2009年10月12日

哈爾濱金代文化展

 11月8日まで新潟市歴史博物館で開催されている特別展哈爾濱金代文化展と、11日に新潟市万代市民会館で開催された同展記念シンポジウム中国金の建国と女真族の社会を見るべく、昨朝10年ぶりに新潟を訪ね、今朝方の夜行列車で戻って来た。


 企画展開催中の新潟歴史博物館。新潟駅前からバスで20分ほど。

 そもそもとして、金の時代について単独の企画展が見られること自体が恐らく画期的なことだろうと思う。その中で、目玉となるのが今回初めて招来されたというハルビン市の金上京歴史博物館の所蔵品。大小あわせて50点が並べられていた。

 印象に残っている物をざっと書き出すと、刀、鍋、農具といった実用鉄器、銅製の火銃、銅鏡、銀製の馬具、シャーマン関連の楽器やお面といったあたり。ガラス製の碁石や現代の中国将棋の駒と同じような形の銅製の駒も展示されていた。

 また、金代史の研究者としても知られた故三上次男氏のコーナーが設けられ、磁州窯陶器などが展示されていた。


 11日の午後に開催されたシンポジウムの基調講演並びに報告は次の4つ。

 ・考古学から見た金代女真(臼杵勲)
 ・金代北東アジアの鉄器とその生産(村上恭通)
 ・金代北東アジアの銭貨流通について(三宅俊彦)
 ・金代の陶磁器は金朝の陶磁器か?(弓場紀知)

 臼杵氏の報告は、中国からロシアにかけての金代城市遺跡発掘などの成果を基に、従来の金のイメージを問い直すというもの。村上氏は、古代から金代に至る北東アジアの製鉄と鉄製品を概観しながら、製鉄炉や製品の質などから中国の影響とそれ以外の地域との関係などについて具体的に考察したもの。三宅氏は、出土した銭貨の内容から金代の銭貨流通の状況の復元を試みるもの。弓場氏は、従来の研究で位置づけが難しかったという金代の陶磁器について再考したもの。鉄器、銭貨についての報告を聞いたことはあまり記憶に無く新鮮な話だった。全体を通しても、金代という情報の不足している時代についてこれからの盛り上がりを期待させる興味深いものだった。


 特別展の図録
新潟市・ハルビン市友好都市提携30周年記念
哈爾濱金代文化展
---12世紀の中国、北方の民族が建国する---
新潟市歴史博物館2009年9月

 


 シンポジウム後佐藤氏より下記2点頂戴を頂戴した。また、ブログでいつもお世話になっている関尾先生、モンゴルの考古学について度々名前を出させて頂いている白石先生にお目にかかることができ、関尾先生からは下記報告書を頂戴した。また両氏よりお話を頂けるなど楽しい時間を頂戴した。ありがとうございました。


環日本海研究年報 第16号(2009年2月) 抜刷
 西夏語文献における「首領」の用例について---法令集『天盛禁令』の条文から
  佐藤貴保

西北出土文献研究 第7号(2009年3月)
 呉震先生追悼吐魯番学特集
  「西州回鶻某年造仏塔功徳記」小考
   栄新江/植松知博(訳)
  麹氏高昌国の灌漑推理と税役
   荒川正晴
  「唐咸亨五年(674)児為阿婆録在生及亡没所修功徳牒」をめぐって
   町田隆吉
  大谷文書・旅順博物館文書中の吐魯番出土霊芝雲型文書の一例
   片山章雄
  トゥルファン出土、「五胡」時代文書の定名をめぐって---『新獲吐魯番出土文獻』の成果によせて---
   關尾史郎
 論説・ノート
  S.5692に見える亡名和尚絶學箴に関連して---ある僧のノートから見る敦煌仏教の実相 ---
   玄幸子
  ロシア蔵西夏文『天盛禁令』第2585号断片について
   佐藤貴保
  大谷探検隊将来「西厳寺蔵橘資料」について
   橘真敬

