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2009年10月25日

玄蕃尾城

 9月22日、余呉湖を周回する古戦場を歩いた翌早朝は、滋賀県と福井県の県境を成す山々のひとつにある山城、玄蕃尾城跡を目指した。玄蕃尾城は、1583年春に柴田勝家と羽柴秀吉が覇権を賭けて戦った際、柴田勝家が本陣を置いたとされる城。すぐに雨が降り出すほどではなかったものの、切れ間の無い雲天のもと刀根越えの旧街道を辿りながら訪ねてみた。


 旧街道の登り口となる柳ヶ瀬へは、木之本駅から余呉バスで20分ほど。朝は、7:36発と9:13発の2本がある。柳ヶ瀬の集落の北に峠と城についての案内板があり、そこを過ぎると山道となる。明治天皇が行幸にも使ったという江北と敦賀を結んだ旧街道で、幅員は広め、斜面を迂回するコースをとり勾配も緩めで歩き易かった。登り口から県境となる倉坂峠へは、黙々と歩いて30分ほどで辿り着いた。

 峠から右手の尾根に整備された道を進むと、10分ほどで案内板のある城の入り口で標高は450メートルあまり。城周辺の尾根筋は、頂きというわりには意外になだらかで広さもあった。そればかりでなくこの山城は、これまで自分が見て来たものの中では十分に例外的な形をもっていた。

 山城というと、地形を生かして尾根筋に削平した郭を連ねて尾根を断ち切った堀切で守るというイメージがある。しかし、この城は造りだけを見ているとあまり山城という感が湧いてこなかった。

 玄蕃尾城が造られ使われたのは、賤ヶ岳の戦いの時、1583年3月上旬から4月の下旬までという僅かに二ヶ月に満たない間。しかしながら、南北に大小7つが連なる郭は、現状でもところによって2メートルを越える堅固な土塁とそれよりも深い堀に囲まれ、地形を生かしたというレベルを超えて築き上げたという規模があり、仮設の陣城というには立派なものだった。規模という点では、奈良県の高取城ほどではないとはいえ、主郭周辺の雰囲気だけならば両者の違いは石垣か土塁かというだけと思える。


 1時間ほど隈無く見て歩いてから敦賀側、刀根の集落をめざして旧街道を下った。敦賀側は、峠から5分ほど下に駐車場があり、近くまで舗装された林道が続いているので車があれば簡単に見学ができる。

 峠から谷沿いに続く林道から県道へと歩いて、刀根の集落まで3キロメートルあまりを30分。氣比神社の隣に敦賀市のコミュニティバスの宮前橋バス停があり、休日は12:51発の便で敦賀駅までは30分で出られる。

 歩く距離はそこそこあるものの、木之本駅発9:13のバスを使ってもあまり無理をせずに敦賀行きのバスに乗れるように思う。自分は、時間がだいぶあったのでその先さらに6キロメートル余りを北陸線の新疋田駅まで歩いた。



 柳ヶ瀬集落の北側にある案内板。峠へは左の道をたどる。


 城跡への案内板が立つ倉坂峠の切り通し。南側を登れば、佐久間盛政が本陣を構えたという行市山砦跡への道がある。


 玄蕃尾城の中心となる郭。北側角(写真奥)には櫓台が想定される一段高い区画がある。


 櫓台から郭を囲む土塁を見たところ。右下が空堀。


 櫓台の下あたりの空堀。高さは2メートルを越える。


 倉坂峠からは、柴田勝家によって築かれた軍道が行市山砦跡まで続いていたという。峠から垂直に近い道を這い上がると、それを思わせる広い幅を持つ尾根にでた。


<参考>
 近江城郭探訪(滋賀県教育委員会編/サンライズ出版 2006年)
 近江の山城 ベスト50を歩く(中井均編/サンライズ出版 2006年)


玄蕃尾城跡周辺参考地図(電子国土)
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2009年10月19日

今週のシュトヘルより「数字」

 今週号掲載分の第15話。ここでも西夏文字が出て来る。主人公がモンゴルの皇子ユルールから西夏文字を教わるシーンがある。まるで、西夏文字の先生から「これは、覚えてますよね」と言われているようだ。


 主人公が、ユルールから教わって地面に棒で書き留めた文字は全部で5文字。全て数詞。主人公から見て、右上、右下、中上、中下、左下の順に「1、2、3、4、5」と書かれている。

