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2009年4月18日

1995年アジア紀行〈シャンドゥール峠〉

 パキスタン北部、カラコルムハイウェー上の要衝ギルギットから、北西辺境州北部の街チトラールへ。ギルギット川を遡り、3700mを超えるというシャンドゥール峠を越えるルートは、一般にはほとんど知られていないだろう。当時、パキスタン北部を旅する者の中では、秘境を抜ける横断ルートとしてそこそこ知られていたように思う。

 最近はかなり道が良くなったらしいのだが、当時は小型のアウトドア車がやっと通れる細い崖道や、歩くような早さで登る坂など悪路が続く難所だった。直通のバスなどはもちろん無く、ジープを雇ったり、ヒッチハイクをしたりあるいは歩いたりと、メインルートの旅よりは多少の努力が必要なルートだった。


 乗り合いのジープに自分の他に日本人一人、ドイツ人二人、住民が二人乗り合わせて、ギルギットを立ったのは9月13日の午後のこと。今ひとつすぐれない天気の中、それでもバスが乗り入れる道を走っている内は良かったものの、途中から悪路となり100km余りを走ってグピースにたどり着いたのは夜8時のことだった。

 翌朝は、奇麗な星空に冬の大三角形が確認できるまだ暗い4時に出発、前日以上の悪路70kmあまりを半日かけて昼前にテルーにたどり着いた。ギルギットからの乗り合いジープはそこまで。その日は、先へ行く足が見つからずにテルーに宿をとった。標高は3000mを超え、宿といっても室内というだけで、自前の3シーズン用の寝袋ではかなり厳しい一夜だった。

 翌朝、峠を越えるジープが見つかり、2時間半で標高3700mを超えるというシャンドゥール峠に到達した。峠とはいっても広々とした草原で、日本でイメージする峠とは随分と趣きが異なった。峠からチトラールまでは、ヒッチハイクで車を乗り継いで5時間ほど。最後に乗せてもらったのは、身なりの整った紳士が乗る運転手付きの現地仕様のパジェロだった。



 登り道は、峠の近くまでギルギット川とその支流を辿る。荒々しい山肌が見られる途中所々に村があり、写真のような奇麗な風景に出会える。これは、グピースとテルーの間で見かけた吊り橋。


 正確な場所は既に思い出せないのだが、テルーの村の周辺と思われる。


 テルーの宿近くの風景。ここら辺は釣りの名所のようで、ヨーロッパからのツアー客が何人か泊まっていた。


 シャンドゥール峠周辺に広がる草原。既に草が枯れているので荒野に見える。


 峠には、簡素なチェックポストがあったので一休み。同行した日本人に写真を一枚撮ってもらった。


 没関系☆スナフキンの足跡に、96年のシャンドゥール越えのより詳しい記録があります。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年4月13日

西夏語勉強会

 今年2回目となる西夏語勉強会へ参加した。いくつか取り上げられたテキストの内のひとつが、以前某勉強会会長より指摘を頂いた西夏文の仏典断片で、シュトヘルの中にその一部が登場している。単行本の1巻だと、69ページでユルールが左手に持ってしげしげと眺めているもの。マンガでは、4文字だけが焼け残っているという小さな断片だが、実物には64文字が残っている。

 この内、ユルールの親指の右側にある2文字が、5文字からなる1文の最初の2文字。漢字の逐語訳を並べると以下ようになる。

 極楽高賛頌

意訳すると、「極楽について(言葉を尽くして)高らかに褒め讃える」といったところ。次の行より始まる文章のタイトルであるらしい。西夏語への訳の元になったお経がなにかは不明ながら、仏典の一部であるらしい。


 ユルールの親指の左側にある2文字は、この「極楽」についての文章の冒頭で、7文字よりなる一文の最初の2文字。同様に漢字に置き換えると次のようになる。

 我今以帰〔接頭辞〕救我

3文字目が助詞、5文字目は完了を表す動詞接頭辞。意訳すると「私は、今(仏に)帰依したので救済された」となる。最初と最後に「我」が繰り返されるのは、チベット系などの言葉に見られる特徴とのこと。


