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2009年6月30日

1995年アジア紀行〈デリー〉

 インドの首都デリー。子供の頃、地図にはニューデリーと書いてあったものが、いつの頃からかデリーと書かれるようになっていた。旅行から帰って来てから知ったのだが、日本国内での国名、首都名表記は、外務省が監修して外郭団体が刊行していた資料に基づいていた。ただし、外務省のサイトではニューデリーとしている。

 もう少し詳しく調べてみると、デリーはインドに7つある連邦直轄地域のひとつであり、ニューデリーはその中にある行政区のひとつで、首都機能が集まっている街であるとのこと。いわば、日本の首都を東京と呼ぶか、千代田区と見なすかの違いになぞらえる事ができるかもしれない。


 一国の首都は、旅行者にとっても重要な街である。単に賑やかというだけでなく、旅人が集まり情報も集まる。そして、なによりも次に旅する先の国のビザを取得することが大切となる。自分は、95年の10月にインドに入って二つ目の街として、ネパールビザの取得などの為に4日間、翌96年3月初旬にはパキスタンとイランのビザ取得と休憩を兼ねて10日間滞在した。この間、紹介状の取得や手紙の受け取りの為に、日本大使館とその分館へもたびたび足を運んでいる。

 ところが、今から思い返せばもったいない話なのだが、当時はデリーの歴史などにほとんど興味がなく、観光地巡りらしいことをほとんどしていない。インド大陸を一回りした疲れをとり、西へ旅をするためのエネルギーを蓄えていたというのは、それほど大袈裟な言い訳ではなかったように思う。



 ほぼ唯一の見物先となった、デリーの南郊に立つクトゥブ=ミナール。13世紀初め、デリー=スルターン朝時代に遡るという。


 ニューデリー駅前から続くメイン=バザールと呼ばれる通り。安宿が並び、世界中の旅行者が集まっていた。96年の3月には、クリケットのワールドカップが開催されていて、パキスタンとの一戦の際はこの通りに大型のモニターが据えられ、夜遅くまで盛り上がっていた。


 またこの年は、3月の初旬にホーリーの祭りがあり、デリーでそれに遭遇した。デリーのそれは、染料を溶いた色水をかけ合うといういささか強烈なもの。当然のように、旅行者かどうかに関わらず無礼講で、紫や茶色に染まっているのはインド人ばかりではない。写真右下に水に溶く前の染料が写っている。


 その祭りの最中、斑模様の青年達と撮った一枚。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図


<後記>
 昨年5月から書き連ねて来た当シリーズは、今話をもって終了します。まだ紹介していない街や話もありますが、写真が尽きてしまいました。

 見知らぬ街を歩き、日本ではできないことを体験して回ることが目的の旅でしたので、写真は1日1枚を目処に記念として残して来ただけのものでした。それをネット上に公開することになるとはもちろん思いもよらず、見返してみれば既に色あせた酷い写真ばかりでした。

 95年といえばインターネット黎明期であって、自分はメールアドレスはおろかパソコンもまだ持っていない時代。アジアの街角にはまだ一軒のネットカフェも無く、通信手段といえば手紙と電話でした。旅行中は有り余る時間を使って友達に手紙を書き、友達からは日本大使館気付で出してもらっていました。

 情報源といえば、ガイドブックと口コミ。大きな街では、情報交換を兼ねて知り合ったばかりの旅人と夕食を共にするというのが日常でした。

 いろんな意味で、既にひとつ前の時代という感じを持っていますが、それだけにまた貴重な体験でもありました。

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2009年6月26日

リニア中央新幹線 飯田市議会で決意案

<今までのエントリー>
 リニア中央新幹線を諏訪へ
 リニア中央新幹線と長野県
 リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ
 リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その1
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その2
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その1
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その2
 リニア中央新幹線 2009年1月の動き
 山梨でリニア学習会
 リニア中央新幹線 2009年5〜6月の動き
 リニア中央新幹線 ルート別の試算公表


 飯田・伊那両市議会が「リニア決議」 立場の違いあらためて
(信濃毎日新聞 6月23日)