西北出土文献研究 2008年度特刊(2009年3月)
 本調査記録
  蘭州・武威・張掖・高台・酒泉・嘉峪関 調査日誌(2008年12月23日〜29日)
  高台・酒泉・嘉峪関魏晋墓に関する問題点と課題---漢代の伝統的なモチーフを中心として---
   北村永
  甘粛出土魏晋時代画像磚墓、壁画墓等に見える記号的図像について
   三崎良章
  河西地区出土文物における朝服着用事例に関する一考察
   小林聡
  酒泉十六国墓前室北壁上段壁画天馬図運足表現
   高橋秀樹
  高台駱駝城に関する諸問題
   市来弘志
 予備調査記録
  新疆クチャ磚室墓の予備調査記録
   白石典之
 ノート
  遼陽壁画墓の現状と研究の可能性---2007年8月・2008年8月の調査から---
   三崎良章
  高台県の古墓群と主要出土文物をめぐるノート
   関尾史郎

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2009年8月18日

カラコルムとGoogle Map

 最近気がついたばかりでいつ頃更新されたのか不明だが、モンゴルにおけるGoogleMapの航空写真が何カ所か解像度の高いものに更新されていた。その内のひとつがモンゴル帝国の首都があったカラコルム周辺で、ひとつにチンギス=カンの祭祀遺跡として話題になったアウラガ遺跡周辺が含まれていた。

 早速ということで、白石典之氏の著作を手がかりに眺めてみた。カラコルムは、隣接のエルデネ=ゾーが鮮明に観察されるほか、城壁の概形、万安宮の基壇、東門や大まかな街路まで見て取れる。アウラガ遺跡は、東西の建物群、北側の大型建物、その北側につづく土塁なども見て取れる。

 広大なモンゴルの中でこの二点が選ばれて更新されていることは、考古や歴史についても配慮されているということだろうか。


 カラコルム

より大きな地図で カラコルムとアウラガ を表示


 アウラガ遺跡

より大きな地図で カラコルムとアウラガ を表示


<参考>
 世界の考古学19 チンギス=カンの考古学(白石典之/同成社 2001年)
 チンギス=カン(白石典之著/中央公論新社 2006年)

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2008年10月27日

『密使、西へ翔る』完結

 雪豹さんが、ブログラクダに乗った人は天に近いへ1か月にわたって連載した小説『密使、西へ翔る』がこのたび完結。

 時代は13世紀中頃、オゴデイ=ハーンの逝去の後、皇后ドレゲネが監国していた時。次のハーンを擁立するためのクリルタイへのバトの出席を促すため、モンゴル高原から遥かヴォルガ川河畔まで単身旅立った勇者スベエテイの物語。

 リアルで細かな描写と、どこまでどんな資料を読み込めばここまで書けるんだ、という深さを楽しませて頂きました。印象的にはバトがちょっと若ずくりでないかいとは思いましたが、サライとバトの話とか、オルダの登場とか面白かったです。

 雪豹さんは、以下のように言ってますので、心当たりの方は是非御対応を。

 歴史好きの素人が史料を読んで妄想したことをおもしろおかしく(?)書いてます。 「おまえの拠っている説は古い! オレの説を読め!!!」と思った専門家の方! 是非資料をください。

 密使、西へ翔る
 第一話は、こちらから → 闇に舞う二羽の白鷹


 次回作も期待してます(^^)

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2008年8月23日

楼蘭故城を探す

 一昨日のエントリーに楼蘭がでてきたが、Google Mapで見るとどう見えるのかと思いながら、広大な沙漠の中から小さな遺跡を探すのが大変でまだ見たことがなかった。この機会に一度徹底的に探してみようと思い、いろいろとネット上を彷徨い歩いてみた。

 まずはなにか資料を、ということで行き当たったのがオーレル=スタイン。自分が紹介するまでもない探検家だが、彼の著作はディジタル・シルクロード・プロジェクト所収の「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベースで詳しく見ることが出来る。また、同じデータベース所収でスウェーデンの考古学者フォルケ=ベリマンが作成した地図は、スタインが発見したものを含む楼蘭周辺の遺跡が多くプロットされていてとても有用。

それらとにらめっこしながら作ったのが楼蘭周辺遺跡地図。ミーラン故城を含む5つの遺跡をプロットした。ほかにももっとプロットできないかと思ったが、拡大率が厳しいところは断念し、見た目て遺跡が確認できないものもあきらめた。

