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2008年11月30日

(書評)対馬と海峡の中世史

日本史リブレット 77
対馬と海峡の中世史
佐伯弘次 著
ISBN978-4-634-54689-9
山川出版社 2008.4

 本書を買ったのは、Quiet Nahoo關尾史郎のブログの記事を見てからなので、夏前頃のことと思う。だいぶ積んどくままだったが、読んでみようと思ったのは先日の産経新聞の特集が少なからず影響した。東アジア交流史には必ずといってよいほど登場する島のこと、それなりに目に触れる機会はあったと思うが、タイトルに対馬の文字がつくものを読むのは対馬藩江戸家老(講談社 2006年)以来、随分とひさしぶりだ。

 同じ対馬の歴史モノではあるが、後日談的に書かれた最後の部分を別にして、本書の範囲は室町時代の初め頃から秀吉の朝鮮出兵までのおよそ250年あまり。朝鮮との関わりを中心にした対馬の交流史、経済史やそれに関わる政治史といった内容。

 本書では、対馬を訪れた朝鮮人が残した報告書や朝鮮歴代の実録、宗氏の発給文書などについて随所に引用がなされている。朝鮮と宗氏の間で交わされた約定、日本と朝鮮の両属に関わる問題、さらには交易品、対馬の人達の名前への漢字の当て字を使っての音写、当時対馬で活躍した人々などなど具体的な話が沢山紹介、解説されている。

 前から後ろへ時代が流れているように書かれているところもあるが、章や段のテーマによって話が前後しているところがあり、明瞭に通史という形にはなっていない。一方で、各段で設定されているテーマはやや広めな感じで、相互に関わってくる話が錯綜している部分を含み、テーマ切りとしてもやや不明瞭な印象。


 読み始めた時点では、本書は対馬を中心とした交流・外交史と思っていたので、読んでいる最中には不満はなかった。ただ、読み終わってみると、島主の宗氏と小領主との関係や歴代の宗氏の事績に多く触れているなど、対馬の中世史という位置づけが自分の予想していたよりも重かった。対馬の通史を読んだことが無い自分には新鮮な情報として面白かったのだが、もう少し対馬史か海峡史のどちらかに寄せて、テーマを強く出すか通史的にするかに絞ったほうがより纏まったのではとも思う。

 その意味でやや纏まりに欠く印象があるものの、詰め込むわけでも超要約というわけでもなく、本文102ページという量に程よい内容という印象もある。元寇と秀吉という大きな戦いの間にあって、政治史的な華々しさ少ないものの、対馬と海峡の歴史という主題にとっては、むしろより複雑で面白い時代という意味付けも可能だろうか。対馬、あるいは国境の島とその海について、こういう時代もあったという実態を知る上で有用で興味深い一冊だった。


<目次>
  中世の対馬と海峡
 1 応永の外冦から平和通交の時代へ
 2 外交官・通交者・商人・海民
 3 三浦・後期倭冦・遺跡
  近世へ、そして現代へ

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2008年11月26日

ジブラルタル

 アンダルシア三古都巡りとして、セビーリャの次にはグラナラを回る予定を立てていたのだが、地中海と国境が見たくて南へ寄り道をした。目的地は、スペイン最南端に近いジブラルタル。南北5km、東西は2kmに満たない細長くて小さな半島は、18世紀のはじめ以来300年の歴史を持つイギリス領。

 まず、セビーリャから都市間バスで3時間ほど、ジブラルタルとは湾を挟んで西側にある港町アルヘシラスへと入った。アルヘシラスからは、北アフリカにあるスペイン領セウタとメリリャへのフェリーが出ていて、多くの旅人がここから海を越えている。セビーリャからのバスは、街のバスターミナルへ入る前にフェリーターミナルに寄り、客の半分くらいが降りただろうか。

 残念ながら、今回自分がここから船には乗らなかったが、翌日の予定もあってアルへシラスのホテルに投宿した。ジブラルタルへは路線バスで30分、スペイン側のラ=リネァまで湾をぐるっと半周する。


 国境には立派なゲートがあり、真ん中が自動車専用、西側がジブラルタル入国、東側が出国用だった。ラ=リネァのバスターミナルからは歩いて5分ほど、国境を越えるバスは無いのでのんびりと歩く。

 今回の旅で陸の国境は二度越えた。ポルトガルからスペインへ入った時は、バスで国境の橋を渡ったが、道端に標識があっただけで何のチェックもなく通過した。ここのゲートでは、一応パスポートの提示を求められた。ただ、同じEU内なので、スタンプがもらえないことは変わらない。


 小さな領土ながらもジブラルタルには空港があり、本国から定期便が飛んでくる。その空港は、国境のすぐ南にあって滑走路の半分は海に突き出している。

 街はその先にあるのだが、道は迂回することなく滑走路の真ん中を突っ切っている。造る場所が無かったのか、それとも大掛かりな工事を省いたか。定期便が離発着する時には踏切が閉まるというなかなか愉快な道で、しかも待ち時間は電車の通過よりも長い。


 街のメインストリートは、観光客で溢れ返っていた。イギリス領なので通貨はポンドだが、買い物、食事からバスに乗るにもユーロが使える。


 半島のほぼ真ん中にターリクという名の岩山が聳える。標高は400mを越え、東側が白い断崖、西側は少し緩やかで木々に覆われている。歩いて登ることもできるが、ロープウエイに乗れば10分ほどで展望台。眼下にジブラルタルの街、その向こうに海に突き出た滑走路が見え、その先がスペイン領のラ=リネァの街並。


