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2009年2月24日

ヴィンランド・サガ 7

アフタヌーンKC510
ヴィンランド・サガ 7
幸村誠 著
ISBN978-4-06-314544-1
講談社 2009.2

 前巻から8か月という待ち時間は少し長い。おかげで発売日に一日で遅れた(笑

 表紙にクヌートが描かれているがごとく、前巻でおびただしい死体を前に覚醒した彼がいよいよ動き出すという話。現王の実像や、アシェラッドの過去、トルフィンの再会など6巻が大量の血を伴う戦いに明け暮れたのと対照的なほどに物語が盛り沢山。

 街などの背景描写も興味深く、本巻は期待以上に面白かった。8か月後というと一応年内ではあるな・・・

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2009年2月23日

今週のシュトヘルより「玉音同」

 今回から表題を少し変えてみます。


 今週号は、ここ数話と違って話題盛り沢山。いろいろと資料に当たらないと語れないことが多いので、自分が解説できそうなことをいくつか、数回に分けて書いてみようと思う。

 今日は、今回第8話のタイトルでもある玉音同について。さて「玉音同」ってなんだろうと資料をひっくり返しても、自分がもっているものには載っていない。

 西田龍雄先生が書かれた西夏文字についての本をいくつか見てみると、同音という西夏文字の音韻について西夏人によって書かれたものが重要な資料の一つとして紹介されている。字典の一種だが、意味を調べるものではなくて音を調べるためのもの。

 西夏文字では、形容詞が後置されるので、「音同」と「同音」は同じものではないかと思う。中国の研究者のものをいくつか見てみると、実際に「同音」とあるべきところに「音同」と書かれているものが少数ながら見つけられる。


 今号に出て来る「玉音同」とは、その音韻の字典を玉の板に刻んだものと思われる。誌面を見ると、この「玉音同」は縦書きなのか横書きなのかも良く分からない。しかし、夏漢字典を引いてみると228ページ右上の釈字可能な2行7文字が、いずれも音価が「bji」となっているので、音韻字典を意図しているのは間違いない。

 また、この「玉音同」は9枚の玉板からなり、1枚に654文字、9枚で5886文字とある。この数字の出所にも興味がある。「同音」には6133の西夏文字が載っているという。また夏漢字典には、6074文字が掲載されている。


 ちなみに、玉音同が入れられていた小さな塔のようなものは、木縁塔と呼ばれているもので、「シルクロードの美と神秘 敦煌・西夏王国展」図録には、表面に書かれている梵語まで同じものが掲載されている。高さが75cm、幅が47cmとのこと。


 次の掲載は、3月30日発売号。ひと月以上間が開くが、3月末に単行本が発売になるとのことで、最近よく見られる単行本化準備のための休載だろうか。


<参考>
 「シルクロードの美と神秘 敦煌・西夏王国展」図録(1988年)

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2009年2月22日

西夏陵6号陵で重要な発見

 西夏陵六号陵地面遗迹有重要发现
(光明日报 2月18日)

 このニュースについて、ニュースタイトル及び第一段落のみの抄訳を以下に書き出す。

 西夏6号陵地上遺跡で重要な発見
 陵台の基本は、八角、七層の塔型の建築で陵の主は西夏の(第4代皇帝)崇宗乾順と考えられる

 西夏陵6号陵の陵台は、どのような建築物だったのか? 6号陵には西夏のどの皇帝が眠っているのか? 2007年から2008年、寧夏考古研究所は、地上遺跡の全面的な発掘と整理によって(これらの疑問に対して)新しい証拠を探し当てた。陵台の八角形、七層の土台と、明確な平瓦、丸瓦、瓦当の分布は、現在ただの饅頭状の黄土の土台が残っているだけのものが、もともとは八角形、七層の煉瓦を積上げた塔だったことを十分に説明している。そして、「在位三十年」の漢文の碑刻残片が、この陵と西夏の(第4代皇帝)崇宗乾順との間に密接な関係があることを説明しており、6号陵はおそらく乾順の顕陵であろう。