 飯田市議会と伊那市議会は6月定例会最終日の22日、それぞれリニア中央新幹線の早期実現に関する決議を行った。(中略)両地域の立場の違いをあらためて示す内容となった。

 何かを作るための予算案を決議するのではなく、推進することを決議することにどんな意味があるのかピントこない。

 飯田市議会のサイトを見てみると、リニア中央新幹線の早期実現及び飯田駅設置実現に関する決議案可決されましたと題して、22日に可決されたという決議案が載っているので検討してみる。


 この決議案は、次の一文から始まる。

 リニア中央新幹線は、新たな国土の大動脈として、21世紀の我が国の社会・経済を支え、国際競争力ある日本を形成するとともに、国民のゆとりある生活の実現に大きく貢献する社会基盤であり、国家の浮沈を懸けたプロジェクトとして取り組まれるべきものである。
 これに続く部分を以下に箇条書きする。

 ・国家的プロジェクトとしての意義と地域貢献への意義という両面から検討されるべき
 ・飯田市では、35年間、民と官とが一体となって活動を展開し、実績を積み重ねてきた
 ・リニア中央エクスプレス建設促進長野県協議会が組織され、一員として共に運動を進めてきた、今後も県と一体となって進めていくべき
 ・リニア中央新幹線は、日本に必須のものであり、早期に実現して、すばらしい国家と地域を子孫に継承していきたい
 ・永年の悲願であるリニア中央新幹線の早期実現及び飯田駅設置について、改めてその決意を表明する

 これらの内容を踏まえてた上で次の2点を「決議する」とのことだ。

 1 リニア中央新幹線を早期に着工し、一日も早い実現を図ること。
 2 リニア中央新幹線飯田駅を設置すること。

 新幹線のような交通網が発達すると国際競争力が上がり、すばらしい国ができるという。有れば便利かもしれない。では、無かったら駄目なのだろうか。アメリカ、EU、インド、中国のような広域国家はどうすればいいのか。日本は、高速道路、新幹線だけでなく一般道路もそれなりに整備が進んでいると思うのだが、それでも「陸の孤島」とか「取り残される」といった言葉を目にする。いったいどのくらい便利になれば安心できるのか。

 交通の不便さを嘆き、便利さを求めることで、いったいどれだけの人が納得できるのだろうか。少なくとも、自分には空疎な絵空事にしか見えない。


 リニア中央新幹線が開通したとして、飯田市には何が起きるのか。

 東京へ30分以内なら、高級品の買い物は地元ではなくて銀座へでも行くのではないか。移動ストレスが少なければ、観光客が飛躍的に増えるかもしれない。では、箱根や日光よりも便利な飯田に観光客を呼び込む魅力があるのか。川本喜八郎人形美術館は、入館者が倍増するかもしれない。遠山、下栗といった秘境目当てなら、今まで躊躇していた人が泊まりに来るかもしれない。

 地価が安ければ、確かに東京や名古屋まで通勤する人がでてくるだろう。しかし、それはあくまで副次的なものであって目的にはなり得ない。「少子高齢社会・人口減少社会」というが、飯田市の隣には下條村という少子化対策をして全国に名を馳せた村がある。飯田市には、数百億円の駅建設費を考える前にすることが有るように思うのだが。


 それにしても、リニア中央新幹線ができるとどうなるのか分からないことばかりである。Cルートが実現したとして、「リニア新幹線の南アルプス貫通ルートを予想・検証してみる(ケンプラッツ)」のような見積もりがある。いくつかの前提条件によるとはいえ、飯田駅が便利なところにできることすら保証されていない。


 飯田市議会は、「運動を進めてきた」というが、議会や飯田市のサイトを見ても疑問に答えてくれるものは何も見つからない。

 飯田市のサイトで「リニア中央新幹線」で検索をかけると、リニア中央新幹線に関わる提言への回答が8件確認できる。これは、同サイトへ提言を行うフォームやらまいか提言(政策提言)へ投稿されたものへの市からの回答である。この回答を見てみると、提言されたことに正面から答えようという姿勢が見られ、長野県の信州・フレッシュ目安箱への回答よりも格段にマシある。

