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2009年9月27日

信州まつもと空港 日航路線廃止か

 日航の国内7空港撤退、広島西・松本・丘珠も
(日経新聞 9月16日)

 ほぼ一年ごとに話題を提供してくれる信州まつもと空港(以下「松本空港」)だが、日本航空が撤退を検討していることが報じられたのが今月16日のこと。これを受けて様々な反応が見られたので、まずそれを眺めてみる。


 定期便ゼロの危機 日航が松本空港撤退検討
(朝日新聞 9月16日)

 同紙によれば、長野県村井仁知事は以下の様にコメントしている。

 まったく聞いていないのでコメントしようもない。松本空港と日本航空は、これまで運命共同体的にやってきた。不採算の便が議論になるのは当然だが、縮小すればいいというものではない。
松本空港と日本航空が運命共同体というのがよく解らない。はぐらかして明言を避けておきたいということだろうか。


 同じく長野県交通政策課長のコメント。

 日航が持っていた国内の航空ネットワークが地方に果たした役割は大きい。国、地方も含めて、これをどう維持するのかという議論も進めて欲しい。
後半の部分、リニア中央新幹線の議論同様に他力本願的な言い回しである。管理者として、ここまで追いつめられていてなお維持を乞い願う姿勢しか無いということがあり得るのか。


 同じく松本商工会議所会頭のコメント。

 路線廃止なら、観光面でも打撃を受ける。県や市とも相談しながら存続するための対策を取っていきたい。
打撃が皆無とは言わないが、程度の問題としてどれほどのものなのか。下に記してあるが、2008年度の松本空港利用者は約6万人。これに対して、平成20年版「松本市の統計」その2によれば2007年の松本市の観光地利用者数およそ570万人。6万人は、このほぼ1%にあたるが、松本市の観光地利用者は対前年比で22万人近く増えている。

 同様に長野県観光関連統計より平成20年観光地利用者統計調査結果(pdfファイル)を開くと、2007年の長野県の観光地利用者数は約8700万人。しかし、前年から400万人あまりの減少している。

 これらの観光関連統計が、延べ人数であることや地元利用者を含んでいることを考えても、増えるにしろ、減るにしろ空港問題の影響が小さいのは間違いない。


 同じく松本青年会議所理事長のコメント。

 減便して利用率が減ってから撤退というのでは納得いかない。
相対的に利用率が高い札幌便、福岡便が、一日各1便から、合わせて一日1便に半減して二年になる。毎日1便あるのと、2日に1便という中途半端な便数では不便なのは確かで、この点については減便⇒撤退が納得できないというのは理がある。

 しかし、それ以前から一日1便体制の大阪便は減少傾向が続いており利用率は44%に過ぎない。2007年6月9日のエントリーで指摘したように大阪便が存続していることは不可解ですらある。2008年度の年間利用者数は2.3万人にすぎず、一日あたりで63人、片道は半分の32人で普通車一両に60席ほどある特急電車一両にも満たない。

 これらの点から、松本空港に定期便が残るとすれば、札幌便、福岡便がそれぞれ一日1便という体制が考えられる。大阪便の低迷を考えれば、この体制の方が同じ一日2便でも利用率の向上が見込めるかもしれない。


 同じく八十二銀行の頭取のコメント。

 長野県は海が無く、空路を断たれると地方経済や交通の便への影響が大きい。県民がもっと利用する努力や工夫をすることにより、路線を存続させる方向でぜひ検討してほしい。
八十二銀行の頭取は、17日に以下のようなコメントも残しているようだ。

 「陸の孤島になる」
(読売新聞 9月18日、既に元記事が無くなっているためGoogleのキャッシュにリンクしている)

 長野には海がない。空(の移動手段)を取られてしまうと、陸の孤島になる。どう対応するか考えなければならない。非常に問題だ。
だれに向けてこのような発言を繰り返したのか、首を傾げたくなる。上に書いた観光客数の比較からすれば、経済への影響に対する発言は過大である。また、2008年5月28日のエントリーで紹介したように努力してこなかったわけではないので、むしろ努力も限界に来ていると考えるべきではないか。

