日

1995年アジア紀行〈タシュクルガン〉

 中国からパキスタンへ抜けるため、カシュガルからオンボロの路線バスに揺られてカラコルムハイウエイを一日かけてタシュクルガンへ向かったのは8月21日のこと。パキスタン北部のフンザ地方へ入るには、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタンと接する国境の街に一泊しなければならなかった。県としての名前は、タシュクルガン=タジク自治県という。その名のとおり、隣国と同じイラン系の言葉を話すタジク人が人口の過半を占めているとのこと。

 県の中心であるタシュクルガンの街は、中国と隣国を結ぶ道路が通る要衝になっているが、それは古代以来のことだという。唐の初期に玄奘が、インドからの帰路に立ち寄った渇槃陀国がタシュクルガンであるといい、唐の勢力が及んでからは葱嶺守捉が置かれていたという。清の時代にはヤルカンドに属していたが、中華民国になって蒲犁県が置かれカシュガルの管轄下に移る。タシュクルガン県となったのが1954年のことで、翌年自治県になったとのこと。

 街は、標高3100mという高地にあるが、高原というよりも広い谷という趣き。8月末とはいえ夜は寒く、標高1300mのカシュガルから登ってきた日の夜は、息苦しくてなかなか寝付けなかったのを覚えている。面積2.5万平方キロと秋田県二つ分もある県に、わずかに3万人ほどの人々が暮らしているという。



 タシュクルガンの見どころのひとつ石頭城跡。街から歩いてすぐの丘の上に石積みの城壁が残る。


 城跡の上から街を望むと、中心街に真っ直ぐ延びるポプラ並木の向こうに山々が聳える。


 城跡近くの村で見かけたタジク族かと思われる、ちょっとおしゃれな子供達。


 カシュガルからタシュクルガンへ向かう途中に広がる、白い山々とのコントラストが奇麗だったカラクリ湖


 朝にタシュクルガンをバスで立ち、険し山道を登り続けると昼過ぎには国境へと辿り着いた。周囲には氷河が広がる標高4934m、自分が今まで行った場所で最も高いクンジュラブ峠。3時間の時差を越え、右側通行だったバスが左側を走り出す。峠までは1日半かかったが、その日の夕方にはフンザへと辿り着いた。


<参考>
 玄奘三蔵(講談社 1998年)
 行政区劃簡册 2007(中国地図出版社 2007年)
 中国歴代行政区劃(中国華僑出版社 1996年)
 新疆維吾尓自治区地図冊(成都地図出版社 1994年)

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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