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2009年1月25日

1995年アジア紀行〈バム〉

 イラン南東部、沙漠の中のオアシス都市バム。歴史にあまり登場せず、街としてもさほど大きくないバムは、2003年に地震に見舞われるまでは一般にはあまり知られていなかったように思う。しかし、インドからトルコへ陸路を行き来する旅行者の中で、その都市遺跡はかなり評価が高かった。2003年の地震で大きく破壊されたというが、以来5年を経てどのくらい復興されただろうか。

 バムへは、パキスタンから陸路バスで入った。アフガニスタン関連のニュースで時々名前の上がるパキスタン西部の要衝クエッタから、イラン国境まで夜行バスで16時間。さらにザヘダンで乗り継いでバムのついたのは3月16日の夕方だった。一週間のトランジットビザだったので、のんびり滞在するわけにいかず、中一日の滞在で18日にはケルマーンへ移動している。


 都市遺跡は、バムの街の北西の外れにある。土を固めた城壁に囲まれていて、本来はいくつかの門があったのだろうが、南西にある門以外は閉じられていた。GoogleMapで見ると北側に城塞、南側に市街が広がる500m四方ほど大きさの遺跡であることが見て取れる。

 バムを訪れた頃数日間は、雲りが続いたおかげで、遺跡のスケールと雄大さのわりに奇麗な写真を撮ることができなかった。


 南側から北を眺めたところ。中央に小高く聳えるのが城塞部分。城塞は、迷路のような通路を通って上まで登ることができた。


 城塞の恐らくは頂上に近いところからの眺め。南東方向を見たものと思われる。眼下に広がっていた街を一望できる。


 正確な位置は不明ながら、市街地内のいち風景。迷路のような街路が巡り、廃墟としての雰囲気がたっぷり。


 城塞の上から南西方向を見たところ。城壁の向こうに緑豊かな今の市街地が広がっている。GoogleMapでも見て取れるが、バムは沙漠に浮かんだオアシスというイメージそのものに緑豊かな街。


 こちらは、城塞から西側を見たところ。道の両側に街が広がっているのが見てえている。GoogleMapの写真がいつ時点のものか不明だが、この写真と比べると地震で破壊された街を確認することができる。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年1月19日

今週のシュトヘル

 今週号第3話は、モンゴルと西夏の霊州攻防戦の話でストーリーはさほど進展しない。また、前回たくさん出てきた西夏文字は、今回はなし。

 今号での話題は主人公の名前。話は、シュトヘル(悪霊)と後に呼ばれることになるらし主人公が、そう呼ばれる前のことなのだが、今号ではその頃の名前が出て来る。いわく

 すずめ(ウイソ)
これが、主人公の愛称・呼名なのか本名なのかは不明。「すずめ」が意訳で「ウィソ」が音写と読むべきだろうか。

 それではということで早速夏漢事典を引いてみるところだが、子音が34種、母音が声調とか重母音もかぞえてなんと105種もある西夏語のこと、発音から類推するのは大変。

 そこで漢字の「雀」から引いてみる。「雀」で引ける西夏文字は3文字。そのうちのひとつに、二字熟語で「雀子」と訳されているものがあり、添えられている発音記号には「wi siuo」とある。3つの文字に関係するものの中では、これが「ウィソ」に一番近そうだ。この漫画に今まで出てきた名前の中では、初めての西夏語と思しき名前である。


 少し余談だが、今号にはもうひとり主人公の知り合いの「屈漢」なる男がでてくる。主人公は、彼を「クィハン」と呼んでいる。古い漢語の発音には詳しくないのだが、「屈」は現代中国語の辞書を引くと「qu」とあるので、「クィ」は古い発音を意識したものだろうか。

 そこで一つ問題だが、主人公に「クィハン」と呼ばれ、主人公を「ウィソ」と呼ぶ屈漢と主人公は、何語で会話しているのだろう。バイリンガルというのならそれでも構わないが。

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2009年1月12日

好奇字展---白川静と東洋文字文化の世界

好奇字展---白川静と東洋文字文化の世界---
(立命館大学 東洋文字文化研究所)

 立命館大学での企画展を見に行ってきた。漢字、ハングル、平仮名から女真文字、西夏文字、モンゴル文字、ウイグル族のアラビア文字、チベット文字、さらにロロ、トンパ、チューノムまでと東アジアの文字を広汎に扱っている。

 規模がさほど大きくないので、展示されているものの数も限られるが、女真文字字典、ロロ文字一覧表、トンパ文字経典などコアな物が見られる。

 同時に白川氏に研究についての展示と文字文化に触れるコーナーがある。

 期間は1月17日土曜日まで、立命館大学衣笠キャンパス以学館地下多目的ホールにて大人500円、中高生400円、小学生300円。

 京都新聞でも紹介されている。

立命大で白川静展 東アジアの文字文化を紹介
(京都新聞 1月6日)