 半島の最南端には燈台があり、その向こうに地中海が広がる。大型の船の多さにここが地中海の入り口であることを実感した。

 国境からここまで路線バスが走るが、片道は結局1時間あまりをかけて歩き通した。


 岬の先、海の向こうにアフリカ大陸が霞んで見える。まだ踏み入ったことのないアフリカ。自分がそこに立つのはいつの日のことだろう。


 Googleのマイマップ2008年秋 スペインの旅 ジブラルタルとアルヘシラスへ、この他にも写真を載せています。

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2008年11月25日

西夏と年号 その8

李諒祚時代の年号

 ようやく次の時代の話になる。『宋史 夏国伝』李諒祚の部分の最後の一文には、次のように記されている。

 十二月,諒祚殂,年二十一。在位二十年,改元延嗣寧國一年,天祐垂聖三年,福聖承道四年,◆都六年,拱化五年。(以下略)
◆は偏が奢、旁が單、以下同
 李諒祚の死が何年のことなのか直接記されていないものの、直前に宋の神宗即位のことが書かれていることなどから、治平4(1067)年のこととわかる。李諒祚の即位は、先代李元昊が死んだ1048年。

 ところで、『宋史 夏国伝』『続資治通鑑長編』のどちらにも李諒祚時代の改元についての記録がない。そこで、先人の研究と同様に、ここに記された5つの年号は全てが正月元旦に改元されたと仮定する。すると、長部和雄氏や李華瑞氏が指摘しているように、下記のとおり奇麗に纏めることができる。

 延嗣寧国 :1049年、1年
 天祐垂聖 :1050年〜1052年、3年
 福聖承道 :1053年〜1056年、4年
 ◆都:1057年〜1062年、6年
 拱化:1063年〜1067年、5年

 数字合わせとして奇麗に収まっているので、他の可能性はあまり想定されていない。李元昊の時代がそうであったように、『宋史 夏国伝』は決して絶対ではないので、今後なんらかの資料によって覆される可能性はゼロではないと思う。ただし、傍証する資料が今のところ無いのだからこれ以上は考察しようがない。よって、先人の考証にしたがって上記の一覧を李諒祚時代の年号と確定させておく。


 以下少々余談。『宋史 夏国伝』や『続資治通鑑長編』は、李元昊時代について多少ながら改元について触れているのに、なぜ李諒祚時代については一切ないのか。李元昊が特別なのか李諒祚が特別なのか、今後の課題のひとつとなる。


 もうひとつ。李諒祚時代について傍証資料が無いと書いたが、「福聖」と西夏文字で書かれたものがあることが、『宋史夏国伝集注』で紹介されている。ひとつは「福聖宝銭」という名の銭で、もうひとつは「福聖年間」と書かれた敦煌莫高窟にあるという西夏文題記とのこと。この「福聖」が福聖承道の省略形ということで認知されているようだ。

 莫高窟の題記については手元で確認できないが、福聖宝銭についてはお蔵入り古銭ギャラリーというサイトの中にある西夏銭画像というページで見ることが出来る。ただし、摩滅が激しくて判読が厳しい。

 この銅銭については『西夏遺跡』に解説があり、上から右回りに「聖福宝銭」と釈字されている。そう言われれば、一文字目は西夏文字の「聖」をやや横長にしたものに見えなくない。西夏に「聖」のつく年号は他に確認されていないので、この「聖福宝銭」が福聖承道年間の銅銭という以外の解釈は成り立たないことになる。

 僅か漢字2文字のそれも年号を西夏文字に置き換えるのに、文法通りに形容詞の「福」を後置していることに少し驚いた。このことは、西夏の年号について西夏文字と漢字のどちらで先に決められたのかということの手がかりになるだろうか。


<備考>
『宋史夏国伝集注』
 羅福萇・羅福頤集注/彭向前補注/寧夏人民出版社/2004年
『西夏遺跡』
 牛達生著/文物出版社/2007年


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2008年11月24日

バダインジャラン沙漠700km

 写真が奇麗だったので、中国の可可西里というブログの記事紹介。

 第四天 银川 阿拉善左旗 腾格里 巴丹吉林沙漠 额济纳

 10月に、重慶から延安や銀川を経て4日間で内モンゴル最西部のエチナ旗まで2500kmをドライブしたという話の4日目。朝に銀川を立って賀蘭山を越え、アラシャ(阿拉善)左旗を経て、バダインジャラン(巴丹吉林)沙漠を走破して午後3時にはエチナ(额济纳)旗の中心达来布库镇へ到着したという。大陸ならではの豪快なドライブ。羨ましく真似してみたいとも思う。

 とえいあえず、こういう写真があまりタイムラグ無く(多分)見られるのが有り難く、また楽しい。写真一枚目は、西夏陵1号陵と2号陵を南東側から遠望したところ。右手前が1号陵。

 真ん中あたり、「在走几公里就看见胡杨了」から下に、黒河の下流エチナ河沿いに広がる胡楊の林の紅葉写真が続く。どうも、今年の京都の紅葉が外れに思えるせいか、夕日に映える胡楊がよけいに奇麗に見える。


 黒河というと、一昨年のNHKスペシャル新シルクロードシリーズの中で、流水の激減が報じられていたのを思い出す。この一連の写真がエチナ河のものであるとして、河には水があり緑も豊に見える。秋10月、もう農閑期だから上流での取水が減少しているとも、また取水制限が功を奏しているとも、あるいは黒河の水量がたまたま多いとも考えられる。緑が豊なのは、水の恩恵なのか、はたまた写真に写っている範囲ではということか。


 筆者はカラホト遺跡には行っていなのだろうか。あるいは、5日目に登場するのか。先日某勉強会会長から、カラホトを見に行くなら早い方が良いと言われた。観光開発の名目によるテーマパーク化は依然として各地で見られるようなので、そうだよなとは思う。さて、いつ実現するか・・・実現させようか。


<Google Map>
 エチナ旗の中心達来呼布鎮

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2008年11月23日

(書評)オスマン帝国500年の平和

興亡の世界史10
オスマン帝国500年の平和
林佳世子 著
ISBN978-4-06-280710-4
講談社 2008.10
目次は、本書タイトルのリンク先を参照

 これまでに読んだ興亡の世界史シリーズは、特定のテーマに拠った歴史論を展開するものが多く、通史的な構成の本は少数派のように思う。本書は、政治史のトピックや解説を並べるだけでなく、文化史や社会史、制度史などについての章や段があって、構成だけ見ると王道的な通史に見える。