 以前に、某勉強会会長よりコメントを頂いていたように、ユルールは極楽浄土を称揚する文章の冒頭の部分を握っていたことになる。それで「切ないです」というコメントだったことになるのだが、このシーンにこの断片が挿入されたのは、偶然なのか、それとも意図されたものだろうか。


<参考>
敦煌・西夏王国展 図録
(映画「敦煌」委員会 1988年)

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2009年4月12日

鹿背山城

 昨日のことになるが、もう初夏を思わせる陽気の中、京都府南部、木津川市にある鹿背山城へと出かけた。

 この城については、実は全くノーマークだった。先月発売の月刊「歴史読本5月号 特集 日本の名城」を読むまで知らなかった。この中で鹿背山城は、都道府県毎の評価の中で、京都府の4番目にランクされている。1番二条城、2番山科本願寺、3番目周山城に次ぐもので、戦国時代の山城としては京都府内で2番目という評価になる。それほど評価が高いのなら早速ということでの遠征となった。


 鹿背山城は、JR関西本線の木津駅から東へ2kmあまり。木津川の南岸、一番高い所でも標高200mほどのなだらかな丘陵地帯にある。木津駅から歩いて30分ほどで登り口となる西念寺にたどり着いた。寺の門前には、案内板と大量にコピーされた配置図、ノートが置かれていた。

 寺の脇から始まる登城道を辿ると、中心となる1の主郭までは標高差70mほど、わずか10分で到着した。さほど厳しい坂というわけでもなく、また道も最低限整備され、看板も立てられていてほとんど苦労はない。拍子抜けというほどだった。

 歴史読本によれば、城は松永久秀との関係が想定されているという。300m四方ほどの広がりを持ち、石垣こそ無いものの多くの縦堀を含む沢山の空堀、土塁、虎口があり、比高こそ低いもののかなり複雑な構成を見せる。山頂周辺には、そこそこの広さを持つ櫓台と想定できる土塁を擁する1の主郭のほか、ほぼ同じ高さに2つの主郭がならぶ。

 ほぼ全体をくまなく見て歩いて1時間。空堀と土塁で構成された戦国後期の実戦的な山城として、見て歩くに手頃で楽しい山城だった。


 西念寺の門前。鐘楼の脇に立派な案内板がある。右正面が登城道。


 西念寺から少し登った所。竹薮の中に奇麗に縦堀が残る。見易いように竹が刈り払われている。


 1の主郭西側にある巨大な空堀。右手、下側に土塁があり大きな虎口状になっている。

 山城の保存管理を行なっているという守る会の方々が、竹の刈り払いを行なっていた。城の特徴である空堀を見通せるように、かなり広い面積の竹が刈り払われていた。数年後の史跡登録を目指しているという。


 1の主郭。手作りながら各所に看板が立てられている。主郭までの道は、そこそこ整備されていて歩くのに困難はない。竹の他、開き始めた櫟の若葉が奇麗だが、去年の落葉が大量に積もっていて歩き難い所も多い。


 1の主郭の東側、櫓台が想定されるところ。先日ニュースにもなった。


 1の主郭からほぼ西側の眺め。中央に木津川が流れ、遠く京阪奈丘陵が見通せる。


鹿背山城周辺地図(電子国土)

 赤が3つの主郭。西念寺から右へ延びる青線が登城道。


<参考>
 多聞櫓 最初期遺構か 木津川・鹿背山城跡、近世城郭の先駆け?
 (京都新聞 2009年3月25日)
 歴史読本 2009年5月号(新人物往来社)
 歴史読本 2007年5月号(新人物往来社)