 以下、文字文化に触れるコーナーのひとこま。各国語の世界地図や本、各種ハンコなどもある。

 紹介展示では、西夏文字のスペースは他の文字と同じくらいなのだが、こちらのコーナーには、西夏文字のものが沢山置かれていて楽しい。


 6千あまりの西夏文字を刻んだマニ車。これをいちど回せば西夏文字が全て覚えられる・・・のなら良いんですが。


 トイレ案内の看板。辞書を引いてみると「糞」と「處」を組み合わせたものだった。


 何故か館内に横断禁止の標識。一文字目が「歩く」という動詞、二文字目が「者」という名詞、三文字目が禁止命令形の動詞接頭辞、四文字目が「渡る」という動詞。


 右が企画展のタイトルのハンコ、左が西夏文字のハンコ。他に甲骨文字のハンコが沢山ある。

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2009年1月 6日

1995年アジア紀行〈ポカラ〉

 西ネパールの観光都市ポカラへは、10月27日にカトマンズからバスで一日かけてたどり着いた。翌11月の8日に再びカトマンズに戻るまで滞在していたが、その内2日から8日まではアンナプルナ山群と称されるエリアをトレッキングしていた。

 ポカラは、街自体が観光都市というほか、西ネパールの中心であって、ダウラギリ、アンナプルナをはじめとするネパールヒマラヤ西部地域へ登るための拠点でもある。

 街は、ヒマラヤから流れ下るセティ川の両岸に広がっているが、中心部は西側だったと記憶している。南西側にダム湖が広がり、その畔、通称レイクサイドと言われるエリアには、土産物屋やレストラン、ホテルが軒を連ねて観光拠点となっていた。理由はよく知らないのだが、日本人のバックパッカーはそこから少し離れた、ダムの東側、ダムサイドと呼ばれるエリアに泊まっている人が多かった。安く美味しい日本味の定食が食べられる店には、毎夕旅行者が集まっていた。


 ポカラに滞在した目的は、アンナプルナ、マナスル、ダウラギリの3つの8000m峰とその周囲の山々を眺めること。そして、できればトレッキングをして街よりもより近いところから眺めてみるということだった。

 ポカラ近郊でトレッキングというと、尾根筋や斜面に点在する山村を巡り歩く山里歩きといった趣きになる。村を結ぶ生活道路がトレッキングルートであり、点在する村々をどう回るかで日程と体力に合わせて様々なルート取りが可能となる。自分は、三山の中で一番西側にあるダウラギリが奇麗に見れるというゴレパニを目的地に、アンナプルナベースキャンプへの道筋にある温泉を回るルートを設定、慌てなくても3泊4日で回遊できるルートを7日かけてのんびりと回った。

 当時のトレッキングの事情やこのエントリ以外の写真は、登山とトレッキングもご覧ください。


 写真は、中央がダムサイドから見たポカラのシンボル、夕日に照らされたマチャプチャレ。標高は、6993mと一回り低いがものの、魚の尾っぽというその形が印象的。


 トレッキングの初日、サランコットの展望台から見下ろしたポカラ。ダム湖の左手に広がっているのだが、昼近い時間ながらまだ霧に包まれていた。


 自動車が入れる道は、ポカラ寄りの限られた地域だけ。それ以外は狭い道や階段が続く。生活物資やトレッキングパーティーの荷物は、目一杯までに背負った運び屋が担ぎ上げる。写真中央に4人の列が見えている。


 標高2700m余り。タダパニの村が朝焼けに染まる。気候が安定して晴天が続くとはいえ、朝晩はかなりの冷え込みだった。


 最終目的地ゴレパニのメインストリート。峠越えの要衝にある村で家の数が多い。民家とロッジが立並ぶ中に羊が放牧へ出かけていく。

 ゴレパニ近くで撮ったダウラギリの写真はこちらを。


 こちらは、アンナプルナベースキャンプへのルート上の要衝チョムロンの近くにある温泉露天風呂。客は自分以外は欧米人ばかり。湯船は、地元の人が毎日洗ってくれているという。自分は、3か月ぶりの湯船をたっぷりと味わった。


 ここ何年かのネパールといえば、王室を巡る問題などがあって政情不安が続いていた。観光離れというニュースもあったが、今のポカラはどうなっているだろう。薄れた記憶を補う為、あちこちとネットの情報を見て回ると、新しい情報も見受けられた。正直少し安堵している。ポカラは、もう一度訪ねたい街のひとつだ。


<参考>
ネパール トレッキング情報
亜細亜が好き!