 形としてはそう見えるのだが、中身は筆者の意気込みが伝わるなかなか興味深いものだった。オスマン帝国ものを読むのが久しぶりだからかもしれないが、筆者が前書きで書いた「近年の研究成果の一端を紹介する」という方向が随所に感じられた。以下、著者のこだわりとして面白かった点をいくつか紹介する。


 まずタイトルの500年。初代のオスマンから数えて第一次大戦までなら600年。本書は、19世紀初頭まで、バルカン半島における分離独立が進んだ頃までを多民族国家オスマン帝国の範囲とし、15世紀初頭までを前史として合わせて500年ほどとしている。


 多民族国家オスマン帝国という点は特に繰り返し述べられていて、例えば前書きには次の一文が載る。

 オスマン帝国は、「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としかいいようがない。
このような、国民国家成立以前の帝国に対する評価という点はかなり納得できる事で、今の時点として一般書ではこのくらい強調していて良いと自分には思える。

 このことは、その対称にあるオスマン帝国が遊牧民の国、あるいはトルコ人の国ということを否定することを含んでいて、それは本書の構成に端的に現れている。例えば『オスマン VS ヨーロッパ(講談社 2002年)』では、最初の一章で古代のモンゴル高原から建国までのトルコ人の西遷を説いている。それに対して、本書の一章はルーム=セルジューク朝の成立から始まっていて、中央アジアという言葉は辛うじて出て来るがモンゴル高原はでてこないという具合。


 また、構成という点でもうひとつ、通史として政治史の部分では細かい内容がかなり省略されていた。それは、例えば戦争の経過にはほとんど触れずに原因や結果の説明に費やすといったように。具体的な事例紹介を少し省き過ぎという感想を持ったが、読み終わった後はこれはこれで面白いとも思った。「近年の研究成果の紹介」ということの結果なのかもしれない。

 もう一点、社会史部分を中心として女性の登場する話題が相対的に多いという印象を受けた。このバランスもまた、自分には新鮮で面白かった。


 自分にとってオスマン帝国の歴史は、関心はかなりあるものの手が回らないという位置づけで、細かい部分にあまり踏み込めないのでザックリとした感想で終わる。本書は、そういう自分にとって新鮮な内容を含んだ意欲を感じさせるもので、具体的な内容にやや不足を感じるものの、通史の形をとったオスマン帝国論としてかなり面白い一冊だった。展開されている論について奇異な珍説というような印象を受ける部分は見かけなかったのだが、より詳しい方から見るとどうなのだろう。


 本誌挟み込みの冊子連載の「歴史を記録した人びと」の15は、森安孝夫氏執筆の「ペリオ 世界最高の東洋学者」。また、シリーズ次回配本は、13巻「近代ヨーロッパの覇権」、12月中旬予定とのこと。

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数学ガール 上

MFコミックス
数学ガール 上
結城浩 原作
日坂水柯 作画
ISBN978-4-8401-2292-4
メディアファクトリー 2008.11

 数学が好きな高校生を描いた学園ラブコメ。色んな本があるものだと関心した。

 素数、虚数、因数、行列といった言葉が並び、数式、論考や解説が誌面の大半を占めるという風変わりな作品。久しぶりに高校数学に触れた。もともと数学は嫌いではなく、というより好きな科目だったので、懐かしくもあり、多少ぼけた頭が活性されたような気もする。

 本作は、原作者結城氏のサイトThe Essence of Programmingから始まり、書籍化を経てコミック化されたものとのこと。Web版を同サイトからを読むことができる。

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2008年11月22日

西田龍雄先生傘寿記念講演会

 以前Abita Qurで紹介されていた西田龍雄先生傘寿記念リレー講演会「現代言語学の潮流と西田門下」へ行ってきた。西田先生は、この26日に80歳になられるとのこと。

 リレー講演のプログラムは次の通りで、最近の研究動向や西田先生門下生の活動状況などが報告され、最後に西田先生の総評があった。

1. 言語理論と日本語
 坂本勉(九州大学人文科学研究院教授)
2. 印欧諸語
 吉田和彦(京都大学文学研究科教授)
3. チベット=ビルマ諸語
 武内紹人(神戸市外国語大学教授)
4. アルタイ諸語
 藤代節(神戸市看護大学准教授)
5. フィールド言語学
 梶茂樹(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授)

 講演会の名前にもあるとおり、歴史学ではなくて言語学の話題で、参集された門下生の方々もほとんどが言語畑のようだった。ここのところ言語関係の本は読んでいないので、概要とはいえ興味深い話を聞くことができた。狭い会場がほぼ満席になるという盛会だった。

 のこのこと懇親会にまで出席してきた。西田先生は傘寿に加えて、文化勲章の受章が発表されており、こちらも大変盛り上がり楽しいひと時だった。自分が曲がりなりにも西夏に興味を持ったことは、西田先生があってのこと。希少なる西夏学研究者としても、これからもご健勝で研究を続けられることを願ってやまない。

 西夏語・文字探求に貢献---文化功労者の言語学者、西田龍雄・京大名誉教授
 (毎日新聞 10月29日)


 また、会の折に小野裕子さんより抜刷りを頂いた。ありがとうございます。

 西夏文軍事法典『貞観玉鏡統』の成立と目的及び「軍統」の規定について
  遼金西夏研究の現在(1)/東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 2008.6

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2008年11月21日

チェーザレ 6巻

モーニングKCDX
チェーザレ 破壊の創造者 6
惣領冬実 著
ISBN978-4-06-375604-3
講談社 2008.11

 15世紀末、北イタリアを舞台にチェーザレ・ボルジアの青春?と活躍の物語。

 5巻での模擬戦に勝利後の後夜祭に前後して、予てからチェーザレの周囲で起きていた不穏な動きに一応の決着がつくという話。

 帯には、「過酷な宿命。されど、どこまでも華麗なる天才。」とある。本書でそういう雰囲気を臭わせながら小事が片付いたことで、次巻よりいよいよ新展開。本書で過酷な出来事が起きたというよりは、これから宿命のもとに事態が動いて行くという感じか。

