2009年11月 4日

国吉城

 9月22日は、玄蕃尾城、疋壇城に続いてもうひとつ城跡を見て歩いた。昼過ぎに新疋田駅から敦賀経由で小浜線の電車に乗り継いだが、乗り換えの便が悪くて美浜駅に着いたのは3時近くだった。目的の国吉城跡は、駅から東へ3キロメートル近く離れている。あまり遅くなると写真を撮るのにも厳しくなるので、行きはタクシーを使った。


 国吉城は、若狭国の東を守る重要な城であったという。再三にわたって隣国越前朝倉氏の攻撃を受けたが、城主の粟屋氏はこの城を盾にその都度撃退したとのこと。また、織田信長が朝倉攻めの際に立ち寄っており、丸一日逗留したことが信長公記に見える。

 粟屋氏縁という徳賞寺を行き先に告げてタクシーに乗ったところ、寺の門前に今年4月にオープンしたという真新しい建物の若狭国吉城歴史資料館が建っていた。館内はさほど広くはないものの、近年積極的に行われているという発掘の成果が展示されていた。現在は、城の南西麓に広がる居館群の発掘が中心になっているようだ。


 資料館の隣から発掘現場の中を抜けて、近年整備された登城道を辿ると本丸跡まではおよそ20分。今のところ整備されているのは本丸下帯郭の入り口までだが、途中に急なところがかなりあるので助かった。

 城跡は、一部に石垣が残るほかに虎口、土塁、堀切りなどが残り戦国の実戦を越えて来た雰囲気が残っている。ただし、関ヶ原後に入封した京極氏の時代にも城下町ともども整備されたとのこと、どこまでが戦国時代の遺構か簡単には区別できなかった。

 この城の特徴のひとつは、本丸から北西に続く尾根の上に五段にわたって造成された郭群。一つひとつの郭の面積が広くその分段差が大きい。大きいところでは高さ10メートルは越えていたように思う。

 それらの郭を一回り見て歩いてから資料館の前まで降りて戻るのに小一時間。夕方4時をまわり、薄暗くなり初めていた。早朝に余呉湖畔を出てからバスと電車を乗り継ぎながら城跡3つと峠越えの山道を踏破した。さすがに膝回りを中心に足は疲労困憊といった状態だった。


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 山麓に建つ若狭国吉城歴史資料館。煙出を載せた武家屋敷風という感じか?

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 登城道から見下ろした居館群の発掘現場。

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 虎口の形を残す登り口側から見上げた本丸跡。

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 北西の郭群のひとつから上の郭へと続く法面を見たところ。

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 本丸付近から見下ろした若狭湾。山の向こうが越前になる。

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<参考>
 国吉城址と佐柿の町並み(福井県美浜町教育委員会 2009年)


国吉城跡周辺参考地図(電子国土)
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2009年11月 3日

疋壇城

 9月22日、玄蕃尾城跡を巡り終えた後、昼前後に小雨に見舞われる中旧街道を疋田まで歩いた。

 国道から疋田の集落の中へ入ると、かつて水運に利用されたという水路沿いの道が整備されていた。疋壇城跡は、集落の南西、10数メートル登った丘の上の残されていた。周囲より一回り高い丘の中腹という場所で、山城ではなくて少し堅固な城館といった風情。

 近江の湖東と湖西それぞれを通って敦賀へ抜ける街道が交わるという要衝であり、また越前最南部という意味でも重要な場所だったといえるだろう。織田信長による二度の越前朝倉氏侵攻に際しても攻防の場所となったという。


 城跡は、南北に連なるゆったりとした広さを持つ郭が確認できる。南側は、小学校の跡地とのことで今は整地されてグランドになっている。その北の一段高い郭が城の中心だったと思われる。登り口に案内板が建てられ、石垣も確認できる。郭内はほとんどが畑になっていて立ち入るのは憚られた。