 2に当たる文字は、編と旁がつながってしまっている。また、3に当たる文字の編の上も辞書とは少し字形が違っている。これを主人公が不慣れだからと許容するか、あるいは明らかな間違いとするか。単子本が出てのお楽しみということかもしれない。


 ついでに更に細かい突っ込みを。主人公は文字を教わりながら、5文字目として「2」を書いている。手順としては、5文字目は「5」の方が絵になる気もする。とっても細かい突っ込みでした。


 ストーリーの方は、なんとも先の見えない混沌状態。次回掲載は、11月9日発売号とのこと。単行本の第2巻は、来週末30日の発売。

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2009年10月12日

哈爾濱金代文化展

 11月8日まで新潟市歴史博物館で開催されている特別展哈爾濱金代文化展と、11日に新潟市万代市民会館で開催された同展記念シンポジウム中国金の建国と女真族の社会を見るべく、昨朝10年ぶりに新潟を訪ね、今朝方の夜行列車で戻って来た。


 企画展開催中の新潟歴史博物館。新潟駅前からバスで20分ほど。

 そもそもとして、金の時代について単独の企画展が見られること自体が恐らく画期的なことだろうと思う。その中で、目玉となるのが今回初めて招来されたというハルビン市の金上京歴史博物館の所蔵品。大小あわせて50点が並べられていた。

 印象に残っている物をざっと書き出すと、刀、鍋、農具といった実用鉄器、銅製の火銃、銅鏡、銀製の馬具、シャーマン関連の楽器やお面といったあたり。ガラス製の碁石や現代の中国将棋の駒と同じような形の銅製の駒も展示されていた。

 また、金代史の研究者としても知られた故三上次男氏のコーナーが設けられ、磁州窯陶器などが展示されていた。


 11日の午後に開催されたシンポジウムの基調講演並びに報告は次の4つ。

 ・考古学から見た金代女真(臼杵勲)
 ・金代北東アジアの鉄器とその生産(村上恭通)
 ・金代北東アジアの銭貨流通について(三宅俊彦)
 ・金代の陶磁器は金朝の陶磁器か?(弓場紀知)

 臼杵氏の報告は、中国からロシアにかけての金代城市遺跡発掘などの成果を基に、従来の金のイメージを問い直すというもの。村上氏は、古代から金代に至る北東アジアの製鉄と鉄製品を概観しながら、製鉄炉や製品の質などから中国の影響とそれ以外の地域との関係などについて具体的に考察したもの。三宅氏は、出土した銭貨の内容から金代の銭貨流通の状況の復元を試みるもの。弓場氏は、従来の研究で位置づけが難しかったという金代の陶磁器について再考したもの。鉄器、銭貨についての報告を聞いたことはあまり記憶に無く新鮮な話だった。全体を通しても、金代という情報の不足している時代についてこれからの盛り上がりを期待させる興味深いものだった。


 特別展の図録
新潟市・ハルビン市友好都市提携30周年記念
哈爾濱金代文化展
---12世紀の中国、北方の民族が建国する---
新潟市歴史博物館2009年9月

 


 シンポジウム後佐藤氏より下記2点頂戴を頂戴した。また、ブログでいつもお世話になっている関尾先生、モンゴルの考古学について度々名前を出させて頂いている白石先生にお目にかかることができ、関尾先生からは下記報告書を頂戴した。また両氏よりお話を頂けるなど楽しい時間を頂戴した。ありがとうございました。


環日本海研究年報 第16号(2009年2月) 抜刷
 西夏語文献における「首領」の用例について---法令集『天盛禁令』の条文から
  佐藤貴保

西北出土文献研究 第7号(2009年3月)
 呉震先生追悼吐魯番学特集
  「西州回鶻某年造仏塔功徳記」小考
   栄新江/植松知博(訳)
  麹氏高昌国の灌漑推理と税役
   荒川正晴
  「唐咸亨五年(674)児為阿婆録在生及亡没所修功徳牒」をめぐって
   町田隆吉
  大谷文書・旅順博物館文書中の吐魯番出土霊芝雲型文書の一例
   片山章雄
  トゥルファン出土、「五胡」時代文書の定名をめぐって---『新獲吐魯番出土文獻』の成果によせて---
   關尾史郎
 論説・ノート
  S.5692に見える亡名和尚絶學箴に関連して---ある僧のノートから見る敦煌仏教の実相 ---
   玄幸子
  ロシア蔵西夏文『天盛禁令』第2585号断片について
   佐藤貴保
  大谷探検隊将来「西厳寺蔵橘資料」について
   橘真敬