 しかしながらその内容を抜き出してみると、

 高速交通網や道路基盤が決して整備されているとはいえない当地域にとりまして、リニア中央新幹線が実現することにより、
 ・地域振興と産業の活性化による経済的な自立や生活圏の拡大が図られる
 ・三大都市圏への通勤・通学が可能になるなど、多様なライフスタイルの実現が期待される
 ・当市が推進するUI(結い)ターンの促進につながる
 ・地域を担う子供たちや地域の持続的な経営といった観点からも必要

なのだという。だから

 リニア中央新幹線の早期整備と飯田駅設置の実現を目指し、長野県を含む関係自治体の協力のもと、様々な運動を展開しています。
といったもの。近くなれば、東京への従属が強まり、名古屋の生活圏に飲み込まれるかもしれない。

 飯田市のサイトには、これ以上に具体的な情報はない。ひょっとしたら、以前に予算をかけて具体的な試算をしているのかもしれない。しかし、リニア新幹線とは何かがより問われている今、そういった情報がネット上に無いということは、何も無いということに限りなく近い。

 これだけの情報で、場合によっては数百億円ともなりそうな駅設置費用の拠出を、飯田市民は市議会に委ねることだできるのだろうか。


 自分が知っている飯田市の姿は、今から15年も前の90年代初期のもの。バブルが崩壊し始めた当時、ロードサイドへの店舗展開が進んで飯田駅周辺は空洞化が進んでいた。それ以前を知っているという先輩は、グラスを傾けながら寂しくなったと嘆いていた。リニア中央新幹線の駅が飯田にできれば、街へ活気が戻ってくるのか、衰退に拍車がかかるのか。全長1kmにおよぶ駅構造物が市街を縦断すると街はどう変わるのか。天竜川の河岸段丘を利用して、市街部分は全線地下に設置するという選択肢があるのかもしれない。

 いくらでも疑問が湧いてくるのだが、メリット、デメリットを比較すること抜きで、建設推進を唱えるということは、即ち造る事が目的であって造った後までは考えていないと言うに等しいのではないか。市議会として推進決議をする前に、積極的に独自に様々な予測を行う為に、補正予算を決議する方がよほど前向きである。その結果としての数字を持ち合わせていれば、JR東海に対しても、周辺他地域や県に対してもより優位に立つ事ができるし、なによりも市民に対して信頼を得られるというものではないだろうか。

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2009年6月21日

吉備津神社と吉備津彦神社

 先に少しだけ触れたように、今年の5月の連休は今までどちらかというと通り過ぎる場所だった山陽路吉備地方を回った。

 初日の5月2日、まず備前の一宮である吉備津彦神社を目指した。秀吉の水攻めで有名な備中高松城に近く、そこへ向かう途中のついでといえばそのとおり。ただし、そこから西隣にある吉備津神社を含む一帯を吉備路と称していることに誘われたということもあった。また、城廻の途中にその土地の神社に詣でるのは通例でもある。

 吉備路への旅は、岡山で新幹線から乗り継いだ吉備線のディーゼルカーを備前一の宮駅で降りたところから本格的に始まった。駅を出て回りを見渡した印象は、小高い山に囲まれ、街を離れた小さな盆地といった感じだった。地図を開いてみると、標高162メートルの吉備中山をはじめとした100メートル前後の丘陵に囲まれ、麓の標高は数メートルから10メートル程度。東の笹ケ瀬川と西の足守川の間に広がる東西に細長い谷と見て取れる。

 この長閑な田園が、古代には山陽古道が通り備前と備中の一宮が並ぶ要地だったということは、今の地図と現地を見てもなかなか想像し難い。その理由は、国道2号線、山陽本線、山陽新幹線がいずれも吉備中山の南側に開けた平野を通っているからだろう。ところが、古代においては今は半島になっている児島がその名のとおりに島であって、岡山平野の多くが遠浅の海だったことがわかれば、古代の国道が大河川の河口を避けながらこの盆地を通っていたことに少し納得がいくかと思うのだ。


