今週のシュトヘルより「塩田」
前話が連休前で、ひと月以上開いてようやく11話。今回は、塩州から少し隔てた塩の産地でもある関所のある小さな街での話。
南を目指す一行が出会った子持ちの西夏人の男は、街の郊外へ出かけて一日何か作業を行い、生成した塩を8樽持ち帰った。当話の真ん中あたりは、その様な描写だったと思う。製塩というと瀬戸内の塩田による海塩、ヨーロッパの大地深くから掘り出される岩塩、アフリカの干上がった塩湖から切り出される塩塊といったところを思い浮かべる。
話の舞台になる陝西北西部から寧夏東部にかけての地域の製塩は、塩水が原料ということなので塩田ということいなるのだろうか。関所の描写には菜園とも塩田とも見えるものが描かれている。内陸におけるこの種の製塩にはいろんな意味で縁が無いので、なかなか興味深い描写と思う。
ただし、塩田での製塩には煮詰めるための燃料が必要に思うのだが、関所の周囲は木がほとんどない沙漠として描かれているが、どう解釈したらよいだろう。この地域では、100%天日に依存するには緯度が高すぎるだろう。
あとは余談を少々。西夏人の子供の名前「羌黒」、フリガナは「チェナ」とある。辞書を引いてみると、チベット系の人々と言われる羌族の人々を指す「羌」に白黒の「黒」を後置した西夏語で間違いないだろう。「羌黒」という単語に意味があるのかどうかは分からない。
冒頭に添えられた地図に細かい突っ込みを2つ。モンゴル、金、西夏、南宋の境を描いた小さな地図があるが、この境界は金全盛期のものではないか。モンゴルが深く攻め込んでいる物語の頃、金の版図はもっとずっと小さい。
もう1つはさらに細かい部分。冒頭のもうひとつの地図を見ると、黄河にそった蘭州が西夏の版図として描かれている。蘭州が西夏の領土だったのは、西夏の歴史の中でも初めの頃だけで、金国があった頃は一貫して金の領土だったように記憶している。金がモンゴルに破れるどさくさに西夏が蘭州を取ったことがあったかどうか、検討してみる余地はあるだろうか。
次回は、3週間後6月29日発売の号に掲載予定とのこと。
シュトヘル 参考地図
今号の冒頭の地図に描かれた地名を書き足してあります。
<追記>
杜建録氏著の『西夏経済史』によれば、塩州周辺で行われていた製塩は、塩池の水を塩田に張って天日に曝すというもので、夏場に5、6日で産生されたとのこと。ですので、煮詰めるための燃料はいらなかったということのようです。
(6月13日)
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コメント
むとうすさんこんばんは。三月に京都でお会いした高雄の章魚です。
西夏といえば「青白塩」ですが、岩塩だとばかり思ってました。
「羌黒」ですが、『雑字』の「人名」の部にある西夏人の名前ですね。20葉2行目3番目の名前です。ちなみに、第1巻で死んだ「屈漢」の名もやはり『雑字』の20葉1行目1番目にあります。某勉強会会長は仕事熱心ですね。
>某勉強会会長
『シュトヘル』第一巻ですが、日本に遊びに行った学生に買ってもらいました。台湾の学生(一部)にも好評です。これは台湾版出版もあり得ますよ。
投稿: 章魚 | 2009年6月12日 01時53分
章魚 さん
お久しぶりです
コメントありがとうございます
私も青白塩について、内陸なら岩塩?と漠然とおもってましたが、今の寧夏に塩池の地名があるように塩湖からの産生ということのようですね。
製塩やそれを取り巻く事情は、杜建録氏著の『西夏経済史』に詳しく書かれていました。
そこには、塩州や霊州で行われていた製塩を「畦種法」と書かれています。畦を作る、すあわち塩田を作って塩池の水を張って天日に曝すとのこと。5、6日で生成されるとあります。
黄土高原ていどの乾燥があれば、夏の日差しに曝すだけで塩が析出されるていうことのようですね。
それならば、上に書いたような煮詰めるための燃料の心配はいらないことになりますね^^;
投稿: 武藤 臼 | 2009年6月13日 16時24分
こんにちは。
羌黒というネーミングが面白いですね。
西夏語で羌は「チェ」と発音していたって言い換えてもOKですか?
『宋史』党項列伝に「鹽州羌人酋長巢延」という人が出てきますね。
地名の点からは「来羌城」だとかありますし、西夏のタクバツ氏以外のその他雑多の羌の名残って印象を受けました。
『晋書』載記には、黒羌という集団が二例出てくるみたいです。
投稿: 巫俊(ふしゅん) | 2009年6月15日 09時17分
諸般の事情(笑)で今回の内容確認とコメントが遅くなりました!
巫俊さんへのレスのような形式で人名についてコメントしておきます。
「チェナ」は章魚さんのご推察の通り、実際の西夏文献に登場します。
西夏文字では2文字。それぞれce nyaのような音で、ceは「羌」nyaは「黒い」。西夏語では形容詞が名詞の後ろに来るので、「黒い羌」のような意味になります。この場合は愛称に近い個人名でしょうね。このように、色彩語彙が人名に使われるケースも珍しくはありません。
さて、「羌」(の字と音)は漠然としたチベット系の民族名と推測されます。
西夏文字を示せないのでもどかしいのですが、「羌」を表す西夏文字の「偏」と、「蔵(族)」を表す西夏文字の「旁」は、同様な字形です。つまり「表意」文字的にも「民族名」を意味したものと考えられます。
投稿: 某勉強会会長 | 2009年6月16日 21時52分
巫俊さんこんばんわ
オルドス南部一帯は、唐後半からチベット系ばかりでなくいろんな出自の人々が雑居してたといいますから、「名残」というのは面白いですね。
西夏200年の時代たこの物語の時代、彼らがのように変貌していったのか興味深いです。
『晋書』載記ですか、ミニャクとは関係があるんでしょうか。
某勉強会会長さん
解説ありがとうございます。
どういう人物の名前なのかまでは分からないのですね?
幼名、呼び名、愛称なのか、あるいは庶民の名前なら案外単純な名前なのかなどなど色々空想は膨らみますが、それ以上にはなりません^^;
李元昊に幼名があったからといって、庶民にまであった証拠にはならないし。
投稿: 武藤 臼 | 2009年6月17日 01時11分