 さて、これからどんな展開を見せるのかというところだが、チェーザレが大学を離れた後、順主役であるアンジェロがどう関わって行くかもちょっと楽しみ。予想に反して6巻が年内に出版されたが、連載に追いついたので次巻は半年以上先だろうか。

 巻末には、500年前のローマやピサの街並の復元についての話がつく。


 なお、公式HPには以下の様な訂正文がついている。

 『チェーザレ ~破壊の創造者~』6巻164ページ、5コマ目の台詞において、修正がございます。「一年前のことを」とある台詞を「この間の騒動を」に、「一年前?」を「騒動?」に修正させていただきたく存じます。
これは、誤字誤植の訂正というのではなく、資料調査の上での解釈の変更というもののよう。

 ところで164ページと書いてあるものの、本書は全て断ち切りで描かれていてノンブルが一切入っていないので探し辛いが、52話の頭から数えると4ページ目になる。

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2008年11月16日

西夏と年号 その7

李元昊時代の年号 5

 李元昊時代最初の年号として1032年から使われた顕道というのがあり、これは宋の年号明道に対して「明」を「顕」で置き換えたもということを前回説明した。今回は、この顕道がいつまで使われていたかという話。

  まず、宋の年号明道について。『続資治通鑑長編』の巻第113、明道2年(1033)年12月25日に、新年から年号を景祐に改元するという詔を出したことが書かれている。宋では、明道は1033年の12月末までで、1034年の正月元旦からは景祐元年に代わっている。

 西夏では、顕道の次の年号に景祐を使ったとする資料は今のところ無いので、次は開運ということになる。以前触れたように、開運は1034年の内でひと月ほど使われた年号だ。顕道がいつまで使われたのか、つまり開運がいつから使われたのか。細かい話なのだが、年頭から開運なら顕道は2年まで、そうでなければ3年までというとになるので、その違いには答えを出しておきたい。


 開運への改元について、『続資治通鑑長編』の巻第115、景祐元(1034)年10月の記事の中に次のように記されている。

 趙元昊自襲封,(中略)是歳春,始寇西邊,殺掠居人,下詔約束之。居國中,益僭竊,私改元曰開運。既逾月,人告以石晉敗亡年號也,乃更廣運。(以下略)
 また、『宋史 夏国伝』には次のように記されている。
 景祐元年,遂攻環慶路,殺掠居人,下詔約束之。是歳,改元開運,(以下略)
 つまり、どちらにも改元時期については明記されず、しかもこれだけでは年頭かどうか肯定も否定もできない。

 開運への改元がいつなのか、今のところ年頭ではない、つまり顕道には3年があったと見るのが主流のようで、多くの著書に見られる。さらに『中国歴史紀年表』を初めとして、改元を7月のことと書いたものが見られる。しかし、自分の手元にある資料を見る限りそれらの理由を書いてあるのは、李華瑞氏の『西夏紀年綜考』(宋夏史研究に収録/天津古籍出版社 2006年)のみ。

 李華瑞氏は、『中国歴史紀年表』の中に7月とあることについて、上記『続資治通鑑長編』巻第115の記事を引用して「根拠はおおよそこれだろう」と書いている。以前に書いたように、開運への改元の翌月に広運と再改元されている。上記『続資治通鑑長編』の記事が10月のことだから、9月までに開運へ改元されたことになる。また、改元の前に「是歳春,始寇西邊,」とあるので、少なくとも改元は年頭ではないとも言えそうだ。しかし、これだけでは7月とはならないだろう。

 次に、上記引用の『宋史 夏国伝』の「遂攻環慶路」について。この事件は、『続資治通鑑長編』巻第115の景祐元年7月に記されている「趙元昊率萬餘衆來寇」に対応すると推測することは十分に可能と思う。すると、その次に記された「改元開運」はそれ以降のこととも思われる。しかし、その前に「是歳」と書かれているので、この記事が時系列順に書かれているとは断定できないと自分は考える。


 なお、『西夏紀』と『西夏書事』(下記参照)は、いずれも「春正月改元」としている。この点について、李華瑞氏は同じ論考の中で「時間の推理に誤りがある」と書いている。自分としては、誤りとまでは言えないものの、上に書い理由から年頭ではないとするほうがより妥当と考えたい。

 ちなみに、李華瑞氏の『西夏紀年綜考』では上記のように考察されているものの、纏めの年表の中では明らかなものも含めて改元月を書いていない。自分も、李華瑞氏と同じように改元月を明記しないのが今の時点では穏当と考えているので、これからも年頭での改元を除いて月にはあまり触れない。


 最後にもう少し顕道と1034年という年について考察を加える。前回、岩崎力氏が「顕道の年号を採用して公然と宋に対抗する姿勢を明らかにした」とした点に疑問が残ると書いたが、この感想は今も変わっていない。顕道は、宋に従うとも従わないともとれる中途半端な年号で、宋への対決姿勢を鮮明にしたのは開運への改元がより意義が大きいと考えている。『宋史 夏国伝』『続資治通鑑長編』を読む限り、西夏と宋の紛争は1034年から再開されている。李元昊は、宋への侵攻の結果として自信を深めた上で開運と改元した、というシナリオが描けるように思う。その意味で、李元昊の時代の最初の画期は1032年ではなくて1034年で良いのではないだろうか。


 以上でかなり長くなったが李元昊時代の話を終える。これまでの西夏、もとい成果は以下のようになる。

 顕道:1032年〜1034年、3年
 開運:1034年、1年
 広運:1034年〜1036年、3年
 大慶:1036年〜1038年、3年
 天授礼法延祚:1038年〜1048年、11年


<備考>
 『西夏紀』は、戴錫章編撰/1924年、自分が持っているのは寧夏人民出版社1988年出版のもの。
 『西夏書事』は、呉廣成撰/清道光年間、自分が持っているのは江蘇廣陵古籍刻印社1991年?出版のもの。