 その吉備路には、東に備前一宮である吉備津彦神社、西に備中一宮である吉備津神社が鎮座している。両社の名前は、漢字が一文字多いか少ないかの違いだが、「探訪・神社寺院史話総覧」によれば、この名前が確定したのは明治になってからで、江戸時代にはともに吉備津宮と呼ばれていたという。また、同書によれば吉備津彦神社は、吉備津神社の分社にあたるとのこと。ここらへんのことは両神社の公式サイトを見てもなぜかよくわからない。

 両神社とも、主神は大吉備津彦命である。崇神天皇の時代に大和朝廷が派遣した4人に将軍の一人という伝説上の人物で、吉備中山には宮内庁が所管して彼の墓所とされる中山茶臼山古墳がある。古墳を含む山塊全体が神域あるいは神体だったのかと想像してみるが、ネットを少し泳いだ程度で分かる話でもなかった。



 今回の旅の最初の立寄地、吉備津彦神社。背後に吉備中山が聳える。


 宮内庁によって厳重に管理された中山茶臼山古墳。ネットをたどると全長120メートルの前方後円墳とあるが、その形を確認することはできない。

 吉備津彦神社から古墳まで、中国自然歩道が整備されていてゆっくり歩いて30分ほどの散策路だった。


 600年の歴史を持つという吉備津神社の本殿。


 吉備津神社の南へ400メートル続く回廊。かつてはもっと長かったとも言うが、自分はこの様な施設に他でお目にかかった記憶が無い。


吉備路参考地図(電子国土)


<参考>
 吉備津神社
 吉備津彦神社
 岡山市の古建築 1
 岡山市の古墳 1
 歴史と旅 臨時増刊 探訪・神社寺院史話総覧(秋田書店 1994年)

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2009年6月20日

リニア中央新幹線 ルート別の試算公表

<今までのエントリー>
 リニア中央新幹線を諏訪へ
 リニア中央新幹線と長野県
 リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ
 リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その1
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その2
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その1
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その2
 リニア中央新幹線 2009年1月の動き
 山梨でリニア学習会
 リニア中央新幹線 2009年5〜6月の動き


リニア工事費でJR東海がルート別の試算公表
(信濃毎日新聞 6月18日)

 リニア中央新幹線構想で、JR東海と鉄道・運輸機構は18日、東京---名古屋間の工事費について、長野県側が求める諏訪・伊那谷回りのBルートは、同社が想定する南アルプスを貫くCルートを6400億円上回る5兆7400億円などとする試算結果を公表した。
 その結果、BはCより60キロ延び、所要時間は7分多くかかる。木曽谷回りのAルートはCより48キロ長く、6分差。工事費は5300億円増の5兆6300億円となった。

 18日、JR東海からリニア新幹線建設についての試算が公表された。この試算については、同日JR東海のHPに中央新幹線調査の今後のスケジュールと工事費等についてがリリースされ、その中に同名のPDFファイルが添えられた。どの様な見積もりが公表されているのかと期待したが、わずか6ページに簡単な表が並ぶだけのもので読み取れる事は少ない。

 計算根拠としてここに記されていない数字が多々あると思われるものの、かなり簡素な資料でこれだけでは数字がどこまで具体的なものなのか価値が疑われかねない。実際に、長野県知事は公表後の記者会見で以下のように述べており、公表された数字を曖昧なモノとして軽視しようとしていると取れる。この点で、JR東海はより中身の濃いものを出すべきだったのではないか。

 それは率直に申しまして評価のしようがないと思います。これはあくまで現段階でその程度の金額でいけるのではないかという推計がされているということでありまして、これまでいろいろな巨大事業を私見てまいりましたけれども、当初想定された金額から膨らむケースが結構多ございましたし、ずいぶん振れます。
(長野県のHP内6月18日知事会見より)


 この簡単な試算表から読み取れる事をいくつか考えてみる。

 Cルートが、延長286km、建設費4兆8000億円とあるので、1km当たり建設費が168億円となる。同様にBルートは、346km、5兆3800億円で1km当たり155億円。つまりCルートの方が単価が高い。これは、南アルプスにトンネルを掘るたの分と想定して間違いないだろう。CルートとBルートの違いがそれだけであるならば、大雑把に計算して3000億円以上が南アルプス貫通に必要な費用と見ていることになる。しかし、それでもトータルでBルートの方が高いというわけである。