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2009年4月 5日

1995年アジア紀行〈ビシュバリク〉

 ビシュバリクの名前は、高校の歴史地図帳の上で良く目に止ったのをなぜか今でも覚えている。どの様な歴史があったのかも良く解らない、中央アジアのどこかにあった街。

 その後に読んだ本に載っていて、この街が遺跡として僅かながらも形を残していることを知った。唐の時代に北庭都護府が置かれ、チベットやウイグルなどの勢力が興亡し、天山ウイグル王国の夏の都となり、またモンゴル帝国の時代にはモンゴル高原と中央アジアを結ぶ要衝ともなった街。ジュンガル盆地を回ることを決めた時に、最初に訪れようと思ったのが、このビシュバリクの古城遺跡だった。


 ウルムチを7月25日の早朝のバスで立って3時間ほど、天山北麓を東へ向かうバスをジムサルの街外れで降りた。大陸の移動時間としては楽な部類に入る。ビシュバリク古城はそこから北へ10kmほどの場所にあるので、通りでのんびりしていた三輪タクシーの運転手を捕まえての交渉となった。

 地図の上から簡単にはたどり着けないような秘地をイメージしていたのだが、思いのほか簡単にたどり着くことができた。天山南麓が乾燥した沙漠のイメージが強いのに対して、北麓は裾野部分には緑が多く、地理の教科書的には新疆の穀倉地帯と表現されている。今ひとつぱっとしない天気で写真もいまひとつだが、古城は刈り取りを終えた麦畑と菜の花が広がる穏やかな田園風景の中に崩れた土の塊としての城壁跡を残していた。


 二重に残る城壁跡の内、内側の城壁の西側の中程に残る門の跡。右側に写っている馬が、なにをしていたのかは不明。


 城壁の上から見た周辺の様子。菜の花がちょうど盛りを迎えていた。


 一日おいた27日、時間ができたので天山北麓で一番有名な景勝地天池へ行ってみた。風光明媚ではあるものの当時すでに俗化を言われていたが、趣きの無さは聞いた通りだった。今はどうなっているだろう。


<参考>
 世界の歴史7 宋と中央ユーラシア(伊原弘・梅村坦著/中央公論社 1997年)

<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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2009年4月 1日

シュトヘル 1

BCS2529
シュトヘル 1
伊藤悠 著
ISBN978-4-09-182529-2
小学館 2009.4

 昨日発売になったシュトヘルの第1巻。西夏がモンゴルに滅ぼされようとしている時代の西夏文字を巡る物語という、当ブログのためにあるような希少な物語を描いている。ビックコミックスピリッツに不定期で連載中。

 物語の背景では、ある程度事実に近いと思われる歴史を追っているものの、登場人物や語られているエピソードは大半が架空のもの。西夏文字が時々大量に出てくるので、勉強にちょうど良い。


 ざっと見て気になった所を紹介する。連載時と比べて明確に修正されているところはあまり見つからなかったが、興味深いところが一か所あった。それは、以前紹介した玉音同についてのところで、見開きページ(単行本では206ページ)に玉板に記されたという西夏文字が書かれている部分。そこには、連載時との違いで面白いか所が2つある。

 ひとつは、右上端。もともと原稿に書かれていて、連載時には断ち切られてしまったということかもしれないが、そこには縦に5つの西夏文字が書かれている。文字の右半分が切れてしまっているものの、文字詰めが他と異なることから、見出しかなにかと思われた。可能性のありそうな文字を引きながら、字典に引用されている文章に当たった所「重唇音一品」と書かれたものを見つけた。重唇音は、p、ph、b、m音の子音のことで、その左に並んでいる西夏文字がbで始まるものであるので、「重唇音一品」で正しいと思われる。

 もうひとつは、字典に並べられている西夏文字のところどころに小さな丸が書き加えられていること。実際の音同(あるいは同音)の上に書かれた記号を写したものと思われるが、残念ながら該当する音同の部分の文面が解らないので、どういう意味があるのかは解らない。


 カバーとカバーの内側部分に、同じ西夏文字2文字が書かれている。これは、以前紹介した主人公の名前ウイソである。

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