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1995年アジア紀行〈ラホール〉

 この旅の途中、ラホールへは二度訪れている。一度目の10月2日は、バスから乗り合いワゴンに乗り換えるために立ち寄ったもの。早朝にパキスタンの首都イスラマバードの隣街ラワルピディをバスで立つと、昼にはラホールの城塞を見上げるところに着いた。1時間後にはインドへと国境を越え、夕方にシーク教徒の聖地アムリットサルへ辿り着いている。

 二度目は、年が明けてからの3月11日のこと。この時は、インドからパキスタンを抜けて、陸路でイランへと向かう途中で、ラホールに二泊した後にパキスタン西部国境の街クエッタ行きの列車に乗っている。

 滞在は、実質僅かに一日で慌ただしい観光となった。写真を残したのは、下に紹介しているラホール=フォートバードシャヒー=モスクだけだが、この他にブッダの断食像が有名な博物館を周り、フォートの南に広がる旧市街地を散策して昼飯を食べている。

 当時は、二度とも慌ただしく通り抜けることしか考えていなかった。もし今再訪したら、もう少し滞在してもっと色々なものを見て、沢山写真を撮るのだがとラホールの情報をいろいろと見ながらちょっと思う。



 この写真を含めて3点がラホール=フォートのもの。アーグラ、デリーと同じく、ムガル帝国時代に度々増改築が行なわれた城塞。自分は、デリーの城塞は見ていないが、アーグラと比べてこぢんまりしていた印象が残っている。


 北側の城壁の外側を見たもの。この垂直に建つ城塞の壁と広い堀は、なんとなくアーグラの城塞に似ているような気もする。


 ムガル帝国のものらしく?大理石を贅沢に使った宮殿。


 こちらは、城塞の西に建つバードシャヒー=モスク。時間が足りなかったからどうか、この時はモスクまでは行っておらず、写真は城塞から遠望したもの。


 これは、10月にインドへ抜けた時の国境の写真。数百メートルの間、荷物を背負って延々と歩く必要があった。ゲートは何故かスポンサー広告入り。それなりに荷物チェックなどもあり、国境の厳しい雰囲気があるものの、地図を見て分かるように田園の中にある国境で、道の両側に広がる風景は農村らしい長閑なものだった。


<参考>
 ラホール市公式HP
 ラホールばかりでなく、世界各地の遺跡が詳しく紹介されているサイト遺跡大好き! そのパキスタン編の中のラホール

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図同インド・パキスタン国境付近

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2008年11月15日

京都の秋を見に

 爽やかに晴れ上がった一日、秋の様を見に散策にでかけた。


 建仁寺境内、欅の黄葉は盛りを過ぎることろだろうか。だいぶ散り始めている。


 金比羅さんの駐車場にある銀杏。銀杏の黄葉は木によってだいぶ具合が違っていた。他にまだほとんど色づいていない木もあったが、この木は少し妙に朱い。


 種類にもよるが、楓の紅葉はまだ早いようで、本格的な紅葉は来週以降というように思う。これは、代わりというわけではないのだが、建仁寺の庭で撮った杉苔のまだ青々とした一枚。


 建仁寺の庭に望む縁側は、さまざまな観光客で溢れていた。12月に入るまで、この人出が続くのだろう。


 こちらは護国神社の境内。だいぶ色づいてはいるもののまだまだという感じ。

 坂本龍馬、中岡慎太郎の墓への参道には、墓参の人の列が入り口まで続いていた。旧暦の11月15日は龍馬の命日。


 お気に入りの場所から見下ろしす、暮れ行く京都の一枚。

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2008年11月12日

イタリカ

 古代ローマの都市遺跡イタリカは、セビーリャ市街中心部から北西へ8km、グアダルキビル川対岸のなだらかな丘陵に広がっている。

 街の起源は、紀元前3世紀末、カルタゴの勇将ハンニバルとローマが争った第二次ポエニ戦争の頃にまで遡るという。ローマの植民都市として発展したイタリカは、後にトラヤヌス、ハドリアヌスといった名の知られたローマ皇帝を生んでいる。


 自分にとっては、初めて訪れる本格的な古代ローマ都市遺跡。石を組み上げた巨大な円形競技場を直に見られるとあって興味津々、勇んででかけた。セビーリャからイタリカへは、市街北西のバスターミナルから30分に1本の路線バスで25分。


 1.5ユーロを払ってゲートを潜ると、木々の向こうに競技場が見える。資料には、長径160m、短径137mの楕円形とあるが、これは客席を含む全体の大きさ。真ん中の競技場自体は、長径70m、短径45mほど。中央には奈落もちゃんとあるが、使える階段や梯子がなく降りていない。


 競技場の南には、奇麗に石畳の道が続く街の遺跡が広がっている。


 遺跡全体にどれくらいの広がりがあるのか良く分からない。何か所か発掘が終わっている所があり、復元、保存がなされ案内板も各所に設けられていた。


 この遺跡の見どころのひとつは、モザイク画だろうか。家々の床を飾っていたと思しきものが、いくつも残されている。写真は、海の神ネプチューンを描いたと言われるもの。


 遺跡として公開されているところは500m四方ほどの広がりがあるが、遺跡らしい遺物が見られるのはまだその一部。今も発掘が続けられている。



大きな地図で見る
 こちらの航空写真は、遺跡の東南にある直径70mほどの半円形の劇場跡。この写真を見る限り客席などハッキリと残っているようだが、所在に気づかず残念ながら訪ねていない。


<参考>
 Archaeological Complex Itálica
 アンダルシア散策(Edilux 2003年)
 世界歴史大系 スペイン史1(山川出版社 2008年)


 Googleのマイマップ2008年秋 スペインの旅 カルモナとイタリカへ、この他にも写真を載せています。

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2008年11月10日

中国のブログと西夏

ブログ開設が1億件を突破—中国
 (Record China 11月9日)

 このニュースによると

 中国で開設されているブログの数が1億700万件に達している
とのこと。中国発のブログについて、「西夏」のキーワードで引っかかるものをチェックしている。「西夏」というマイナーなワードでも毎日、何件もヒットするということで中国のブログ世界の広がりを日々実感している。