 代わりにということで、敦煌の西側、玉門関周辺についてもプロットしてみた。こちらは写真を見ながら自力で行っている。


 参考にした頁は以下のとおり。図名は自分が適当に付けたもの。

 ベリマン著『新疆の考古学的調査』からロプ・ノール地方図楼蘭周辺遺跡配置図小河周辺図

 スタイン著『Serindia vol.3』から楼蘭故城平面プランミーラン故城平面プラン

 スタイン著『極奥アジア vol.3』から方城故城平面プラン(左上)、海頭故城平面プラン(右)。


 楼蘭、ロプノールといえば、上流から水が流れなくなってすっかり乾ききってしまっているが、Google Mapには偶然にか、数年前のものと思われる水のある孔雀河の一部を見ることが出来る。


 楼蘭周辺遺跡地図にプロットした楼蘭故城、海頭故城、方城故城を見比べると、楼蘭故城が群を抜いて大きいことがわかる。GoogleMap上の計測で周囲1360m、一辺が340mほどの方形ということになる。しかし、昨日紹介した伊藤氏の楼蘭(鄯善)国都考によれば、それらはいずれも前漢時代の楼蘭の都とはし難いという。ただし、楼蘭故城は下層から焼け跡が見つかったことから、今に残る遺跡の下に前漢時代の街が眠っている可能性があるとのこと。


 楼蘭には、おいそれと近づけない場所というイメージがあったが、今はツアーがあり、ネット上に旅行記を残している人を見つけることもできる。次のサイトはわりと良く纏まっていたが、GPSを持参され位置を記録されていて、比較的GoogleMapとの相性がよくて差が小さかった。

 楼蘭紀行血の色はワインのいろ より)

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2008年8月21日

西北出土文献研究 第6号(感想)

西北出土文献研究 第6号
ISSN1349-0338
西北出土文献研究会 2008.3

 新潟大学の關尾史郎氏が代表を務める西北出土文献研究会の会誌?の第6号。論説2本、ノート2本、書評2本を集録。目次は、關尾氏のブログを参照されたい。なお、本書は著者のひとり佐藤さんより頂いたもの。ありがとうございます。

 簡単ながら、興味を惹かれた部分について感想を。


随葬衣物疏と鎮墓文---新たな敦煌トゥルファン学のために---
 關尾史郎

 五胡から唐の時代にかけてての敦煌とトルファンの墓葬について検討したもの。随葬衣物疏鎮墓文といずれも自分には馴染みがない。随葬衣物疏は、もとは副葬品のリストであったものが、後に鎮魂祈祷の性格を持つようになったもの。鎮墓文は、陶器に記されたもので、主に書式や埋納形式に二種類あるとするが、いずれも死者が生者に祟りせずに鎮まることを祈ったものとのこと。

 敦煌とトルファンそれぞれに、墓葬の変遷と時代との関わりなどが考察されている。五胡の時代についていえば、敦煌は鎮墓文でトルファンでは随葬衣物疏が墓に納められたというもので、ともに五胡王朝の変遷の影響を受けていながら、墓葬は近似していないとのこと。随葬衣物疏といった墓葬文化とその変遷を読み解くというのが面白かったし、それによって地域と地域の関係が見えて来るというのも興味深い。


楼蘭(鄯善)国都考
 伊藤敏雄

 シルクロード世代にとって馴染みの楼蘭故城ではなく、領域国家としての楼蘭の首都の位置について、諸文献と考古学的成果を利用して再検討するもの。初期都城がロプノール近くにあって後に南遷したという南遷説、最後までロプノール近くにあったとする北方説、最初から南方にあったとする南方説の3つを比較して南遷説の可能性が大きいとする。また南遷の時期について、国の名前が鄯善に代わった紀元前77年は考え難いという。しかしながら、初期に相当する都城遺跡が未確認のため、初期都城の位置については不定とする。

 誰かの本の影響か、77年遷都を漠然と自明に近いイメージを持っていた。まだまだ検討の余地があるどころか、少なくとも前期についてはほとんど分かっていないに近いという状況が示されている。半ば伝説で蜃気楼のような楼蘭が、いまだにそのベールの向こうという実態は、まだロマンは終わっていない的な興味を掻き立てて楽しくすらある。位置関係など地図的な話が楽しいので、楼蘭遺跡について再度触れる予定。