 その更に、奥にも郭があるということだが確認していない。城の西側には北陸線が通っている。新疋田駅までは、南へ歩いて10分の距離。


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 疋田の集落を抜ける旧街道沿いに案内標識が立つ。

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 標識のところを西に曲がると、神社の境内へ続くような石段が聳える。

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 グランドを背に中心となる郭の段を見上げたところ。虎口らしい形やさらに小高い区画を確認できるものの、往時のものか以後の改変の結果なのかは判然としない。

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疋壇城跡周辺参考地図(電子国土)
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2009年10月25日

玄蕃尾城

 9月22日、余呉湖を周回する古戦場を歩いた翌早朝は、滋賀県と福井県の県境を成す山々のひとつにある山城、玄蕃尾城跡を目指した。玄蕃尾城は、1583年春に柴田勝家と羽柴秀吉が覇権を賭けて戦った際、柴田勝家が本陣を置いたとされる城。すぐに雨が降り出すほどではなかったものの、切れ間の無い雲天のもと刀根越えの旧街道を辿りながら訪ねてみた。


 旧街道の登り口となる柳ヶ瀬へは、木之本駅から余呉バスで20分ほど。朝は、7:36発と9:13発の2本がある。柳ヶ瀬の集落の北に峠と城についての案内板があり、そこを過ぎると山道となる。明治天皇が行幸にも使ったという江北と敦賀を結んだ旧街道で、幅員は広め、斜面を迂回するコースをとり勾配も緩めで歩き易かった。登り口から県境となる倉坂峠へは、黙々と歩いて30分ほどで辿り着いた。

 峠から右手の尾根に整備された道を進むと、10分ほどで案内板のある城の入り口で標高は450メートルあまり。城周辺の尾根筋は、頂きというわりには意外になだらかで広さもあった。そればかりでなくこの山城は、これまで自分が見て来たものの中では十分に例外的な形をもっていた。

 山城というと、地形を生かして尾根筋に削平した郭を連ねて尾根を断ち切った堀切で守るというイメージがある。しかし、この城は造りだけを見ているとあまり山城という感が湧いてこなかった。

 玄蕃尾城が造られ使われたのは、賤ヶ岳の戦いの時、1583年3月上旬から4月の下旬までという僅かに二ヶ月に満たない間。しかしながら、南北に大小7つが連なる郭は、現状でもところによって2メートルを越える堅固な土塁とそれよりも深い堀に囲まれ、地形を生かしたというレベルを超えて築き上げたという規模があり、仮設の陣城というには立派なものだった。規模という点では、奈良県の高取城ほどではないとはいえ、主郭周辺の雰囲気だけならば両者の違いは石垣か土塁かというだけと思える。


 1時間ほど隈無く見て歩いてから敦賀側、刀根の集落をめざして旧街道を下った。敦賀側は、峠から5分ほど下に駐車場があり、近くまで舗装された林道が続いているので車があれば簡単に見学ができる。

 峠から谷沿いに続く林道から県道へと歩いて、刀根の集落まで3キロメートルあまりを30分。氣比神社の隣に敦賀市のコミュニティバスの宮前橋バス停があり、休日は12:51発の便で敦賀駅までは30分で出られる。

 歩く距離はそこそこあるものの、木之本駅発9:13のバスを使ってもあまり無理をせずに敦賀行きのバスに乗れるように思う。自分は、時間がだいぶあったのでその先さらに6キロメートル余りを北陸線の新疋田駅まで歩いた。



 柳ヶ瀬集落の北側にある案内板。峠へは左の道をたどる。


 城跡への案内板が立つ倉坂峠の切り通し。南側を登れば、佐久間盛政が本陣を構えたという行市山砦跡への道がある。


 玄蕃尾城の中心となる郭。北側角(写真奥)には櫓台が想定される一段高い区画がある。


 櫓台から郭を囲む土塁を見たところ。右下が空堀。


 櫓台の下あたりの空堀。高さは2メートルを越える。


 倉坂峠からは、柴田勝家によって築かれた軍道が行市山砦跡まで続いていたという。峠から垂直に近い道を這い上がると、それを思わせる広い幅を持つ尾根にでた。


<参考>
 近江城郭探訪(滋賀県教育委員会編/サンライズ出版 2006年)
 近江の山城 ベスト50を歩く(中井均編/サンライズ出版 2006年)