 Bルート延長346kmの内、トンネル区間が248kmでトンネルの割合72%と計算できる。Cルートが81%なので、Bルートの方がトンネルが少ない。それでも7割というのは、ずいぶんトンネルが多いという印象を受ける。山梨の実験線はほとんどトンネルであり、山岳部は同様にほとんどがトンネルになるのだろう。また、関東平野部については、大深度の地下線で通すということであり、相対的に伊那谷部分のトンネルの割合は低くなる。

 車両費について、Aルートで3400億円、Bルートで3600億円、Cルートで3000億円とある。編成単位ということだろうから、1編成が100億円ならAルートで34編成、Bルートで36編成、Cルートで30編成。これだとかなり多く見えるので、1編成あたり200億円、それぞれ17編成、18編成、15編成ということだろうか。

 なお、この試算表には既に完成している山梨実験線の18kmが含まれているのかどうかが書かれていない。その点も、大雑把で適当な資料という印象を助長しているように見えてならない。


 関連したニュースに書かれていることについて、少しコメントしておく。

 中央リニア需要予測など試算へ 早期着工は不透明
(中日新聞 6月19日)

 (前略)経済効果は50年間で10.7兆円に上る。(中略)日本経済をどれだけ潤せるかについても考えるべきだ」と話す。
 この記事上では、メリットについてしか書かれていない。書かれていないだけなのか、語られなかったのか。メリットのみを強調して、巨大事業を推し進めるのは自分としては辟易なのだが。


 リニア3ルート試算提示、知事は静観姿勢 県内関係者は賛否両論
(中日新聞 6月19日)

 山田勝文諏訪市長は差額について「ずいぶん小さい。ほとんど変わらないじゃないか」と受け止めた。
 地元関係者として6400億円を「小さい」というのは厳に慎むべきだろう。格好の攻撃ネタである。

 県議会でのBルート決議案、修正や見送り模索
 政治的な流れということなのだろう。たいした中身の無い決議は不要とも思うが、もはや県を上げてお祭りのようにBルート推進という事態ではないということだろうか。

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2009年6月17日

リニア中央新幹線 2009年5〜6月の動き

<今までのエントリー>
 リニア中央新幹線を諏訪へ
 リニア中央新幹線と長野県
 リニア中央新幹線 Bルートが無理なわけ
 リニア中央新幹線 知事の質疑応答ほか
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その1
 リニア中央新幹線 Bルートが実現する可能性 その2
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その1
 リニア中央新幹線 2008年12月の動き その2
 リニア中央新幹線 2009年1月の動き
 山梨でリニア学習会


 あまりブログを更新していない中で、リニア新幹線関係の記事もだいぶ間が開いてしまった。この間小さなニュースがいくつか散見されただけだったが、JR東海による長野県下への説明会が始まるなど急にニュースが増えて来た。長野県に関係する部分を中心に簡単ながら記録に留めコメントを試みる。


 リニア構想 JR東海が29日、5地域の同盟会に説明
(信濃毎日新聞 5月22日)

 リニア中央新幹線構想をめぐり、県とJR東海は、諏訪、上伊那、飯田下伊那、木曽、中信の県内5地域の建設促進期成同盟会を対象に今月29日、初の「地元説明会」を開くことで合意した。
 JR側はこれまで「地域をまとめる県と話し合う」(松本正之社長)ことを基本姿勢とし、市町村などへの説明には消極的だった。
 2月9日のエントリーで触れた「JR東海と長野県の顔合わせ」以降この記事に至までにどんな経緯があったのか、ネットを検索しても公式記録やニュース記事は見当たらない。水面下での折衝の結果ということなのだろうか。JR東海が譲歩したと取ることができるが、自分にはそれで何が変わるのだろうかと疑問符がつくものの、結論を導く必要はないので経過を見守っておく。


 リニア中央新幹線:松本で初の地元説明 5促進同盟60人に---JR東海など /長野
(毎日新聞 5月30日)