 「西夏」のワードでヒットするものは、大きく二種類に分けられる。ひとつは、西夏が関わる歴史について触れたもの。最近ではチンギス=カンの話の中で登場するものを良く見かける。

 もうひとつは、西夏に関係する観光地へ出かけたというもので、そのほとんどは西夏陵の三号陵を見物したというもの。観光シーズンであれば、毎日、多い日なら日に何件もヒットした。多くが写真付きなので、対象が限定されているものの、変わりゆく遺跡を日々観察できた。

 そんな中で、先月のことなのだがカラホトの名で知る人ぞ知る遺跡が、写真つきでブログに紹介されたのには少し驚いた。黒水城として紹介されたカラホトは、中国内モンゴル自治区の西端、モンゴル国境に近い沙漠の中にある。観光で簡単に行ける場所でなはないとイメージしていた。それはもう昔話ということだろうか。検索すると、数は少ないが日本人のブログもヒットした。

 西夏に関心がある者として、カラホトは一度行ってみたい遺跡のひとつ。もう具体的に考えても良いということだろうか。


<カラホトを紹介している中国のブログ>
 额济纳之行——黑城(原)(菜鸟)
 沐秋风,赏胡杨——壮美不羁沧桑(上)(leg6789)

<カラホトを紹介している日本のブログ>
 黒水城(カラホト)に行って参りました。(RAKUDA通信)

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リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その2

<今までのエントリー>
 リニア中央新幹線を諏訪へ
 リニア中央新幹線と長野県
 リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ
 リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その1

 その1からの続き。


 開業した後の話。Bルートを採用するとCルートより「およそ5分の差が生じる」と長野県が試算したとのこと(信濃毎日新聞)。

 駅が増えれば、各駅に停まるのだから5分で済むはずがない、という意見をネット上で見かけたがこれは誤解。東京名古屋間を移動する場合、東海道新幹線のように途中に停まらない「のぞみ」タイプの列車を使うわけで、リニア中央新幹線でもこれは変わらないと考えられる。したがって、いくつ駅を造っても停まらなければ東名間の移動にはルート変更分の5分程度の遅延で済む。

 ところで以前

 迂回すると50kmほど長くなるので時速500kmで6分、実際には迂回するとカーブが増えることから、もう少し長く10分近く所要時間が延びる
と書いた。Bルートを採ると諏訪付近に急カーブは避けられないと思ったからだが、地図を開いてみると引こうと思えば引けることが分かった(参考地図、円は半径8km、青破線が適当な想定ルート、とりあえず茅野と上諏訪の間に駅を想定した。半径8kmの根拠はこちら)。このようなルートが実現すれば、距離が伸びた分だけの遅延ですむ。

 この5分程度が、受け入れられるのかというのは決して小さな問題ではない。


 次に、長野県内に設置する駅のことについて。1時間に何本かをそれらの駅に停めることを想定してみる。

 相変わらず大雑把な試算だが、東海道新幹線の静岡県下の区間を参考にする。現在この区間には、日中片道で「のぞみ」以外に静岡と浜松に停まる「ひかり」が1本、各駅に止まる「こだま」が2本走る。静岡と浜松がいずれも政令指定都市なので、「こだま」の2本を採用し、リニア中央新幹線でも中間駅に停まる列車が毎時2本走ると想定する。

 長野県だけで3つの駅を造ることは、鉄道の輸送技術的にかなり無理があることと思う。
 以前このように書いたが、それは「こだま」のように3駅に連続して停車する列車を想定したからだ。3つの駅を造っても、停車駅の多い列車が東京名古屋間を直通する列車の設定を妨げない方法はないのか。

 それは、わりと簡単なこと。長野県内に1駅しかないなら、毎時2本停車しても問題は少ないだろうと仮定する。これを、3つの駅のどれか1つに停車する列車が毎時2本なら問題が少ないと言い換える。これなら長野県内に1つしか作らなかったことと同じになる。

 つまり、諏訪、伊那、飯田の各駅に1時間半に1本ということ。一日に列車が走る時間帯を16時間として、一日上下各11本ほどの停車ということになる。あるいは、駅圏人口の多さや松本、塩尻といった後背地を抱える諏訪に毎時1本、伊那と飯田に2時間に1本という設定もあり得る。現在のJRの特急や高速バスを考えると、その方が現実的かもしれない。駅3つを造る費用を度外視して、この列車設定の条件が受け入れられれば、駅を3つ造る可能性が出て来ることになる。

 これは、ちゃんとした技術論抜きで、既存の新幹線の実態から想定したものに過ぎない。だから、そもそもリニア中央新幹線で毎時2本、停車駅の多い列車が設定できるのか、中間駅の適正な数はいくつなのかといった問題は何も分かっていない。これらの点について具体的なシミュレーションがあれば、議論がより進むことになる。そうすれば、「遅延5分程度」が許容されたという前提で、数千億という資金を長野県が自主投入する価値があるかどうかもまた判断が可能になる。


 以上その1で触れたことも含めて、Bルートを実現するには「建設費の支出」「用地買収への協力」「所用時間遅延の許容」と数は少ないがかなり高いハードルをクリアした上で、「3駅で片道1時間に2本」という本数を受け入れなければならないと自分は考える。

 長野県知事および関係者は、問題の難しさをどこまで自覚しているだろうか。自分には、政治的な駆け引き、繰り返しの陳情などでどうにかなる・・・とはとても思えないのだが。


 以上で、10月末以来一連の問題についての考察は一段落と思っている。この件について、自分は特に注目しているので、今後もなにか動きが有れば随時コメントしていくつもりでいる。

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2008年11月 9日

リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その1

<今までのエントリー>
 リニア中央新幹線を諏訪へ
 リニア中央新幹線と長野県
 リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ
 リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか

 リニア中央新幹線について、世間的にどのくらい関心がもたれているものか。このブログについていえば、関連記事を読みにこられる方が今だに多いので、Bルートが実現する可能性についてもう少し具体的に考察してみる。