玄蕃尾城跡周辺参考地図(電子国土)
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2009年10月10日

賤ヶ岳古戦場 後編

 余呉湖を囲む山々を東から南へと縦走して、余呉湖畔へ降りたのが午後1時半。賤ヶ岳古戦場巡りの後半は、湖の北西端から権現坂を登り湖の北に連なる砦群を見て回った。

 正源寺の裏手という権現坂の登り口は少々分り辛かった。寺の裏手は、土石流に備えた砂防指定地となっていて、大きな砂防ダムが築かれていて往時の道は無くなっていた。代わりの道らしきものがあったものの、地形的に道らしいというだけで草が茂り、林の中に入ってしっかりした道に出るまで些か不安だった。麓から権現峠まではおよそ15分の上り道。峠に出たところで舗装された林道に出てちょっと拍子抜けした。

 すぐに林道を外れて尾根道を辿る。10分ほどで少しなだらで杉林の中に大きな赤松が混じる場所になる。よく見ても山城らしい地形があるのか判然としないが、案内本などによればそこが前田利家が一時滞陣した茂山砦跡とのこと。

 茂山砦跡を過ぎると道は急な下りになる。15分ほどで大きな堀切に行き当たり、そこを越えると神明山砦跡となる。中心には土塁で囲まれた櫓台を想像できる小高い曲輪があり、傍らには明瞭に虎口がのこっていた。

 その先、さらに削平された郭がいくつか連なり、神明山砦跡から100メートル近い標高差を下ると10分ほどで高圧線の鉄塔が立つ開けた場所に出る。そこ先は急な下りとなり、さっきよりも深い切り通しになっていた。そこは、山を挟んだ南北の谷を結んだ峠道でもあったという。

 堀切の向こう側の斜面を這い登った先が、余呉湖の北に東西に横たわる尾根筋の先端に築かれた堂木山砦跡で、神明山砦跡よりも規模が大きい。郭を囲む土塁は場所によって2メートル近い高さがあり、明瞭に形を観察できる虎口も複数残っていた。また、砦の北側にも深い堀切を確認できた。

 堂木山砦跡は、余呉川沿いの地峡部の喉元にあって、柴田勝家方の攻撃に直接曝される重要な位置に築かれたもの。下手な山城よりずっとも堅固な造りが今に残り、古戦場の緊張感を多少なりとも体感できたように思う。


 堀切まで戻り峠越えの旧道を南へ下ると10分ほどで田んぼの傍にある登り口に出た。権現坂を登り始めてからここまで1時間40分。後半ルートについては、権現坂は登り口が分りにくいなど不備があったが、茂山砦跡から堂木山砦跡を経て下山するまでは、笹が刈り払われ、ルートに沿って赤い目印が木に巻かれているなど手入れがなされていて、迷うというほどのものではなかった。

 午前11時少し前に余呉駅をスタートして、途中で休みながら5時間。足にはだいぶきていたものの予定していた余呉湖周回コースをなんとか歩き終えた。



 踏み跡がほとんどなかった権現坂だが、砂防ダムから少し上がると窪んだ道の形ははっきりと解る。


 杉林の中に踏み跡が続く茂山砦跡付近。


 神明山砦跡の中心、櫓台と思しき土塁がはっきり残る。


 神明山砦跡と堂木山砦跡の間にある堀切。峠道としてみれば切り通し。


 堂木山砦跡に残る虎口。写真では分り辛いが真ん中から右へ折れる形が明瞭に残る。


 小さな案内板が立つ旧道の登り口。


<参考>
 近江城郭探訪(滋賀県教育委員会編/サンライズ出版 2006年)
 近江の山城 ベスト50を歩く(中井均編/サンライズ出版 2006年)
 フィールドワーク 関ヶ原合戦(藤井尚夫著/朝日新聞社 2000年)