ロシア蔵西夏文『天盛禁令』刊本の未公刊断片
 佐藤貴保

 今春の遼金西夏史研究会の折に触れられたものについて、その一部を整理したもの。西夏文字で刷られた『天盛禁令』について、ロシア、サンクト=ペテルブルグでの実検調査を踏まえて、従来『天盛禁令』の6葉目とされていた断片が、未見の9葉だったことを明確に提示している。

 西夏文字文献の研究がまだまだこれからという実態を良く示している。佐藤さんの次の論文が楽しみである。

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2008年8月 4日

チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展

 仕事帰りに、大阪梅田の大丸ミュージアムで始まった、中国・内モンゴル自治区博物館所蔵 チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展を見てきた。東映のHPに案内があるが、再来年の5月までに全国10か所で開催されるとのこと(HPには9か所しか案内されていないが、カタログには2010年4月から山梨県立博物館の案内がある)。


 展示は、モンゴル帝国に先立つ東胡、匈奴、鮮卑、突厥、契丹、モンゴル帝国時代、明清代のモンゴルの順に並ぶ。目につくという点では、モンゴル以前のバックルなどの金製品、清朝時代の服あたり。

 自分的にわりと関心したのが、契丹関係に陳国公主墓などわりと新しい墓からの出土品がいくつもあったこと。墓誌とかその拓本とかはさすがに無いものの、昨日とりあげた耶律羽之墓の副葬品の銅鍍金飾りが2つ展示されていた。それから、今日読み終わった本に出てきて物で、銀錠と青花の皿はちょっと見たいなと思っていたもの。

 珍しいものというと、シリア文字とウイグル文字が書かれたネストリウス派の墓誌、アラビア文字が刻まれた石棺とかかな。

 自分の主観的には、突厥時代のものという鹿の浮き彫りがなされた銀製の大皿が良かった。


 平日の夕方、閉館前だったせいか、空いていてのんびり見られた。思っていたよりも展示品が多くて楽しめたが、まあこんなものかとも。解説文は全般に中国人が書いたものそのままという感じなので、特に概要的な部分の内容は推して知るべし。細かいミスは探せばいくらも見つかるが、探さなくても目につくミスは近々に訂正されるらしい。

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2008年8月 3日

契丹の旧渤海領統治と東丹国の構造(感想)

 先月発売された史学雑誌 第117編 第6号(史学会)を購入。掲載文はリンク先のとおりだが、自分の目当ては研究ノートとして集録されている澤本光弘氏の一文、契丹の旧渤海領統治と東丹国の構造---「耶律羽之墓誌」をてがかりに---

 本論は、遼金西夏研究の現在(1)に掲載されている論文、契丹(遼)における渤海人と東丹国---「遺使記事」の検討を通じての中で重要な役割を果たした耶律羽之の墓誌を詳細に検討し、東丹国についてより深く検討しようというもの。

 東丹国は、契丹によって滅ぼされた渤海国の故地を治めるために作られた契丹の傀儡国、ないし衛星国のことで、契丹皇帝の長男耶律突欲(倍)が王とされた。しかし、その耶律突欲が後唐に亡命したり、反乱が続いたりして短い期間で国としての実態は無くなったと評価されてきた。これに対して、10世紀末近くまで東丹国の実態があったとする論文が既にいくつか出されているとのこと。本論もそれを肯定している。


 本論の検証が深まれば、東丹国についての歴史が書き換えられるだけでなく、契丹国の地方制度やその成立過程についても見直されることになるのではと思うのだがどうだろうか。また、本論には当該墓誌、35文字38行、千数百文字全文とその読み下し文が掲載されている。日本ではほとんどお目にかかることのない長文の墓誌に、何が書かれているのかということだけでも面白い。

 筆者は、おわりにの中で本論は東丹国に限定した考察であることを述べた上で、今後の可能性について触れている。東丹国のことだけでなく、契丹の政治や社会について今後でのような論が出て来るのか楽しみにしておく。

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2008年7月27日

ペルシア語文化圏における十二支の年始変容について(感想)

 デジタル・クワルナフで馬頭さんが紹介されていた史林 第91巻 第3号(史学研究会)。自分は、諫早庸一氏のペルシア語文化圏における十二支の年始変容について---ティムール朝十二支考---が読んでみたいなと思い買ってみた。