 まず、リニア中央新幹線も従来の整備新幹線と同じようにJR東海抜きで行政・政治主導で建設するとした場合。この方が政治的思惑をより反映し易いと思われる。

 この場合も建設費の負担が問題となる。以前、国の新幹線予算は706億円と書いたが、整備新幹線の建設にはこれに地方負担分、建設主体である鉄道建設・運輸施設整備支援機構の自前予算も含めて、2500億円ほどが使われている(鉄道・運輸機構 平成19年度財務諸表より)。

 現在建設中の東北、九州新幹線が2010年度、北陸新幹線が2014年度に開業とされているが、整備新幹線にはこれ以外に着工したばかりの所を含めてのべ580km余の区間が残されている。1km当たりおよそ70億円(国土交通省 整備新幹線Q&Aより)とのことなので、既に出来ている部分を割り引いてもこれだけで3兆円以上必要となる。2011年度以降、毎年2500億円をこれに当てたとしても全線開業は2023年度以降。

 リニア中央新幹線は、JR東海の見積もりが5兆1000億円だから、2024年度から毎年2500億円を注ぎ込んで開通するのが2043年度以降。今から35年も先の話、JR東海の開業目標2025年と比べてその差はかなり大きい。長野県知事がその時に存命である以前に、自分ですら健康管理に気をつけないと乗れるかどうか分からない。つまり、早期に開通させるには行政・政治主導はありえないことになる。


 次に、JR東海が自前で建設する場合について。既に考察したようにBルートを採った場合に増える建設費、自分の大雑把なそして恐らくは安めの7000億円という額を国が負担することは、道義的にも現実的にも不可能に思われる。従って、増額分は全額長野県あるいは関係市町村が全額払うことが前提条件になる。

 200万の長野県民が、20年間住民税の値上げを受け入れれば一人当たり月額約1500円となる。安くはないが、不可能でもない?数字だろうか。


 これだけでも、県民全体に十分な理解が得られるかという問題になるが、沿線住民にはより深い理解と協力が必要になる。

 Cルートを取った場合、山梨県から長野県南部まで大半が山岳地帯でトンネル区間が長く、しかも南アルプス周辺は大半が国有林。そのため用地買収の費用が安く済むばかりでなく、交渉相手が少なくて相対的に簡単に済む。

 Bルートを採った場合、Cルートと異なる区間の延長は130kmほどになる。Bルートよりもトンネル区間が少なくなるのは多分間違いない。長くなるだけでなく用地交渉対象が格段に増えるわけで、費用だけでなく時間も手間も増える。これを県や市町村、住民の協力のもとに円滑に進めなければそれだけで開業が遅くなる。


 長くなったのでここで区切り、次で様々なハードルを乗り切ってBルートで開通したときの問題点を考察する。

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西夏関連ニュース

第三届西夏学国际学术研讨会在银川开幕
 (中国广播网宁夏分网 11月8日)

 1998年、2005年に続いて三回目になるという西夏学国際学術検討会が中国寧夏回族自治区の区都銀川で始まり、ロシア、ドイツ、日本、オーストラリア、モンゴル、香港、台湾および国内各地より100余名専門家が集まっているとのこと。ロシアのクチャーノフ氏、台湾の林音津氏(林英津の誤り?)らに混じって、東京外大の荒川さんも招聘されているようだ。同記事4枚目の写真に少しだけ写っているのがそうだろうか?


宁夏银川西夏城成民族与人类学、西夏学研究基地
 (中国广播网宁夏分网 11月8日)

 また、この記事によると、同日西夏城に西夏学研究基地なるものがオープンしたとのこと。西夏城は、公式HPを見る限り西夏についてのテーマパークという雰囲気で、昊王大殿、西夏歴史展庁、西夏楽舞宮、野利皇后宮、党項包などの施設が紹介されている。どこまでが復元でどこまでが創作なんだろう。

 西夏城の名前は、夏頃から何度かニュースに散見されていたものの、情報が乏しくて良く分からなかった。中国广播网宁夏分网の記事には、李元昊の陵墓を復元したという模型のものという写真が載っている。陵台をを復元したもののようだが、大きさがよくわからない。

 西夏城は、銀川の東、黄河を渡った所にあるとのことだが、Google Mapを見ると黄河の畔にやや台形な城壁と中心の建物が写っていた。これがどんな施設か、行かれた方のお話を聞けるだろうか。

 西夏城公式HP
 西夏城(Google Map)

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2008年11月 8日

(書評)青花の道

NHKブックス 1104
青花の道
中国陶磁器が語る東西交流
弓場紀知 著
ISBN978-4-14-091104-4
日本放送出版協会 2008.2

 ユーラシア史、とくに海を中心とした東西交流史の主要なアイテムとして登場する陶磁器。陶器と磁器の違いとか青磁や白磁がどんな物かくらいまでならなんとか分かる程度。本書を読むまで染め付けと青花が同じ物であることも理解していなかった。陶器屋の店頭で茶碗を眺めるのは好きだが、纏まった本を読んだことがなかった。

 本書は、書名を見て一度読んでみようと衝動買いした一冊。陶磁器の美術、考古、歴史について長年研究されてきた筆者が、その成果を一般書として纏めたもので、白磁にコバルトによって絵付けされた青花磁器を中心に、中国陶磁器の広がりを追っている。


 話は、ポルトガルにある王宮の「磁器の間」の天井を埋めた青花磁器から始まる。まず陶磁器についての研究史、青花磁器の起源、代表的な産地である景徳鎮の歴史と青花磁器を中心とした陶磁器の歴史に触れる。ついで、エジプトで発掘された大量の青花磁器、トプカプ宮殿のコレクション、琉球の青花磁器などの伝世品、出土品の内容や由来の話。そして、世界各地の沈没船から引き上げられたもの、草原地帯の遺跡から出土したものの話へと進み、世界を巻き込んだ青花磁器の発展とその発展的な終焉で終える。