 「陸の孤島」とう言い方に至っては笑止でしかない。鉄道と道路交通で十分に便利だから使われないだけのこと。むしろ、読売新聞がこのような実態の無い発言を「陸の孤島になる」のタイトルで紹介しているセンスの方が気になる。


 このような中で、9月18日に信濃毎日新聞は松本空港路線 存続へ手だて尽くそうと題した記事をアップしている。この中に、次のような指摘がある。

 県や市町村、経済団体などは、JR駅から空港までの交通費や、修学旅行での利用に補助をするなど、てこ入れを図ってきた。
 それでも低迷が続き、採算ラインには届かない。地元としてさらに有効な支援策がないか、真剣に考える必要がある。
税金を投入してのなり振り構わない延命策も既に限界にあるのではと見えるのだが、今まで以上に真剣に考えてなにか出て来る余地が残されていればいいのだが。続けて次のような記事がある。
 リニア中央新幹線ができれば、中南信と東京、名古屋の空港との時間距離が大幅に短縮される。北陸新幹線が延びれば、富山空港も競争相手になるだろう。
 リニア新幹線と北陸新幹線が開通すれば、まつもと空港はいらないと言っているに等しい。


 最後に、国土交通省の航空輸送統計年報 過去の統計資料 平成20年分より第4表 国内定期航空路線別, 区間別, 月別運航及び運送実績(pdfファイル)を参照し、離島を除く空港の内、2008年度の利用者が20万人を切る空港について、2007年6月9日のエントリーで纏めた2005年度のランキングとの変化を確認しておく。

 稚内空港 19万人 ▼
 山形空港 18万人 ▼
 中標津空港 18万人 ▼
 能登空港 16万人 △
 南紀白浜空港 14万人 △
 大館能代空港 11万人 ▼
 石見空港 7万人 ▼
 天草空港 6万人 ▼
 松本空港 6万人 ▼
 広島西空港 5万人 ▼
 オホーツク紋別空港 4万人 ▼
 但馬空港 3万人
(▼は対2005年度減、△は同増。稚内空港は2005年度は23万人、中標津空港同22万人。また、山形空港同20万人、広島西空港同7万人で前のエントリーの際に漏らしていた。)

 以上の中で減少率がもっとも大きいには、半減した松本空港である。エリア人口を見ても、観光資源を考えても能登や秋田県北部などよりも大きなものを持ちながら、むしろ三大都市圏に近いという恵まれた立地であるからこそ利用者は伸びないのである。

 唯一毎日運行の大阪便の利用者は、昨年度2.3万人あまり、利用率も44%に過ぎない。これは、但馬伊丹便の2.9万人、65%に大きく劣る数である。但馬というエリアとの違いを考えれば参考になるものがあるように思うが、但馬空港が大阪乗り継ぎで東京から集客できることを考えれば、松本空港の方がより厳しいとも考えられる。

 唯一松本空港に生き残る可能性があるとすれば、上に書いたように札幌便と福岡便の拡充である。2005年度の旅客数と利用率は、札幌便が5.5万人、59%、福岡便が3.4万人、66%。札幌便の利用者数は、現状の小型機に代えれば利用率100%を越える数字である。


 現状の松本空港は、全国の中の比較で見る限り既に存廃を問われる所まで来ているといっていいだろう。仮に札幌、福岡便がこのような形で存続したとしても、それでも利用者は10万人に達せず、ワースト5の空港のままである。

 今回の件に対しては、「経済への影響」「陸の孤島」と中身の無い評語を叫ぶのではなく、冷静に地域として、長野県として維持する意味、価値があるのかを見極め、廃港も選択肢の一つとして捉えて問い直す良い機会ではないだろうか。また、それができるかどうかに、地域、行政の力量が試されていると自分は考えている。

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2009年9月14日

今週のシュトヘルより「名前」

 6月に11話に触れ以来3ヶ月ぶりとなる。月一でゆっくりと連載が続いていて今週号でやっと14話。取り上げられそうな話題の無い小競り合いが一息、今週号では西夏文字がいくつか出て来たのでそれを取り上げる。