 本論は、チュルク・モンゴルによって草原からペルシャ語文化圏へもたらされた十二支が、ペルシャでいつ頃変化を遂げたのかというもの。本論のいうところの十二支は、60年周期の十干十二支ではなく、12年周期の十二支。そして日本ではないので、12番目はブタとなる。先日エスファハーンのところで少しだけ触れたが、ペルシャ語文化圏はイスラム化以前からの伝統として、春分の日を新年の始まりとしてノウルーズと呼んている。

 本論によれば、中国の影響が大きいというモンゴル帝国の暦は、現在の旧正月と同じように立春前後に新年が始まるもので、イル=ハン朝の暦も同様であったとのこと。モンゴル時代の名残として、イル=ハン朝滅亡後も行政文書の年表記に十二支を加える習慣が残ったが、いつの頃からか古い伝統と混ざり合い、十二支の表記の上でも新年はノウルーズからに変わっていったという。この変化がいつ頃起きたのか、もう少し具体的に言えば、ティムール朝の前半なのか後半なのかというのが本論が目指したもの。


 本論は、イル=ハン朝からティムール朝にかけてのペルシャ語文献の中から、十二支が使われている所を集めた上で論考されている。資料として約100例にのぼる一覧表が添えられている。自分は、中国圏からは離れた所で、十干十二支でない十二支が使われていた実例を見てみたいと思っていたのだが、この表だけでも十分に面白かった。

 いままで、さほど暦に興味を持っていた訳ではないので、ほぼ知らなかった世界ということになるが、本論の注によればそもそも十二支の発祥はいまだに良く分からないという。ほぼ無前提に中国で始まったものと思っていたので、これもちょっと驚き。

 また、質が随分と違ういくつもの暦を並べて比較するのに、どれだけの計算が必要だったのかが想像できない。それだけも本論はなかなかに力作と思うのだが、馴染みの無い世界を見せて頂いたということで面白い一論だった。


 イランは、今でもイラン暦とイスラームのヒジュラ暦という性質の全く違う暦が同居している。そこに、中国由来の暦が持ち込まれた時、大混乱に陥ることはなかったのだろうか。

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2008年7月21日

東アジアと日本 交流と変容(感想)

東アジアと日本 交流と変容
統括ワークショップ報告書
今西裕一郎 編
九州大学21世紀COEプログラム(人文科学) 2007.2
 (目次は、上記書名のリンク先を参照)

 21世紀COEプログラムとは、日本学術振興会のHPによれば、

 我が国の大学に世界最高水準の研究教育拠点を形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図るため、重点的な支援を行うことを通じて、国際競争力のある個性輝く大学づくりを推進することを目的
とした文部科学省の助成事業とのこと。東アジアと日本 交流と変容は、2002年度に採択された人文科学分野のプログラムで、本書は2006年の11月に九州大学で行われた5年間にわたる事業の総括としての行われた研究会の報告書。プログラムによれば、研究会では2つのサブテーマ設けて併せて16人の論者による発表と各サブテーマ毎の討論、総合討論が行われている。本書は、その内容に沿ったもので、3回の討論も集録されている。なお、本書は発表者のひとり舩田さんより頂いたもの。ありがとうございます。


 一つ目のテーマが、ヒトの移動とイノベイション。古代から近世初頭までの人や技術などの移動による影響の解明、検討を通して

交流と変容の観点からみた「東アジアの史的特質」の析出
を目指したものとのこと。発表は、アイデンティティをメインあるいはサブテーマとしたものが過半を占め、人の動きの中でどう捉えられてきたのかが重要な要素となっている。この点は討論でも同様で、アイデンティティの多重性という言葉で締められている。近代国家という形以前のアイデンティティをどう考えるかという点で、自分には興味深い内容をいくつか含んでいた。


 二つ目が東アジア世界の形成と中華の変容。これまでの成果を踏まえながら、このプログラムにおける中心的な概念であるという

 東アジア、中華の問題
について一定の総括を目的としているとのこと。発表は、国の形や人々の意識という点についてのもの。ここのテーマとして興味深いものが並んでいるが、漢と匈奴とかモンゴル時代の中国とイラン、あるいは明代のモンゴルなど、東アジアより扱う範囲が広いのは相対化ということだろうか。討論では、その相対化という面からか、東アジアをどう捉えるのかという方向に流れるようにみえるが、対象が広くて自分には全体像が捉え難い。


