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2009年3月30日

今週のシュトヘルより「塩州」

 ひと月ぶりの掲載。ストーリーは少しだけ前進といったところ。今週は、イスラム商人の隊商宿がある街として登場する塩州について。

 塩州は、西夏の首都中興府(今の銀川)と西夏東部の重要都市夏州(今の統万城遺跡)、あるいは陝西北部の主要都市延安(北宋、金領)とを結ぶ街道が通る重要拠点で現在の陝西省定辺県とされている。また、その名前に「塩」の字があるとおり、古来より塩の産地としても知られていた。GoogleMapを開くと、塩湖あるいは採塩場と思しきものを定辺周辺に確認することができる。

 西夏建国の前夜、夏州を拠点としていた李継遷が塩州を手に入れたのは、西暦1000年頃と考えられる。塩は交易品として、また戦略物資として重要な意味を持ち、西夏と敵対する宋は、塩州産の塩を禁輸にすることによって経済圧力をかけることも行なったという。


 ストーリーに少し関わる話として上に書いたことを地図上で眺めてみると、塩州は東西あるいは北西と南東を結ぶ街道沿いの街と見てとれる。それを考えると、南へ向かう旅の出発地点として相応しかったかどうか少し疑問が残る。また、作中で「興慶より約80km」とあるが、地図上で計ってみると銀川から定辺まで150km近くある。塩州の中心の街ではなくて、行政区画としての塩州内で興慶よりの辺境の街という見方もできなくわないが、わざわざそうする理由はないように思う。

 それよりも細かいことも気にならなくはないものの、笑って放っておこうかと思う。

 次回はまたひと月後とのこと。これからは月いち連載になるのだろうか。シュトヘルが掲載されていないと、スピリッツを買う気がおきないのだが。


 今日は単行本の第1巻も発売になった。こちらについては、稿を改めて明日報告する予定です。


<Google May Map>
 シュトヘル 参考地図

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2009年3月21日

鎌刃城

 今年は、例年よりも雪が少なく春らしい陽気の日も随分と早く訪れたものの、日々の事にかまけて外に出かけるのが随分と遅くなった。桜の開花の話題が流れ、近所の桜も開花間近と蕾を膨らませている。

 連休中日の晴天に恵まれた一日、滋賀県の米原まで出かけて来た。今年最初の目的地は、米原駅の東3kmほどの所にある戦国時代の山城鎌刃城。戦国時代後期、江南の六角氏と江北の浅井氏が争奪戦を繰り広げ、織田氏と浅井氏の興亡の場にもなったという要衝の城。


 城の麓、谷にそって細長く延びる番場の集落は、国道や鉄道から外れた田園という風情ながら、山麓を東名高速道路が走り静かなというわけではない。最寄りの米原駅から湖国バスに乗って10分、北の外れにある番場バス停を降りると、南へかつての中山道が走り、その辺りが中山道62番目の宿場である番場宿だったとのこと。宿場としての雰囲気は残っていないものの、道端に往時の建物を示す案内板が建てられている。

 城への登り道は、鎌倉時代末期の惨劇を伝えている蓮華寺の近くと、集落をもう少し南へ行ったところの二か所。どちらも高速道路を潜るガードが目印で、どちらにも小さな案内板が立てられている。

 蓮華寺側から登ってみたが、最初の案内板から15分で尾根筋へ、35分で城北端の大堀切へとたどり着いた。昨秋以来のブランクで大変かと予想していたが、尾根筋に出てからはさほどの苦労は無かった。道には案内板が立てられているので、数カ所で判断を誤らなければ迷うこともない。雨上がりの悪路を予想していたが、ぬかるみはほとんど無かった。ただし、櫟の落ち葉が暑く積もっていたり、小さな浮き石が固まっていたりと安定した登坂路とは言い難い。



 北端の郭からの眺め。左手少し遠くに琵琶湖があり、その先には伊吹山から小谷城へと続く山並みを一望できる。中山道の押えという役割だけでなく、この眺望も城の価値であるという。


 北端の郭の先にある大堀切。鎌刃城は、地形的に北が正面の攻め口であるという。そのやや広い尾根を大きく断ち切る形で掘られている。


 北側から北端の郭を眺めたところ。鎌刃城は石垣の利用が特徴のひとつという。写真左に郭へ登る階段が見えている。この一帯からは礎石などが見つかっていて、立派な櫓建築を想定した復原イラストが『 戦国の堅城(学習研究社)』に掲載されている。


 主郭の入り口も石垣で固められている。大きな礎石が残っていて、立派な櫓門が想像される。


 城から南へも尾根が続き、城の中心部よりも高い山へと続いている。一見弱点のようにも思えるが、かなり細い瘠せ尾根で、かつては大きな堀切が何重にも掘られていたといわれ、今もって歩き難い道だった。脆い石も多いので歩くことはあまりお薦めできない。