 寧夏自治区の区都、銀川の西郊には西夏歴代の皇帝のうち9人の陵墓がある。これらには南から順に番号が振られていて、一番南にあるものを1号陵と呼んでいる。その9つの陵墓のうち、西夏歴代皇帝の誰の墓であるかがほぼ確定していたのは、7号陵のみだった。

 このニュースによれば、6号陵の再調査によって確認された「在位三十年」と書かれた漢文の碑刻残片によって、6号陵は第4代皇帝崇宗、李乾順のものである可能性が高くなったという。西夏歴代の皇帝の中で、在位期間が30年を越えたのは、第5代仁宗、李仁孝と第4代崇宗、李乾順の2人だけ。仁宗の陵墓は7号陵とすることが定説となっており、残るのは崇宗というわけである。

 これだけで確定とするには、まだ弱いようには思うものの、従来からいくつかの状況証拠と推定によって6号陵は崇宗の陵墓と考えられて来たので、それが些かながら裏付けられたとみることができるだろう。


 6号陵の陵台


 6号陵の遠景


<参考>
 西夏陵の解説6号陵(西夏史への招待)

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2009年2月18日

1995年アジア紀行〈タキシラとラワルピンディ〉

 パキスタンの首都イスラマバードの名前は、パキスタンのニュースを目にする方にはそれほど珍しいものではないだろう。その隣にある街ラワルピンディの名前は、どのくらい日本人に知られているだろう。イスラマバードは、パキスタンの首都として作られた街で、政府の主要な施設や大きなモスクのほか各国の大使館もある。大使館は、各種手続きの他、インターネットが普及していなかった当時は情報収集や手紙の受け取りのためにも重要な場所だった。

 対して隣街のラワルピンディは庶民の街で、整然としたイスラマバードと対照的に雑然とした街並が続く。安宿が何軒かあるため、イスラマバードに所用のある旅行者もラワルピンディに滞在している人が多かった。自分もそうだったのだが、ここでの一番の目的はインドビザの取得だった。手続きに一週間ほどかかったため、他に目的がなくても長の滞在となった。自分もインド入国を前にした9月24日から10月2日まで滞在している。


 ビザの取得待ちの時間つぶしにちょうど良いのが、ラワルピンディから北西へ25kmほどの所にあるタキシラの遺跡群巡り。タキシラの街の東郊、平原や丘陵の続く4km四方ほどの範囲に、ヘレニズム時代の代表的な都市遺跡シルカップや、パキスタンでも最古の時代に属するというダルマラージカをはじめとする仏教遺跡が点在してる。ビザ待ちの一日、同宿になった日本人6人で馬車を借り切って見てまわった。


 広い平原に石組みが整然と並ぶシルカップ。


 シルカップの中でも一番有名と思しき、双頭の鷲のレリーフが掘り込まれた建物の土台。


 シルカップの周りは長閑な草原あるいは農村といった風情で、象や牛がのんびりと草を食んでいた。


 仏教関係の遺跡としては、ジョーリアン、ダルマラージカ、モラモラドゥを巡ったと思われるものの、記録、記憶ともにはっきりとしない。この写真もジョーリアンのストゥーパに隣接した僧院のものかと思われるが確証はない。


 ラワルピンディで滞在していたホテルの近くの風景。丸一日かかった遺跡巡りから戻って、同行の仲間たちと売店で買ったジュースを飲んで一息ついているところ。


 パキスタンらしく飾り立てバスが、店の脇を走り抜けていく。人々の服装といい、パキスタンでの旅を思い出ださせる一枚。


<参考>
 タキシラ(TAXILA) ストゥーパ(しなびたオコゼ)
 世界遺産・タキシラ へ(旅 いつまでも)


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年2月16日

今週のシュトヘル

 今週号、第7話。ここ数話、触れられるような話題が無く、今号でも既出の西夏文断片が出てくる程度。歴史的な話題も少ないのだが、以前に触れた西夏の都興慶府のことについて、今号を見ながら少し書き足す。