西北出土文献研究 2008年度特刊(2009年3月)
 本調査記録
  蘭州・武威・張掖・高台・酒泉・嘉峪関 調査日誌(2008年12月23日〜29日)
  高台・酒泉・嘉峪関魏晋墓に関する問題点と課題---漢代の伝統的なモチーフを中心として---
   北村永
  甘粛出土魏晋時代画像磚墓、壁画墓等に見える記号的図像について
   三崎良章
  河西地区出土文物における朝服着用事例に関する一考察
   小林聡
  酒泉十六国墓前室北壁上段壁画天馬図運足表現
   高橋秀樹
  高台駱駝城に関する諸問題
   市来弘志
 予備調査記録
  新疆クチャ磚室墓の予備調査記録
   白石典之
 ノート
  遼陽壁画墓の現状と研究の可能性---2007年8月・2008年8月の調査から---
   三崎良章
  高台県の古墓群と主要出土文物をめぐるノート
   関尾史郎

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2009年10月10日

賤ヶ岳古戦場 後編

 余呉湖を囲む山々を東から南へと縦走して、余呉湖畔へ降りたのが午後1時半。賤ヶ岳古戦場巡りの後半は、湖の北西端から権現坂を登り湖の北に連なる砦群を見て回った。

 正源寺の裏手という権現坂の登り口は少々分り辛かった。寺の裏手は、土石流に備えた砂防指定地となっていて、大きな砂防ダムが築かれていて往時の道は無くなっていた。代わりの道らしきものがあったものの、地形的に道らしいというだけで草が茂り、林の中に入ってしっかりした道に出るまで些か不安だった。麓から権現峠まではおよそ15分の上り道。峠に出たところで舗装された林道に出てちょっと拍子抜けした。

 すぐに林道を外れて尾根道を辿る。10分ほどで少しなだらで杉林の中に大きな赤松が混じる場所になる。よく見ても山城らしい地形があるのか判然としないが、案内本などによればそこが前田利家が一時滞陣した茂山砦跡とのこと。

 茂山砦跡を過ぎると道は急な下りになる。15分ほどで大きな堀切に行き当たり、そこを越えると神明山砦跡となる。中心には土塁で囲まれた櫓台を想像できる小高い曲輪があり、傍らには明瞭に虎口がのこっていた。

 その先、さらに削平された郭がいくつか連なり、神明山砦跡から100メートル近い標高差を下ると10分ほどで高圧線の鉄塔が立つ開けた場所に出る。そこ先は急な下りとなり、さっきよりも深い切り通しになっていた。そこは、山を挟んだ南北の谷を結んだ峠道でもあったという。

 堀切の向こう側の斜面を這い登った先が、余呉湖の北に東西に横たわる尾根筋の先端に築かれた堂木山砦跡で、神明山砦跡よりも規模が大きい。郭を囲む土塁は場所によって2メートル近い高さがあり、明瞭に形を観察できる虎口も複数残っていた。また、砦の北側にも深い堀切を確認できた。

 堂木山砦跡は、余呉川沿いの地峡部の喉元にあって、柴田勝家方の攻撃に直接曝される重要な位置に築かれたもの。下手な山城よりずっとも堅固な造りが今に残り、古戦場の緊張感を多少なりとも体感できたように思う。


 堀切まで戻り峠越えの旧道を南へ下ると10分ほどで田んぼの傍にある登り口に出た。権現坂を登り始めてからここまで1時間40分。後半ルートについては、権現坂は登り口が分りにくいなど不備があったが、茂山砦跡から堂木山砦跡を経て下山するまでは、笹が刈り払われ、ルートに沿って赤い目印が木に巻かれているなど手入れがなされていて、迷うというほどのものではなかった。

 午前11時少し前に余呉駅をスタートして、途中で休みながら5時間。足にはだいぶきていたものの予定していた余呉湖周回コースをなんとか歩き終えた。



 踏み跡がほとんどなかった権現坂だが、砂防ダムから少し上がると窪んだ道の形ははっきりと解る。


 杉林の中に踏み跡が続く茂山砦跡付近。


 神明山砦跡の中心、櫓台と思しき土塁がはっきり残る。


 神明山砦跡と堂木山砦跡の間にある堀切。峠道としてみれば切り通し。


 堂木山砦跡に残る虎口。写真では分り辛いが真ん中から右へ折れる形が明瞭に残る。


 小さな案内板が立つ旧道の登り口。


<参考>
 近江城郭探訪(滋賀県教育委員会編/サンライズ出版 2006年)
 近江の山城 ベスト50を歩く(中井均編/サンライズ出版 2006年)
 フィールドワーク 関ヶ原合戦(藤井尚夫著/朝日新聞社 2000年)