 城の南、少し谷に降りたところにある青龍の滝。滝の上には、城へ水を取り入れる為の施設があったという。



「この地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図(彦根東部)を基に作成しています。」


<参考>
 近江の山城 ベスト50を歩く(サンライズ出版 2006年10月)
 近江城郭探訪(サンライズ出版 2006年10月)
 戦国の堅城(学習研究社 2004年9月)

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2009年3月19日

1995年アジア紀行〈マラバル海岸〉

 年が改まった96年の初めは、インド大陸南部の周回を目指して東海岸を南へと向かった。以前の話と少し重なるが、インド大陸最南端のカニヤクマリを1月31日に立ち、西海岸を北上してゴアを経由してボンベイ(今のムンバイ)へ入ったのが2月13日。インド東部のプリからほぼひと月の行程だった。

 地図を開くと、カニヤクマリからゴアにかけての海岸には、マラバル海岸と書かれている。大きな入り江を持つ天然の良好が点在する地方で、太古よりアフリア、西アジアとの貿易で栄えて来た。歴史の教科書的には、ポルトガルが乗り出して来た頃の港街、カリカットコーチンが知られているかと思う。

 マラバル海岸一帯は、ケーララ州の区域とほぼ重なる。日本から遠く、あまり馴染みの無い地名かもしれない。風光明媚なリゾート地帯でもあり、のんびりとしていてそれでいて1月でも強い陽光と南国らしい木々が印象的だった。

 ただ、自分にはここでのんびりする時間が無く、カニヤクマリの後、ケーララ州の州都トリヴァンドラム、水郷観光で知られるアレッピー、港町コーチンの隣街エルナクラム、カリカット、マンガロールと泊まり歩いて、ゴア州の州都パナジへ入ったのが9日の夕方のこと。このころの行程としてはわりと強行軍だったが、移動手段がバスと列車に加えて、運河を行く船も利用できるのがこのインドの中ではケーララらしい所と思う。



 フォート=コーチンを写した一枚。小型の渡し船だけでなく他の方向には大型の貨物船も見えていた。エルナクラムからは、渡し船で渡った。


 トリヴァンドラムでは、一日移動の無い日があって博物館をいくつか見て歩いた。写真は、南国風な建物のネイピア博物館。何が展示されていたかは既に忘却の彼方。


 水郷観光で知られるアレッピーで、街の西側の海岸で撮った一枚。左手にアラビア海が広がる。


 アレッピーからの船は、観光専用の船の他、地元利用の船もあった。自分が乗ったのは地元民御用達の一般船で、外国人は自分とドイツ人が一人だけだった。早朝の水辺がとても気持ち良かったのは記憶に残っている。


 運河は、集落の中を抜けるルートもあり、低い目線から家々を眺められる。住人と目線があうのも度々のことだった。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年3月15日

第9回遼金西夏史研究会大会

 昨日今日と、京都大学にて開催された遼金西夏史研究会の発表を聞きに行ってきた。自分が聴講させて頂くようになって早4年目となる。

 今年は、以下のような7本が予定されていたが、残念ながら発表者体調不良のために見城氏の発表が無かった。

 自分の興味範囲に近いもの、わりと隣近所のもの、広汎な話題を含むもののほか、中世仏教やシベリア考古学のように全く縁の無いものが含まれている。とはいえ、西夏とその周辺に無縁というわけではなく、またそれ以前として内容そのものが興味深いものだった。

尊勝陀羅尼と日本の古代・中世仏教
 上川通夫

契丹・宋間の澶淵体制における国信使と外交儀礼
 古松崇志

東・西・南シベリア出土遼・金代の中国系銅鏡とその考古学文化
 枡本哲

2008年度敦煌莫高窟・楡林窟調査報告(敦煌壁画部分・仏教美術)、同(西夏文題記)
 向本健・荒川慎太郎

ハーバード大学での中国社会史研究の現状
 飯山知保

朝貢、貿易、あるいは投資---9・10世紀敦煌の使節派遣---
 坂尻彰宏

後晋出帝政権の性格---五代政治史研究
 見城光威

 この他に、研究会として初めて発行した54ページとなかなかの厚みのあるニューズレターが配布されている。


 発表以外では、サイトオープン当初よりリンクを貼っていた、小高裕次のホームページの小高さんに初めてお会いできた。予期していなかったので、かなりビックリしたが、西夏に絡み興味深い話をいろいろとお伺いさせて頂いた。以前からこのブログなどをご覧になられているとのこと、汗顔の限りである。