 JR東海によるリニア中央新幹線の建設問題で、同社とリニア中央エクスプレス建設促進県協議会が29日、(中略)初めての地元説明会を松本市内で開いた。(中略)今後も順次開催するという。
 実際に開かれた最初の「地元説明会」の記事だが、以下のような事について「報告され」たとのこと。

 ・リニア開発の経緯
 ・環境への影響
 ・駅の構造やイメージ
 ・建設手順

 参加していた伊那市副市長は、「新しい話や具体的な話が少なかった。今後の調査結果が出た段階で説明会を開いてほしい」との感想を記者に述べたようだ。

 この副市長の発言に限らず、地元関係者の発言にはJR東海側の説明待ちとの受け身の姿勢を見受ける。先に長野県下でBルートへ意見が集約されたという経緯があるとはいえ、これまのでエントリーで述べてきたように地元側は圧倒的に不利と自分は見ている。積極的に地元側から働きかけない限り状況は何も変えられないのではないか。


 リニア「1県に1駅」 JR東海社長が方針表明
(日本経済新聞 6月8日)

 (前略)リニア中央新幹線の途中駅について「1県に1駅ずつ設置することが適切」との考えを明らかにした。
 途中駅の建設費は「受益の観点から地元負担と考えている」と説明。
 これは、愛知県知事が会長を勤めるリニア中央エクスプレス建設促進期成同盟会の総会でのR東海社長の発言と思われる。(→総会の開催について)最初の地元説明会から10日足らず。いかに長野県下の意向に影響力が無いかを示していると見る。

 これを受けて、次の長野県知事の発言についての記事につながる。


 「それで事業が進むのか!」リニア1県1駅構想で長野県知事
(産経新聞 6月10日)

 長野県の村井仁知事は10日の記者会見で、(中略)「中間地点の駅は経営的に大してプラスにならないとみているのは理解できるが、それで事業が進むのだろうか」と疑問を呈した。
 「理解できるが」が「進むのだろうか」という「疑問を呈した」という文脈が自分には理解し難い。

 記事から受ける印象そのままに読み取って良いのかという疑問も残る。この記者会見については長野県の公式サイト内知事会見6月10日分リニア中央新幹線について(1)に全文が掲載されているので稿を改めて検討してみたい。


 リニア中央新幹線:諏訪で説明会 「Bルート」求める要望相次ぐ /長野
(毎日新聞 6月11日)

 JR東海が想定する南アルプスを貫く「Cルート」に対し、出席者からは諏訪・伊那を通る「Bルート」を求める要望が相次いだ。
 山田市長は「地域を考慮した全体の発展を考えてほしい。我々は今後もBルートを求めていく」と話した。
 諏訪地区を対象とした説明会が9日に開かれたとのこと。地域の発展に考慮してBルートを推すことの無理については、既に一連のエントリーの中で述べてきた。


 リニア中央新幹線:「Bルート」決議へ---県議会 /長野
(毎日新聞 6月12日)

 リニア中央新幹線の建設問題で、県議会が諏訪・伊那を経由する「Bルート」の実現を求める決議をする方向で調整を始めたことが11日、明らかになった。
 上記にあるように、JR東海が「1県1駅」を表明したことなどから、議会として意思を示したいのだという。意思を示すというだけでは、子供にもできるただのポーズにすぎない。そこからは、議会は頑張っていますというフリをしておこうという以上のものはなんら感じ取れない。


 構内長さ1キロ、線路4本 リニア中間駅の基本構造が判明
(中日新聞 6月12日)

 JR東海が、各県などに示した駅の基本構造の概要が11日、明らかになった
 この記事によれば、リニア中央新幹線の中間駅として想定されている構造は、東海道新幹線などでよく見られる4本の線路の外側にホームが向かい合うもの。大雑把に見積もって20m前後の幅を持つ構造物が延々1kmあまり続くことになる。

 用地買収も大変そうだが、地域振興以前に地域分断のシンボルにならなければ良いのだが。このようなものを3つも作ろうというのだがら大したモノである。


 リニア新幹線Bルート要望相次ぐ 伊那でJR東海が説明会
(長野日報 6月14日)