賤ヶ岳古戦場周辺参考地図(電子国土)
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2009年10月 4日

賤ヶ岳古戦場 前編

 9月後半の連休を利用して、賤ヶ岳古戦場と福井県若狭地方を歩いてきた。

 余呉湖とその周辺には、1583年の春から初夏にかけて、柴田勝家と羽柴秀吉の間に戦いが起こった際に築かれたという城塞が、山の尾根筋を中心に点在している。初日は、余呉湖を取り巻く山々にある砦群を半日ほどかけて見て回った。まずは前半部分、湖の東から南にかけての話。

 21日は、雲の量は多かったものの一日中暑くも寒くもなく、山を歩くには程よい気候だった。北陸線の余呉駅に降り立ったのが昼前の10時半ころ。江土登り口から山に入ると、すぐに雑木林の中の道となり、尾根筋に出るころには杉林になる。高山右近が詰めたという岩崎山砦跡までは10分ほど。岩崎山砦は、削平されたと思しき地形が確認できるものの、土塁や堀切を見つけるのは難しかった。

 岩崎山砦跡から、尾根筋の細い山道を進み林道へ出てしばらく行くと15分ほどで「中川清秀主従の墓」の案内がある。そこから少し登った所に広場があり、江戸時代に大分県の岡城主になっていた子孫が建てたという墓石が立っている。あたり一帯が、羽柴秀吉方の中川清秀が柴田勝家方の佐久間盛政に攻められて玉砕したという大岩山砦跡。周囲には、広い削平地が確認できる。墓の建立など後世の手は入っているだろうが、岩崎山砦よりも規模が大きかったものと想像できる。

 林道は、やがて尾根筋の細道となる。杉の植林地の中を続く道は、部分的に平時の造成にしてはかなりしっかりとした土手状になっている。当時、砦間の連絡用に造られたものと想像したがどうだろう。さらに、大岩山砦跡から10分ほど歩いた所に小さなピークがあり、三角点の標石が埋められていた。周囲は明らかに造成されており、三角点周辺が小高くなっていて櫓台を思わせた。大岩山砦と賤ヶ岳城を繋ぐ砦があったと見て間違いないだろう。

 三角点からさらに尾根筋を辿ること30分で開けた山頂に出た。休日の昼ということで、ハイカーがベンチや芝生の上で弁当を広げていた。公園として造成され、展望台やトイレなどが建てられているが、よく見ると土塁や堀などが残っている。この一帯が戦いの雌雄を決する切っ掛けとなったという賤ヶ岳城跡。北は余呉湖周辺を一望し、南は琵琶湖から小谷城あたりまでが見渡せる。虎御前山の先の霞んでいるあたりが長浜になる。

 賤ヶ岳城跡から北西へ山道を降りて行くと、10分ほどで飯浦大堀切へと着く。かなりの深さのある堀切で、賤ヶ岳城の北西の尾根筋を断ち切っている。ここは、余呉湖畔から琵琶湖湖畔の飯浦とを結ぶ道の峠でもある。峠道を15分ほど下ると、佐久間盛政が未明に駆け抜けたという余呉湖畔へ出た。



 岩崎山砦跡にある中川清秀主従の墓所。


 岩崎山砦跡から賤ヶ岳へ向かう途中。かなりしっかりした土手道が確認できる。


 三角点付近。左の高まりの上に三角点があり、周囲は広く整地されている。


 賤ヶ岳山頂から眺めた余呉湖。右手の尾根筋を時計回りに登って来た。


 ハイカーで賑わう賤ヶ岳城跡。


 飯浦大堀切を余呉湖を背に見たところ。左手上が賤ヶ岳方面。


<参考>
 近江城郭探訪(滋賀県教育委員会編/サンライズ出版 2006年)
 近江の山城 ベスト50を歩く(中井均編/サンライズ出版 2006年)
 フィールドワーク 関ヶ原合戦(藤井尚夫著/朝日新聞社 2000年)