 井上靖の小説を原作とした映画『敦煌』では、三田佳子扮する西夏人が西夏の都のことを「イルガイ」と呼んでいる。これは、モンゴルの歴史書のひとつ『蒙古源流』の中に出て来る言葉。残念ながら、「イルガイ」が西夏語の音写なのか、トルコ=モンゴル側からの西夏語とはあまり関係のない呼名なのか、自分には判断できない。

 チンギス=ハンの伝記『モンゴル(元朝)秘史』では、西夏の都を「エリカヤ」と書いている。響きが少し違うが、元は「イルガイ」と同じものだったと想定できるだろう。


 今号は、もう一人の主役という雰囲気でモンゴルの皇子というユルールの話。ユルールもまた西夏の都興慶府へ向かうという。彼は、その血筋に謎があり今後の展開に関わるということのようだが、母親が西夏人、父親がトルコ=モンゴル系らしいということであれば、両方の言葉を話せて物語の語り部としてなかなか都合が良い。

 とはいえ、今の所属がモンゴルであるのだから、彼の台詞としての「興慶」には、振り仮名として「イルガイ」あるいは「エリカヤ」と書いて欲しかったと思うのだが、いかがだろうか。


<参考>
 モンゴル秘史(村上正二訳注、平凡社 1976年)
 蒙古源流(岡田英弘訳注、刀水書房 2004年)

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2009年2月11日

山梨でリニア学習会

 沿線住民でネットワークを 山梨でリニア学習会
(信濃毎日新聞 2月8日)

 JR東海が検討しているリニア中央新幹線計画をめぐり、長野など沿線5都県の住民が7日、山梨県甲州市内に集まり、必要性や課題を考える学習会を開いた。「財政、自然環境の破壊、電磁波などの問題を一緒に考えていく必要がある」とし、今後、5都県の住民によるネットワークを発足させ、多くの住民にリニア問題に関する情報を提供していくことで一致した。
 伊藤洋・山梨大名誉教授が講演。南アルプスを貫く直線(C)ルートより、諏訪・伊那谷回り(Bルート)を現在の新幹線方式で建設した方が「現実的」と述べた。大型公共事業の工事費は当初見込みの3倍程度になることが多いとし、同計画の建設費もJR東海が試算する約5.1兆円を上回る可能性があるとの見方を示した。リニア特有の磁場が人体に与える影響については「全く分かっていない」と説明。南アの長大トンネル掘削も技術面や環境面で課題があると述べた。

 技術、財源など課題が多く、それでいて具体的な試算や情報が不足しているので、情報が増える切っ掛けになることを期待したい。

 ただし、取り上げるのはこの後半部分、伊藤氏の講演内容に興味を惹かれたから。この中で氏は、中央新幹線はリニアではなく、在来の新幹線方式によるBルートが「現実的」と述べている。しかし、そうなるとJR東海にメリットがないために、中央新幹線は今進行している整備5線以降の話ということになる。整備5線ですらいつ開通するのか不明な状況では、実質的に中央新幹線建設反対という内容と言っていいだろう。

 もう少し具体的な内容が見てみたいと思ってネットを探したところ、学習会に参加されていた長野県議北山早苗氏の報告を見つけた。どこまでが北山氏の意見で、どこまでが伊藤氏の意見なのか曖昧ではあるが、気になるところにコメントしておく。


 リニア問題学習会(あおぞら)