 地元説明会は、13日に3地区目となる上伊那で開かれたとのこと。「Bルートでの建設を求める意見が相次いだ。」として、いくつかの意見が列記されている。この記事が説明会の状況をバランス良く伝えているのかという疑問が残るが、「コスト面だけでルート選択しているが、あまりにも独善的」「トンネル内で緊急事態があったとき、どうするのか」など、いずれも勉強不足を露呈する一方的なものと自分には思える。

 「人を物のように速く運ぶなら直線になるが、これからの時代は、もっと人間的ゆとりが必要。人間的、将来的な選択を」というものもある。リニア新幹線はいらないという意味なら、他の意見の中では異彩を放つまともな意見と言えなくもないが。

 伊那市長が、「(Bルートを願う)上伊那の心意気をしっかり(上層部に)伝えてほしい」と述べたとのことだが、心意気で誘致するレベルを越えていることを説明する必要がまだあるだろうか。


 JR東海、リニア建設費提示へ 3路線、8000億円増加ルートも
(日本経済新聞 6月17日)

 東海旅客鉄道(JR東海)は自民党が18日に開くリニア特命委員会(堀内光雄委員長)で、(中略)建設費の試算を提示する方針だ。南アルプスを貫通する直線ルートでは約5兆円の建設費が必要だが、諏訪・伊那谷を通るルートでは建設費がさらに8000億円前後増える見通しだ。
 18日に開かれるという会の内容が、前日に流れるのはどういうことなのだろう。Bルートに釘を刺そうという意味ともとれてなんとも胡散臭い。明日には、もう少しまともな情報が流れるだろうか。

 以前、かなり大雑把ながら7000億円という試算をしてみたが、それほど外していない喜んでよいだろうか。

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2009年6月 8日

今週のシュトヘルより「塩田」

 前話が連休前で、ひと月以上開いてようやく11話。今回は、塩州から少し隔てた塩の産地でもある関所のある小さな街での話。


 南を目指す一行が出会った子持ちの西夏人の男は、街の郊外へ出かけて一日何か作業を行い、生成した塩を8樽持ち帰った。当話の真ん中あたりは、その様な描写だったと思う。製塩というと瀬戸内の塩田による海塩、ヨーロッパの大地深くから掘り出される岩塩、アフリカの干上がった塩湖から切り出される塩塊といったところを思い浮かべる。

 話の舞台になる陝西北西部から寧夏東部にかけての地域の製塩は、塩水が原料ということなので塩田ということいなるのだろうか。関所の描写には菜園とも塩田とも見えるものが描かれている。内陸におけるこの種の製塩にはいろんな意味で縁が無いので、なかなか興味深い描写と思う。

 ただし、塩田での製塩には煮詰めるための燃料が必要に思うのだが、関所の周囲は木がほとんどない沙漠として描かれているが、どう解釈したらよいだろう。この地域では、100%天日に依存するには緯度が高すぎるだろう。


 あとは余談を少々。西夏人の子供の名前「羌黒」、フリガナは「チェナ」とある。辞書を引いてみると、チベット系の人々と言われる羌族の人々を指す「羌」に白黒の「黒」を後置した西夏語で間違いないだろう。「羌黒」という単語に意味があるのかどうかは分からない。

 冒頭に添えられた地図に細かい突っ込みを2つ。モンゴル、金、西夏、南宋の境を描いた小さな地図があるが、この境界は金全盛期のものではないか。モンゴルが深く攻め込んでいる物語の頃、金の版図はもっとずっと小さい。

 もう1つはさらに細かい部分。冒頭のもうひとつの地図を見ると、黄河にそった蘭州が西夏の版図として描かれている。蘭州が西夏の領土だったのは、西夏の歴史の中でも初めの頃だけで、金国があった頃は一貫して金の領土だったように記憶している。金がモンゴルに破れるどさくさに西夏が蘭州を取ったことがあったかどうか、検討してみる余地はあるだろうか。