 時代的には、唐の末期から現代までの1000年以上、場所的にもユーラシアの東西を中心にアフリカ、アメリカ大陸までに話が及ぶ。また、産地としては中国が中心で、景徳鎮だけでなく越州、定、龍泉、磁州、耀州などにも触れている。シリーズの規格どおりの一般書で、本文も250ページとそれほど厚くはないが扱っている範囲は結構広い。


 読み終わって思い返してみると、雑然とやや広い風呂敷に整理しきれていない内容という印象が残るが、政治抜きの文化・経済史の本としてかなり面白かった。内容的に一般書なのだが、陶磁器の種類については青花磁器以外については具体的な説明が少なく、カラー写真は最小限で、モノクロ写真もさほど多くなく、本書に度々登場する釉裏紅磁器とか紅緑彩磁器といった陶磁器の種類がどんなものなのかはさっぱりわからない。

 とりあえず字面からなんとなくイメージしながら読んでいたが、不思議とそれがあまり不快でなかった。まったく自分の主観なのだとは思うが。繰り返し出てきたので、用語としてだいぶ覚えてしまった。ネットを開けばいくらでも調べられることでもあり、それはそれで良いのかもしれないと思う。


 ところで、本書で言うところの「海のシルクロード」の向こうを張った「陶磁の道」と言う言葉は、何年か前にはテレビで聞いたように思うが、今も普通に使われているのだろうか。読後のイメージとしては、「海のシルクロード」よりもしっくりくるのだが。

 細かい部分では、ユーラシア周辺ばかりでなく南アフリカやメキシコにまで及ぶ話は自分には目新しく、世界各地の沈没船について触れた8章はとくに面白かった。


 扱う範囲と内容の広さのわりに読んでいてさほど重いとは思わなかった。また、沢山登場する陶磁器用語についての説明は、一般書というにはかなり不親切なのだがそれが不快ではなく、繰り返し引用されることで目にだいぶ焼き付いた。なんとなく陶磁器の世界に踏み入った気分になっている。

 本書の文章の力なのかどうかいまひとつ判断しかねているが、今まであまり感心のなかった世界について、もうちょっと踏み込んでみとうという気を起こさせた不思議な一冊だった。おかげで、先日立ち寄った博物館では他の展示そっちのけで青磁や白磁に見入ってしまた。


<目次>
 序章 王宮の天井を埋め尽くす青花磁器
 1章 「陶磁の道」研究のパイオニアたち
 2章 青花磁器の誕生
 3章 元代の景徳鎮窯
 4章 明代の景徳鎮窯
 5章 青花磁器は海を越えて
 6章 スルタンの中国陶磁コレクション
 7章 琉球王国に下賜された青花磁器
 8章 海に眠る中国陶磁器
 9章 草原世界へ広がる青花磁器の道
 10章 青花磁器のチャイナ・ブーム

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2008年11月 4日

壱岐

 三連休の初日から今日まで、所用で九州へ遠征していた。ほとんど終日拘束のスケジュールで、予定された場所以外、城跡や遺跡など見て回ることは出来なかったが、初めて壱岐へ渡れたのがなによりの収穫。

 雨にこそ会わなかったものの、3日目まで曇天が続いたため写真の色はいまいち。行った場所の中から、壱岐らしい写真を少しならべてみる。


 芦辺港を後にした帰りのフェリーからの壱岐の島影。海が印象的な島だったが、青い空を映した写真が撮れたのは最終日だけ。


 壱岐といえば、魏志倭人伝に登場する一大国との直接の関係が言われる原の辻遺跡。環濠を伴う1平方キロあまりの遺跡は、一部が発掘されその上に建物が復元されている。


 西海岸、黒崎半島に残る第二次大戦の黒崎砲台跡。軍縮会議によって廃艦になった戦艦土佐の主砲を流用したものという。


 噂通りに奇麗だった筒城浜。晴れていればきっと奇麗な写真が撮れたと思う。


 海に囲まれた島ながら、一番美味しかったのが壱岐牛の焼き肉。


 島を回るとあちこちで可愛い猫や犬に出会った。大浜の砂浜にて。

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2008年11月 1日

1995年アジア紀行〈パタンとバクタプル〉

 ネパールの首都カトマンズは、インド平原からヒマラヤへと続く山々に囲まれた盆地にある。地図を広げるとおよそ東西15km、南北10kmほどの小さなカトマンズ盆地だが、18世紀に統一されるまでは三つの王国があり覇を競っていたという。

 その三つの王国の都のひとつが今も首都であるカトマンズで、残りの二つがパタンバクタプル。どちらも今も時代的な雰囲気を残す建物が残り、観光客が三々五々と歩く街だった。


 カトマンズの南隣にあるパタンを訪れたのは11月18日のこと。カトマンズからのんびりと歩いて往復した。その中心に広場(ダルバール広場あるいは王宮前広場と呼ばれる)があり、取り囲むようにして王宮と寺院が立ち並んでいる。


 パタンの街を歩くと、大小の寺院があちこちにある。記憶が不確かで場所も分からないが、王宮からさほど遠くないところで撮った一枚。異形の神々の像が並ぶ、ヒンディー系と思われる寺院。


 街中で見かけた寺院。こちらは仏塔。



 カトマンズから東へ、トロリーバスに揺られて30分ほどで辿り着いたのがもう一つの古都バクタプル。その中心は、同じように王宮前広場と呼ばれている。カトマンズから遠い分、車が少なく、静かで落ち着いていた。パタンから一日あけた20日にカトマンズから日帰りしている。


 広場にほど近いニャタポール寺院。階段の上まで意外に高さがある。段の上に座ってのんびりと周囲を眺めていた記憶がある。


 バクタプルの街中で見かけた木と一体化した祠。


 パタンとバクタプルは、カトマンズよりも落ち着いてた古都だった記憶がある。あれから10年以上が過ぎ、この間ネパールは王制廃止にまで至る騒動が続き、今年ようやく収束を迎えた。二つの古都は、今どのような佇まいをみせているだろうか。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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