賤ヶ岳古戦場周辺参考地図(電子国土)
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2009年9月13日

韮山城と興国寺城

 夏休み後半は伊豆、というか伊豆と駿東の話。半日という時間の中で車でどれくらい回れるかと思案しながら、戦国時代の城3つを候補に挙げてみたものの、一つ目の韮山城を回った時点で山中城を断念して興国寺城へと向かった。


 どちらの城も戦国北条氏に興味のある方にはすこぶる有名な城であり、解説一切不要とも思うのだが一応簡単に概略のみ書いておく。

 韮山城は、伊豆の国市、合併前の韮山町の中心部東側、溜池に臨む丘陵にある山城。戦国北条氏初代早雲が伊豆に最初に築いた拠点であり、北条氏西端部の拠点城だった。豊臣秀吉による北条攻めの際は、4万余という大軍の重囲を受けて3ヶ月余り戦い抜いた事でも知られている。

 本城の他に溜池を囲む丘陵に連なる複数の城塞によって城塞群を構成しているが、時間の都合で本城周辺を散策して撤退した。改めて資料をひっくり返してみると立派な城塞群であり、一日かけて歩いて回る価値があるようにも思うので、いつか再訪を果たしたいと思う。


 もう一つは興国寺城。沼津市西部、愛鷹山山麓の丘陵先端を利用した山城。富士市と沼津市の間にあるという曖昧な認識でいたが、現地に行くと地理感覚ははっきり覚え込める。JR東海道本線原駅の2キロメートルほど北北西にあり、北側を新幹線が走っている。

 今川氏に使えていた北条早雲(当時は伊勢氏)が、最初に得た城であって伊豆侵攻の拠点となった。その後、今川、武田、徳川、中村各氏の時期を経て関ヶ原後の天野康景まで変転が激しく、また伊豆、駿河、甲斐といった国々の勢力を睨む位置にあるため、城そのものも幾度も手が入れられて来たようだ。その為、現地に立っても早雲の城とはだいぶ異なっているのかもしれないが、それでも戦国北条氏立身最初の城として、本丸に佇めばいろいろと楽しく想像することはできる。

 まだ工事は始まっていないが、城跡の北から西へかけて東駿河湾環状道路の建設が計画されている。この道路との位置関係が気がかりだったのだが、城跡にはとりあえず掛からないもよう。


 溜池の土手から見上げた韮山本城の天守曲輪。


 天守曲輪の北側の二曲輪。回りには高い土塁が残り、虎口も往時の形が想像できるほどに残る。


 痩せ尾根に沿って南北に続く天守曲輪。こちらも土塁が良く残っている。



 興国寺城の前に立つ「興国寺城跡整備計画図」。今は三ノ丸に倉庫が一棟建っているのみだが、Google Mapを見ると他に何軒も建物があったようだ。近年、整備にあたって立ち退きが進んだということか。


 広い空間をもつ本丸。西から北へ土塁が残り、中央奥には櫓が建っていたとされる。右の茂みに神社があり、城の解説板が立っている。


 本丸の北にある大堀切。愛鷹山から伸びる丘陵を断ち切る位置にあり、深さ幅ともにかなり大きい。


<参考>
 韮山城と興国寺城(Google Map)

 歴史群像シリーズ 戦国の堅城II(学研 2006年)
 歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代(学研 1998年)
 戦国の城 下 中部・東北編(学研 1992年)
 歴史読本 2007年5月号(新人物往来社)

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2009年9月12日

甲斐源氏と上條氏

 秋の訪れが早い昨今、もう夏休みでもないかとも思うものの、せっかくの休みということで泊まりで出かけて来た。行き先選びは、「休み」をメインに温泉と海、そして今まであまり歩いていない場所ということで山梨と伊豆を選んだ。