 場面は、モンゴルの皇子ユルールが主人公の話を聞きながら亡くなった仲間の名前を西夏文字で書き留めて行くところ。この場面で主人公は、

「わたしの仲間の名前は…この文字が、覚えていてくれるのか。」
とつぶやいた。ここを読んで自分は、映画『敦煌』の中で佐藤浩市演じる趙行徳が仲間の名前を書いて行くシーンを思い出した。もっとも、行徳が使った文字は漢字で彼の仲間は漢人部隊なので、ショトヘルとの共通性は西夏が舞台というだけなのだが。


 さて、この場面では以前の話に登場した屈漢(クイハン)の他に、賀蘭金(ヒンランキ)、乞牟巴(キムパ)の名前が出て来る。さらにユルールに西夏文字を教えたという玉花(イファ)の西夏文字表記も登場する。西夏文字の字典を引いてみると、この4人の名前はなかなか興味深い。

 玉と花の西夏文字は、どちらも西夏文字として「玉あるいは玉壁」、「花あるいは華」という意味を持つ文字。その点だけ考えれば、玉花はタングート系の西夏人、いわば生粋の西夏人と言えるだろうか。

 賀蘭金は、寧夏自治区の区都銀川の西に連なる西夏にとっては聖なる賀蘭山の名前「賀蘭」に、ゴールドの意味の「金」。これも、賀蘭山麓周辺に住み着いたタングート系西夏人の名前と見ておきたい。

 次に乞牟巴。乞には乞という意味は無く、牟と巴はそれぞれの音写文字である。といってもキムパという響きは、漢族の名前とは思えない。チベットっぽい響きに思えるのだが、残念ながらこの名前がチベット系と言える資料も知識も持ち合わせていない。もちろん、韓国語という落ちも無し。とりあえず、漢族でもタングートでもない他の部族出身と推定しておく。

 屈漢は、以前に話題になったように漢系西夏人と見なしておく。


 とりあえず玉花は置いておくとして、主人公の仲間とされる屈漢、賀蘭金、乞牟巴の3人は、名前を読む限りはそれぞれに異なる出自を持っていると想定できる。タングート、漢だけでなく、チベット系やトルコ系、モンゴル系、ソグドなどが混じっていたと思われる西夏について、たった3つながら面白い名前を選んだものと感心している。


 次回は、10月19日発売号に掲載とのこと。また、「10.30 VOL.2」という広告が出ていたので、来月末には単行本の第2巻が発売になる。

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2009年9月13日

韮山城と興国寺城

 夏休み後半は伊豆、というか伊豆と駿東の話。半日という時間の中で車でどれくらい回れるかと思案しながら、戦国時代の城3つを候補に挙げてみたものの、一つ目の韮山城を回った時点で山中城を断念して興国寺城へと向かった。


 どちらの城も戦国北条氏に興味のある方にはすこぶる有名な城であり、解説一切不要とも思うのだが一応簡単に概略のみ書いておく。

 韮山城は、伊豆の国市、合併前の韮山町の中心部東側、溜池に臨む丘陵にある山城。戦国北条氏初代早雲が伊豆に最初に築いた拠点であり、北条氏西端部の拠点城だった。豊臣秀吉による北条攻めの際は、4万余という大軍の重囲を受けて3ヶ月余り戦い抜いた事でも知られている。

 本城の他に溜池を囲む丘陵に連なる複数の城塞によって城塞群を構成しているが、時間の都合で本城周辺を散策して撤退した。改めて資料をひっくり返してみると立派な城塞群であり、一日かけて歩いて回る価値があるようにも思うので、いつか再訪を果たしたいと思う。


 もう一つは興国寺城。沼津市西部、愛鷹山山麓の丘陵先端を利用した山城。富士市と沼津市の間にあるという曖昧な認識でいたが、現地に行くと地理感覚ははっきり覚え込める。JR東海道本線原駅の2キロメートルほど北北西にあり、北側を新幹線が走っている。