 新幹線の代替路線で必要とも言われていますが、北陸新幹線がすでに代替路線として存在していて、この点でも必要性に疑問符がつきます。
 これは北山氏の見解だろうか。計画されている北陸新幹線が開通すればという意味かと思うが、現時点では北陸新幹線の敦賀以南について全く見通しがたっていない。災害時での一時的な振替という点では、全通すれば機能し得ると思うが、東海道新幹線の老朽化に伴う長期の代替という点では北陸新幹線では無理と自分は考えている。
 しかし、実際の事業費は3倍かかると言われています。
 これも北山氏の見解だろうか。JR東海の5兆という試算はアバウトなものという話が以前あったが、この3倍という数字の具体的な内容を聞いてみたい。しかし、実際にそうであればJR東海による事業実行は不可能であり、建設されないだけのこととも思うのだが。
 フォッサマグナが通っているところで、地質的にも大変心配である、
 これはどなたの発言なのか不明。ここで言う「フォッサマグナ」とは、「糸魚川ー静岡構造線」の誤りなのだろうかと思う。糸魚川ー静岡構造線にしろ中央構造線にしろ地質的に問題があるとしても、東西を横断するものは全てこの線を跨がなくてはならない。中央新幹線だけに当てはめるのはどのようなものか。この学習会でより具体的に現地の断層か何かを問題点として取り上げた可能性もあるが、このような言い方では「フォッサマグナ」という言葉が一人歩きしそうでかなり違和感を覚える。


 ここで触れなかった部分の数字については、それなりに根拠がありそうなものからドンブリに過ぎないのではと思われるものまで混ざっていると見る。全体としては、賛成とも反対とも判断しようがない。なお、私個人的としては、いまのところ賛成でも反対でもない。

<参考>
 フォッサマグナって何ですか?(フォッサマグナミュージアム)

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2009年2月 9日

リニア中央新幹線 2009年1月の動き

<今までのエントリー>
 リニア中央新幹線を諏訪へ
 リニア中央新幹線と長野県
 リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ
 リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その1
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その2
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その1
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その2


 リニア実務者協議開始 JR東海と県
(信濃毎日新聞 1月22日)

 JR側はリニア計画に関する具体的なデータは示さず、宇野氏は協議後に「今回は予備的な話(にとどめた)」
 年が明ければ具体的な話が動き出すものと思っていたが、1月も下旬になって再度挨拶が行なわれただけで、JR東海と長野県の協議はまだこれからということのようだ。宇野氏とは、JR東海のリニア計画担当執行役員とのこと。あまり話題が無いという点では、長野県知事の見解にとくに付言すべき話題がないことにも現れている。

 長野県の公式サイト内知事会見の中で、1月5日の「1兆円近い工事費の増」という数字についての質問に対して村井知事は、

 JR東海のおっしゃっておられることを十分に咀嚼するだけの情報を持ち合わせていません。
と答えている。JR東海側からより具体的な内容が示されない限り、長野県側からは何かを示すということはないということだ。まあ、当り障りのない内容だ。なによりも具体的な数字が出てくれば、長野県側にとって良い話はほとんど無いであろうから。

 また、1月16日には、Bルートについて以下のように回答している。

 Bルートということで長野県内は一度整理がされた経緯がありますから、私の立場としましてはそういう県としての過去に行われました意思決定というものは尊重しなければならない訳であります
知事の政治的な立場からすれば、長野県内に対して穏当な回答といえるだろう。それにしても、もう少し踏み込んだ判断が出てこないだろうか、というのは無理な話だろうか。


 次に、長野県のHP内にある目安箱の12月分を見てみる。「リニア中央新幹線のルートについて」と題したものは全部で6件。いままで詰らない回答が続いたせいか、それを指摘した上で違う回答を引き出しているものがいくつか見られる。その中には、平行在来線についてどう考えるかというものが2つある。

 12月3日の意見を受けての回答には、

 中央東線や飯田線が並行在来線となるかにつきましても、現時点では全く不明であり、今後、必要があれば国等において検討していく問題であると考えます。
とあり、12月26日の意見を受けての回答には、
 並行在来線の分離概念に当たるかも含めて全く不明
とある。長野県としては、中央リニア新幹線に関わる平行在来線問題については、今の時点ではなにも見解はないということだ。言うまでもないことかもしれないが、平行在来線は、九州、東北はもとより地元の信越線を含めて、単なる手続きではなく存続の可否を含む重大な問題事項である。最終的な存廃は別にしても、当然想定すべき問題と自分には思える。しなの鉄道を抱える当事者であることも考えれば、なんとも不甲斐無い他人事のような回答である。