 まず山梨の話。山梨へ行くならと前々から考えていたのがルーツの地巡り。実家の苗字は「上條」で、家紋が丸に四つ菱。図書館で調べてみると、武田氏の一族として2つの系統が挙げられている。ひとつが、新羅三郎義光の曾孫武田信義の子一条忠頼、その子が甘利行忠、そしてその子の上條頼安と続く系統。もうひとつが、武田信義の別の子武田信光、その子が岩崎信隆、そしてその子の上條信賢へと続く系統。

 その2系統と自分に繋がりが有るのかどうか、可能性としては武田信玄の時代を想定することができる。しかし墓や位牌、過去帳や系図、手紙などの文書といった物証があるわけではなので仮定、仮想の域を出ることはたぶんない。


 「上條」という苗字それ自体は、条里制との関係が考えられる「條」「条」がつく地名に起源を求めるのが常套。山梨県の古い地名を調べると、「甘利上條」(現在の韮崎市南部)と「上條郷」(現在の甲府市南西部、国母周辺)の2つが見つかる。韮崎市の「甘利上條」というのは、甘利という庄園を上条と下条に分けたものという。甘利庄は甘利氏の発祥地とされ、上に引いたように上條頼安の父が甘利行忠という繋がりが連想されて面白い。

 今回は、現地をじっくり回るほどには時間がなかったので、これだけの前知識でとりあえず2つの「上條」に行ってみるというかなり適当なものとなった。



 まずは、富士川沿いを北上して身延町にある大聖寺。義光開基の寺と伝わり、義光の他、武田信玄、加賀美遠光の木像が安置されている。


 さらに富士川沿いを北上。甲府盆地の入り口、市川大門の高台にある熊野神社。義光の子義清が最初に館を構えた場所という伝承があり、傍らに「甲斐源氏旧跡碑」という石碑が建てられている。


 JR身延線、国母駅の周辺が古の「上條郷」とされ、「古上条町」などの地名が残る。駅の北、県道上には上条バス停がある。


 バス停の西、500メートルほどの場所にある義清神社。義清を慕って建立したものといい、墓所でもあるという。


 甲府市から大きく移動して、韮崎市の南部、甘利小学校の南にある南宮大神社。甘利郷きっての大社で、義光が建てたものという。所在は「大草町上條東割」。


 甘利郷の北隣には、武田義信に因む旧跡が点在している。写真はそのひとつの武田八幡神社


 上條氏についての物が簡単に見つかるとは思っていなかった。その意味で予定通りなのだが、2つの上條の隣に武田氏に関わる神社や旧跡が残っている点は、興味を深めるには十分な動機となる。

 帰って来てから調べたら、上條郷に関連して甲府市にある一蓮寺の過去帳に上條彦七郎なる武田信虎より少し前の人物の名前が残っているとのこと。また、武田信玄の信濃国筑摩郡侵攻後に現在の朝日村に上條佐渡守信隣、信俊なる兄弟がいたらしいことが分った。一条忠頼は墓所が残っているほか一蓮寺との関係もあるようだし、上條信賢の系統について岩崎氏や一宮氏について調べてみるのも意義があるかもしれない。


<参考>
 甲斐源氏 上條氏関連地図(Google Map)

 系図纂要 新版第11冊下 清和源氏5(岩澤愿彦監修/名著出版 1994年)
 新編 姓氏家系辞書(太田亮著/秋田書店 1974年)
 日本歴史地名大系 第19巻 山梨県の地名(平凡社 1995年)
 角川日本姓氏歴史人物大辞典20 長野県姓氏歴史人物大辞典(角川書店 1996年)
 別冊歴史読本73 甲斐の虎 信玄と武田一族(新人物往来社 2004年)
 武田のふるさと 甲斐・武田信玄(武田神社 1995年)