 次回は、3週間後6月29日発売の号に掲載予定とのこと。


 シュトヘル 参考地図
 今号の冒頭の地図に描かれた地名を書き足してあります。


<追記> 
 杜建録氏著の『西夏経済史』によれば、塩州周辺で行われていた製塩は、塩池の水を塩田に張って天日に曝すというもので、夏場に5、6日で産生されたとのこと。ですので、煮詰めるための燃料はいらなかったということのようです。
(6月13日)

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2009年6月 6日

1995年アジア紀行〈ラーメシュワラムとアダムズブリッジ〉

 インド東部のカルカッタ(今はコルカタ)から最南端を回って西部のボンベイ(今はムンバイ)まで、インド亜大陸を時計回りに回る最中い立ち寄った街のひとつにラーメシュワラムがある。大陸の南東部に並ぶセイロン島に一番近いインド側の街だが、高校の地理の授業でも使われる地図帳を開いても載っていない。

 自分としても訪れるまでその街の名前に馴染みは無く、セイロン島と大陸を結んだという伝説の橋アダムズブリッジへはその街が近いらしいという程度のもの。アダムズブリッジの名前を知ったのは、暇つぶしに地図を眺めていた中学生の頃のことと思う。伝説の場所がどんなところなのか、その頃からインドの中で行ってみたい場所のひとつだった。


 ラーメシュワラムへは、インド南東部の大都市マドラス(今はチェンナイ)から列車で一晩、14時間ほどの夜汽車の旅だった。街は、大陸から海峡に架かる橋を列車に乗ったまま渡った先の島にある。インドの中では、ヒンドゥー教の聖地のひとつで海岸近くに立つ大寺院ラーマナータスワミの門前町として知られているようだ。

 街の東に、セイロン島と大陸を隔てる海峡が広がり、海岸には沢山の船が並ぶ漁村でもあった。海を見ながら砂浜を散策するとその船の数の多さが印象的で、一度訪れた薄暗い寺院の中よりもよほど強く記憶に残っている。


 ラーメシュワラムに滞在したのは、96年の1月22日から26日のこと。アダムズブリッジは、伝説の橋と言われるほどにスケールの大きな話のこと、現地を歩いたからといって簡単に実感できるものではなかったものの、それでも足跡を記してみるべくセイロン島の方向に向かって出かけたのは25日のことだった。

 なんら下調べをしていなかったので、どうすれば伝説の橋にたどり着けるか分かっていなかったが、街から南東に続いていることだけは確かだったのでとりあえず歩いてみた。アダムズブリッジとは、詰まるところ細長い砂嘴(さし)であってどこまで続くのだろというくらいに変化の少ない砂地と林が続いていた。少し歩いても景色がさして変わらないことだけは分かったので、急遽借りた自転車に跨がった。



 街を離れてから南にだいぶ行くと、道の左手には潟湖が続く風景となり、風の音くらいしかしない静けさと相まってなんとも幻想的だった。

 やがて、その潟湖の中に小さな島が見えた。島といっても東へと続く道とは堤防道路でつながっていた。その堤防の上から島を見たのがこの写真。コタンダラーマルという名の小さな寺院が建っていた。


 こちらは、堤防の上から来た方を振り返ったもの。潟湖の彼方に街が霞んで見えた。街からここまで8kmあまり、この先どこまでいけば良いのか分からず、疲れが溜まっていたこともあって寺院を後に街へ引き返した。

 GoogleMapを見ると、砂嘴の先端まではさらに14kmあまり。そこから海を30km越えた先にセイロン島であることがわかる。


 こちらは、砂嘴へのサイクリングに先立って出かけた街の北西側での風景のひとつ。右手にかなり高い塔があり、コタンダラーマル寺院からも遠望できる街のシンボルと思えるのがだ、ネットを少し探しただけでは、その名前は見つけられなかった。


 上の写真とあまり離れていない場所にあったとおぼしきガンダマダナ寺院。なだらかな島の中では高台にあって、街を見下ろす風景はなかなか爽快だった。


 街の中で何気なく撮った一枚。砂浜に連なる漁船の写真を撮ってなかったのが今にして少し心残り。


<Google May Map>
 1995年アジア紀行参考地図

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