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年1月 5日

今週のシュトヘル

 西夏とモンゴルが戦うところから始まった。前号の終わりからどのくらいかは不明ながら時間を遡っている。

 勝州
 今号で舞台になった街のひとつ勝州城。1209年とあるので、西夏滅亡までにはまだ時間がある。モンゴル帝国史(平凡社 東洋文庫)には、この年の秋にチンギス=カンが西夏を攻めたことが書かれている。その中にウラカイという城を攻め落としたとあるが、これは119ページに載っている地図の「本隊」と書かれた主力の侵攻上にあったと考えられる城の名前。

 物語では、分隊が勝州城を攻めたことになっているが、モンゴル帝国史や元史には「勝州」の名前はでてこない。

 102ページに勝州の位置を書いた地図が載っているが、中国では黄河が屈曲する部分の内側、北東部の黄河に近い場所にあったとする考え方が一般的なようだ。それを根拠がないと書いている論文もある。この地図でのプロット位置が、何に拠っているのかちょっと興味がある。


 文字
 ここでは西夏文字のこと。前回よりも少しだけ多く西夏文字がでてくる。何か所か紙片に書かれたものが出て来るが、117ページのものが一番大きい。田の字に並んだ4文字のみほぼ字形が分かるものの、左上と親指で一部隠された右下の文字は辞書で確認できるものの、ほかの2文字は見つけられなかった。なにか実物を書き写している可能性があるので、間違いと断言できるほどの情報を持っていない。

 寺院で拾ったと思しき断片なので、お経だろうかと思ったが、2文字だけでは判断でききなかった。


 興慶
 西夏の都を指して興慶と書いている。西夏の都は最初興慶府と呼ばれていたが、後に中興府と改めたとされている。いくつかの本を見てみると、名前が変わった時期については見解が別れている。元史にも中興府とある。

 併用されていた可能性はないのかどうか、完全に否定する自信もない。宿題がまたひとつ。


 勅燃馬牌
 早馬の使者が所持したものと考えられている銅製の牌。1988年の「敦煌・西夏王国展」の図録に写真と解説が載っている。高さ18.5cm、直径14.7cmとのこと。


 「文字」という台詞が何度か登場する。西夏文字の露出は高くなるということだろうか。

 正月休み態勢ということで、次号は19日、二週間後の発売。


◆◆◆
 毎週なにかコメントできるかどうかはわかりません。多分不定期になると思います。基本的にストーリーの解説はしない予定です。雑誌に目を通されているという前提で、気になったことをいくつかピックアップして少しコアな話題を添える、今日の様なスタイルを考えています。

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2009年1月 4日

今年も大河ドラマが

 天地人。直江兼続が主人公という大河ドラマが始まった。第一話ということでとりあえず見てみた。見てみたのだが、何かあまり面白い感じがしないので最終回まで見続ける自信が無い。

 上杉景勝役の北村一輝と溝口琢矢はわりと良い雰囲気と思う。とくにこれまでの大河で悪役のイメージが強い北村一輝は面白いと思うのだが、兼続の父樋口惣右衛門役の高嶋政伸と豊臣秀吉役の笹野高史がさっぱり。

 歴史的な背景としても上田の庄が舞台としてでてきただけで、他の越後の政情がさっぱりわからない。さて、いつまで見続けられるだろう。

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2009年1月 2日

新春の京都散策

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。


◆◆◆

 正月の京都は、曇り空の毎日。昨日は空を見上げて外出を諦めたが、二日続けてどこへも行かないというのも詰まらない。思い切って外へ出たが、いきなりの小雨で出直しとなった。結局夕方までほぼ曇り空、時折日が差し、また小雨が舞うという天気が続いた。


 とりあえず、清水寺を目指した。まずは、変わったアングルからと思って撮った下から見上げる八坂の塔。この時はたまたま青空になった。


 二年坂が合流すると途端に人の数が激増。掻き分けながら進んだものの、写真のような人混みの産寧坂を見て清水寺は断念した。


 そこからほど近く、人気が全くない寺。ガイドブックでは紹介されない場所だが、自分はここから見下ろす街の風景が好き。今日の夕方、京都駅方向は雲間から日が差すという様。


 霊山護国神社へ回り、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓へ詣でた。来年の大河ドラマで活躍するであろう二人に、今年の仕事の願を掛ける。


 隣には、小振りな二人の銅像。


 少し北へ上がってもう一か所。三が日限定で公開されていた、大雲院にある織田信長、信忠親子の墓。

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