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2009年9月 5日

備中高松城

 前のエントリーから随分と時間が開いてしまった。今年のゴールデンウィークの話の続き。5月2日の午後、吉備津神社から吉備線の列車で一駅揺られて、初日一番の目的地備中高松に着いた。

 恐らく岡山県下の戦国時代の城としては、備中高松城が最も有名だろう。駅から城跡までは、平坦な道を歩いてわずかに10分ほど。羽柴秀吉による水攻めで名を馳せた城であって、沼地に囲まれた平城だったということは分っていることだが、拍子抜けもまた止むを得ないか。

 戦国の城といえば山城ばかり巡っていると、本丸周辺に僅かに微高地が残り復元された湿地がある程度で、なんとも平凡な田園風景と見てしまう。しかし、この地は毛利氏との激しい攻防が行われた場所であり、その後秀吉が飛躍する画期となった場所でもある。僅かな手がかりを元に往時を想像する場所ということになる。秀吉のその後の活躍は言うまでもなく、だからこそ一度は訪れようと思っていたわけだが。


 城跡公園の一角。田園の真ん中に忽然とある感じで、何も知らなければちょっと不自然な小さな公園というところ。


 当時を復元するということで、公園の一角が掘り返されて湿地になっている。ちょうどアヤメが満開だった。


 本丸跡周辺は、僅かに高まりが残り木々が茂っていた。写真は、その一隅にある高松城将清水宗治の首塚。元々秀吉本陣跡近くに有ったものをここに移したとのこと。


 城跡の東、寺院の裏手にある宗治自刃の阯。舟の上で兄と共に割腹したと描写されるのその場所ということだろう。


 城趾公園から南東へ歩いて15分ほど。林の中の小道に分け入ると秀吉本陣跡の案内が建つ。すぐそばに、宗治の首塚があったという持宝院の跡もある。


 高松城を水没させる為に築かれた長大な堤防だが、現存するのは2カ所のみとのこと。写真が東端に位置して数メートルの高さを残し、近年基礎部分の発掘調査が行われたという蛙が鼻築堤跡。


備中高松城周辺参考地図(電子国土)

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2009年6月21日

吉備津神社と吉備津彦神社

 先に少しだけ触れたように、今年の5月の連休は今までどちらかというと通り過ぎる場所だった山陽路吉備地方を回った。

 初日の5月2日、まず備前の一宮である吉備津彦神社を目指した。秀吉の水攻めで有名な備中高松城に近く、そこへ向かう途中のついでといえばそのとおり。ただし、そこから西隣にある吉備津神社を含む一帯を吉備路と称していることに誘われたということもあった。また、城廻の途中にその土地の神社に詣でるのは通例でもある。

 吉備路への旅は、岡山で新幹線から乗り継いだ吉備線のディーゼルカーを備前一の宮駅で降りたところから本格的に始まった。駅を出て回りを見渡した印象は、小高い山に囲まれ、街を離れた小さな盆地といった感じだった。地図を開いてみると、標高162メートルの吉備中山をはじめとした100メートル前後の丘陵に囲まれ、麓の標高は数メートルから10メートル程度。東の笹ケ瀬川と西の足守川の間に広がる東西に細長い谷と見て取れる。

 この長閑な田園が、古代には山陽古道が通り備前と備中の一宮が並ぶ要地だったということは、今の地図と現地を見てもなかなか想像し難い。その理由は、国道2号線、山陽本線、山陽新幹線がいずれも吉備中山の南側に開けた平野を通っているからだろう。ところが、古代においては今は半島になっている児島がその名のとおりに島であって、岡山平野の多くが遠浅の海だったことがわかれば、古代の国道が大河川の河口を避けながらこの盆地を通っていたことに少し納得がいくかと思うのだ。


