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2009年11月 4日

国吉城

 9月22日は、玄蕃尾城、疋壇城に続いてもうひとつ城跡を見て歩いた。昼過ぎに新疋田駅から敦賀経由で小浜線の電車に乗り継いだが、乗り換えの便が悪くて美浜駅に着いたのは3時近くだった。目的の国吉城跡は、駅から東へ3キロメートル近く離れている。あまり遅くなると写真を撮るのにも厳しくなるので、行きはタクシーを使った。


 国吉城は、若狭国の東を守る重要な城であったという。再三にわたって隣国越前朝倉氏の攻撃を受けたが、城主の粟屋氏はこの城を盾にその都度撃退したとのこと。また、織田信長が朝倉攻めの際に立ち寄っており、丸一日逗留したことが信長公記に見える。

 粟屋氏縁という徳賞寺を行き先に告げてタクシーに乗ったところ、寺の門前に今年4月にオープンしたという真新しい建物の若狭国吉城歴史資料館が建っていた。館内はさほど広くはないものの、近年積極的に行われているという発掘の成果が展示されていた。現在は、城の南西麓に広がる居館群の発掘が中心になっているようだ。


 資料館の隣から発掘現場の中を抜けて、近年整備された登城道を辿ると本丸跡まではおよそ20分。今のところ整備されているのは本丸下帯郭の入り口までだが、途中に急なところがかなりあるので助かった。

 城跡は、一部に石垣が残るほかに虎口、土塁、堀切りなどが残り戦国の実戦を越えて来た雰囲気が残っている。ただし、関ヶ原後に入封した京極氏の時代にも城下町ともども整備されたとのこと、どこまでが戦国時代の遺構か簡単には区別できなかった。

 この城の特徴のひとつは、本丸から北西に続く尾根の上に五段にわたって造成された郭群。一つひとつの郭の面積が広くその分段差が大きい。大きいところでは高さ10メートルは越えていたように思う。

 それらの郭を一回り見て歩いてから資料館の前まで降りて戻るのに小一時間。夕方4時をまわり、薄暗くなり初めていた。早朝に余呉湖畔を出てからバスと電車を乗り継ぎながら城跡3つと峠越えの山道を踏破した。さすがに膝回りを中心に足は疲労困憊といった状態だった。


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 山麓に建つ若狭国吉城歴史資料館。煙出を載せた武家屋敷風という感じか?

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 登城道から見下ろした居館群の発掘現場。

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 虎口の形を残す登り口側から見上げた本丸跡。

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 北西の郭群のひとつから上の郭へと続く法面を見たところ。

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 本丸付近から見下ろした若狭湾。山の向こうが越前になる。

※クリックで拡大写真がポップアップします


<参考>
 国吉城址と佐柿の町並み(福井県美浜町教育委員会 2009年)


国吉城跡周辺参考地図(電子国土)
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