賤ヶ岳古戦場周辺参考地図(電子国土)
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2009年10月 4日

賤ヶ岳古戦場 前編

 9月後半の連休を利用して、賤ヶ岳古戦場と福井県若狭地方を歩いてきた。

 余呉湖とその周辺には、1583年の春から初夏にかけて、柴田勝家と羽柴秀吉の間に戦いが起こった際に築かれたという城塞が、山の尾根筋を中心に点在している。初日は、余呉湖を取り巻く山々にある砦群を半日ほどかけて見て回った。まずは前半部分、湖の東から南にかけての話。

 21日は、雲の量は多かったものの一日中暑くも寒くもなく、山を歩くには程よい気候だった。北陸線の余呉駅に降り立ったのが昼前の10時半ころ。江土登り口から山に入ると、すぐに雑木林の中の道となり、尾根筋に出るころには杉林になる。高山右近が詰めたという岩崎山砦跡までは10分ほど。岩崎山砦は、削平されたと思しき地形が確認できるものの、土塁や堀切を見つけるのは難しかった。

 岩崎山砦跡から、尾根筋の細い山道を進み林道へ出てしばらく行くと15分ほどで「中川清秀主従の墓」の案内がある。そこから少し登った所に広場があり、江戸時代に大分県の岡城主になっていた子孫が建てたという墓石が立っている。あたり一帯が、羽柴秀吉方の中川清秀が柴田勝家方の佐久間盛政に攻められて玉砕したという大岩山砦跡。周囲には、広い削平地が確認できる。墓の建立など後世の手は入っているだろうが、岩崎山砦よりも規模が大きかったものと想像できる。

 林道は、やがて尾根筋の細道となる。杉の植林地の中を続く道は、部分的に平時の造成にしてはかなりしっかりとした土手状になっている。当時、砦間の連絡用に造られたものと想像したがどうだろう。さらに、大岩山砦跡から10分ほど歩いた所に小さなピークがあり、三角点の標石が埋められていた。周囲は明らかに造成されており、三角点周辺が小高くなっていて櫓台を思わせた。大岩山砦と賤ヶ岳城を繋ぐ砦があったと見て間違いないだろう。

 三角点からさらに尾根筋を辿ること30分で開けた山頂に出た。休日の昼ということで、ハイカーがベンチや芝生の上で弁当を広げていた。公園として造成され、展望台やトイレなどが建てられているが、よく見ると土塁や堀などが残っている。この一帯が戦いの雌雄を決する切っ掛けとなったという賤ヶ岳城跡。北は余呉湖周辺を一望し、南は琵琶湖から小谷城あたりまでが見渡せる。虎御前山の先の霞んでいるあたりが長浜になる。

 賤ヶ岳城跡から北西へ山道を降りて行くと、10分ほどで飯浦大堀切へと着く。かなりの深さのある堀切で、賤ヶ岳城の北西の尾根筋を断ち切っている。ここは、余呉湖畔から琵琶湖湖畔の飯浦とを結ぶ道の峠でもある。峠道を15分ほど下ると、佐久間盛政が未明に駆け抜けたという余呉湖畔へ出た。



 岩崎山砦跡にある中川清秀主従の墓所。


 岩崎山砦跡から賤ヶ岳へ向かう途中。かなりしっかりした土手道が確認できる。


 三角点付近。左の高まりの上に三角点があり、周囲は広く整地されている。


 賤ヶ岳山頂から眺めた余呉湖。右手の尾根筋を時計回りに登って来た。


 ハイカーで賑わう賤ヶ岳城跡。


 飯浦大堀切を余呉湖を背に見たところ。左手上が賤ヶ岳方面。


<参考>
 近江城郭探訪(滋賀県教育委員会編/サンライズ出版 2006年)
 近江の山城 ベスト50を歩く(中井均編/サンライズ出版 2006年)
 フィールドワーク 関ヶ原合戦(藤井尚夫著/朝日新聞社 2000年)


賤ヶ岳古戦場周辺参考地図(電子国土)
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