 その吉備路には、東に備前一宮である吉備津彦神社、西に備中一宮である吉備津神社が鎮座している。両社の名前は、漢字が一文字多いか少ないかの違いだが、「探訪・神社寺院史話総覧」によれば、この名前が確定したのは明治になってからで、江戸時代にはともに吉備津宮と呼ばれていたという。また、同書によれば吉備津彦神社は、吉備津神社の分社にあたるとのこと。ここらへんのことは両神社の公式サイトを見てもなぜかよくわからない。

 両神社とも、主神は大吉備津彦命である。崇神天皇の時代に大和朝廷が派遣した4人に将軍の一人という伝説上の人物で、吉備中山には宮内庁が所管して彼の墓所とされる中山茶臼山古墳がある。古墳を含む山塊全体が神域あるいは神体だったのかと想像してみるが、ネットを少し泳いだ程度で分かる話でもなかった。



 今回の旅の最初の立寄地、吉備津彦神社。背後に吉備中山が聳える。


 宮内庁によって厳重に管理された中山茶臼山古墳。ネットをたどると全長120メートルの前方後円墳とあるが、その形を確認することはできない。

 吉備津彦神社から古墳まで、中国自然歩道が整備されていてゆっくり歩いて30分ほどの散策路だった。


 600年の歴史を持つという吉備津神社の本殿。


 吉備津神社の南へ400メートル続く回廊。かつてはもっと長かったとも言うが、自分はこの様な施設に他でお目にかかった記憶が無い。


吉備路参考地図(電子国土)


<参考>
 吉備津神社
 吉備津彦神社
 岡山市の古建築 1
 岡山市の古墳 1
 歴史と旅 臨時増刊 探訪・神社寺院史話総覧(秋田書店 1994年)

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2009年5月 9日

山陽路を西へ

 連休を利用して、岡山県から広島県にかけてのエリアを歩いて来た。ここ数年は、レンタカーを借りて走り回ることが多かったが、今年は1000円騒動がなんとも煩わしかったので電車、バスを利用した。特に長時間立たされる訳でもなく、指定券が無くても困らなかったのも影響なのだろうか。

 このエリアについては、今まで九州と関西の間で通過するだけの場所で、未訪のまま放ったらかしにしていた。穴を埋めようという所から始まったのだが、訪ねてみれば面白い所はもちろんいっぱいある。

 駅やバス停に降りた後は、文字通りせっせと歩いて回った。最近は運動不足を感じていて、山城攻略の時には予想通り上りでかなり顎が出たものの、帰宅してそれほど疲れが残らなかったのは、まだまだ取り返しが効くということだろうか。


 攻略した城は、順に備中高松城、備中松山城、鞆城、福山城、新高山城、三原城の6つ。戦国時代と江戸時代がチャンポンである。

 写真は、三大山城のひとつで、3つの中で唯一天守が現存している備中松山城。


 本格的な山城としては、備中松山城と写真の新高山城の2つに登った。どちらも半日がかりで登りでのある山城だった。

 各城については、稿をあらためて紹介する予定。


 長年海から遠い所に住んでいるので、海が見えるというだけで非日常的に楽しくなる。雨に見舞われたわけではないものの、雲の多い毎日で奇麗な海の写真がほとんど撮れなかったのが少し心残り。

 写真は、二本の橋が跨いでいる夕暮れの尾道水道と渡し船。


 こちらは、福山市南部、歴史的な港町として知られる鞆。狭い路地が続く雰囲気のある街並は、のんびりと歩くのにちょうど良い。さすがに観光客は多かったものの、巡り歩くのに困るというほどではなかった。


 去年の北陸路では、桜や芝桜が目を楽しませてくれたが、桜は一部に里桜が残っているだけだった。かわりに色とりどりの躑躅が庭園や公園ばかりでなく、山でも道端でも楽しめた。


 木々の緑も京都に比べても新緑を少し過ぎた初夏という趣きだったが、日を透かして見る楠木は花も開いていて奇麗な緑色を見せていた。尾道というと寺巡りがルートになっているが、自分には所々にある神社の境内にある楠木が記憶に残った。

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