 今川氏に使えていた北条早雲(当時は伊勢氏)が、最初に得た城であって伊豆侵攻の拠点となった。その後、今川、武田、徳川、中村各氏の時期を経て関ヶ原後の天野康景まで変転が激しく、また伊豆、駿河、甲斐といった国々の勢力を睨む位置にあるため、城そのものも幾度も手が入れられて来たようだ。その為、現地に立っても早雲の城とはだいぶ異なっているのかもしれないが、それでも戦国北条氏立身最初の城として、本丸に佇めばいろいろと楽しく想像することはできる。

 まだ工事は始まっていないが、城跡の北から西へかけて東駿河湾環状道路の建設が計画されている。この道路との位置関係が気がかりだったのだが、城跡にはとりあえず掛からないもよう。


 溜池の土手から見上げた韮山本城の天守曲輪。


 天守曲輪の北側の二曲輪。回りには高い土塁が残り、虎口も往時の形が想像できるほどに残る。


 痩せ尾根に沿って南北に続く天守曲輪。こちらも土塁が良く残っている。



 興国寺城の前に立つ「興国寺城跡整備計画図」。今は三ノ丸に倉庫が一棟建っているのみだが、Google Mapを見ると他に何軒も建物があったようだ。近年、整備にあたって立ち退きが進んだということか。


 広い空間をもつ本丸。西から北へ土塁が残り、中央奥には櫓が建っていたとされる。右の茂みに神社があり、城の解説板が立っている。


 本丸の北にある大堀切。愛鷹山から伸びる丘陵を断ち切る位置にあり、深さ幅ともにかなり大きい。


<参考>
 韮山城と興国寺城(Google Map)

 歴史群像シリーズ 戦国の堅城II(学研 2006年)
 歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代(学研 1998年)
 戦国の城 下 中部・東北編(学研 1992年)
 歴史読本 2007年5月号(新人物往来社)

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2009年9月12日

甲斐源氏と上條氏

 秋の訪れが早い昨今、もう夏休みでもないかとも思うものの、せっかくの休みということで泊まりで出かけて来た。行き先選びは、「休み」をメインに温泉と海、そして今まであまり歩いていない場所ということで山梨と伊豆を選んだ。

 まず山梨の話。山梨へ行くならと前々から考えていたのがルーツの地巡り。実家の苗字は「上條」で、家紋が丸に四つ菱。図書館で調べてみると、武田氏の一族として2つの系統が挙げられている。ひとつが、新羅三郎義光の曾孫武田信義の子一条忠頼、その子が甘利行忠、そしてその子の上條頼安と続く系統。もうひとつが、武田信義の別の子武田信光、その子が岩崎信隆、そしてその子の上條信賢へと続く系統。

 その2系統と自分に繋がりが有るのかどうか、可能性としては武田信玄の時代を想定することができる。しかし墓や位牌、過去帳や系図、手紙などの文書といった物証があるわけではなので仮定、仮想の域を出ることはたぶんない。


 「上條」という苗字それ自体は、条里制との関係が考えられる「條」「条」がつく地名に起源を求めるのが常套。山梨県の古い地名を調べると、「甘利上條」(現在の韮崎市南部)と「上條郷」(現在の甲府市南西部、国母周辺)の2つが見つかる。韮崎市の「甘利上條」というのは、甘利という庄園を上条と下条に分けたものという。甘利庄は甘利氏の発祥地とされ、上に引いたように上條頼安の父が甘利行忠という繋がりが連想されて面白い。

 今回は、現地をじっくり回るほどには時間がなかったので、これだけの前知識でとりあえず2つの「上條」に行ってみるというかなり適当なものとなった。



 まずは、富士川沿いを北上して身延町にある大聖寺。義光開基の寺と伝わり、義光の他、武田信玄、加賀美遠光の木像が安置されている。


 さらに富士川沿いを北上。甲府盆地の入り口、市川大門の高台にある熊野神社。義光の子義清が最初に館を構えた場所という伝承があり、傍らに「甲斐源氏旧跡碑」という石碑が建てられている。