 とはいっても、1月が終わって具体的な情報がほとんど出てこないという点は、長野県ばかりでなくJR東海も同様だ。JR東海側に出し惜しみするメリットがあるのかと思うのだが、長野県側から具体的な回答を引き出す為に、またなによりも地元の理解を得る為にじゃんじゃん情報を出して欲しいと思う。

 それにしても長野県側の当り障りの無い対応は、やはり気になる。他人事を装ったところで事態が変わるとも思えない。当事者として、より積極的な動きはできないものか。


 周辺のニュースをもう少し。

 「飯伊へルートを」 住民が飯田の懇談会で知事に訴え
(信濃毎日新聞 1月22日)

 (リニアのルートや駅が)違う所に行ってしまうと将来、下伊那は取り残される
 リニアが来れば、この地域はもっと明るくなる。知事は飯伊にも明るい目を向けてほしい
 これは、常套句が並んでいるだけの形どおりのやり取りと受け流すべきだろうか。すでに高速道路が整備済みで、アクセス道路となる国道も20年来かなり改良されて来ている。これ以上にインフラが整備されなければ取り残されるというのは、やはり真面目にそう思っているとは思えない。

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2009年2月 8日

1995年アジア紀行〈アーグラ〉

 日本人に最も馴染みのあるインドの建造物というと、数あるヒンドゥー教縁の寺院やラージャに関わる宮殿、あるいはイギリス植民地時代に関わるモノなどなどを差し置いて、タージ=マハルが挙げられるのではと思う。まして、そのイスラム教系の霊廟がある街の名前も、廟の名前に比べればはるかに知られていないだろう。

 かく言う自分は、アーグラの名前こそ知っていたものの、タージ=マハルは是非見なくてはと思い定めていたものの一つだった。ムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーンに縁のこの廟についてはあまりに著名でもあり、その歴史についてはばっさりと割愛して自分が見て来たものだけを簡単に紹介したい。


 タージマ=ハルを見物すべく、南インドを回り終えてデリーに戻る前にアーグラに立ち寄ったのは、96年の2月26日から28日のこと。ホテルに荷物を置いて早々に霊廟に出かけた。月曜という曜日も関係無しということか、多くの見物客で賑わっていた。

 名所の常として、期待を必要以上に膨らませることは実見の際に裏切りに繋がることが多いものの、ことタージ=マハルに関して自分はそれでも期待以上という感想だった。


 霊廟には広い前庭が広がる。正面に続く水を讃えた噴水をセットにした真正面からの写真が一番有名かと思うが、自分が行った時にはなぜか水が張られておらず、正面からでは絵にならなかった。

 少し離れた前庭の中程から眺めると、本体と同様に大理石で飾られた土台の上と下に並ぶ人達がとても小さく、廟の大きさが見て取れる。これくらい離れてみるのが自分にはちょうど良かった。


 霊廟は、中はもとより周囲を歩くこともできる。間近で見上げるとその大きさに圧倒された。


 タージ=マハルに入った時点で3時を少し回った頃だったが、どれほど眺めていても飽きることが無かった。建物の周囲を巡り眺めた後、もとの芝生の上に戻り何するでも眺めていた。純白の壁が夕日に赤く染まる姿は、特に思い出として残っている。



 アーグラにはもうひとつの見どころ、同じムガール帝国時代の遺産、アーグラ=フォートがある。城塞は、タージマハルの西2kmほど、ヤムナー川に面してその威容を残している。入場出来る場所が限られていたものの、宮殿群は十分に楽しませてくれた。

 写真中程には、タージ=マハルと同じように大理石の白い壁が続いている。シャー=ジャハーンが晩年に幽閉されたのがこの一角といわれ、そこからはタージ=マハルの全景を望むことができる。


 こちらは、シャー=ジャハーンよりも古い時代に創建されたという赤砂岩で築かれた宮殿。白い宮殿にくらべてやや荒廃しているものの、対照的な赤色が印象的で人が少ない分静か。かつて皇帝が立ったかもしれない場所に座って、歴史に思いを馳せるには居心地の良い場所だった。


<参考>
 神谷武夫とインドの建築

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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