 大会終了後は、引き続いて西夏語の勉強会が開かれた。短時間ながらも西夏語文書の読解のほか、シュトヘルや夏漢字典の問題など中身の濃いひと時となった。

 来年は、3月21、22日に東京で開催予定とのこと。


 参加者の方より以下の冊子を頂いた。いつもながらありがとうございます。

大英図書館所蔵夏蔵対音資料Or.12380/3495について
 『京都大学言語学研究』第27号 P.203-212の抜刷り
 荒川慎太郎

契丹の旧渤海領統治と東丹国の構造
 史學雑誌 第117編第6号 P.1-38の抜刷り
 澤本光弘

突厥トニュクク碑文箚記---斥候か逃亡者か---
 待兼山論叢第24号史学篇 別刷
 鈴木宏節

契丹国(遼朝)の于越について
 立命館文学 第608号 抜刷
 武田和哉

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2009年3月 8日

西夏學 3

西夏學 第三輯
中国蔵西夏文献出版記念専号
杜建録 主編
ISBN978-7-227-03996-9
寧夏人民出版社 2008.10

 2006年から出版が始まった『西夏學』の第三集。西夏文文献というとロシア蔵が量的には多いのかなと思うのだが、中国蔵もかなりの量があるということだろうか。その中国蔵西夏文献を取り纏めたのが『中国蔵西夏文献』全20巻。原典の研究は私の手に負える物ではなく、また大部な資料は経済的にも物理的にも購入不可能なので、まだ『中国蔵西夏文献』がどのようなものなのか、本書に掲載されている写真以外では見たことが無い。

 本書は、その『中国蔵西夏文献』の出版を記念して出版に至る経緯や内容、補足的な目録かと思われる物などを掲載した論集、あるいは文集。直接自分が利用できるものではなさそうと思って買わなかったが、最近は西夏文字に触れる機会が増えてきており、値段も手頃なので取り寄せた。


 目次を以下に書き出しておく。

《中国蔵西夏文献》出版座談会綜述
 杜建録

在《中国蔵西夏文献》出版座談会上的講話
 李衛紅、閻曉宏、張国祚、劉仲、陳育寧

西夏文献整理研究的里程碑
 ---大型文献叢書《中国蔵西夏文献》整理出版
 寧夏大学西夏学研究中心

《中国蔵西夏文献》的内容特点
 史金波

《中国蔵西夏文献》出版過程
 高国祥

凝煉方向 匯聚隊伍 構築高地
 ---寧夏大学的西夏学研究
 何建国

功在当代 利在千秋
 ---祝賀《中国蔵西夏文献》出版
 蔡美彪

中国少数民族文献整理研究中的奇葩
 張公瑾

開創我国西夏研究的新局面
 白濱

極為珍貴的西夏文献資料
 李致忠

《吉祥遍至口合本続》中的梵文陀羅尼復原及其西夏字標音
 孫伯君

中国蔵西夏文文献未定名残巻考補
 段玉泉

《中国蔵西夏文献》総目録

中国蔵西夏文献叙録
 杜建録

《中国蔵西夏文献》編纂機構与人員組成

《中国蔵西夏文献》受到媒体広汎関注
 許偉偉

《中国蔵黒水城漢文文献》簡介

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2009年3月 1日

1995年アジア紀行〈ウランホト〉

 中国でチンギス=ハンの廟所というと、その存在を知る日本人は自分を含めて全員が内モンゴル自治区オルドス市にある丸い屋根が印象的な建物を思い浮かべることと思う。チンギス=ハンを祀った施設がもう一つ、同じ内モンゴル東部にあることをご存知な方はかなり少ないのではないだろうか。

 今となってはどこでそのことを知ったのか記憶は定かではないのだが、95年の旅に出る前から知っていた。内モンゴルに入る前に短期間ながら旧満州地方を縦断することに決めた後、内モンゴルへ向かう途路ということでその廟があるウランホトへと寄ってみた。この街に滞在したのは、6月の22日から24日にかけてのこと。


 ウランホトへは、黒竜江省西部の大都市チチハル発の急行列車を白城で降り、白城の駅前にたむろしていたマイクロバスへと乗り継いだ。記録的に雨が多かった95年の初夏、ウランホトへの移動も雨まじりの天気の中でのこと。白城から100kmに満たない道程ながら、工事や災害のために塞がれた車道を迂回するために、泥の海を渡るような難路が続いた。

 ウランホトの街が近づくと、周囲は平原から大興安嶺へと続く丘陵地帯へと変わっていく。ウランホトは、内モンゴルに属しているものの大興安嶺の東麓に位置し、街に入るまでの沿道には水田が多くて平原の続きという風景だった。



 チンギス=ハン廟は、ウランホトの街の北に続く丘の上にある。写真のように、青い丸屋根を載せた左右対称な白い建物だ。

 なぜここにあるのかという疑問は、着工1940年、竣工1944年というその創建時期にあるらしい。ボルジギン=ブレンサイン氏によれば「モンゴル人の歓心を買うため」に、日本が関わって建てられたものという。当時ウランホトは、満洲国にとって興安地方を治めるための拠点だった。


 廟が建つ丘の上からは、ウランホトの街を一望できるものの、小雨の混じる天気の中で白く霞んでいた。


 こちらは、同じ丘の上から西側を眺めたところ。写真ではあまり良く分からないが、街へ入るまでの水田が広がる風景に比べて、草原が広がっているのが見えていて、ここがモンゴル草原の東端と少し実感した記憶がある。


<参考>
 内蒙古・烏蘭浩特公式サイト、同サイト内の成吉思汗廟
 エジェンホロ旗公式サイト、同サイト内の成吉思汗陵園
 チンギス・ハンは誰の英雄(朝日新聞社、ボルジギン・ブレンサイン)

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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