 JR身延線、国母駅の周辺が古の「上條郷」とされ、「古上条町」などの地名が残る。駅の北、県道上には上条バス停がある。


 バス停の西、500メートルほどの場所にある義清神社。義清を慕って建立したものといい、墓所でもあるという。


 甲府市から大きく移動して、韮崎市の南部、甘利小学校の南にある南宮大神社。甘利郷きっての大社で、義光が建てたものという。所在は「大草町上條東割」。


 甘利郷の北隣には、武田義信に因む旧跡が点在している。写真はそのひとつの武田八幡神社


 上條氏についての物が簡単に見つかるとは思っていなかった。その意味で予定通りなのだが、2つの上條の隣に武田氏に関わる神社や旧跡が残っている点は、興味を深めるには十分な動機となる。

 帰って来てから調べたら、上條郷に関連して甲府市にある一蓮寺の過去帳に上條彦七郎なる武田信虎より少し前の人物の名前が残っているとのこと。また、武田信玄の信濃国筑摩郡侵攻後に現在の朝日村に上條佐渡守信隣、信俊なる兄弟がいたらしいことが分った。一条忠頼は墓所が残っているほか一蓮寺との関係もあるようだし、上條信賢の系統について岩崎氏や一宮氏について調べてみるのも意義があるかもしれない。


<参考>
 甲斐源氏 上條氏関連地図(Google Map)

 系図纂要 新版第11冊下 清和源氏5(岩澤愿彦監修/名著出版 1994年)
 新編 姓氏家系辞書(太田亮著/秋田書店 1974年)
 日本歴史地名大系 第19巻 山梨県の地名(平凡社 1995年)
 角川日本姓氏歴史人物大辞典20 長野県姓氏歴史人物大辞典(角川書店 1996年)
 別冊歴史読本73 甲斐の虎 信玄と武田一族(新人物往来社 2004年)
 武田のふるさと 甲斐・武田信玄(武田神社 1995年)

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2009年9月 5日

備中高松城

 前のエントリーから随分と時間が開いてしまった。今年のゴールデンウィークの話の続き。5月2日の午後、吉備津神社から吉備線の列車で一駅揺られて、初日一番の目的地備中高松に着いた。

 恐らく岡山県下の戦国時代の城としては、備中高松城が最も有名だろう。駅から城跡までは、平坦な道を歩いてわずかに10分ほど。羽柴秀吉による水攻めで名を馳せた城であって、沼地に囲まれた平城だったということは分っていることだが、拍子抜けもまた止むを得ないか。

 戦国の城といえば山城ばかり巡っていると、本丸周辺に僅かに微高地が残り復元された湿地がある程度で、なんとも平凡な田園風景と見てしまう。しかし、この地は毛利氏との激しい攻防が行われた場所であり、その後秀吉が飛躍する画期となった場所でもある。僅かな手がかりを元に往時を想像する場所ということになる。秀吉のその後の活躍は言うまでもなく、だからこそ一度は訪れようと思っていたわけだが。


 城跡公園の一角。田園の真ん中に忽然とある感じで、何も知らなければちょっと不自然な小さな公園というところ。


 当時を復元するということで、公園の一角が掘り返されて湿地になっている。ちょうどアヤメが満開だった。


 本丸跡周辺は、僅かに高まりが残り木々が茂っていた。写真は、その一隅にある高松城将清水宗治の首塚。元々秀吉本陣跡近くに有ったものをここに移したとのこと。


 城跡の東、寺院の裏手にある宗治自刃の阯。舟の上で兄と共に割腹したと描写されるのその場所ということだろう。


 城趾公園から南東へ歩いて15分ほど。林の中の小道に分け入ると秀吉本陣跡の案内が建つ。すぐそばに、宗治の首塚があったという持宝院の跡もある。


 高松城を水没させる為に築かれた長大な堤防だが、現存するのは2カ所のみとのこと。写真が東端に位置して数メートルの高さを残し、近年基礎部分の発掘調査が行われたという蛙が鼻築堤跡。


備中高松城周辺参考地図(電子国土)

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