 この二つのテーマを受けて、最後に27ページにわたって総合討論が掲載されている。南北朝時代や宋元といったところを画期として中華が変わっていくという話、外交圏と経済圏の二重性という話、中華とある程度の距離を取った朝鮮の小中華という話、あるいはそもそも論として二つ目のテーマから続く東アジア枠組み論など、個々の発言者の話は興味深い。日本を含めて時代的にも空間的にも多様な話が展開して、その意味では東アジアにおける交流のダイナミズムとか変容とかはなんとなく見えて来るが、総論としての纏まりが自分には今ひとつ捉えきれなかった。


 あと、個々の発表内容について、いくつか紹介とコメントを。

モンゴル時代における民族接触とアイデンティティの諸相
 舩田善之

 もともとキタイや漢族、タングートとされる人々がモンゴル時代に政権側として活躍し、モンゴルとしてのアイデンティティを持っていたという事例が紹介されている。モンゴル、色目、漢人、南人とされたモンゴル時代の身分制度が虚構だという論は以前から目にするが、漢人を含む具体的な事例という点で興味深い。


鮮卑の文字について---漢唐間における中華意識の叢生と関連して---
 川本芳昭

 北魏において、万葉仮名的な鮮卑文字が使われていた可能性を間接的に肯定し、その意味を説いたもの。可能性という点で中国史のなかの諸民族(山川出版社)の中で川本氏によって触れられていたもので、本書の中でもとくに読みたかった一論。資料状況により推論であるとのことだが、新しい文字資料が次々と出て来る中国のこと、実物の出現を夢見たいところ。


モンゴル帝国の国家構造における富の所有と分配---遊牧社会と定住社会、中華世界とイラン世界---
 四日市康博

 モンゴル帝国における統治機構の複雑さを模式的なモデル化を試みたもの。ピラミット的な行政機構だけでなく諸王の領地などが入り乱れていた話は、既に概説書にも出て来る話だが、このようなモデル論はイメージという点で理解の助けになる。それでも全体像は複雑なもので、それが有効に機能しているところは、自分にはなかなかイメージできない。

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2008年7月 4日

天山北麓の故城跡

 国立民族学博物館の研究報告別冊20号ユーラシア遊牧社会の歴史と現在は、600頁を越す分厚い報告書で林俊雄氏、佐々木四郎氏、梅村坦氏等の論文が集録されている。この中に堀直先生の天山北麓の故城跡があり、現地で入手した地誌や研究書と自身の現地調査に基づく故城のリストが掲載されている。新疆ウイグル自治区の東は伊吾県から西は昭蘇県に至まで、イリ河流域を含む天山山脈北麓121か所の城跡の位置、緯度経度、大きさ、年代比定などのデータが載っている。

 それではということで、Google Mapで確認できたものを天山北麓の故城跡一覧にプロットしてみた。位置情報を元に、大きさや形などがそれと確認できたもの、あるいはそれらしいと思われるものは全部で21件だった。予想以上に苦戦したのは、Google Mapの写真の解像度の問題の他に、元資料の精度の問題、都市化による破壊と市街地へ埋没、農地化による破壊などがあった。ウルムチ周辺は都市化で全く確認不能。ウルムチの西、昌吉市から博楽市にかけては農地化したものが多かった。以下、探し当てたものに少しコメント。



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 艾斯克協海尓故城
 リストの2番目に載る100m四方ほどの正方形の城跡。2番目でこれだけ奇麗なものが見つかったので、全体でかなり見つかるかと期待してしまった。



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 巴里坤県漢城
 リストに載っている清代の県城跡で確認できたのは、奇台県の老満城遺跡巴里坤カザフ自治県の満城と漢城のみ。写真は、巴里坤県漢城の西門と思われるが、擁城の形がはっきり残る。北壁、西壁、南壁も連続して2kmほどがはっきり確認できる。



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 油庫故城
 リストには、北420m、東800m、南480m、西580mとある。不定形の城壁のうち、北から西へかけて900mあまりがきれいに残る。



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 波馬故城
 カザフスタンとの国境まで2kmという田園の中に、奇麗な方形と南北の門跡が確認できる。

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